騎士団長が定めた家訓
ヴァントは目を閉じた。端正な顔立ちに、雪が絶え間なく落ちて来た。
「はあー、どうしたらいいんだ」
「その場限りでも浄化できるなら、繰り返すしかないわね」
「そうだなあ」
ヴァントは眼を開くと、ドナーレンに優しく口付けを落とす。
ドナーレンは虚空に眼を向けて思案した。
「そうねえ。心、いじっちゃおうかしら?」
ヴァントは金茶色の垂れ目を見開いた。グッとドナーレンの瞳を覗き込む。
「ドナーレン!」
ヴァントの眼はぎらつき、頬は紅潮する。
「すごい!素敵だね!そんなことができるんだ!」
ヴァント団長は、魔法生命体を造ろうとしていた男である。ドナーレンはしまったと思う。精神操作は禁術である。
「出来るけど、冗談よ?」
「出来るんだね?」
ヴァント団長の頭からは、シャルロッテからの煩わしいアプローチが吹き飛んだ。それに気づいたドナーレンはククッと笑う。
「ヴァントの心の煩いを消しちゃったわね」
「言われてみれば、そうだな」
「シャルロッテの心の影も消してあげようかしら」
ドナーレンはヴァントの柔らかな灰青の癖毛に手を伸ばす。
「ねえヴァント」
ドナーレンの優しい指先に髪を梳かれるここち良さに、ヴァント団長は酔いしれる。
「手に入れたい焦りを消してしまうだけなら、禁術じゃないわよね?」
「確かに、邪な心を正すのだから、良いことに違いない」
ヴァントは生真面目に肯首した。
初代が聖剣を見つけたと言われる場所には、豪華な白い神殿がある。森の向こうの小山に建つ神殿は、聖剣が発見された記念日以外、参拝客も稀だ。
聖剣継承者の婚姻は、国を挙げてのお祭りである。普段は閑散とした神殿前広場には、多くの人が着飾って集まった。参道には屋台も出ている。人々は思い思いに継承者夫婦の絵姿や、聖剣を模したアクセサリーなどを購入する。
新郎新婦をイメージした色のペアグラス、それをお土産として売る祝い酒や子供用のソーダ水。バーベキュー串やカット果物、ハチミツがけのナッツに粉砂糖を塗した一口大のケーキ。野菜たっぷりのスープが湯気をたて、削り氷はひんやりと煌めく。
薬草入りの塩漬け魚は硬めの黒パンに挟まれていて、スパイスの効いた薄切り肉は、クリームチーズと共に柔らかな白パンで挟む。子どもがふわふわした雲のような菓子を手に笑い、大人はこんがり炙ったソーセージをパリッと齧ってほうばる。
地下の聖域が、聖剣が現れたという伝説の泉だ。聖剣継承者の新郎新婦は、ここに夫婦となることを報告に降りる。花嫁は、この国で幸福を意味する薄い水色のドレスに身を包む。花婿は、聖剣の柄に埋め込まれたサファイアと同じ色の上下を着ている。ふたりの靴は門出の純白で、細い銀糸の手袋は子孫繁栄を表しているとか。
「聖なる泉よ、ここに当代聖剣継承者が伴侶を得たことをご報告申し上げます」
ヴァントは泉のほとりでひざまづいた。新郎新婦の他には誰もいない。静寂の中で、ヴァントは手袋を片方外す。隣に並ぶドナーレンも同じようにした。ヴァントが聖なる泉から片手で水を掬い取る。泉の水は、どこまでも透明で、何の色も映さない。心休まる不思議な香りが聖域を満たしていた。
ヴァントが差し出す掌の窪みから、ドナーレンは静かに水を飲む。続いてドナーレンが掬った水は、沈黙のうちにヴァントの喉を通っていった。
聖域から出て来た2人は神官たちが投げかける花びらの雨に洗われて、大衆の前に送られる。聖剣を象徴する銀青のマントが、神官長から花嫁に着せかけられる。神官たちは銀に青い縁取りのローブを着ている。そのため、式の主役たちがいるあたりは、全体に青っぽくなるのだった。
「花嫁に花冠を!」
司式補助の神官が、青い絹のクッションを捧げ持ってやってくる。上には、花嫁の花冠が載せられていた。緊張で身をこわばらせた新郎が、小刻みに震える指で朝摘んだばかりの花々を編んだ冠を持ち上げる。
花冠に決まりごとはない。花嫁の好きな花を選ぶのが一般的だ。ドナーレンは可憐な白い柑橘の花が好きだった。緑濃いその葉と取り合わせ、花冠は平凡なドナーレンの顔立ちを可愛らしく引きたてた。
硬い顔でそっと頭に花冠をのせ、ヴァントは呆然と手を止めた。頬はほんのり薔薇色に染まり、金茶色の垂れ目は幸せそうに細められた。しおらしく冠を受けたドナーレンは、上目遣いでヴァントの愛憐の瞳を受け止める。
「新たなる時代の聖剣継承者とその奥方に、永久の祝福が降り注がんことを!」
国王陛下の音頭の元に、ファンファーレが青空を駆け昇る。弦の響きは雲を分けるかのようだ。暖かな陽射しが神殿前広場の隅々にまで降り注ぐ。割れるような拍手、耳を聾する大歓声が湧き起こる。観衆の最前列は家族席だ。両家の家族が涙ぐんでいる。
振る舞い酒、祝いの菓子が配られ、婚姻式はお開きとなる。お祝いムードは続き、市が立ち祭りが行われる。人々はご馳走を用意して、ここフロストヴェアデン王国の夫婦は互いに贈り物を渡し合う。
神殿とは森と首都を挟んで真向かいの岩山に、フロストヴェアデン王宮は聳えている。四隅に塔がたち、広い敷地は迷路のように入り組んでいる。王族の住居はそれぞれに独立した建物で、国民行事を行う建物は、また別にあった。
その夜、王宮では舞踏会が開催された。宮廷舞踏楽団がここぞとばかりに妙手を披露する。踊りやすい絶妙な伴奏に、老若男女が笑いさざめく。円形の大型な吊るし燭台が豪華な絵天井を照らし、ゆらめく炎が舞踏会を幻想的に彩った。
主役の聖剣継承者夫婦も踊りを披露する。吊るし燭台から下がる透明な雫型の飾りが光を反射し、寄り添う2人を七色に染めた。ヴァントとドナーレンは2人とも軍人である。運動神経抜群で、優雅なダンスは喝采を浴びた。
舞踏会用に着替えた金茶色のドレスには、灰青のクリスタルが散りばめられて、霜の降りた朝の道を思わせる。首を覆う程度に伸ばした亜麻色の髪にも、灰青のクリスタルを縫い止めた張りのある青い薄絹が結ばれている。
先の丸い繻子の靴は、ドレスに合わせた金茶色だ。甲と踵には菫色の刺繍で小花があしらわれている。広い裾が緩やかに波を作って回る。波間に靴先がちらちら見えて、2人の瞳が密かな囁きを交わしているようだった。
「よく似合うね」
踊りながら、ヴァントはドナーレンに囁いた。
「ヴァントの瞳の色ですもの?」
「俺の襟ピンも似合うだろ?」
「ええ。あなたにピッタリよ」
ヴァントのピンは菫色である。生真面目なヴァントには、流石に菫色の上下は派手すぎると感じて着られない。服は銀灰色の上品なデザインだった。金茶色で覆われた花嫁の姿に、新郎は満足そうに微笑む。それから丁寧にドナーレンの手をとって、紳士的に回転した。
舞踏会ホールを囲うステンドグラスの窓の外遠く、城門付近に作られた聖剣庭園が宵闇に沈んでいた。真ん中では、聖剣を模した噴水が存在感を見せている。噴水が高く上げる水には、2人の門出を祝うように月の光が踊っていた。
ドナーレン・ブリッツァ・フリューリング=ヴェーレンヴァルヌングは、聖剣継承者の奥方である。その卓越した魔法の技は、拡大する魔物の棲息地を遥か遠くへと押し戻した功績で知られる。
夫もまた、聖剣継承者の長い歴史の中にあって不世出の天才であった。次世代にとっては、偉大すぎる父母は負担であったという。
こんな逸話が残っている。
長男カールの誕生日パーティーが開かれた。カールはその年13歳。そろそろ親と口を聞かなくなってきていた。ドナーレン譲りの髪は亜麻色で、やや長めの前髪を晴れの日らしく後ろに流して固めている。瞳もドナーレンの菫色でどんぐり眼。声変わり真っ最中、ひょろりと伸び盛りな、思春期入り口の少年である。
「誕生日なんて興味ねぇし」
「黒にして良かったわね。大人っぽいわよ」
オレンジ色の花を襟のホールに差しながら、ドナーレンが褒めた。
「花なんていらねぇよ」
「防御の魔法道具だ。聖剣を継承する前に死なれては困るからな」
「ヴァント!そんな言い方ってないわ」
「悪かった」
「ほら、ちゃんと言い直して?」
「お前のことを心配して、お母様が作ってくださったんだぞ」
「頼んでねぇし」
「カール!」
「ヴァント、大きい声ださないで」
「しかし、ドナーレン。カールの態度はよくない」
「そのうちなおるわよ」
「そうか?」
カールは両親のイチャイチャが始まると、表情を失くして庭の方へ逃れた。
「あっ、お兄様、お誕生日おめでとう!」
「おめでとう!」
レースや花で飾られた小さな妹たちが駆け寄ってくる。
「転ぶぞ」
ぶっきらぼうに注意だけして、カールは煩そうに背中を向けた。訓練所に辿り着くと、弟たちが剣術や体術の稽古をしていた。端のほうでは、唯一魔法の才能を受け継いだ灰青癖毛の妹が金茶色の垂れ目を燃やして鍛錬に励む。
「お兄様」
「おめでとうございます!」
「カールにいさま、おめでとう!」
「お兄様、おめでとう」
「お誕生日おめでとう」
手を止めて口々に祝いを述べる弟や妹に、不機嫌な顔を少し緩めてカールも剣を手に取った。
「あっ、何すんだよ、ウルスラ・エイダ!」
「晴れ着が台無しになりましてよ、カール・ブリッツお兄様」
カールの手元から訓練用の模造剣が浮き上がり、元の収納場所に戻ってしまったのだ。灰青癖毛の妹ウルスラの仕業だ。
「ほら、子供たち。早く着替えなさい。お客様が見えたぞ」
「はあい」
ヴァントが呼びに来て、子供たちは散り散りに駆け去ってゆく。後には聖剣継承者と次代継承者だけが残った。
「おめでとう。よく似合ってるぞ」
「ふん」
「そろそろ継承の勉強も始めるか」
「ちっ、だりぃな」
ヴァントの腰で聖剣が光る。
「なんだよ、俺、魔物かよ」
カールは苦笑いだ。
「いや、浄化の光じゃないよ」
「じゃあ何だよ」
「聖剣もお前を次代継承者として正式に認めたのさ」
よく晴れた5月の昼下がり、聖剣継承者邸の広い庭園は、珍しい果物やきらびやかなお菓子に溢れていた。カールが好きなオレンジ色で染められたリボンが、円いテーブルの側面に飾られ華やかさを加える。泡立つ薄水色のジュースには、薄く櫛形に切った黄色い柑橘が添えられて涼しげだ。
招待客の人数分用意されたテーブル席の間を、泳ぐように巧みに縫って、配膳係が行き来する。1人のご令嬢がやって来た。輝く銀髪を丁寧に梳き上げ、花と真珠のネットで飾った色白の乙女である。宝石のような淡い紫色の瞳は、一際大きく見えるように化粧が施されていた。
彼女はカールより少し歳上の15歳で、連れて来た親はあわよくば聖剣継承者の嫁に押し込もうという魂胆であった。
ところが、そのご令嬢はヴァント団長を一眼見るなり気に入ってしまった。パーティーの間じゅう追いかけまわし、よろけたふりをして抱きつこうとした。
ヴァント団長は、ひらりと避けて聖剣の力を発動した。ドナーレン魔法特務隊長が素早く受け止めて立ち上がらせた。するとご令嬢は、憑物が落ちたようにすっきりした顔になり、立ち去った。邪念は聖剣で浄化され、恋情は魔法で消し去られたのである。
「なんだよ、あれ。みっともねぇ。これだから女は」
「カール。お母様も女だぞ?」
「はいはい、始まったよ。素晴らしい女性といつかは出会えるって言うんだろ。馴れ初めの話は聞き飽きたよ」
ドナーレンはクスリと笑う。鼻の穴を窄めて飲み物を口に運ぶカールの髪に、ひらりと寄った蝶が羽を休めた。
「お兄様、頭にちょうちょ、かわいい!」
「可愛くねぇよ」
憎まれ口を聞きながらも、カールは蝶を追い払うことはしなかった。
その日、父母からのプレゼントを開けると、魔法の陶器で作られた卓上飾りの盾が出て来た。剣と笊、そして扉と噴霧器が賑やかに組み合わされた、父母の紋章だ。当代夫婦の紋章を贈られた年、聖剣継承者としての正式な教育が始まる。
盾には流麗な字体で、家訓「聖剣は聖なる泉と共に」が燦然と輝く。その下に、2人の代から新たに定められた家訓も彫りつけられていた。
「正しき道に禁忌なし」
お読みくださりありがとうございます
完結です