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幻の恋人

作者: 村崎羯諦

「いいですか、よく聞いてください。あなたが恋焦がれている有紗さんという女性は現実には存在しません。彼女はあなたが頭の中で作り上げた幻想に過ぎないんです」


 医者が俺にそう諭すが、正直俺は、一体こいつは何を言ってるんだと思った。有紗は現実に存在している人間だし、俺が今診察を受けている間にも、彼女はどこかで誰かとお話ししたり、何か美味しいものを食べているはずだった。彼女が幻だなんて信じられない。俺は湧き上がってくる怒りを必死に抑えながら、飯田と名乗った医者に反論する。


「信じられない気持ちは良くわかります。これからの治療で、ゆっくりとその事実について受け入れていきましょう」


 冗談だと言ってくださいよ。


 俺の言葉に医者は首を振り、一緒に頑張っていきましょうと答えるだけ。その医者の反応を見て初めて、俺の頭の中に疑惑が生まれる。俺が追い求めていた有紗。彼女は本当に存在する人間なのだろうか?






*****






 運命だった。


 有紗が初めて俺の目の前に現れたその瞬間を、俺は今でも昨日のことのように思い出せる。その頃の俺はパワハラが原因で会社を辞め、幻聴と幻覚の症状で精神がおかしくなりかけていた。ぶつぶつ独り言を言いながら夕暮れ時の街を歩き、人の流れに流されるまま当てもなく彷徨っていた。


 どうしてあの瞬間、俺が顔を上げたのかはわからない。だが、大勢の人間が信号待ちをしている向かいの交差点、そこに彼女がいた。美人とか、可愛いとか、そんな言葉じゃ説明できない。彼女の姿を見たその瞬間、俺の身体全体に電流が流れ、俺はその場で身動きが取れなくなった。俺は彼女をじっと見つめ続けた。そして、信号が切り替わるタイミングで、俺の耳に『ずっと待ってた』という言葉が聞こえてくる。一瞬意識が飛んで、再び意識を取り戻した時にはもう、交差点を渡る大勢の人に埋もれて、彼女の姿は見えなくなっていた。


 それから彼女は俺の人生の中心となった。初めて彼女と出会った時間に、俺は毎日あの交差点を訪れるようになった。彼女は気まぐれで、毎日姿を見せてくれるとは限らない。ただ、何日かに一回、数時間じっと信号の下で待ち続けていると、諦めかけた頃に彼女が姿を現してくれる。


 彼女を見つけたときには、俺は嬉しさのあまり泣きながらその場にしゃがみこみ、ただただ感謝の言葉を口にすることしかできなかった。そうしているうちに信号が切り替わり、大勢の人の波に飲まれて姿が見えなくなってしまう。しかし、ごく稀にだが、人混みの中に彼女の後ろ姿を見つけることができて、ふらふらとした足取りで彼女を追いかけることもあった。彼女は俺にとって神様みたいなものだったから、触れたり話しかけることなんてとんでもなかったし、ただ彼女の後ろを歩いていくだけで俺は幸せだった。そして、彼女を追いかけていた時に偶然拾ったハンカチ。そこには有紗という名前が刺繍されていた。これは彼女が落としたハンカチだと俺は確信した。有紗。俺は拾ったハンカチを胸に抱きしめながら、彼女の名前を呟いた。


 朝と昼は家にこもって幻聴と幻覚に耐え、夕暮れになると彼女がいる交差点へと向かう。そして、夜には家に戻り、自分の脳裏に焼きついた彼女の姿を紙に書き殴り続けた。ノートに拙い画力でイラストを書き、彼女がどこに住んでいて、どんな幼少期を送ってきて、どんな性格をしているのかを想像し、ひらすらその情報について書いていった。この時は、将来への不安と焦りで、幻聴と幻覚がどんどん悪化していた頃でもあった。だけど、彼女のことを考えている時だけは不思議と気持ちは落ち着いて、正気でいることができた。


 それでも、ノートに書き連ねたものは俺の想像で書いたものであって、真実ではない。だから、悩みに悩み抜いた俺は自分が書いた彼女のイラスト持って、街を行き交う人々全てに彼女について何か知らないかと尋ね回った。冷たい都会の人間は俺が話しかけても無視して過ぎ去っていき、少ししたら警察官がやってきて俺を交番へと無理矢理連れていった。それでも、彼女のことを知りたいという気持ちは日を追うごとに強くなっていった。幻聴と幻覚、精神的な落ち込みの中で、彼女は俺を唯一現実に繋ぎ止めてくれる天使だったし、俺が俺でいられるたった一つの理由だった。


「相当追い込まれた人間はですね、生存本能によって無意識のうちに自分にとって都合のいい幻を作り上げるんです。有紗という女性は実際には存在しません。ですがこうして病院へ運ばれるまで、あなたが自殺しないように引き留め続けてくれた。大袈裟でもなんでもなく、彼女はあなたにとっての女神なのかもしれませんね」


 治療によって幻覚症状が落ちつき始めた頃、医者は俺に対してそんな説明をしてくれた。今までの俺だったらきっと、彼女がいない事実を受け入れることはできなかっただろう。しかし、実際に精神科の治療をうけ、今までの生き辛さであったり、幻聴や幻覚の症状が少しずつ改善された今では、医者の言うことがひょっとしたら正しいのかもしれないと考えるだけの余裕ができていた。


 彼女から自立することが、最後の治療だと思ってください。医者の言葉に俺はゆっくりと頷くのだった。


 それから俺は医者の助言通り、少しずつ彼女から自立していった。彼女と出会ったあの交差点へは行かないようにし、部屋に貯めていた彼女に関連するもの全てをゴミとして処分した。彼女のことを思えば胸が張り裂けそうだったし、彼女が実はこの世界に存在すると考えただけで無意識のうちに涙が流れた。それでも、薬を飲んだり、医者の勧めで互助会に参加するようになっていくにつれて、彼女のことを考える時間は減っていった。張り裂けそうな痛みは胸の疼きへと変わり、涙はちょっとしたため息へと変わっていった。


 そして、幻聴や幻覚が収まり、精神も安定した頃。俺は医者に対して彼女は確かに存在しなかった、と告げる。医者は俺の目をじっと覗き込んだ後で、よくここまで頑張りましたねと労いの言葉をかけてくれる。俺は涙をぐっと堪えながら頷き、ありがとうございますと呟いた。治療にあたってくれた医者に対してだけではなく、地獄の底で俺を支えてくれた彼女への言葉でもあった。


 その帰り道。俺は数ヶ月ぶりにあの交差点へと向かった。そして、意味もなくそこで立ち止まり、そこに彼女がいないことを改めて確認した。しかし、彼女が存在していなかったとしても、彼女への気持ちは本物だった。そのことに少しも寂しさを感じないといえば嘘になる。それでも、長い人生の中で誰かを愛するということを知ることができただけでも、俺は幸せものなのかもしれない。


 この場所を脳裏に焼き付けて帰ろう。そう思った俺がもう一度向かいの交差点へと視線を向けた。すると、その瞬間、一人の女性に目が止まった。信号が青に変わり、人々が歩き出す。無意識のうちに、俺も動き始める。人をかき分け、先ほどの女性の影を追い求める。そして、女性の後ろ姿を見つけ、俺は反射的に声をかける。女性がびくりと肩を震わせ、こちらを振り返る。突然呼びかけられた女性は俺を見て、怯えたような表情で見つめ返してきた。


 俺はその女性をじっと見つめる。俺がかつて追い求めていた女性の面影が重なり、それから幻想が消えていく。すみません、知り合いに似ていたもので。俺が咄嗟にそう答えて謝罪をすると、女性は俺に背をむけ、そのまま小走りで立ち去っていった。


 頭では納得していても、心の中ではまだ諦められていないんだな。俺は自分の情けなさが少しだけおかしくなる。でも、この恋ももうこれで本当にお終い。俺は自分にそう言い聞かせて、彼女と初めて出会った交差点に背を向ける。そして、幻の恋人との別れの言葉を心の中で呟き、俺は歩き出すのだった。






*****






 はい、こちら飯田精神科医です。ああ、その節はどうも。え? そんなことはあるはずないと思うんですが。なるほど……すいませんが、その時の状況について、詳しくお聞きできますか?


 ……はい。……はい。ちょっと待ってください。その時彼は『知り合いに似ていたもので』と言ったんですね。はい、ありがとうございます。いえ、聞いた限りでは、そこまで不安に思う必要はないと思います。知り合いに似ていると言ったということが何よりの証拠です。つまり、彼がずっとストーカー行為をしていた女性と、有紗さんは全く別の女性だと認識したということですから。


 不安になる気持ちはわかります。執拗なストーカー行為を受け、相当怖い思いをしたんですからね。ですが、安心してください。治療は無事に成功しました。有紗さんに対する彼のストーキング行為を終わらせるため、あなたは彼の頭の中で作り上げた幻の恋人に過ぎない。彼がちょうど幻聴や幻覚症状に悩まされていたことを利用して、上手く彼にそう信じ込ませることができました。


 ええ、そうですね。もちろん私は彼から彼にとって都合の良い事実しか聞かされませんでしたし、彼自身もまた自分の記憶を都合よく解釈したり、忘れたりしているように思われました。彼が帰り道の有紗さんから持ち物をひったくったこと、奇声を上げながらあなたを追いかけ回し、その結果あなたの知人から取り押さえられ、この病院へ連行されることになったことすら、彼はまるで存在しなかったことのように振る舞ってました。彼のような人物は、病院を出た後にまた同じことを繰り返す可能性が高い。そう判断し、私からこの治療を提案させてもらったという事情もあります。


 いえ、彼が特別というわけではありません。誰しも、自分のことをよくわかっているようでわかっていないですからね。はい……。はい……。ありがとうございます。そう言っていただけて、こちらも嬉しいです。


 それではまた別の患者の治療があるので失礼しますね。また何かあれば、飯塚精神科にご相談ください。

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