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8 アトラチカ



 彼女の記憶、意識、自我、己の同一性は、一度も途切れたことはない。幼く幸せな日から今に至るまで、彼女はずっと地続きでここにいる。


 彼女は同時に、転換点となった『あの日』のことをよく覚えている。


 広大な公爵家の本邸、その奥にある宝物庫で布を被っていた金庫。悪戯好きの兄と結託して、たいへん苦労しつつ父の書斎から鍵を盗んできて、それを開けたのだ。


 大きな懐中電灯をひとつ持って、ゆっくりと開いた分厚い鉄の扉の向こうを照らし出す。


 音もなく、静かにきらめいていたのは、小ぶりな手鏡だった。よく磨かれた鏡面は銀色で、縁に並べられているのは大小様々の宝石にみえた。


「何かしら、これ」と手を伸ばして、鏡を取り上げて、顔を映し出す。



 それだけだ。ただ、それだけのこと。


「なぁんだ、ただの鏡じゃない」

 そう言って鏡を下ろし、顔を上げようとした瞬間、兄が悲鳴を上げた。それが、冗談のようなものではなく、心底怯えたような、この世のものではない化け物を見たかのような絶叫なのだ。


 どうしたの、と兄を窺った、その視線の途中に、人影が見えた。

 自分と全く同じ姿をした、鏡の向こうでよく見知った少女の姿が。


 その瞬間から、彼女は、リナリアという名を失った。



 鏡の名は魔道具アトラチカ。

 伝説の魔法使いが残した数々の魔道具の中で、唯一の完成品と称される至高の傑作である。


 いくつもの魔石を組み合わせて造られたその魔道具は、生き物を完全に複製する力を持つ。その身は、食べ、眠り、老いてゆく生き物のそれに変化する。記憶も自我も、些細な癖もすべて持ち合わせた上で。


 アトラチカは鏡に映ったものを忠実に再現するのである。そうして、生き物としての生を終えれば、再びもとの鏡へと戻る。


 この魔道具が輪廻を幾たび繰り返したのかは誰も知らない。誰も。


 時代によって、アトラチカは人として扱われることもあれば、ただの道具と見なされることもあった。

 現代においても、人の形をとったアトラチカを人間と見なさない者は大勢いる。


 今の、リナリアとなったアトラが死ぬことを、誰もが待ち望んでいる。

 いずれ再び鏡となる彼女を、数え切れない人間が狙っている。



 ***


「アトラちゃん、ここの皿下げてくれるか」

「はぁい」

 騒がしい酒場の中で声高に呼ばれ、アトラはぱたぱたと声の方へ駆け寄った。山と積まれたからの皿を両手にそれぞれ持ち上げて、厨房へ向かおうとする。

 そのとき、髭面の男が手招きをして、耳を貸すように合図をした。怪訝に思いつつ身を屈めると、実に楽しげな声が囁く。


「さっきから色男が話したそうに見てるぞ、相手しないのかい」

 そう言って指し示す方向には、熱心にこちらを見つめる青年が一人である。


「…………。」

 アトラは半目になって、常連客の顔をじとりと睨めつけた。わざと気づかないふりをしているのに、それに気づかないふりらしい。


「やきもきしてるみたいだ。可愛い坊ちゃんだなぁ?」

 面白がるような表情をして、肘でつつかれる。それをひょいと避けると、アトラは肩を竦めた。

「もう関わるなって、この間、厳しく言ってやりましたから」

 ふん、と鼻を鳴らして踵を返す。「あーあ」と客が声を漏らした。アトラがここに来たときから何くれと様子を見てくれる常連客である。


「俺には分かるぜ、アトラちゃん。あんたも、本当は満更でもないんだろう」

 背中に投げかけられた言葉に、唇を噛む。

「俺たちはいつだって、お嬢の幸せを願ってるんだぜ」


 何も知らないくせに。私のこと、何も知らないから、そんな無責任なことが言えるのだ。

 アトラには帰る場所がない。そこはもう既に、もう一人の自分がいる。

 アトラは表舞台に出ることを許されない。繁華街や賑わう街並みを出歩いたこともない。


 私は、人間ではない。



 今日はオークションが開かれる日である。アトラもその入り口のひとつを担ってはいるが、実際のところ彼女を窓口にする客はそう多くない。


 元々、アトラは酒場でのアルバイトと、魔石商としての役割は、完全に分けるつもりであった。オークション会場や商談の際には顔を隠しているし、身長もある程度ごまかしている。

 あるとき、とある『やんごとなきお方』に正体を見抜かれたせいで、こんなことになってしまったが。



「――鏡とは、あまねくいずれは割れるものである」


 すれ違いざま、袖を引いて囁いた客の顔を、アトラは静かに見下ろした。


『僕と君は、さしずめ兄妹のようなものだからね』

 そう言って仄暗い笑顔を浮かべた王子の顔を思い出しながら、アトラはルカに向かって曖昧に微笑む。


『僕が寄越したと分かる客が来たら、会場まで案内してやってよ』

 鏡はいつか割れるよ。王子の口癖であった。

 きっと、合言葉として教えられた文言なのだろう。ルカは、その意味も分からずに言っているに違いない。


「裏口で待っていてください」

 殊更に素っ気なく吐き捨てて、アトラはそっと横目でルカを窺った。


 ……この人は、私の正体を知ったら、私を割ってくれるだろうか?



 ***


 彼女の足音は、いつも人目を憚るように静かなものである。


「別に、理由はないんだけどさ」

 前をゆく彼女の背中に向かって、ルカは努めて軽い口調で話しかけた。

「僕は今まで、君を名前で呼んだことがなかったね」

 強いていえば、彼女が自らのことをアトラと名乗ったことは一度もなかったから。


「改めて聞いても良いかな」

 その肩が僅かに強ばるのが、目で見ても分かった。今日の彼女は、酒場にいるときのまま、緩い三つ編みのお下げである。

 幼く見えるその髪型で、小柄な体格で、彼女はいつにも増して小さく、頼りなく見えた。


「君の名前を、教えてほしい」


 人ひとりがすれ違うのがやっとの細い路地で、アトラはぴたりと足を止めた。ゆっくりと振り返る、その瞳が、宵闇の中で奇妙に光っている。


「……どうぞ、アトラとでも、お好きなように呼んでくだされば結構ですよ」

 やはり彼女は、自らの名をアトラであるという言い方をしなかった。


「そっか。それなら」

 ルカは外套のポケットに両手を突っ込んだまま、顎を引いて、三歩ほど先に立っている少女に視線を向けた。


「君を、リナリアと呼んでも?」




 突如として、平衡感覚を失ったかのように見えた。とても立っていられなかったのか、近くの壁に手をついて体を支える。

「……れ、どこ、で」

 声は途切れ途切れで、掠れていた。はくはくと口を開閉させて、浅く息をする。彼女の目には驚愕が浮かんでいた。


「その名を、どこで、」

 彼女は恐慌しているように見えた。暗い路地、月明かりがただ一筋射し込む闇の中で、その姿はまるで、絵画のように幻想的に浮かび上がって見えた。

 夕立の名残か、浅い水たまりに真ん丸い月が映っている。空に浮かぶものと寸分同じ輪郭をして、しかし時折風にさざめいて曖昧に揺らめく。


「リナリア・ラフィーア。僕の婚約者殿の名だよ。少し前に、初めて顔を合わせてね。心臓が止まるかと思ったよ」

 目の前にいる彼女の瞳に、理解したような表情が浮かぶ。



 アトラチカという魔道具のことを友人に聞いた。それがどんな形をしているのかは知らないが、現存する中で最も強い力を持つ代物なのだという。――曰く、人を丸ごとひとり複製するのだとか。

 アトラと呼ばれる、公爵令嬢によく似た少女の正体は、それで知れた。


 想像しただけで、彼女の絶望は察するにあまりある。アトラチカ本人にとってみれば、自分は間違いなく本物の公爵令嬢として育ってきたのだ。それがいきなり、お前は偽物だと突きつけられ、屋敷から追放される。


 強面の男たちに一歩も退かない立ち姿や、痛烈な言葉遣い。あの箱入りのご令嬢が、今のアトラになるまでに、彼女がどれだけ苦悩したことか。



 彼女は警戒心を剥き出しにして、一歩しりぞく。

「……私を殺しに来た? 偽物と関わりがあるとリナリアに知れたら大問題だものね」

 胸に手を当てて、こちらに正対した彼女の眼差しには、覚悟を決めたような光が宿っていた。


 宥めるように優しい声を出そうとして、息だけが喉から漏れる。一度咳払いをして、ルカは両手をそっと上げた。だって彼女が、ポケットに入れた両手を随分と警戒しているようだったから。なに、拳銃なんざ持っていない。


「君も、リナリアなんじゃないのかい」

「違う。私は……リナリアじゃない」


 呻いて、彼女はルカを睨みつけた。

「もう、私のことも聞いておられるのでしょう」

「友人に聞いたよ。流石に、君のお父上やリナリア嬢本人に訊くのは憚られたから」

 父という単語に、彼女の顔が歪む。自分は親に捨てられたのだと、以前彼女はそう語っていた。



「だったら分かるでしょう! 私は、わたしは、わたしは……」

 どうしても口に出せないように、彼女は声を詰まらせた。


「私は、人じゃない。人の姿をしただけの魔道具でしかない!」

 人目を憚ってか、音量を抑えて吐き捨てた言葉は悲鳴に聞こえた。


「でも僕には、ただの可愛い女の子にしか見えないよ」

「……そうではないことを、私が一番知っているの」



 呟いて、『アトラ』は片手を持ち上げ、耳打ちをするときのように口の脇に添える。

『お前たちの居場所を、教えて』

 ルカには聞き取れない囁きであった。ほとんど吐息のような、長いため息のような柔らかい一言。


 夜空に星がひとつずつ、順に瞬き始めるかのようだった。家々の隙間を縫うような狭い路地で、いたるところに小さな光が灯ってゆく。針で穴を開けたみたいな、ごくごく僅かな明かりである。

 けれどそれが、何百、何千となれば、辺りはまるで夜光虫の棲む海面のようだった。石造りの壁や地面のすべてが、薄い光に覆われている。


「……この街は、ほど近くにある鉱山で働く鉱夫と、その家族たちによって大きくなりました。表向きは既にほとんど閉山した金山として、注目もされていませんが――あの山で採れる最も重要な産出物は、魔石です」

 彼女の髪は、風もないのに僅かに浮き上がって揺れていた。


「この街並みは、近くの採石場から運ばれて来た石で造られています。建物にも、石畳にも橋にも、無数の微少な魔石の欠片が含まれている。石英の中から取り出すこともできないような、よしんば集めたとて何の力も持たぬ小さな結晶です。それでも、私の呼びかけには応えてくれる」

 淡い色を放つ光の中で、彼女は凄みのある眼差しでこちらを睨みつけていた。


「私の本体は魔石です。魔石は互いに呼び合う。魔石は魔石しか呼びません。人が人を求めるのと同じように」

 そう語る彼女の表情には、明確な嫌悪が浮かんでいた。我が身を厭う、自嘲混じりの苦笑である。


 なるほど確かに、この光景を目の当たりにしてしまえば、彼女が『ただの可愛い女の子』というだけではないのは明白だった。

 彼女は目を細め、魔石の光を浴びて佇んでいる。


「私は、自分が人間ではないことを知っています。人でなしは人の中では生きられません。分かるんです、……私は、同じ仲間たちの中でしか生きられない」


 その言葉に思い出されるのは、分け入った森の奥、洞窟の奥を見つめる彼女の横顔である。まるで何かに取り憑かれたように、吸い寄せられるように、鉱脈があるという方向を見ていた。

 彼女は、そんな自分に怯えているように見えた。


「もう分かってるから、良いんです。私はリナリアじゃない。似ているけれど、決定的に違うの。私が自分をリナリアだと思っていたって、それは幻想です。自分をリナリアだと思い込んでいるだけの、滑稽な魔道具なんです」

 アトラは当然のような口ぶりを装っていたが、心細げな表情は隠し切れていなかった。


「……だから、お父様も、私を追放したの」


 明るい笑顔で、けれど気品に溢れた仕草でころころと笑う公爵令嬢の姿を思い出す。家族に愛され、豊かな生活をしている、恵まれた少女である。

 目の前にいる彼女にも、与えられていたはずの未来だ。



「君の……こういう言い方はしたくないんだけどさ、君の所有権というものは、一体どこにあるのかな」

 口ごもりながら問うと、彼女ははたりと瞬きをしてから淡白な口調で応えた。


「アトラチカは、かつてお祖父さまが……いえ、先代のラフィーア公爵が、例のオークションで競り落とした品物です。私がこのようになった際に、当代の公爵は私の管理をオークション側に委託しました。私の管理者は店であり、所有者は公爵です」

「そっか。……なら、公爵閣下に言えば良いんだね」

 頷くと、彼女はあからさまに怪訝そうな顔になった。何を、と言いたげな表情を受けて、ルカはぎこちなく微笑む。



「――君を、雇いたいんだ。僕の仕事を手伝って欲しくてね」

 あの叔父貴も言っていた。北の城を女主人なしで回すのは大変なのだという。

 アトラは要領を得ないように小首を傾げた。


「君を手に入れるには、国ひとつ持ってこなきゃいけないんだっけ? 分かったよ」

 アトラを呼んだけれど、あいにく今日はオークションに足を運ぶつもりはなかった。どうせ会場に行ったって、彼女より良い品が見つかることは決してない。


「動かすよ、国の一つやふたつくらい。それくらいお安い御用さ」

「なんの話をしているの?」

「君からすれば世間知らずのお坊ちゃんかもしれないけど、これでも一応、僕もある程度の知恵ははたらくんだよって話」

 今度こそ上手に笑顔を浮かべて、ルカはアトラに向かって語りかけた。



「――僕が数年後に継ぐ予定の城はね、随分な僻地にあって、交通網からも切り離された不便な土地なんだ。ところが、ここ最近になって、いきなり鉄道が敷かれた」

 人差し指を立てて、彼は大学にいる教授の物真似をしながら語った。アトラには決して伝わらないおふざけである。


「なぜかって、城の近くにそれほど大きくはない鉱山があるんだけれど、そこに対して、国からとんでもない額の予算が降りたんだよね」

 はっと、アトラが息を飲む。


「調べてみたら、同じような事例はそれこそ三百年以上前から定期的にあるらしい。代々の王は、目立たない鉱山に巨額の資金を投じ続けて来た。それも、公にはせずにね」

 手を下ろして、ルカは低い声で呟く。

「王達は、いったい何を求めてきたのだろう。……先代のラフィーア公爵は、何のためにアトラチカを買ったのかな」



 アトラは大きく目を見開いて、ふるふると首を小刻みに横に揺らしている。「だめ」とその唇が動く。

「踏み込んじゃ駄目よ」

「少しだけ待っててね。交渉のテーブルだけでも準備できたら、また君に聞きに来る」

 有無を言わさずに告げて、ルカは一歩下がった。


「そのときに僕は、君の、……君の意思だけが聞きたい」

 いつしか魔石の光は雲散霧消し、月も雲に隠れたらしい。伸ばした手の先も判然としないような暗闇の中で、アトラは迷子の子どものように立ち竦んでいた。


 人になれず、しかし魔石にもなりきれない。

 居場所がないのだと、この世のどこも自分のいるべき場所ではないのだと、彼女の全身が歪な悲鳴を上げている。


「僕と一緒に来てくれないかな。僕もさ、新しい土地に一人で移り住むのは心細いんだ」


 犬は人につくし、猫は家につくだとか、そうした言い伝えがある。猫の淡白さを思うと少々しょげてしまうが、どちらも分かるような気はした。人も空間も、どちらも居場所になりうるのだ。

「今のところ、僕の隣が空いてるからさ」


 冗談めかして言うと、アトラの瞳が揺れた。



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