6 わたしを呼ぶ声が
歩きながら、ディレナはしばらく、物思いに耽るような顔でルカの横顔を眺めていた。
「……アトラさんはね」と、彼女は前をゆく背中に聞こえないように、小さな声で囁いた。
「アトラさんはきっと、どこかのお嬢様なんだと思います。立ち居振る舞いが、あたしとは丸っきり違う。どこにでもいる田舎娘だなんて言ってますけど、多分、ほんとうは、」
こんなところにいるはずの人じゃ、ない。
それは、ルカが初めてアトラを酒場で見たときと同じ直感だった。どうしてそう思うのかは、自分でも分からない。
アトラは酒場で浮いている訳ではなかった。常連客と気安い会話を交わして、近所の青年の憧れを集めつつ、その場に応じて器用に振る舞っていた。
オークション会場にいるときのアトラも、黒子として気配を消して、スタッフとしての役目に準じていたはずだ。その態度にも、変なところはない。
今だって、ルカが情けない悲鳴を上げてしまうような虫を前にしても、少し眉を動かすだけで何も言わない。迷いのない足取りで森の中を突き進み、棘のある枝に怯むこともなく、腕に少々のひっかき傷を作りながら鬱蒼とした山中を歩き続けている。
ただのご令嬢にできることではない。彼女自身、自分をそうした階級の人間だなどと表明することは一度だってなかった。
それなのに、アトラがいる場所はいつだって、ぽっかりと穴が開いているようだった。
(多分それは、彼女が、そこを己の居場所を認めていないから、)
私はこんなところにいるはずじゃない。ここは私の居場所ではない。
そんな悲鳴が聞こえてくるようだった。
――それなら一体、彼女の居場所はどこにあるのだろう?
と、前方から、息を弾ませたアトラの声が聞こえた。
「見つけました、」
ルカははっと顔を上げ、彼女が見ている方に視線を向ける。
行く手には身長を超えるような大きな石壁、そちらへ行くのを阻むように種々の低木が視界を遮り、アトラが『見つけた』というものの正体は分からない。
ルカは急ぎ足でアトラの方へ向かうと、片腕で蔓草を押しのけて身を乗り出した。
「これは……」
大きな一枚岩の壁と、地面の、ちょうど接するところ。草が生い茂って普通では見つけられないような地面に、ちょうど人ひとりが這って入れるような大きさの穴が、黒々と口を開けていた。
耳を澄ませれば、ひょう、と風の音が聞こえる気がする。それではこの穴は、どこかへ繋がっているのだ。恐らく相当に深い。
「……洞窟?」
呟いたルカの言葉に頷いて、アトラは目を眇めた。汗をかいた額に、赤毛が張り付いている。頬を紅潮させて息をついた彼女は、腰に手を当てて洞窟の入り口を見やった。
「今日は中に入る時間も人手もありませんから、目印だけ残して帰りましょう。また後日、店側に報告してからここに来ます」
この過酷な山歩きは、今日はここで終了らしい。復路のことから目を逸らしながら、ルカはほっと胸を撫で下ろした。
「それにしても、この洞窟は一体……?」
ディレナが地面に膝をつき、不思議そうに穴を覗き込む。アトラも腰を屈めて洞窟の中を見透かしつつ、「恐らくは」と口を開いた。
「この中に、魔石の鉱脈があるはずです。ラチェタライトほど強いものではありませんが、それなりの値がつくものが採れると思います」
当然のような口ぶりで語る彼女を、ルカは呆然と眺める。
もの言いたげな視線には気づいているのだろう。アトラはちらとこちらを一瞥したが、何も言わずに目を逸らす。彼女が顔を背けた先にあるのは、ほんの少し先さえ見えないような漆黒の洞窟である。
吸い寄せられてゆくように、その体がふらりと傾きそうになる。咄嗟にその腕を掴んで引き留めるが、アトラは抵抗する様子を見せなかった。
息さえつけない暗闇を見つめて、彼女の眼差しはまるで眩しいものを見つめているようにみえた。
――焦がれるように、目を細める。
その様子があまりにも不安定で恐ろしく思えて、ルカは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「君には、何が聞こえているんだ?」
掠れた声で問うと、アトラは初めてこちらに気づいたみたいな顔で振り返った。
夢から覚めやらぬように数度瞬きをして、「わたしは」と言葉が転げ落ちる。
「――わたしを呼ぶ声が、聞こえます。わたしを呼ぶ、魔石の声が」
どれほど深い鉱脈でも、どんなに厳重に閉ざされた金庫の中であろうと、その声は常に傍に。
譫言のように呟いて、口を閉じて、それから、アトラは大きく目を見開いた。鋭く息を飲み、口元を押さえる。
「今、私、なにを言いましたか?」
こちらを振り返る彼女の双眸は、怯えるように揺れていた。
「アトラさん、何かありました?」
洞窟の奥が何とか覗けないかと試行錯誤していたディレナが、諦めたように立ち上がる。膝を払いながら振り返り、怪訝そうに首を傾げた。
「何でもないよ」
アトラが何か言うより早く、ルカは微笑んで答えた。
「日が暮れる前に帰ってしまおうと話していたところだ。彼女も少し疲れてしまったらしい」
ディレナは何も疑った様子はなく、「そうですか」と頷く。
「ちょっと待っててくださいね、次に来たときのためにも、歩くのに邪魔な枝を払ってきます!」
ディレナが元気よく茂みの向こうに消えてゆくのを眺めながら、ルカは押し黙ったまま何も言わないアトラをそっと見下ろした。
「……大丈夫?」
小さな声で訊くと、彼女はこくりと頷いた。その指先が震えているのを見て取って、一瞬迷ってから手を繋ぐ。アトラは少しだけ抵抗したが、諦めは早かった。だらりと腕を垂らしたまま、俯きがちに呻く。
「お願いします。先程のことは忘れてください。決して、誰にも話さないで」
「どうして?」
「あなたの身に危険が及びます」
前を向いたまま、遠くを見透かすような目をして、彼女は唇を軽く引き結んだ。
「私に会おうとするのは、金輪際やめてください。それが、あなたのためですから」
「何が僕のためになるのかは、僕が決めるよ」
アトラは苛立った様子こそ見せなかったが、その声にはやや頑なさが増した。
「それなら、言い換えましょうか」
涼やかな眼差しでこちらを見て、彼女は厳しい口調で告げる。
「私は決して、あなたのものにはなりませんからね」
他の少女が言えば、ともすれば自意識過剰ともとれるような発言だ。アトラは、そうした言葉がよく似合う威風のある少女だった。
「それなら誰が、君を自分のものにできるってわけ?」
あまりにもきっぱりと断言された意趣返しで、わざと意地悪げな口調で訊いてみる。いかにも憎たらしげな口ぶりに、それが戯れであると察したらしい。
アトラは少しだけ頬を緩め、冗談めかした口調で小首を傾げた。
「――私は、世界で一番高い女ですよ?」
はにかんだような笑顔はいつになく悪戯っぽく、可愛らしくみえた。
「私が欲しけりゃ、最低でも国ひとつ持ってきてくださいね」
***
察するところ、自分は、アトラにきっぱりと拒絶されたらしい。
「そんなんで諦める質だった? 君」
「いや」
挑発的な友人の言葉に、ルカはあっさりとかぶりを振った。ルカにオークションの情報を教えてくれた友人は、肩を竦めて満足げな顔をする。
「野次馬みたいで申し訳ないけど、僕はね、あの子と君はお似合いだと思うんだよね」
他に人のいない大講義室は、演台に向かって階段が下ってゆく形をしている。奇しくも件のオークション会場を彷彿とさせる形である。
壁の高い位置にある窓から、燃えるような夕陽が講義室に投げかけられている。
一段上の長机に頬杖をついて、友人は覗き込むようにこちらを見下ろしていた。
「しかし、世界一高い女とは、また上手いことを言ったね」
夜空に浮かぶ満月のような、冴え冴えと光る金色の瞳は、王者の証である。
「なあ、あの子を救ってやれるものなら救ってやってくれよ、ルカ」
この国を統べるべき王は、十年ほど前から病を患い、一日の半分以上を寝室で過ごしているという。
世継ぎたる王子は青年期にあり、見目麗しく聡明、慈悲深い性質で知られ、将来を嘱望されている。
王子の問題はただひとつ。彼がただ一人しかいないこと。
王家の血筋には、当代の王のように、長く続く不調を訴える者が少なくない。成人することなく早世した王子や王女も枚挙にいとまがなく、いかに優れた資質を示そうと、次代の王となり得る人間がただ一人しかいない現状を憂慮する者は多かった。
「……どうして、それほどまでに彼女に肩入れするんだ?」
踏み込んではならない一線を爪先で慎重に探りながら、ルカは上目遣いで友人を見上げた。相手の謎めいた微笑みは、すべてを詳らかにする気などないと如実に語っている。
この世に二人といない王子は、柔らかい笑みで目を細めた。
「強いて言えば、贖罪かな」
ここから先は決して触れるな、と告げるように、彼は唇の前に人差し指を立てて囁いた。
「あの子が生まれたのは、僕らのせいでもあるのさ」