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4 母の友人


 アトラの勧めで、ディレナは遠慮がちにルカの隣の席に腰かけた。

「あたし、小さな頃はイェルシェットのお屋敷の近くに住んでいたんです。あの頃はもっと細くて小さくて、髪が短くて、……そう、乾いた藁束みたいに跳ねてたの」

 その言葉に、記憶の片隅が刺激される。ルカは大きく目を見開き、何とか思い出そうと動きを止める。


「ローナさまから教えてもらいました。坊ちゃまが、あたしの髪の毛を見て『本の主人公みたい』と仰ったんですって」

 その言葉に、ルカは「あ!」と声を漏らした。そうだ、確かにその言葉には覚えがある。子どもの頃の自分が言ったのだ。


 母の部屋の窓から見える通りを、小さな弟をおんぶして毎日行き来している、いくつか年下の女の子。

 ちょうどその頃ルカが好んで読んでいたのが、少しやんちゃな女の子が様々な冒険をする物語だった。挿絵に描かれる主人公は、少し跳ねた髪をひとつに結んだ少女だったのだ。


 遠目に見る少女の姿が、その頃のルカにとっては、その挿絵とよく似ているように思えた。


「あたし不細工だし、あの頃は髪をまともに手入れすることもできなくて、毎日いじめられてばかりだったから、それを聞いたとき本当に嬉しかったんです」

 少しだけ涙目になりながら、ディレナは語り出した。



「あたしの母さんは、物心ついたときには亡くなってたんです。父さんは酒癖が悪くて、酔うといつもあたしや弟を殴るような屑で、あたし、あの頃は毎日を生きるのに必死でした」


 父の言いつけで酒を買いに行かされる日々のなかで、唯一の楽しみだったのが、通り道にあるイェルシェット家の庭園だったのだという。


「通りから見ていても本当に素敵なお庭で、いつか入ってみたいだなんて分不相応に思ったりして、……そんなある日、裏の門が少しだけ開いていたことがあったんです。駄目だって思いながら、門の前に立っていたら、窓越しにローナさまがこちらに手招きをしてくださって」


 それが、ルカの母が亡くなるちょうど一年ほど前の夏のことだったようだ。以来、ディレナは母の部屋の窓の外に座って、母とお喋りをするようになったという。


「ローナさまは、お友達が欲しいんだと仰っていました。今思えば、きっとあたしを言いくるめるための方便です。でもそのときのあたしは舞い上がっちゃって、毎日でも会いに来ますだなんて言って、本当に毎日のように通い詰めていたの」


 母がそんなことをしていただなんて、ルカは全く知らなかった。話を聞いても、窓越しに近所の少女と会話を楽しんでいる母の姿は想像がつかない。

 母はいつも優しく微笑んでいた。そんな悪戯めいたことをする人とは考えたこともなかった。



「それで、次の春になった頃に」

 と、そこでディレナは声を詰まらせ、指の節で目元を軽く拭った。

「ローナさまがね、いつもつけていたペンダントを、あたしに、くださったんです」


 がつんと頭を殴られたような気分だった。

「母さんが、あのペンダントを、君に?」

 はい、と頷いて、少女はその目に涙を浮かべて唇を噛んだ。



「『もう、この宝石でも保たないみたいだから』って、そのときは意味が分からなかった。今なら分かります。ローナさま、自分で自分の死期を悟っていたんだわ。そのときのローナさまは、まるで小さな女の子みたいだった」


 息が詰まる。母は、一度だってルカの前でそんな弱音を吐いたことはなかった。亡くなる前に、酷く弱って昏睡状態に陥る前の日だって、気丈に振る舞っていた。


 ディレナは胸元を押さえて、涙ながらに続ける。

「あたしは宝石なんてものを持ったことがなかったし、人から何か物をもらうなんてことも経験したことがなかったから、遠慮するなんて思いつきませんでした。嬉しくて、……ただ、ほんとうに、嬉しくて。頂いたペンダントをつけて、おうちに帰りました」



 それ以来、まるで奇跡のように幸運が相次いだのだという。

 彼女がペンダントをもらって数日経った頃に、遠方に住んでいる母方の親類が、ディレナとその弟を引き取りたいと申し出た。そうしてディレナの生活は一変した。

 姉弟を引き取った親類も、決して豪勢な暮らしをしているわけではなかったが、心優しい家族で、実子ではないディレナのことも大変気にかけてくれたという。


「それで、最近になって、アトラさんがあたしのところに来たんです。そのペンダントの石はとても貴重なものだから、ぜひ買い取らせてくれないかって」

 ディレナがあの日受け取ったペンダントは、ラチェタライトという不思議な石が嵌められたものだった。彼女の境遇が一変した理由のひとつに、その石があるのは明白である。


「ローナさまがいなかったら、あたし、きっと、人に優しくしてもらうことなんて知らないまま生きていました。ローナさまが、あたしを人間にしてくれたの」

 坊ちゃまに言っても仕方ないのに、とディレナは泣き笑いのような表情で呟いた。


「ちゃんとローナさまにお別れが言えなくてごめんなさい。そんなに貴重なものだと知らずに何気なく受け取ってごめんなさい。坊ちゃまや、ローナさまのご家族にとっても大切な思い出なのに、あたしが横取りしてごめんなさい」



 ディレナが話している間も、舞台では珍妙な品物が次々と開陳されては、楽しげに落札されていた。どうしてそんなものに、それほどの金を。くらりとするような額面を示す言葉が飛び交っている。


 そんな享楽と欲望のるつぼのすぐ隣で、ディレナは身を振り搾るように泣いていた。

「あたしは、ローナさまのことが大好きです。ずっと大好きな、大恩人です。それなのにあたしは、その恩を何も返せなかった」

 言いながら、彼女は首の後ろに手をやり、留め具を外すような仕草をした。と、軽い音と共に銀色の細いチェーンがまろび出る。


 ディレナが慎重に胸元から抜き出したのは、過日のものと寸分変わりない輝きを持つ宝石だった。

「ここのオークションの人と、もう契約をしちゃったんです。だからあたしは、このラチェタライトを、坊ちゃまに勝手にお返しすることができません」


 それでもせめて、一度でもその手に。

 そう言って彼女はペンダントを差し出した。


 受け止めようと伸ばした手が、震えていた。力の入らない手のひらに、ほとんど重みもないような、小さな宝石の嵌まったペンダントトップが乗る。しゃら、と細いチェーンが音を立てて、手のひらの上で弧を描く。

「母さん、」

 自然と、声が漏れていた。


 小さな宝石は、何色ともつかない不思議な色で煌めいている。明かりもないのに独りでに淡く輝いて、こちらを静かに見据えている。



 ***


「ラチェタライトに代表される魔石の数々は、時の権力者たちが、何を擲ってでも得ようとしたものです。魔石を手にした者は、それを決して手放そうとはしません。魔石の歴史は血の歴史でもあります」


 暗がりに立ったまま、アトラは独り言のように呟いた。

「現代において、その争いは札束での殴り合いに変わりましたが、しかし、人々の渇望の中で奪い合われるという点は変わらないでしょう」


 ディレナは既に席を外しており、眼下の会場は今まさに最高潮へ達しようとしていた。

 ――次に競りにかけられるのが、あのラチェタライトである。


「ディレナさんのお話を聞いて、私自身、とても驚きました。何の見返りもなく、魔石を他人へ渡せる人がいるなんて」

 初めて聞いた、とアトラが独りごちる。

「それなのに、ラチェタライトは盗まれたと思ったまま、あなたがあの小さな石に取り憑かれるのは、あんまりだと思ったから。つい、柄にもないことをしてしまいました」


 ディレナとルカを引き合わせたことを言っているのだろう。ルカは緩く首を振ることで応えた。

「知ることができて、良かったと思う。……ありがとう」

「いえ」

 小さくかぶりを振って、アトラはこちらをちらと窺った。



「競売には、参加されますか?」

「するよ。結構な額までは出す覚悟をしてきた、けど……少し自信がなくなってきたな」

「そうですか」

 彼女は口元に小さな笑みを浮かべて頷く。


「ラチェタライトを落札することができたら、僕も、未来の奥さんに贈ろうかな」

「素敵なお相手が?」

「いや、……でも、僕の相手にどうかと勧められているご令嬢がいる。一度も会ったことはないんだけどね」


 自分で言うのも何だが、ルカは結構どころでなく女の子にもてる方である。にも関わらず縁談らしい縁談が持ち上がらないのには訳がある。


 兄がイェルシェットの当主を継いだら、ルカには領地の北端にある一城が与えられることになっている。これがまた随分な僻地で、冬になれば外出も難しいほどの大雪が降る山間地である。


 ルカに惹かれて近づいてくるご令嬢方は、誰もが厳しい田舎暮らしなどごめんだろう。

 間違っても婚姻などという話題が持ち上がっては敵わない。彼女らは若き日の戯れとして寄っては来るが、皆が皆、あまり深入りする前にさっと離れてゆくのである。

 そういう訳で、ルカには今のところ伴侶としてめぼしい相手はいないのだった。


 そんな中で、さる公爵令嬢との縁談が持ち上がるなど、ルカ自身にも不思議なことだった。

 とまあ、ルカの結婚事情は今は置いておくとして。



 目も眩むような照明の下で、もったいぶった司会の口から、ラチェタライト、とその名が飛び出す。

 会場に集った客は酒場の男たちのように大声を上げたりはしないし、手を叩いて囃し立てることもしない。

 しかし、しんとした沈黙の中に、ぎらぎらと焼け付くような欲望が渦巻いているのが見えるようだった。


 その石を手に入れるためには、ここにいる全ての人間の上を行かねばならない。息が詰まるような敵愾心であった。

 これまではお遊びだったのだと、肌がヒリつく感覚で思い知らされる。



 何となく出て行く機を失ったか、それともルカがどうするかを見届けたいのか、アトラは背後の暗がりで黙って立っている。

「……そういえば、どうやって言いくるめて、ラチェタライトを売りに出す気にさせたんだい」

 ディレナだって、あの宝石を手放すのは惜しいのではないのか。アトラが彼女からあの宝石を買い付けたのだ。よほどの手練手管を使ったに決まっている。


「それほど苦労はいたしませんでしたよ。ディレナさんは、ラチェタライトの正体を知ってもそれほど固執されませんでしたし、ちょうどまとまったお金が欲しいところだったのだと、快諾してくださりました」

 アトラは何気ない口調で応えた。



(――そもそも、アトラはどうやってラチェタライトの所在を突き止めたのだろう?)


 その問いを投げかけると、彼女は暗いところで喉を鳴らして笑ったようだった。何がおかしいのか、と顔を向けた先で、アトラの唇はよそよそしい弧を描いていた。


「申し訳ありませんが、それはお話しできません」


 彼女の静かな声に被さるように、舞台上の司会が大仰な台詞でラチェタライトの力を語っている。不思議な力を持つ、この世にふたつとない宝物。人知を越えた魔法の産物。



 煽り立てるような前口上を長々と喋り終え、そうして、会場は沈黙に包まれた。誰もが息を殺して舞台を一心に見つめている。


 台座に乗せられて舞台の中央まで運ばれて来た宝石は、明るいスポットライトに照らされて、母の首でしずかにきらめいていたものとはまるで別物に見えた。


 幼い日の思い出の数々が、まるで真昼の光のように瞼の裏で閃いては消えてゆく。喉が詰まるような感傷が胸に去来して、ルカは思わず眉根を寄せていた。



 あの石を手元に取り戻せば、この焦燥感も、片付け損なった寂しさも、執着も消えると思っていた。母に伝え損なった言葉のいくつもが脳裏をよぎる。母から聞き損ねた言葉がたくさんある。


『ここの壁の傷、うちの子が椅子をぶつけて作ったのよ』

 困ったように笑いながらディレナに語る母の姿が浮かぶようだった。アトラが壁の傷を知っていたということは、そういうことなのだろう。

 どうして母はわざわざそんなことをディレナに伝えたのだろう。


 日の当たる寝台で、華やいだ色の花々を眺めながら、本でも膝に置いて、ふとしたときに壁の傷を眺めてすこし微笑む。

 そんな母の姿を想像し、ルカは肘掛けに頬杖をついて苦笑した。


 渇望はいつの間にか立ち消えて、陽射しを仰ぐような憧ればかりが胸に残っていた。



 ***


 結果からいえば、ラチェタライトはルカの予算を大幅に越えた――大幅どころか桁が一つふたつばかり大きな――金額で落札された。ここまでの完敗となると、悔しさも湧かない。


 落札したのは、会場でルカの母について語っていた後列の貴婦人である。母の友人として、ルカにも良くしてくれた人だ。


 なんとなく思う。あの人が母の友人として振る舞ってくれたのは、きっとラチェタライトのことを知りたいという打算からだろう。

 ……それさえもが、ラチェタライトの力によるものだったとしたら?


 ディレナ曰く、母は『友人が欲しい』と語っていたのだそうだ。それが母の本心だったとして、じゃああの婦人も魔石に導かれ、母の友を名乗ってくれたとしたら、どうだ。


 その実、彼女はたぶん、本当の意味で純粋な友ではなかっただろう。下心を含みつつ、それでも一応、母の願いは叶えられた。



 少しずつ人が退席していく客席を見下ろしながら、ルカは沈思する。


 ――ラチェタライトは、完全に望むままの形で、人の願いを叶えるわけではないのかもしれない。




「……また、ここのオークションにラチェタライトが出品されることはあるかな」

 さあ、とアトラは曖昧な口調で首を傾げた。


「ラチェタライトは、持ち主がもう十分だと思うまで、主のもとを離れることはありません」

 次に持ち主が変わるのは、一年後か、十年後か、それは誰も知らない。



 ***


 まだ残暑が色濃い月頭のことである。


「すみません、……イェルシェット家のルカ様でしょうか?」

 闇オークションでの一夜から数ヶ月が過ぎ、すっかり日常に戻った頃のことだった。大学の構内を歩いていた最中、見知らぬ男子学生から声をかけられてルカは立ち止まる。


「そうだけど、君は?」

 相手は手足が長く長身で、どこか垢抜けない感じのする金髪の青年だった。会ったことはないはずだが、既視感がある。


 耳を赤くして、青年は「実は」と頬を掻いた。

「詳しいことは知らないのですが、姉のディレナがお世話になったと聞いて、ご挨拶したいと思って、声をかけさせて頂きました」


 その言葉に、ルカは目を丸くして相手をまじまじと見つめた。

「ディレナの弟か!」

「はい、この秋からここに入学しました」

 はにかむ青年を見上げて、ああ、とルカは思わず頷いていた。


 アトラの言う通り、『ディレナはまとまった金を必要としていた』のだ。ルカも通うこの大学は、確かに国内有数の最高学府ではあるが、多くの市民にとっては少々どころでなく学費が高すぎる。

 それに、幼い頃から家庭教師がついている訳でもない労働階級の子が進学するには、並大抵でない努力が必要だったろう。

 青ざめた頬から、彼がひどく緊張しているのが分かる。



「イェルシェット家の方には本当に良くして頂いたと、幼い頃から姉に聞かされて育ちました。改めてお礼を申し上げます」

 それで……とディレナの弟は人目を憚るように声を潜めた。


「数ヶ月前に、姉がいきなり学費を全額出してくれたのですが、どうやって調達したのか聞いても教えてくれなくて、……もしや、イェルシェット家にご迷惑などおかけしていないでしょうか?」


 どうやらこちらが本題らしい。ディレナは弟に、ラチェタライトや闇オークションのことを喋らなかったようだ。

 ルカは少し答えに困ってから、「いや、うちは関知していないよ」と首を振った。



 ディレナの弟は更に顔色を失い、わなわなと口元を押さえて呟く。

「それでは、姉は何か違法なことに手を染めて」

「あ、いや、それは、それは大丈夫……」

 ……な、はずだ。そもそも闇オークション自体が黒寄りのグレーだが、三十年以上も続いている貴族御用達の組織が今になって検挙されるとも思えない。


 それに、色々な意味でラチェタライトは人間の『法』に縛られるようなものではないので。


「詳しいことは言えないけど、君の姉さんが得た金は、彼女がきちんと段取りを踏んで得た、彼女の正統な権利だ」

 言うと、相手は納得いかないような顔をしつつも頷いた。



「まあ、何だ。君の学費はうちが出した訳ではないが、そこのカフェの代金くらいは僕が出してやろうじゃないか」

 引け目があるのか、どこか遠慮がちな相手の肩へ強引に腕を回して、近くの建物を親指で指し示す。


「あそこのモンブランが絶品なんだぜ、僕は去年食べ過ぎで上着のボタンがしまらなくなった」

 冗談めかした口調で片目を閉じてみせると、ようやく彼は堪えきれなかったように笑み零れた。


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