3 二十年ほど前のこと
「本来なら、お客様の素性を探ることはタブーなのですが、トラブルを避ける為に確認させて頂いてもよろしいでしょうか」
隣で背筋を伸ばして立ちながら、アトラは声を潜めて問うた。
「侯爵家の、ルカ・イェルシェット様でお間違いないですか」
どうやら彼女も、二十年前にここで行われた売買のことを聞いたらしい。ここまで言い当てられて誤魔化す必要も感じられず、ルカは小さく頷いた。
会場を一段高いところから見渡せる席は、どうやら少数の客のみが使える特別席らしい。会場を出て、裏道らしい通路から階段を上った先にあった。
幅広のシートが二、三個程度しか入らないような狭い空間である。高い位置の壁に四角く穴をくり抜いたような形をしており、前方には転落防止の手すりがついている。
下の客席にいたときは気づかなかったが、同じような特別席が他にも、等間隔に五つほど並んでいるらしい。いずれも照明はごくごく僅かなもので、中の様子は窺うことができない。
どうやら人が入っているのは、この席と、ちょうど向かいの一箱のみのようだ。暗がりで身じろぎする人の影を何とはなしに眺めながら、ルカは傍らのアトラに問うた。
「ここって、本来は何のための場所なの」
「お客様に貴賤があるとは申しませんが、通常のお客様に比べて、……特に、配慮が求められる方がいらっしゃることがあります。その際に、こちらへ」
「へえ。……王族とか?」
試しに聞いてみただけなのに、アトラは意味深な沈黙で顔を伏せてしまう。答えられないが、察してくれということらしい。
じゃあ向かいの席には、どこぞの王族が鎮座している可能性があるわけだ。そう思うとやや緊張が走る。
アトラはしばらく気まずげに黙っていた。その横顔をちらと見て、重い口を開く。
「……二十年前、僕の父がここで宝石を落札したというのは本当か」
「はい」
イェルシェット候は、名乗る必要はないのに、わざわざ自らの名をオークション側に伝えてラチェタライトを購入したのだという。
「ここに来るまでの道中で仰っていたことが気になって、当時からこちらにいる者に確認を取らせて頂きました。差し出がましい真似をとは思ったのですが、その、少しばかり、……行き違いがあるように思って」
アトラは随分と歯切れが悪かった。黙って続きを待っていると、彼女は俯いたまま小さな声で呟く。
「そもそも、あの宝石は、噂されているような効果を持つ石じゃないんです」
スカートの布地を強く握り締める、その手が震えているのが分かった。咄嗟に手を伸ばして、ルカは彼女に隣の空席に座るよう声をかけた。
アトラは拒むように首を振ったが、「君が立ったままだと目線が遠くて話しづらい」と半ば無理やり座らせる。
隣の席に浅く腰かけ、膝の上で手を揃えたアトラを眺めながら、ルカは掠れた声で呟いた。
「……そういえば、それが分からない。君もそうだし、下にいた人もそうだけれど……まるで、魔法が本当に存在しているかのような言い方をする」
「魔法は、存在しますよ」
当然のように応えたアトラを、思わずまじまじと凝視してしまう。冗談を言っているような口ぶりではない。
「いつだってすぐ傍に存在しているの。みんなが知らないだけで」
彼女の口調は真剣そのものだった。顔は黒い布で隠されて見えないが、きっとあの得体の知れない目でこちらを見据えているのだと確信できる。
まあ、こんな場所に来てしまったのは自己責任だ。今だけでも信じるふりをしておこうと、ルカは小さく頷いた。
「本来なら、このようなことをお客様に伝えることはございません。が、誰にも話さないと約束をしてくださるなら、ラチェタライトに関する事情を簡単に説明させて頂きます」
「わかった、約束するよ。誰にも言わない。……言える相手もいないしね」
肩を竦めて了承すると、アトラは少し黙ってから、「わかりました」と答えた。
「特殊な力をもつ宝石、または魔石と呼ばれる鉱物は、特殊な地層からのみ産出されるもので、ある程度以上の大きさをもつ魔石の数は非常に限られます。はっきりと効果があると認められ、高価な値がついているものは百もないでしょう」
その中でも、ラチェタライトは、他に二つと同じ力を持つもののない、最高峰の魔石なのだという。
「確かにラチェタライトは、人の願いを叶える魔石です。でも、その力は微々たるものだわ。皆が言うように、本来あったはずの未来を無理やり曲げて願いを押し通すことなんてできない」
小さくも、しかし力強い声でアトラは断言した。
「ラチェタライトにできるのは、ただ人の奥底の願いを後押しすることだけ。どんなに強く切望したって死んだものが生き返ることがないように、どのような魔道具も過去を変えられないように、力には限度があるものです。あの魔石は、死ぬはずのものを生かし続けられるようなものではありません」
背後に置かれていた間接照明の光が、彼女の顔を薄布越しに照らし出した。一瞬だけ垣間見えた彼女の眼差しは、まるで過日のラチェタライトのように不思議なきらめきを持っている。
「あなたのお母様は、自分の力で生きたのです。自分で、あなたを産み落とした。あなたのお母様が、それを、強く願ったから。だから魔石が応えた。ほんの少しのきっかけや、幸運、そうした少しの偶然が、あなたのお母様を後押しした」
つと息を飲むような、吸い込まれるような視線だった。大きな聖堂で見た聖女の彫刻が、なぜか脳裏をよぎる。アトラには、どこか恐れ多いような、人知を越えているかのような威風があった。
「疑わないで――ラチェタライトはいつだって生きるものを幸せにするために、そこに在るの」
目を逸らすことを許さないような、凜とした声音だった。
が、彼女に見とれていられたのは数秒だった。
「今回、ラチェタライトを出品するにあたって、その買い付けにあたったのは私です。私が、持ち主の方と交渉をしました」
ゆっくりと告げたアトラの言葉を聞き届けて、数秒遅れてルカは「は?」と呻いた。
「どういうことだ」
「落ち着いて聞いてください、お客様」
慌てたように手を出したアトラの肩を掴み、ルカは声を荒げた。
「あんた、あの石を盗んだ奴を知っていながら見逃したばかりか、あまつさえ金まで渡してやったのか」
「それが私どもの商売です。違う、そうじゃなくてっ……」
「どこのどいつなんだ、そいつのせいで母さんが」
「ちょっと、」
半ば仰け反って、アトラが眉をひそめる。
「聞きなさいよ!」
幾分か口調を強くして、彼女は苛立たしげに身を捩った。
「静かにしなさい、特別席でも完全な防音というわけじゃないのよ」
シッと鋭い歯擦音で黙らされ、ルカは不満たらたらの表情で口を閉じた。
「……その話をするために、わざわざこの席にお呼びしたのです」
息を整えながら、アトラは取って付けたように丁重に告げた。唇をひん曲げたまま、ルカは相手を睨めつける。
「お母様の部屋は、屋敷の一階の角部屋でしたか?」
いきなり何の話だ、と眉をひそめつつ頷く。
アトラは続けざまに、「黄色い薔薇がよく見えるように植えられていましたね」「灌木は、春になると白い花をたくさん咲かせましたか」「お部屋の窓は外開きで、カーテンは薄紅色」と並べる。
彼女の言葉はすべて正解だった。今はもう使う者のない、陽当たりの良い明るい角部屋。寝台に伏せることの多い母のためにと、気分が明るくなるような色の花を近くに植えて、手触りの良いカーテンをかけた、……今は少し埃を被ってしまった空き部屋である。
「暖炉脇の壁に、あなたが小さいときに椅子をぶつけて作った傷がありますね?」
「どうして、それを……」
先程から、アトラの語る特徴は、彼女が知るはずのない情報ばかりだった。困惑しながら頷くと、彼女は息だけで微笑んだ。
「お客様、どうか落ち着いて聞いてください」
そう前置きして、アトラは柔らかい声で告げる。
「今、ラチェタライトの売主の方が近くにいて、お客様にお話をしたいと仰っています。お嫌でしたらご案内することはございませんし、お客様がその方に危害を加えたり暴言を吐いたりするようでしたら、決して会わせることはできません」
柔らかくも、有無を言わせぬ口調であった。ここで嘘をついて頷いても、彼女はそれを見抜くだろうという確信もあった。
だいぶ迷ってから、ルカは「分かった」と低い声で呟く。
「僕も、その売主の顔を拝みたい」
舞台が昼間のような明るさで照らし出されたのは、ちょうどそのときのことだった。目がくらむような白い光が楕円形の舞台を照らし出し、下手側から歩み出してきた司会者が一礼する。
「ああ、始まりましたね」
アトラが舞台の方を一瞥して呟く。
「どうされますか。……後になさいますか?」
ラチェタライトは今日の目玉であり、最後まで取っておかれるだろうとアトラは語った。それまでに紹介されるのは、もちろん闇オークションで取り扱われるに相応しい珍妙な品ばかりだが、あの宝石ほどの力を持つものはないという。
「今すぐで良い」
頷くと、アトラは首肯して、一旦特別席を辞した。
ルカは席から身を乗り出し、舞台役者のように大袈裟な身振りで語っている司会を見下ろす。
最初の商品は、『夜中に泣いている気がする』という胡散臭い人形であった。司会の語りは非常に巧みで、ともすればただの与太話になりそうな体験談を、さも身も凍るような恐ろしい怪談にしてみせている。
こんなのでも悪趣味な好事家はいるらしい。それなりの値を告げる声が散発し、最終的には前列にいた中年男が落札した。男は非常に満足そうな様子で、このオークションに参加するのも初めてではなさそうだ。
と、背後の扉が音もなく開かれる。アトラの姿が一瞬見えたと思えば、一歩下がって扉を押さえ、腰を折る。中へ入るよう促され、おずおずとこちらへ歩み寄ってきたのは、見覚えのない少女だった。
痩せ気味ですらりとして、手足が長い。緊張気味に両手を胸の前で握り込み、青ざめた顔でこちらを正視していた。
「はじめまして」と少女は消え入りそうな声で言った。アトラが後ろ手に扉を閉じ、目につかない暗がりで姿勢を正して様子を窺っている。
「あたしは、ディレナといいます。ラチェタライトを売りに出した者です。アトラさんに無理を言って、お話しさせて欲しいと頼みました」
癖のない真っ直ぐな金髪を後ろ頭でひとつにくくって、飾り気のない服装で立っている姿は、いかにも素朴な田舎娘という風情だった。
「ローナさまが亡くなられたと、最近になって知りました。その、お悔やみ申し上げます」
不慣れな様子でぎこちなく言って、ディレナはそばかすのある顔でルカをそっと窺った。
「いきなり言っても信じられないとは思うのですが、あたしは、ローナさまの、……たぶん、友達でした」