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2 魔石ラチェタライト


 明るい廊下の床には毛足の長い臙脂色の絨毯。瀟洒なデザインの照明が両の壁に等間隔に並び、どこからともなく上品な香が漂っている。さりげなく置かれている調度品も一級品である。


 何の変哲もない田舎町の中にありながら、ここは全くの別世界なのだ。一呼吸だけでそうと分かる、その場の空気ができあがっている。

「おお」と思わず小さく声を漏らして、ルカはその場に立ち尽くした。


「いらっしゃいませ」

 扉を開けたすぐ脇に控えていた青年が、丁寧な仕草で礼をする。ここからは彼が案内をするらしい。アトラはいつしか姿を消しており、ルカは青年に言われるがままに外套を手渡す。それから、顔を隠す布が必要か聞かれたので一応受け取っておく。


 まるで夢の中にいるように現実味がなかった。ルカは青年の言うことに適当に頷きながら、辺りを見回す。

 この通路に他の客はいないが、少し先で直角に曲がっている通路のその向こうから、大勢の人の気配がする。

 やはり、闇オークションは実在したのだ。武者震いか畏れか分からないが、ふるりと体が震える。喉を鳴らして唾を飲み込んで、ルカはゆっくりとした足取りで声のする方へ歩み出た。



 一目見た印象は、観劇に用いられるような劇場だった。もっとも、オーケストラピットは存在しないし、客席や舞台の規模だってずっと小さい。

 すり鉢状に舞台に向けて緩く下ってゆく客席は扇形をしており、最も上部にあたる辺縁の壁にいくつかの扉が並んでいた。ルカが出てきたのはそのうちの一つである。


 会場の照明はごくごく絞られ、既に客席は半分ほどが埋まっているが、誰もが声を潜めて囁き合っている。ひそひそと控えめな話し声はまるで草葉が擦れる音のようで、さざ波のようでもあった。


 足音を吸収する絨毯を慎重に踏んで、ルカは人の少ない端のブロックに入るとそっと腰かけた。どきどきと心臓が高鳴っている。


 軍資金は、十分すぎるほどに用意してきたつもりだった。蓄えはある方だし、あまり親の威光を振りかざすのも嫌だが、これでも国内でも有数の名家の嫡男である。これまで手に入れたいと思って得られなかったものはほとんどない。


 開始までにはまだ多少の時間があるらしい。足を組んで待っているうちに、周囲の客席は徐々に満席へ近づいている。



 すぐ後ろの席に、二人組の女が座るのが分かった。どちらも頭から薄手の布を被り、顔が見えないようになっている。ちらと横目で窺っただけだが、随分と上等な服を着ているように見えた。


「久しぶりにこちらでお会いしたから、驚きましたわ」

 上品な口調で一人が言うと、ほほほ、と抑えめの笑い声が応じる。

「ここのところ、こちらに足を運ぶのは控えていたのだけれど……あの『ラチェタライト』が出品されると聞けば、来ないわけにはいきませんわね」

「ええ、私も……それに、今日はいつもより人数が多いように見えます」


 何食わぬ顔で聞き耳を立てながら、ルカは落ち着かない気持ちで足を組み替えた。話題になっているのは、ラチェタライトという聞き慣れない名前の品である。


「ラチェタライトは、二十年ほど前にもここに出たことがあったと聞きました」

「ああ、その頃はまだあなたはこちらにはいらしていなかったですものね。二十と……二、三年ほど前のことかしら?」


 それにしても、二人ともどこかで聞いたような声である。特に、年嵩のように聞こえる老婦人の声にはたいへん聞き覚えがあった。咄嗟には思い出せないが、社交界で会った相手だろうか?

(顔見知りが来ている可能性も十分あるな……)


 このような場所に来ていることを、あまり知り合いには知られたくない。ここで露呈したならお互い様のはずだが、極力避けたいのは当然だ。

 顔を隠す布が必要か訊かれた理由を悟って、ルカはなお一層俯く。



「前回は、どなたが落札されたのですか?」

「そうねぇ……」

 と、問われた方の女はなお一層声を潜め、「本当は分からないことになっているのだけれど」と囁いた。


「――イェルシェット候が、病にかかった奥方様のためにと、若い頃からの個人的な資産の全てを注ぎ込んで落札されたのだそうよ」




 その言葉に、ルカは体ごと振り返りそうになるのをすんでの所で堪えた。


 イェルシェット侯爵。国内で最も大きな港を擁すると同時に、はるか東部に位置する新大陸との交易を一手に担う大領地の主である。


 同時に、それはルカの実父を指し示す呼び名でもあった。



(……父上が、このオークションに来ていた?)

 聞いたこともない情報である。ルカの知る父は寡黙かつ堅実で、実直な施政者だった。ルカの放蕩ぶりを見た誰もが、『いったい誰に似たんだ』とため息をつくほどに似ていない。


 そんな父が、この悪趣味の極みのような闇オークションに足を運んでいたなど、到底信じられなかった。


 父はそのとき何を落札したのか。

 ラチェタライトという、知らない名前の代物である。

 その正体は分かる気がした。



「二十年前は皆、またどうせ偽物の魔石なのだろうと高をくくっておりましたわ。でも、わたくし、イェルシェットの奥方様を見ていて、ようやくあの宝石について信じる気になりましたの。きっと他の皆様も同じなのね」

 背後の老婦人が低い声で笑う。


「何せ、本来なら、あと三年も生きられないとお医者様に言われていた奥方様が、それから二十年近くも生きられて、二人のお子さんにも恵まれたのよ」


 どくん、と心臓が跳ねる。ルカには兄が一人いる。


「それを知ったとき、わたくし、思わず涙してしまいました」と、笑みを含んだ声が人目を憚るように囁いた。



「運命さえもを歪めて願いを叶える、人知を越えた宝石『ラチェタライト』は実在したのですわ」

 まあ、何と――もう一人の女が畏れを込めた口調で呟く。


「本来なら生まれなかったはずの子どもがこの世にいるということが、その存在の証左でしょう? ですからわたくし、イェルシェット家のご令息に会うと本当に嬉しくって、ついつい甘やかしてしまいますの」


 う、と思わず息ができなくなって、ルカは体を折った。うっとりと語る女の声が、急に誰のものか分かったからである。


 それは、幼い頃からたびたび面倒を見てくれた、母の友人である貴婦人の声だった。まだ思春期にも入らない頃に母を失ったルカに対し、母が恋しくなることや、父親に相談しづらいことがあれば何でも教えて欲しいと言ってくれた。


「ローナの願いを叶えたのですよ。ラチェタライトがわたくしの願いを聞かない理由がありますか」

 ローナとは、ルカの亡母の名である。


 隠しきれない欲望が、その言葉の裏に滲んでいた。本格的に吐き気がしてきて、ルカは前屈みになって口元を押さえる。


「つぎは、わたくしの番よ」

 決意を込めた低い呟きを聞きながら、ルカは倒れそうになる体を、必死に肘掛けに縋り付くようにして支えていた。



「けれど、それならどうしてラチェタライトがこのオークションに出されるのでしょう。イェルシェット家の方が出品されたわけではないのですよね?」

「ああ……あの石はね、何者かに盗まれたのよ。イェルシェットの次男坊がそう言っていたわ。きっと盗品が回り回って、再びここに戻ってきたのね」


 控えめな足音がすぐ横に近づいてくるのにも気づけなかった。指先が氷のように冷え切っていた。これ以上聞いてはならないと思うのに、今すぐこの場から逃げ出してしまいたいのに、体が動かない。


「可哀想なローナ。ラチェタライトを盗まれなければ、若くして亡くなることもなかったでしょうに」

 ずん、と心臓に剣を打ち込まれたような気がした。息ができない。


 母が亡くなったから石が盗まれたのではない。

 ――石を盗まれたから、母は死んだのだ。


 魔法など存在しない。不思議な力をもつ宝石だってあるはずがない。それなのに、この奇妙で非現実的な空間に酔わされたみたいだった。

 ラチェタライトという石が本当に存在して、それが、とてつもなく強大な力を持つのだと、ルカは心底信じ切っていた。


 つまりどういうことだ?

 本来ならもっと早く亡くなるはずだった母を生かすため、あの父は多額の金を払って魔法の石とやらを購入した。しかもその石は本物で、母はそのおかげで生きながらえ、自分たち兄弟を産み落とした。


 しかしあるとき何者かによって石を盗まれ、そのせいで、母は、……死んだ?


 目の前が真っ赤になるような、激しい怒りが閃いた。同時に、立っていた地面が突然消えたような不安が襲う。

(僕は、本来は生まれるはずではなかったのか?)

 自分は、運命を歪めて生まれたのだろうか。




「――お客様、大変申し訳ありませんが、先程の手続きにこちらの不手際がございまして」


 不意に、耳元で、低く潜めた声がした。暗くて重苦しい空気が漂う会場の中にいながら、一陣の風が吹いたように感じる。

「今一度確認したいことがありますので、こちらへ来て頂いてもよろしいでしょうか?」


 慇懃な口調で囁く声は、アトラのものだった。全身に脂汗をかきながら顔を向けると、彼女は顔を隠す布に加えて、体型が分からないような丈の長い上着を羽織っている。


 さながら黒子のようだった。一瞬目を逸らせば影に溶けて消えそうな姿であり、注意を向けられることを拒む佇まいである。

 事実、他の客はアトラに全く注意を払うことなく、舞台の方を眺めていたり、同行者と小声で話をしているばかりだ。ルカは何を言われたのかも分からずに頷き、よろめきながら腰を浮かせた。


 ふらつきかけたルカの背を支えたアトラの手は、思いのほか力強かった。

「大丈夫ですか」

 顔を近づけて、アトラが囁く。酷い顔色です、と気遣わしげな目を向けてくる彼女の視線は、この会場に来るまでの道中よりだいぶ近いように思った。

 身長が伸びているのだ、とすぐに気づく。暗くて足元ははっきりとは見えないが、相当に厚底の靴を履いている。

 声さえ発さなければ、これがアトラだとは誰も気づかないだろう。


「こちらへ」

 案内されるがままに、ルカは客席の後ろへと向かい、入ってきたのとは別の扉から会場を出た。


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