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ミチルのこと

作者: 寺西圭

「ねえ。圭司ってさ、刑事さんで、『ケイジ』さんなんだよね?」

 ミチルはそう言って、ケラケラお腹を抱えて笑い出した。

 そんなにおかしいかな、と僕は彼女の作ってくれた肉じゃがをほおばった。

 いつも、ミチルは笑っている。些細なことでも、ちょっと下品なくらいにケラケラと声をあげて笑うのだ。

 そんなミチルはもう三十八歳。そして、人妻。

 そして、この人妻の住む大豪邸にせっせと僕は通っていた。世間的に言えば「不倫」なんだろうけど、そんなドロドロとした言葉をまったく感じたことがないくらい、僕らは平和だった。


 ミチルは、二十三歳のとき、十歳年上の男と結婚した。

 その男は、父親の会社を継いでいて、その時にはすでに社長だったらしい。二人はいわゆる合コンで知り合い、その男が一方的にミチルに言い寄って高価なプレゼントを贈りまくったそうだ。ミチルはその時OLをしていたが、仕事がつまらなくて刺激を求めていた。その男のことはほとんど気にかけなかったけれど、彼の「会社を大阪に進出させたい。一緒についてきてくれ」とプロポーズされ、簡単に結婚を決意したそうだ。

「だって、とりあえず仕事はやめられるし、大阪なんて面白そうだったし」

 男の僕にはわからないけれど、女の人って「結婚」とか人生な重要な決断をあっさり下してしまったりする。その時のミチルなんて、「仕事をやめたい」ってことと「刺激がほしい」ことを叶えるためだけに結婚したようなものだ。

 好きでもない人と一緒に生活しようだなんてよく決断できたね、そうコメントする僕に、彼女は言い放った。

「ああ、でも彼とのセックスはかなり良かったの」

 僕は、一応ミチルの彼氏だから、そんな言葉を聞いたら傷つくじゃないか。

 落ち込む僕にミチルは、「でも、圭司のほうがずっと上手いよ」と、笑いながら僕の頭をなでた。


 ミチルが言うとおり、僕の名前は圭司で、「刑事」をしている。

 警察官になって、ようやく四年目で念願の刑事課に配属された。一番下っ端の刑事だから、とにかく雑用でも何でも任されていて、休みなんてほとんどなかった。ドラマで見る刑事と違って、本物の刑事は机の前にじっと座っていることが多い。書類が机の上に山のように積まれていて、上司から「おい、武田。この前の実況見分調書、どうなっとんのや。いつまでかかってるんや」と容赦なく関西弁で怒鳴られて、僕はほとんど涙目でひたすらパソコンに向かいながら書類を作っている。肩コリと腰痛は悪化するばかりで、とても自分の身体が二十六歳だなんて思えなかった。

 そんな辛い日々でも、仕事にはそれなりのやりがいがあった。毎日、事件現場に足を運んで先輩の仕事からいろんなことを学ぶことができたし、何よりも、直属の上司に恵まれていた。「健さん」である。五十歳の彼から学ぶものは大きかった。

 健さんは、生まれも育ちも大阪だ。しゃがれた大きな声でどぎつい関西弁を話す。外見はまるでヤクザではないかというほどおっかない顔つきとでっぷりした体格で、最初はとても恐ろしかった。しかし、その仕事ぶりは正確かつスピーディーで、僕は周りの先輩から「お前はついてるぞ。俺も刑事になったばかりのころに、健さんから仕事を学びたかったよ」とうらやましがられていた。

 そんな仕事のできる健さんだけど、以前管内で五歳の女の子が惨殺される事件があり、運び込まれてきた血まみれの遺体を見て、突然号泣した。

「何でや、何でや!お前はまだ死んだらあかんやないか!」

 そう叫んで、健さんは声をあげて泣いて、そのまま「ちょっと涙、ふいてくるわな」と部屋を出て行った。そんな健さんを見て、本部の捜査一課から応援に来た三十代の刑事たちは、「何や?あれ?刑事失格やな。あんな感じだから、いつまで経っても所轄の巡査部長止まりなんやで」と冷たく笑った。数分してトイレで洗顔してきた健さんは、すっかり刑事の顔に戻っていて、その遺体の前でテキパキと仕事をこなした。

 同僚にこの話をしたところ、健さんは二十年前に五歳くらいのお子さんを事故で亡くしたらしいよ、と教えてくれた。ますます、僕は健さんのことを好きになった。


 そんな忙しい日々の中、僕は「不倫」していた。

 ミチルとの出会いは約二年前で、僕がまだ交番で働いていたときのことだった。

 ミチルは突然交番にやって来た。

「ちょっと!おまわりさん、聞いてくださいよ!」

 交番にはいろんな変わった人がやってきて、僕はどんな人にも慣れているつもりだったけど、ミチルには驚かされた。こっちが話すタイミングも与えず、一方的に彼女は「ある男にストーカー行為を受けている」とまくし立て始めた。そのうち、「あんな男、ぶっ殺してやりたい!」と叫びだした。

「すみません、奥さん。ちょっと落ち着いて。まず、お住まいから聞かせてください」

 僕がなだめると、ミチルは「○○市です」と隣の隣の市の名前を口にした。

 何で、わざわざここまでやってきたのだろう?

 どこの交番でもストーカー相談は受け付けられるけれど、どうせこの相談をその市を管轄する警察署に送付しなければならない。警察にとっても手間だし、継続的に相談を受けるなら彼女にとっても手間である。

「できれば、○○警察署のほうへ行っていただくほうが、あなたにも手間を取らせませんし、そちらに行っていただけますか?○○警察署の管轄する○○市の交番でも構いませんし」

 と、やんわりアドバイスをする僕にミチルは、

「え〜〜〜?!」

 と間抜けな声をあげた。

「おまわりさん、私がどれだけ苦労してここまで来たのかわかってる?最近、警察が女性からのストーカー相談を無視した後、その女性が殺されたとかニュースでやってたじゃない?だから、こんな相談、おまわりさんは受け付けてくれないと思って。私、一つ一つの交番の中を外からチェックして、一番優しそうな顔してるおまわりさんを探したのよ。三十四番目でやっと見つけたのに」


 思わずプッと吹き出す僕に、ミチルは、

「何か、面白い?」

と真っ赤な顔をした。

 僕は「いや」と言って、「じゃあ、せっかく選んでくれたわけだし」とミチルのストーカー相談を受けた。

 その相談は、ミチルが不倫していた相手との関係を終わらせようとしたところ、その相手がラブレターを送ってくる、というあまり深刻なものではなかった。

「でもね、手紙と一緒に四つ葉のクローバーとか送ってくるのよ。まだ二十代なのに。気持ち悪い。ヘドが出そう」

 ミチルはそう言って訴えたが、男につけられている様子もなかったので、一応家の周りを重点警戒するように○○市の警察署に連絡することにします、と彼女を帰した。

 田舎出身の僕にとって「不倫」はドラマの中の出来事だった。

 こうやって「不倫」は現実に起こるものなのだ。

 そして、三十五歳くらいだけれどまだまだスタイルもよくかなり美人の人妻が二十代の男と不倫している、という事実は当時の僕には刺激的すぎた。僕は、家に戻ってからあらゆる妄想で悶々としてしまった。


 そんな出会いがあってから二ヵ月後、僕らは偶然再会することになる。

 近所のスーパーマーケットで買い物をしていると、

「あっ、おまわりさん」

 と声がして、慌てて振り向くとミチルが立っていたのだ。

 彼女は僕の買い物カゴを覗き込んで、「何?一人暮らしなの?」と聞いてきた。出来あいのものばかり買い込む僕のカゴの中を見て、そう思ったのだろう。「はい」と小さな声でつぶやく僕に、

「おまわりさんって体力勝負なんだから、こんなものばかり食べてちゃだめじゃない」

 とミチルは笑った。彼女のカゴを見ると、野菜と肉がたくさん詰め込まれていた。きっと旦那と子供がいて、楽しい夕食をするに違いない。そんな僕の予想を裏切って、ミチルは明るい調子でこう言った。

「あ、今、私ね、一人暮らしなの。ダンナは単身赴任でさ。今日は、一人鍋しようと思っていて……。何なら来る?鍋はやっぱり一人じゃだめでしょ?おばちゃんが栄養あるもの作ってあげるわ。体力ちゃんと回復しなさいよ」


 「おばちゃん」が「若い男の子」を心配して、料理を作るだけだ。

 ただ、料理を作るだけだ。

 ただ、それだけだ。

 僕は、そう自分に言い聞かせて、あらゆるエッチな妄想を排除して、ミチルの家に向かったつもりだった。

 ところが結局、僕はその日に「おばちゃん」と鍋をした後、「おばちゃん」とセックスをした。

 いや、ミチルは、全然「おばちゃん」なんかじゃなかった。

 三十八歳の、男を知り尽くした、大人の女性だった。

 二十六歳の僕にとって、それは底なし沼にはまったようなものだ。その当時、僕には十代と二十代の二人の彼女がいた。自分で言うのも何だが、端正な顔立ちに生まれた僕にとって都会で女の子を捕まえることなんて容易かった。常に複数の女性とつきあっていたし、合コンにもよく行ってそこで出会った女の子と一夜限りの関係を持ったりもしていた。

 女なんてそれなりに知っているつもりだった。

 しかし、ミチルとのセックスはまるで違った。

 十代や二十代の女の子の肌は、ぱんと張っていて、その肉体はとても健康的だ。

 その子たちに比べて三十八歳のミチルの肌は、何だかトロッとして僕の肉体に吸い付くようにして僕を受け入れた。彼女の肉体はとても不健康で淫らで……そして、僕は溺れるしかなかった。


 ミチルとの関係はそうやって始まり、二年も続いている。

 最近は、その関係もだんだん変化してきていた。最初の頃は、ミチルと僕は会うたびにセックスしていて、それだけの関係だった。ところが、最近、その回数は減っていた。夜勤続きの僕の身体は疲れていて、性欲も二十六歳とは思えないほど減退してきているのを感じていた。もちろん、時々するセックスはとても良かったし僕らは満足していたのだけれど。

 そして、セックスの回数と反比例するように、僕らの関係はとても心地いいものになっていた。仕事に疲れてミチルの家に戻り、彼女の作ったおいしい夕食を食べながら彼女の笑顔を見ていると、何だか夫婦みたいだ、と思った。

 

「仮面夫婦よね」

 ミチルはよくこう言った。ミチルの旦那は、東京の会社で仕事をしていて、大阪に戻ることはほとんどなかった。

「あっちにも愛人はいるし、こっちにもいる。私はこうやっていい家を与えられていて、誰も文句を言わない。それで成立してるの」

 僕にはよくわからない世界だ。というより、わかろうともしなかった。

 僕はまだ若い。今はミチルの家で、毎日彼女の作るごはんを食べる生活を楽しんでいる。しかし、いずれ彼女との関係も終わるときが来るはずだ。そして、僕は結婚し子供ができて新しい家庭を作り・・・、その時、ミチルとの生活は楽しかったな、と思い出にふけるのだろう。それも悪くない。

 そんなふうに考えていた僕にとって、ミチルの旦那に嫉妬心を燃やす必要も、彼らの結婚生活も壊す必要もなかった。とりあえず、「今」を楽しみたい。それだけだ。

 一方、ミチルもとても冷めていた。

「あのさ、圭司が別れたかったらいつでも言ってよね。私はすんなり引くわよ。あんたなら若い女にいくらでもモテるだろうし。それに、子供はかわいいから、早く作ったほうがいいわよ」

 そんな自虐的な言葉さえ口にした。

 ミチルが旦那と冷めていったきっかけは、子供のことだった。子供がどうしても欲しかった旦那は、ミチルが三十歳を過ぎても妊娠しないことから、彼女を産婦人科に通わせて、不妊治療を行わせた。

 不妊治療は何年か続いたが、結局、子供はできなかった。

 身体がもともと弱いミチルにとって、痛みを伴う不妊治療は耐え難く、何度もやめたいと旦那に言ったが、旦那は許さなかった。そのうち、ミチルは不妊治療を旦那に無断で中止した。やがてその事が旦那にばれ、それ以来、二人の関係は冷え切り、旦那は逃げるように東京へ行き、別居生活が始まったのだった。

 冷酷な旦那だなあ、といつも僕は思っていた。

 そんな奴と別れちゃえばいいのに、と言いそうになって、いつも僕は言葉を飲み込んだ。別れてしまえばミチルは人妻ではなくなる。そうなれば、ひょっとして僕は男として責任を取らなければいけないかもしれない、そう思うと何だかとても荷が重くて、ミチルに離婚を勧めたり懇願したりすることはなかった。

 冷めた考えのミチルとの生活は、僕にはとても都合のよいものだった。決してミチルは離婚しないけど、豪邸に住み続けている。僕は、そこに毎日通って食事をして、時々セックスする。しかも、ミチルは僕にいつでも彼女を作っていいよ、とすら言って僕を束縛することもない。それは人妻であり、四十歳を前にした女の引け目だ。

 そんな「都合の良さ」と「女の引け目」の上にでんと胡坐をかいていた僕は、ある意味で、旦那より冷酷なのかもしれなかった。しかし、自分の冷酷さに気がつくには、あまりに僕は若すぎた。


 ところが、そんな僕の生活は、突然終わりを告げた。

 ミチルとの生活が二年近く続いて、三年目の冬を迎えたころのことである。

 僕は、刑事課の後輩の女の子に突然、デートに誘われた。その子は僕より一つ下の後輩で上原さんといって、後輩だけれども刑事課の異動が同時期だった。しかも、僕よりも頭がキレたので、皆からよく比べられて僕にはちょっと困る存在だった。そんな仕事のできる彼女にいつも、「武田先輩、武田先輩」と後からついて来られて、何だかとても気恥ずかしかったが、年下だし可愛らしくもあった。周りの同僚からは、付き合ったら?とよくからかわれていた。 

 上原さんは僕のことを好きだった。それはあからさまな彼女の態度でわかっていた。

 そんな彼女が、ある日僕の携帯にメールをしてきた。

「明日、ランチしませんか?」と。

 私的なことで僕らがメールをすることは今までほとんどなかったので、これはデートの誘いだなと思ったが、たまには同年代の女の子と食事をするのもいいかな、と僕はあっさりと応じてしまった。

 デートと言っても、梅田にあるビルの最上階のレストランでイタリア料理を食べるだけだった。その日、僕は夜勤明けでボサッとした髪の毛にいつものヨレヨレのスーツで待ち合わせ場所に向かった。ところが、そこに現れた上原さんを見て、息を飲んだ。いつも黒い地味なスーツ姿しか見たことがなかったのに、今日はふわふわのファーのついた白いコートに茶色の細いブーツを履いている。彼女なりの「意気込み」なのだろう。

 そんな張り切らなくても・・・。

 彼女の「意気込み」に、僕は少し気が重くなってしまった。

 しかも、ビルの入り口に来た時、彼女はそっと僕の腕に自分の腕を絡めてきた。彼女の積極さに僕は少しうろたえた。そして、レストランの予約の時間まで10分ほど余裕があったので、彼女はあるブランドショップでウインドウショッピングをしたい、と言いだした。

 そして、僕らはその腕を絡めたまま、そのショップに向かった。これじゃ、まるでカップルだ。そう思ったとき、彼女が立ち止まって、「武田先輩、武田先輩」と小さい声で僕に話しかけた。

「なんか、さっきからあそこでこっちをずっと見ているおばさんがいるんですけど。先輩の知り合い?」


 十メートルほど離れたその場所には、こっちを見て突っ立っている女性がいた。

 ミチルだった。

 細身のロングの黒いトレンチコートに黒と白のチェックのマフラーをしたミチルは、ミセスの雑誌から飛び出したモデルみたいで、とても目立っていた。そして、顔色は青ざめ、目にはうっすらと涙のようなものが浮かんでいた。ただただ、寂しげだった。

「知らないな。何か気持ち悪いね」

 僕は、残酷な言葉を口にして、わざとらしく時計を見ながら、「あんまり時間ないよ。もうレストランに行ったほうがいいよ」と逃げるようにその場を去った。

 心拍数は急激にあがり、変な汗が出始めた。

 どうしよう。どう言い訳すればいいんだ。

 ランチをしながら僕は上原さんの話など上の空だった。食べ終わった後、僕は「気分が悪い。今日は帰るわ」と言って、不機嫌な顔をして上原さんと別れた。それ以来、上原さんは二度と僕をデートに誘わなかったし、職場でも僕に対して急激に冷たくなっていった。


 その日から、僕はミチルに何度も何度もメールを打った。

 いや、それは不正確だ。メールを「作成」した。「作成」はしたが、「送信」はしなかった。

「あれは誤解だ」「単なる同僚だから」「機嫌を直してほしい」

 いろんな文章を書いては消した。

 こんな文章を書いても同じだ。ミチルの「すんなり引くわよ」の言葉が頭に響く。このままじゃ、彼女は「すんなり引いて」しまう。

 そのうち、僕はミチルに腹が立ってきた。

 いつでも別れていいって言っていたじゃないか、何であんな表情をしたのだ。

 そして、そうやって腹を立ててみるたびにミチルの初めて見るあの寂しげな表情が思い出され、僕はひたすら苦しみ、彼女を失う恐怖に襲われた。

 そうやって、日々は過ぎていった。僕はミチルに連絡をとらず、彼女もまた僕に連絡をとらなかった。


 ミチルとの生活を突然奪われた僕は、抜け殻状態になった。二年のうちに気がつけば、ミチルとの時間と空間はかけがえのないものに変わり、それなしではやっていけなくなっていたのだ。当然、刑事の仕事はそれなりのやりがいはあった。しかし、仕事に疲れた後、ミチルの家で彼女の作る食事を食べて彼女の笑顔を見なければ、僕はまったく回復できず、疲れを引きずったまま、仕事に出かけた。

 当然、そんな僕は、仕事で失敗を繰り返した。書類をうまく書けず、挙句の果てに、重要な書類を紛失した。完全に刑事課の「お荷物」状態だった。

 健さんは、僕に「武田!何やっとるんや!」と怒鳴りながらも陰では心配してくれていた。

 ある日、僕を見かねたのか、健さんは僕を食事に誘った。彼は「どうしたんや、最近」と優しい表情を浮かべて、こう言った。

「俺にはわかってるで」

 そして、こう続けた。

「武田、お前、上原にふられたんやろ?何や、いきなり手でも出したんか?あいつの様子もずっとおかしいし。俺が、何かフォロー入れたってもええで」

 そんな健さんの優しい気持ちに応えたくても応えられない自分に焦った。


 ミチルと会わなくなって二ヶ月ほど経った、ある日のことだった。

 僕は、健さんと一緒に当直勤務に当たっていて、夜の十一時ごろから仮眠の休憩をとっていた。

 ドンドン!と仮眠室のドアが激しく叩く音がする。

「おい、武田、起きろ!××駅で、最終電車に飛びこみ自殺があったらしいわ」

 健さんの声が響いた。

 僕は目をこすりながらジャンパーを羽織って、健さんとともに現場に向かった。自殺は毎晩のように起こっていた。不況のせいか、最近六十代の男性の自殺が多く、僕は少し気が滅入っていた。

 現場に到着すると、すでに交番の警察官が数名到着していて、立入り禁止の黄色いテープがプラットフォームの一部分を取り囲んでいた。

「運転手の調書も終わりました。目撃者もいるみたいで……。ただ、飛びこんだ女、カバンも何も持っていないみたいです」

 交番の警察官がそう言うと、健さんは、

「女……。身元不明……」とつぶやいて、「ホトケさんはどこにいはるんや?線路脇か?」と確かめて、僕に一緒に線路に降りるよう促した。

 線路脇に置かれた遺体にはすでにブルーシートがかけられていて、僕らは交番の警察官とともに、そのシートに包まれた遺体をさらに大きな遺体用の黒いビニールの袋に納めた後、それを担架に乗せてワゴン車まで運び込んだ。

 何度経験しても自殺現場は嫌なものだ。特に、ワゴン車で遺体とともに警察署まで運ぶ時間は、気が重くて仕方がない。

 ワゴン車の中で健さんは、「ちょっと見せてもらうで」と言いながら、ビニール袋のチャックを下げ、手でブルーシートをがさがさとかき分けて、中を覗き込んだ。

「三十代くらいやろか……。武田、どう思う?」

 そう言って、僕に遺体を見るよう促した。気が進まないまま、僕はちらっと中を覗いた。


 中を覗いたとたん、僕は固まった。その遺体の女性は、黒いコートに黒と白のチェックのマフラーをまとっていたのだ。

 ミチル?!ミチルなのだろうか?

 僕の全身は凍りついた。遺体の顔をちらっと見たが、顔面部分はかなり損傷していた。ただ、面長で鼻筋が通っていて、端正な顔立ちであることはわかった。

 ミチルに似ている。

心臓が大きな鼓動を打ち、全身から血の気が引いていった。


 警察署に到着して、遺体を安置室に運んだ後、僕は走ってトイレに駆け込み、ひたすら自分の携帯電話でミチルの携帯電話を鳴らした。

「出てくれ、出てくれ」

 何度も何度も電話をした。しかし、何度かけても着信音が鳴っているのに、応答はない。

 そのうち、しゃがれた健さんの声が聞こえた。

「おーい。おーい。武田はどこや!」

 僕は我に返って、トイレのドアから顔を覗かせた。

「何や、トイレにおったんか。腹でも痛いんか?顔色悪いぞ」

 そう苦笑いをして、健さんは言った。

「身元不明の遺体やから、指紋を採って、歯型を写真に撮っておいたほうがええわ。三十代の女なら、捜索願が出てるはずやからすぐわかるとは思うけどな。一応、身元確認のためにそういう事もやっといたほうがええやろ。トイレで出すもの出したら、後で安置室に来てくれるか?」


 僕は、まるで絞首台の階段を上がっていく死刑囚のような気分になった。

 何か言い訳して、安置室に行くのをやめようとしたが、言い訳も思いつかない。仕方なく、僕は安置室へ向かった。

 安置室のドアを開ける手は震え、入った後もしばらく僕は遺体を直視できなかった。顔をそむけて、安置室の隅を見ると、そこには黒いトレンチコートと黒と白のチェックのマフラーが、無造作にぐちゃぐちゃと置かれていた。マフラーの白色の部分はところどころ、血で真っ赤に染まっていた。

 そこから、僕には記憶がない。

 激しく嘔吐した後、その場でぶっ倒れたらしい。


「おい。おい」

 長い時間が経ったみたいだ。

 気がつくと、うっすらと健さんの大きな顔が目の前にぼーっと現れた。

「よう寝たみたいやなあ。こっちは徹夜やで。この借りは、次の当直で返してもらわなあかんなあ」

 そう笑って健さんは、

「無理したらあかんで。今日はもう帰ってええわ。顔色悪い奴がちょろちょろしてたら、こっちも邪魔やしな」

 と言った。

 僕は、周りを見まわして、そこが警察署の医務室であることを知った。

「すみません」

 泣き出しそうな僕に、健さんは、

「ホトケさんが美人でビビッたんか?何か新米の研修生みたいに、バタッと倒れたぞ。ガハハ」

 と笑って、医務室を出て行った。

 「あれ」は夢じゃないのか……。

 重たい身体を起こすと、時計はすでに朝の七時半で、僕は健さんの言葉に甘えてその日は休むことにした。刑事課に顔を出して、「すいません」と言いに行くと、健さんが手でシッシッと振り払うようなしぐさを見せた。他の刑事たちは、皆冷たい視線で僕を見た。すると、上原さんが「ちょっと」と僕のところに来た。

 そのまま、上原さんは僕を廊下に連れ出して、こう聞いた。

「昨日、何かあったんですか?」

「うん。何か気分悪くなっちゃって。安置室で吐いて倒れちゃったんだ」

 僕が恥ずかしそうにそう言うと、やっぱりね、という顔をして彼女は言った。

「私、昨夜はわいせつ事件があって、そっちの現場にいたんですよ。警察署に戻ってきたのが朝四時ごろで。その時、健さんが安置室のあたりにいるのを見たんだけど……昨日の当直日誌を見たら、自殺の発生は一時前だったし、何で朝までかかってるんだろうって思っちゃって。・・・先輩、風邪ですか?気をつけてくださいね」

 どうやら、健さんは僕を介抱して医務室に運び、さらに僕の嘔吐したものを片付けたりした後、一人で指紋を採ったり写真撮影をしたりしていたようだ。


 どこまで迷惑をかけたら済むのだろう。

 そんな惨めな気持ちになって、僕は警察署を出た。

 そして、電車に乗って、ひたすらミチルのことを考え始めた。

 あれは、本当に彼女なのだろうか。

 彼女が自殺なんてするだろうか。

 思い返せば思い返すほど、ミチルのあの冷めた一連の発言は単なる強がりだったように思えた。旦那から放置されて豪邸に閉じ込められても、年下の僕との時間が彼女に唯一の希望と幸福を与えていたに違いない。それを突然、僕は奪ったのだ。そう考えると、彼女が絶望して電車に身を投げることだってありうるかもしれない。


「プルル、プルル」

 バッグの中で、携帯電話が鳴っていた。

 着信の番号を見ると、それは何とミチルの携帯電話からだった。

 天国から?

 それとも、ミチルの知り合いが彼女の携帯を使って彼女の死を伝えてきたのか?

 混乱して、僕が携帯に出ると、

「もしもーし?」

 と、ミチルの、いつもののんびりとした明るい声が聞こえた。

「ミチル?!ミチル?!本当にミチル?!」

 僕は、狭い車内で恥ずかしくなるくらいの大声をあげた。

「大丈夫!?大丈夫なの?」と僕が叫ぶと、

「はあ?そっちこそ何なのよ。昨日、何度も何度も電話してきて。不在着信履歴を見たら十五回も電話してきてるじゃない?」

 と、ミチルの声が響いた。


 ミチルは、久しぶりねと言い、引っ越したから今から来ない?と、ある駅名と、新居のマンションの名前と部屋番号を僕に告げた。

 全身の力が突然抜け、僕は思わず、その場にしゃがみこみそうになった。


 ミチルの新居は、駅の近くにあって、空色の外壁のこじんまりとしたマンションだった。

 電話で聞いた部屋番号のチャイムを鳴らすと、いつもの「はーい」という明るい声がしてミチルが顔を覗かせた。久しぶりのミチルの笑顔を見て、僕はぼろぼろと涙が止まらなくなり、彼女を抱きしめてそのまま玄関でしばらく泣いた。

 ミチルはじっと身体を固くしていた。そして、そのうちゆっくりと僕の身体を離して、気味の悪そうな顔をして、「とにかくソファに座ってよ」と、僕を部屋に案内した。そこは2LDKで、広さは豪邸の四分の一くらいだったけれど、豪邸に置いてあったソファがそこにも置かれていた。

 そして、ミチルはお茶を入れながら、「で、何で泣いてるの?」と聞いた。

 僕は、昨夜の出来事を話した。

 彼女は、ケラケラと大きな声をあげてお腹を抱えて笑い始め、終いには笑いすぎてうっすらと涙まで浮かべていた。


「勝手に人を殺さないでよ〜。何で私が死ななきゃいけないわけ?」

「圭司、ちゃんと、最近の街の風景、見てますか?」

 

 ミチルいわく、人気のファッション雑誌が紹介したこともあって、今年の冬は、黒いトレンチコートと黒と白のチェックのマフラーが大流行しているそうだ。

「そんなファッションしている女性、そこらじゅうにいるわよ。『今年はコレだ』という記事を読んで、慌ててそのファッションをしてしまう個性のない女たち。ここにほら、一人、いますけど」

 そう、ミチルは自分を指差してにこりと笑った。

 それから、ミチルはちょっと眉間にシワを寄せた深刻そうな顔をして、言った。

「でも、そんな格好をした同じくらい歳の女性が死んじゃったのよね。何だか気分が重くなるわね。何があったか知らないけど」


 お茶を飲みながら、僕は聞いてみた。

「それよりさ、なんでずっと連絡をくれなかったの」

「当たり前じゃない。圭司がかわいい子とデートしてるんだもん……謝ってくれるかと思ったら、そっちこそ全然連絡くれないんだから」

「ごめんね、あの子とは何にもないんだ。あの子はただの後輩だよ」

「それくらい見たらわかるわよ。あの子の勝手な片思いでしょ?」

 とミチルは笑って、言葉を続けた。

「それよりも、いろいろ忙しいこともあって連絡できなかったんだ。ダンナから連絡があってね、東京の愛人と結婚したいから私と離婚したいんだって。私に慰謝料一億円とあの豪邸をくれるらしいけど。でも、何だかあんな場所にいるのも気持ち悪くなっちゃって、こっちに引っ越したわけ。ダンナも豪邸に荷物取りに来ていたし、私も荷物を運びだしたりして、あと、離婚届を出したりね……バタバタしてたのよ」

 そして、ミチルはいたずらそうに笑った。

「これで、『不倫』じゃなくなっちゃったね。圭司、人妻が好きなのに、独身の私で大丈夫?」


 僕の携帯電話が鳴った。健さんからだ。

「おう、武田。ちゃんと寝てるか?今な、ニュース見てたんや。今年の冬のインフルエンザの症状は『嘔吐』らしいで。お前、絶対それにかかったんやわ。二、三日、休んだほうがええわ。職場にはインフルって言っとくからな」

 健さんはそうまくし立てて、言葉を続けた。

「それからな、ワシがわざわざ指紋まで採ったホトケさん。今、身元が判明したで。近くに住む三十八歳の独身の女性らしいわ。妻子持ちの男と何年も不倫したあげく、その男にふられたんやて。お前も女泣かせたらいかんで。女ってやっぱり弱い生き物やからな。じゃあな」

 健さんは一方的に話し、電話は切れた。


 ミチルが、

「ねえ、何かお腹空いてきた。朝ご飯まだなのよ。近くのレストランで、ブランチでもしない?」

 そう言って、立ち上がった。

「どの服にしようかな……」

 ミチルが、クローゼットを開けると、そこには黒いトレンチコートと黒と白のチェックのマフラーが掛けてあった。

 僕は、ミチルをそっと背中から抱きしめた。

 そして、ささやいた。

「ね、僕と結婚する?」

 ミチルが笑った。

「だめだよ。まだ離婚したばっかりだもん。当分、人妻なんてごめんだわ。独身生活、楽しませてよ」

「そうだよね、まだちょっと早いか……」

 僕も、笑った。


 そして、心の中でそっと昨夜の女性に手を合わせた。


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