三十八話
そこはラクな居場所だった。
与えられた仕事をしていれば存在する事を許される。そんな気がしていた。
自分の存在が歓喜される事はないけれど、それは望んで手に入るようなものじゃないから仕方がない。
望んだ所で、どうしろと言うのだ。
手を伸ばした結果、これ以上堕ちてしまうなんてことになりたくない。
少なくともここは安全なのだ。だから、ここにいればいい。
高望みなんてするべくもないのだ。
でも、それにももう疲れてしまった。
考えるのも、何をするのも億劫だ。
目の前に羽毛でできた大きな寝床がある。
ああ、ここで寝るのは気持ちが良さそうだ。
眠くて、眠くて仕方がない。
なにもない空室。
窓も換気口すらない。
灯りは四隅に置かれたロウソクのみだ。炎の動きに合わせて灯りがチロチロと左右に細かく揺れる。
私は借り受けたこの部屋に篭りきりで作業をしていた。
膝をついて、片手にはチョークを持ち、ただひたすらと絨毯の敷かれていないむき出しの床に魔方陣をかきあげて行く。部屋いっぱいに広がる魔方陣は、この城のテラスで見かけたような、細かく、繊細でいて、けれど実用を目的としたものだ。
真実ではなく、事実の流れを変える魔法。小手先の技術だ。
起きたことは変えようがないのに。
それでも人間はそんなものに頼るのだ。
この魔法は人間関係の脆さにどこか似ている。
私はエーリッヒの願いを受け取った。
エーリッヒは娘の一面しか見ていない。
人が他者のすべてを知ることはないけれど。
きっとエーリッヒは願い過ぎてしまったのだろう。
自分が求める虚像を、自分よりか弱い少女の中に。
人間関係なんてそんなものだ。それが正しい作用の仕方だ。でなければ、繋がることに意味などなくなってしまう。その相手なんて誰でもいい。エーリッヒにとってそれが灰被り嬢だったというだけのこと。取り替えをしないのはそれが手間だからだ。
けれど、だからこそ、関係を築いたその先に何が顕れるのか、見てみたい。
なれ合いの末の崩壊だろうか。
狭い関係への絶望だろうか。
だけど、それは今考える事じゃない。
灰被り嬢はエーリッヒになにを見ているのだろう。
彼女の存在はとても気持ちがわるい。
だれに聞いても、だれの目を通しても、彼女の生の姿が見えてこない。
私と接しても、彼女は怯えているばかりで、その本質が伝わってこない。
知れば知るほど、生きた肉体と意志を持ったはずの灰被りという娘が、どんどん記号に置き換えられていくのだ。
美しく。
哀れで。
従順な。
若い娘。
果たして、この娘の価値はほんとうにその程度のものなのか?
理不尽を押しのけることを忘れ去った、思考停止をした哀れなだけの娘なのだろうか。
一方的に王子が自分を選んでくれるという奇跡が舞い込んでくるのを待っているような、魔法使いが手助けしてくれなければ何もできないような。そんな娘なのだろうか。
そうである可能性が高い。
でも、どうしてもしっくりこない。
何かが欠けている。
魔法がその欠如を、理由を示している。
どうやら、いまや全てに堪え兼ねた彼女は眠りに堕ちかけているようだった。これは却って都合がいいかもしれない。
彼女の意志は、願いは、祈りは、いったい、どこにあるのだろう。
「あーあ」
私はその答えを無意識のうちに知っている。
それはきっと、言語化出来ない領域での絶望だ。
魔方陣が完成する。
チョークの地面をこする音が消えた。
時間というものが流れ去るものだということを忘れさせそうなほどの、完全な静寂。
その静寂にいつまでも身を委ねていたいが、そうもいかない。
立ち上がり、ローブをはたいてチョークの粉を落とす。
陣の中心部分、三角の目印がある所に立つ。
片手を床に向け、そして呪文を唱えた。
「宣言しよう。私は私の名の元においてこの魔法を使用することを。自らの欲望の忠実な友でありつづける魔女としてであることを。他人を助ける為ではないことを。これらはすべて遵守され、私は私の望む答えを選択する」
微弱に発光し始めた陣が、次第に目もくらみそうなほどのまばゆい光に変化する。
足下から風が巻き上がり、三角帽を吹き飛ばした。髪の毛が風に呷られて巻き上がる。
「『エションジェ』……過去を改変するための舞台を整えよ」
すべての力がゆるやかに収束した後、魔法が完成した。
これから先は、私の番だ。




