三十五話
乱暴な音をたてて扉が閉まる。
そこで意外な人物に会った。
女給に連れられてこんな夜更けにやってきたのは。
所在無さげなマルティナだった。
「こんな夜更けに、なにか御用で?」
焦りのあまり、冷たい声音がでてしまう。
いら立ちが声に篭っている。感じが悪いな、と我ながら思う。
案の定、その声はマルティナを竦ませてしまった。
いけない、いけない。この一家は繊細なのだ。丁寧に扱わなければ。
「せっかく来てもらったのに、悪いのですが、じつはちょっと用があって、急いでいるのです。また来てもらえたら…」
「大切なおはなしがあるのです」
「それは、また」
あとで、とはいえなかった。
彼女はじっと私を見つめていた。
「いまでなければいけないのですね?」
マルティナは頷いた。
「どうか、中に、入れてくださいませ」
こんな時、壁に仕切られた空間というのは安心するのだろう。
だれに見られる心配もないからだ。少なくとも、そう思える。
マルティナはソファに座り込むと、少しだけリラックスした様子を見せて、猛烈な勢いで語り出した。
「お嬢さまは、その、上のお嬢さま方からたいそうな仕打ちを受けておられました。その、使用人のように家事をするばかりでなく、体罰のようなことも」
それは告発だった。
「灰被りお嬢さまのことです」
「なぜいきなりそれを」
マルティナは悲しそうな顔をする。
「昨夜、奥方様とお嬢さま方がお帰りになった後、たいそう奥方様が怒ってらして、お嬢さまを折檻されて、いつにない激しい怒り方でしたので…もしや」
「殺されるのではないか、と」
「いえ、そんな…。けれど、もしかしたら、と」
マルティナが迷った末に頷く。
「なぜ警邏を呼ばないのです」
「奥方様は貴族なのです。呼んだりしてはご名誉に傷がついてしまわれます。だから魔女さまに助けていただくしかないのです」
出た、名誉。誉れ。
人命より大切なものなどあるのか。
いや、あるから優先しているのだろう。
「ふだん、それこそ奥方さまはお怒りにならないのです。灰被りお嬢さまに対してはとくに。まるでご興味がないご様子で。けれど、一旦お怒りになると、何日もお部屋に閉じ込めてしまって。お嬢さまもそれに逆らおうとはなさらないのですが…」
うろたえている。
「それは躾なのでは?」
「躾…なのかもしれません。わたくしどもには貴族の作法など分かりようもありませんから。しかし、それにはあまりにも激しすぎるというか、…そもそも他のお嬢様方にはそのようなことをなされないのです」
「ふうん」
テーブルに腰を掛ける。
マルティナの話題がさらに飛ぶ。
「従順なだけだったお嬢さまが変だったのは、あの夜会の夜だけです。お嬢さま方が、このような布があるのなら、孤児院の子供達に分け与えるべきだと…、灰被り様が作られたドレスを破かれてしまったあの夜。どうやってか新しいものをご用意なされたのかふしぎでしたが…。今思えば、お嬢さまを手助けした魔法使いがいたとしか思えません」
意味が分からない。
「いつのことです?」
「あの、王子さまとお嬢さまが出会われた晩です。呪いが、呪いがあるのだとしたら、それは灰被りお嬢様が怨みからなさっているのです。でなければ、説明がつきません」
マルティナはソファの前のテーブルに座る私に掴みかかった。
彼女の揺さぶる力に合わせて、私の体が揺れる。
「助けてください。このままでは、あのお屋敷は、ほう、崩壊してしまいます。灰被りお嬢さまが来てから、お屋敷の空気は変わってしまいました。それでも、なんとか上手く行っていたのに…、十年以上も保って来たのに。変に空気はぎすぎすして…どうして、どうしてこんなことに」
嗚咽を洩らす。
「お嬢さまが王子殿下とご婚約さえ結ばなければ…、いいえ、お嬢さまは関わるものを狂わせて行かなければ」
やがて、マルティナは力を放出しきったらしくしなしなとしおれて行く。
私はその力の抜けた手を掴んだ。
そして問いかける。
「教えて欲しい。あなたは誰を助けてほしいんですか?」
「お嬢様方のお母さま、奥方様です」
それが答えか。
「なぜ?」
「奥方様の駆け落ちを、若い頃、奥方様は駆け落ちをしようとなさって、それをご当主さまに告げたのは私なのです。だから、だから」
助けなければいけないのだと。
彼女は言った。
なんだ、それが彼女を突き動かす動機か。
思っていたよりも分かりやすい理由だった。
「奥方様は貴族であらせられなくてはならないのです」
そうも言った。
だから、私は再度問う。
「それで、あなたは?」
「え?」
「魔女に願いをするには対価を差し出さなくては。あなたは私に何を差し出してくれるんです?」
必死で溢れていた彼女の目の中に、はじめて怯えがよぎった。
何を要求されると思ったのだろう。
寿命だろうか。
運命だろうか。
その様子を見て、私は。
己の内にある薄暗い器が満たされるのを感じた。




