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4月1日 朝

 発声練習を終えてから、全員で前日にやったエチュードの続きをすることになった。二日目の一組目は僕と綾ちゃんだ。劇団一の美形で、そのまま女優になってもおかしくないほどの演技力を持つ実力者だ。米ちゃんの次にアドリブ演技が楽な相手といえるだろう。


 ただし、この日は座長から相手を困らせろとの指令が出ている。演出の意図は分からないが、指示通りにやるしかない。その指示を綾ちゃんも知っているかどうか分からないので、とにかくやってみるだけだ。


「それではまいります、用意、スタート」


 座長が始める前に、綾ちゃんはすでに芝居を始めていた。

 今回は綾ちゃんが板付きで、すでに浜辺で佇む少女を演じている。

 立っているだけで絵になる女性だ。

 僕は前日の米ちゃんを真似して、百をゆっくり数えるまで登場しないようにした。

 綾ちゃんは、まるで春のやさしい風と戯れているようだった。

 北国の海だというのに、南国の陽射しを受けているかのようにキラキラしている。

 いつまでも、その姿を見ていたいと思った。

 綾ちゃんならば、何もしなくたって、何時間でも見ていられる。

 僕は綾ちゃんが好きだ。


 そこで観客から笑いが起こった。


 どうやら、僕は実際に口に出していたようだ。

 綾ちゃんも僕を見ている。

 しかも綾ちゃんまで笑いを堪えている。

 もうすでに舞台は壊れてしまったが、自分から止めてはいけないルールがある。

 仕方ないので、僕は仕方なく綾ちゃんの元へ歩いて行くことにした。

 綾ちゃんの目が笑っている。

 これはダメな時の綾ちゃんだ。


「シュウ君、さっき、なんて言ったの?」

「聞こえた?」

「うん、風に乗って」

 台詞を口にしてからの綾ちゃんは、打って変わってシリアスな表情になった。

 うまいなぁ、と僕は思った。


 そこで再び観客から笑いが起こった。

 またしても、僕は口にしてしまったようだ。


「茶化さないでよ」

 綾ちゃんがむくれるが、この台詞が芝居かどうか、僕には分からなかった。

「ごめん」

「その、すぐに謝るクセ、やめたら?」

「あっ、ごめん」

「ほら」

 下手くそな掛け合いだ。

 これでは綾ちゃんのアドリブまで下手くそに見える。


「なんだか下手なお芝居をしているみたいね」

「ごめん」

 悪いと思いつつ、それしか言えなかった。

「もう、この世界に観客は一人もいないんだから、演技なんてする必要ないんだよ?」

「そうだね、もう、この世界には僕たちしかいないんだ」

 綾ちゃんに合わせたつもりだが、状況を台詞でくどく説明するダメなパターンだ。

「それを私に強調して、どうするつもり?」

 綾ちゃんも困り果て、メタな台詞しか出てこない。

「つまり……」

 考えても、この状況でハマる台詞が思い浮かばなかった。

 綾ちゃんも、これ以上は無理のようだ。

 あとは座長のカットを待つしかないが、それも期待できない。

 そこで僕は開き直り、賭けに出ることにした。


「この絶望ともいえる状況でも、それでも幸せを望めるのは綾ちゃんがいるからなんだ。いや、綾ちゃんさえいてくれれば、この世に絶望なんか存在しない。例え人類が僕たち二人きりだとしても、そこには希望しかないんだよ。それは他に選択肢がないからではなく、消去法で得られた答えというわけでもない。初めから綾ちゃんという存在しかないんだ。僕には、綾ちゃん以外の人の存在は、気配すら感じられない。そう、この、僕たちしかいない世界というのは、僕の心の中、そのものなんだよ。それが、この不可思議な状況の答えなんだ。君にも僕と同じように見えているとしたら、君も同じ答えということにならないか? もう誰の目にも、僕たちの姿は映らないし、僕たちもまた、他の人の姿は見えないんだ。だから、はっきり言うよ。綾ちゃん、僕と付き合ってくれ」


「ごめんなさい」

 綾ちゃんが頭を下げる。

「いや、人類で二人きりしかいないんだよ?」


「カット!」

 座長が慌てて止めに入った。


 米ちゃんも不満をこぼす。

「どうして最後に余計な台詞入れちゃうの? 長台詞の後にフラれたんだから、そこで終わらせても良かったのに。ベタだけど、ちゃんとオチがついてるじゃない。これじゃあ綾が可哀想だよ」


 座長が頷く。

「まったくですよ。途中までは現実と芝居の境目が曖昧な、いい芝居をしていて、長台詞のアドリブも悪くなかったですよ? 即興で詩を詠むなんて、我々でもなかなかできませんからね。それなのに最後がなぁ」


「いや、座長」

 森ちゃんが異を唱える。

「シュウがそんな芝居できるはずがないですよ。たぶん本当に告白したんじゃないですか?」


「そんなわけないだろう」

 僕は強く否定したが、図星だった。どさくさに紛れて本心をぶつけてやったのだ。結果はフラれたが、話のオチを作るためには、綾ちゃんもそうする他なかったのだ。とはいえ、エイプリルフールの日にフラれたということは、反対の意味だったということも考えられる。


「タイトルは『蛇足』でいいよ、もう」

 米ちゃんは、どうでもいいといった感じだ。


 座長も興味がないらしい。

「そうですね。次に行きましょうか。二組目は広美とヒロシさんですね。用意はいいですか? どうしようかな? 昨日はボクが板付きだったので、今日はヒロシさんが板付きで始めてみましょうか。あぁ、もちろん小道具として焼酎を持ったままお願いしますね」


 指示を受けたヒロシさんは、明らかにお酒が抜けていない様子だ。いや、朝から飲んでいるので昨日と変わっていないというべきか。とにかくフラフラしていて眠たそうな顔をしている。これでは芝居なんてできっこないだろう。


「それではまいります、用意、スタート」


 早速ヒロシさんが浜辺に胡坐をかいて、焼酎をラッパ飲みする。

 そこへ広美が早々に舞台に登場してきた。

 しかし、特に声を掛け合うことはなかった。

 思えばこの二人、普段も会話しているところを見たことのないペアだ。

 互いに口を開かないが、詩的な間というよりも本当に話すことがないといった感じだ。


「疑問なんだけどさ、そんなに切れ目なくお酒を飲んでいるとさ、酔いが醒めた時に空しくならない?」

「ならないね」

 広美もしゃがんで同じように胡坐をかく。

 このまま台詞がなく終了しそうな予感がする。


「楽しい?」

「楽しいね」

 エチュードでのオウム返しは最悪だ。

 ヒロシさんも座長の時と違って捻りがないので、頭の中が真っ白な状態なのだろう。


「もし、ここから帰ることができたら何がしたい?」

 広美はオウム返しができない質問に切り替えたようだ。

「そうだな、やっぱり氷が欲しいな」

「欲しいのが見つかって良かったね」

「ああ。そっちは?」

「私は特にないかな。元々物欲とかもないし、ほんとパッと思い浮かばない」

「お互い寂しい人生だな」

「一緒にしないでよ」


「いや、分かるよ。物欲がないっていうのはアレだろう? 手に入れる努力が面倒だから物欲がないって言って誤魔化してるんだ。若いうちから悟りを開いたようなことを言うヤツは大体このパターンだな。でも悪くないんだよ。それはつまり自分を守るための嘘のようなもんだからさ。他人様に迷惑を掛けないように生きるための自衛手段でもあるからよ。絶望して死んじまうヤツより、よっぽどマシじゃねぇか。憎ったらしい顔で生意気なことを言うんだけどさ、案外と周りのみんなは見抜いていて、それでも分からない振りをしてやってんだけどな。本人はお利口さんのつもりだから、周りはみんなバカだと思ってるんだ。シェークスピアの作品に出てくる登場人物の中で一番頭のいいヤツは誰だか分かるか? 道化だよ、道化。それが分かりゃ、たいしたもんだ。でも最近の道化はダメだね。頭がいいことを隠さなくなっちまった。道化をやるなら死ぬまで隠してほしいもんだよな」

 喉が渇いたのか、そこでヒロシさんはグビッと焼酎を呷った。


「どうしてお酒を飲む人って、こうも説教臭くなるんだろう?」

 広美の言う通り、地方の二十歳過ぎの男は老けるのが早い。


 ヒロシさんが大笑いする。

「なるほどな、俺が坊主なら説法で、酔っ払いだから説教になるわけか。ということは、坊さんっていうのはシラフでも酔っ払ってるっていうことだな。ハハッ、なかなかおもしろいこと言うじゃねぇかよ。飲み屋のママさんにちょくちょく怒られるけど、ありゃ坊さんと同じだからなんだ。ハハッ、合点がいったよ。だったら坊主のところに行くより、ママさんにお布施した方がよっぽどマシってわけだ」


「その歳でママとか言って恥ずかしくないの?」

 広美の態度は冷たいままだ。


「あっ、いいこと思いついた。俺、飲み屋を始めようかな? それで常連から『パパさん』って呼ばれるんだよ。店の名前もスナックの『パパ』でいいじゃねぇか。なんで今までそんな店がなかったんだろうな? やべっ、こりゃ忙しくなるぞ」


「誰が行くの、そんな店」

 そう言って、広美は勝手に舞台から退場した。


 オチはヒロシさんに任されたわけだが、カットを掛けてもいいタイミングではある。それでも座長は止めなかった。ヒロシさんはおもむろに立ち上がり、客席側の僕たちを見る。


「ええ、みなさん、本日は、ようこそお集まり下さいました。みなさんの中には『酔っ払いが何を言ってるんだ?』と思われた方もいるでしょうが、私が飲んでいる、これね、そう、この焼酎は、実は酒ではなく、お水だったんですね」


 間ができたということは、ここで終わりなのだろう。

 しかし僕たちは驚くことなく、フラフラのヒロシさんを見て苦笑するしかなかった。

 米ちゃんが呆れる。

「もう、いいよ、終わり、終わり」


「カット」

 座長が遅れて声を掛けた。


「もう、お酒臭い」

 広美が嫌悪感を露わに戻ってきて吐き捨てた。

「タイトルは『酔っ払いの戯言ね』」

 ヒロシさんに相談する気もないようだ。


「昨日から考えてたオチだけど、ダメだったかぁ」

 ヒロシさんが悔しそうに呟いた。

「酔っ払いは、さっさとどいて」

 そう言って、米ちゃんが軽くあしらった。


 入れ替わるように、早見君とユウ君が舞台に立った。

 二人とも準備万端といった表情だ。


 座長が演出する。

「それじゃあ、今日は早見君に板付きで始めてもらいましょうか」

 初心者にも係わらず、すぐに指示を理解して、ユウ君がさっと上手に移動する。

「それではまいります、用意、スタート」


「早く、来いよ」

 早見君が上手で待機しているユウ君に声を掛けた。

 エチュードでリードする早見君を見たのは初めてかもしれない。

 ユウ君がフラフラした足取りで登場してきた。

「疲れちゃった」

 そう言ったユウ君は、ちゃんとくたびれた芝居をしていた。

「じゃあ、ここら辺で少し休もうか」

「うん」

 二人とも、とても自然な入りだった。

「あっちの森に行けば飲み水がありそうだね」

 そう言って、早見君が客席側を向き、ユウ君も同じ方向を見る。

「うん、食べるものもありそう」

 この島に森はないのだが、本当にありそうに思える芝居だった。

「食べられそうなものが見つかったら、俺が最初に毒味をするから心配しなくていいよ」

 今日の早見君は、信じられないくらい積極的だ。

「ありがとう。でも、一緒に食べよう。もし死ぬなら一緒がいいよ」

 ユウ君の言葉に、二人が微笑み合う。

 無言の芝居も取り入れ、息がぴったりだ。

「あれ、覚えてる? 小学校の遠足で食べた、やまぶどう」

「すっぱかったね」

 ユウ君の返しに、二人は声を出して笑うのだった。

 それから、ふいに早見君が悲しげな顔をして呟いた。

「もう、あの頃には帰れないんだ」

「あの場所にも帰れない」

 アドリブとは思えない芝居だ。

 ユウ君が早見君を見上げて笑顔になる。

「でも、いいんだ。僕は何も後悔していないよ。だって無人島を経験する人生と、経験しない人生なら、絶対に経験する人生を選びたいもん」

「二度と帰れなくても?」

 なんだか身体の大きな早見君の方が年下に見える。

 ユウ君が力強く頷く。

「二人きりなら、どこにいても構わない。今いる場所を楽園にすればいいだけなんだ」

「一緒に変えてしまおう」

「うん」

 見つめ合った二人の横顔は、まるで兄弟のようにそっくりだった。

「よし、森まで競争だ」

 そう言って、早見君はユウ君を置き去りにして、観客の間をすり抜けて行った。

 それをユウ君が笑顔で追い掛けて行った。


「カット」


 座長が止めると、森ちゃんが真っ先に口を開いた。

「これ、絶対二人で打ち合わせしたでしょう。だって、もう、完全にストーリーが出来上がってるんだもん。絶対おかしいよ」


「ほんとだよ、今までの早見君のエチュードと全然違うもんね」

 綾ちゃんも抗議した。

「打ち合わせしたんじゃ練習になんないんだよ?」

 広美も早見君を責めた。


「いや、打ち合わせはまったくしてないんだ」

 早見君は、こんなくだらない嘘をつく人間ではない。でも三人の感想には同感だ。早見君のアドリブが冴えるのは米ちゃんと二人で芝居をする時くらいで、他の人とエチュードをやると、大抵は無口な男の役にしかならない。


 ユウ君は嬉しそうに口を開く。

「そう言ってもらえるっていうことは、上手くできたっていうことですか?」


 米ちゃんが満面の笑みで返す。

「上手くって言うか、すごく上手だった。ねぇ、座長、ユウ君はオーディションなしで客演として招いてもいいんじゃない?」


 座長が頷く。

「そうですね、正直、びっくりしました。ユウ君はもちろんですけど、ユウ君と一緒に芝居をしている早見君も、今までにないくらい素晴らしくて、掛け合いの相手を変えるだけで、こうも役者って化けるものなんですね。芝居の波長が合うというか、いや、素直に勉強になりましたよ。ユウ君が手伝って下さるというのなら、こちらとしては大歓迎ですよ。いや、お世辞抜きに二人とも良かったです」


 座長の拍手に続き、全員がキャストを称えた。


 ユウ君は僕が連れて来た、僕の友達なのに、早くも昨日知り合ったばかりの早見君に取られそうで、すごく嫌な気分になった。しかし表情に出すと小さな人間だと思われるので、今は我慢するしかなかった。


「タイトルはどうしましょうか?」

 座長が尋ねた。


 二人が小声で相談し、早見君が答える。

「『嘘をつく必要のない場所』にします」

 タイトルをつけるセンスのなさは、いつもの早見君だった。


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