3月31日 夕方前
テントの設営が終わると、すぐに役者陣は海に向かって発声練習を始めた。いつもならヒロシさんや堀田先生のように見学組になるのだが、ユウ君もやってみたいというので、僕も付き合いで参加することになった。
四年間も在籍しているので何度か練習したこともあるのだが、未だに腹式呼吸が体得できないでいる。息を吐くときに腹を引っ込めるようにと言われているが、言葉を発しながらそれを同時に行うというのが無理だった。
僕の場合は、どうしても声を出すと腹が膨れてしまうのだ。客演として参加したのが一度きりで、それから呼ばれないということは、早々に見切りをつけられたということだろう。プロンプターですらやらせてもらえないという具合だ。
それにしても、ユウ君は初めての発声練習なのに、その堂々とした態度には感心させられた。初対面ならば照れ臭さの方が勝ってもおかしくないのだが、元来物怖じする性格ではないのか、自分から積極的にやり方を尋ねるほどであった。
こうなると僕の立場はないように思われるかもしれないが、演劇の練習に入るとみんな真剣になってしまうので、ユウ君を引き合いに出して僕を貶める人はいなかった。そこのメリハリがあるから、僕も劇団の手伝いを続けてこられたような気がする。
発声練習が終わると、座長から今回の練習メニューが発表された。
「さて、それでは合宿恒例となりましたエチュードを始めましょうか。まぁ、予想通りではありますが、今回の舞台設定は、ズバリ無人島です。これほどガチガチの設定は初めてなので、すぐにパターンがなくなってしまうかもしれませんが、所詮は練習なので、そんなことは気にせず楽しんで芝居をしてくださいな」
座長が口にしたエチュードというのは、演劇では即興劇のことで、役者がアドリブで台詞や動作を考える芝居のことだ。やり方は劇団や演出家によって様々だろうが、うちの浜田座長の場合は、役柄の指定はせず、舞台設定以外は自由に演じるようにさせている。
たとえば男のつもりで芝居に入ろうとしても、相手が女のつもりで話し掛けられたら、女として演じなければいけないのだ。その後の展開で実は男でした、というのはありえるが、最初から決められた役柄は何もないのである。宇宙人や人間以外の物でもありえるわけだ。
「ねぇ、座長さ、今回の設定で同じ面子だと、いい練習にはならないような気がするんだけど、どう思う?」
米ちゃんが相談するつもりで尋ねたが、こういう時は決まって結論が出ていることが多い。
「どうしろと?」
米ちゃんが答える。
「うん、考えたんだけど、だったらシュウやヒロシさんにも手伝ってもらって、馴染のない相手と組んでやらせた方がいいと思うんだ。だって、いつものメンバーだと間合いが読めるから練習になんないんだもん。発声練習もしてもらったし、ユウ君にも参加してもらえるとありがたいんだけど、どうかな?」
「エチュードですか?」
ユウ君にとって初めて出会った言葉のようだ。
「そう、簡単な即興劇なんだけど」
「いいですけど、僕はやったことがないので、練習の邪魔になるだけのような気がするんです」
不安げなユウ君に、米ちゃんがとびきりの笑顔で答える。
「それがいいんだよ。そう、そこなんだ、私が求めてるのは。いつものメンバーだと絶対に事故らないからさ、おもしろくないんだもん。もうさ、変な間ができたり、どうしたんだろうって不安にさせたり、逆にみんなを困らせて欲しいの」
「失敗してもいいなら、やってみたいです」
ユウ君が前向きだ。
「おいおい、俺も断れない流れじゃないか」
ヒロシさんが文句を言うが、断る気がないのは見え見えだ。
「ヒロシさん、おねがい」
米ちゃんが両手を合わせて甘えた声を出した。
「しょうがねぇな」
と言いつつ、ヒロシさんは嬉しそうだ。
オッサンとその愛人のやり取りみたいだが、これが単純な男には一番効果的な方法だった。その一方で、僕には参加の有無を尋ねないので、それが僕にも嬉しい対応だった。つまりお客さん扱いしていないということだからだ。米ちゃんは人の扱いが抜群に上手い。
座長が仕切り直す。
「では御三方に参加してもらうとして、組み合わせと順番はどうしましょうかね? 初参加のユウ君は観るのも演じるのも初めてなので、最初は見学する方に回った方がいいと思いますが、どうしましょうか?」
米ちゃんが閃いたようだ。
「だったら今回は公平にクジで決めようよ。とりあえず、先生、悪いけどそのノートを一枚破ってクジを作ってくれる? 六等分にして、そこに一から六の数字を書いて折り畳んでほしいんだ」
言われた通り、堀田先生がクジを作り始めた。それとは別に、僕は米ちゃんが言った、「今回は公平に」という言葉が引っ掛かった。ということは、やはりさっきのテントでのペア決めは公平じゃなかったという意味に取れるからだ。
ただし、それで僕が不快になるということはない。むしろほっとしてしまうのだ。なにしろ米ちゃんの魅力は、その嘘をつけない性格にあるからだ。嘘をつけば人望を失うというのは、当然の摂理である。
米ちゃんがクジ引きのルール説明について補足する。
「座長が言った通り、ユウ君は三番目にした方がいいから、まずはシュウとヒロシさんにお手本になってもらうね。つまり一番と四番を引いた人がシュウと組んで、二番と五番を引いた人がヒロシさんと組んで、三番と六番を引いた人がユウ君と組んでもらうことになるわね。演じる順番は、そのまま番号順でいいよね。最後の方は展開が被るから大変になると思うけど、クジだから文句なしだよ」
堀田先生が作ったクジを引いた結果、トップが僕と米ちゃんで、次にヒロシさんと座長、ユウ君と森ちゃん、僕と綾ちゃん、ヒロシさんと広美、ユウ君と早見君の組み合わせと順番になった。
組み合わせが決まると、すぐにエチュードが始まる。即興劇なので打ち合わせは一切ない。次に演じるペアも私語厳禁だ。役者陣は練習するつもりで来ているが、僕は予定外の参加なので心の準備が一切なかった。
頭が真っ白な状態で舞台に立たされるわけだが、百戦錬磨の米ちゃんが相手なら、なんとかなるだろうという気持ちはあった。勝手にリードしてくれるだろうし、アクションを起こせば、必ずリアクションしてくれるという安心感がある。
座長がユウ君のためにエチュードに関して補足説明する。
「えっと、コツはですね、我々は役者であって脚本家ではないので『気の利いた台詞を言ってやろう』とか、『誰も考えたことのない物語を作ってやろう』なんて思わないことが大事です。本番ではなく、あくまで練習ですから、オチがなくったって構いません。ましてやユウ君はセミプロではなく、完全なるアマチュアなわけですから、グダグダになったり、しどろもどろになったりしても構わないんです。それより大事なことはですね、言い間違えても『あっ、間違えた』って顔をしないことや、途中で自分から勝手に止めないことなんですよ。どこで止めるかは演出家であるボクが決めますので、演じる時はとにかく夢中になってほしいんです。まぁ、あまり説明しすぎると無難な芝居に落ち着いてしまうので、この辺にしておきましょうか。あとは見てもらった方が早いと思いますのでね。それでは早速始めたいと思います。米ちゃんとシュウ君、用意はいいですね? それではシュウ君が板付きで、米ちゃんは自分のタイミングで入って下さい」
板付きというのは、舞台に立った状態から芝居を始めることだ。実際の劇場だと、緞帳が上がった時点でステージの上で芝居をスタートさせているということになる。僕が板付きということは、座長がスタートの合図を送る前に芝居を作っていないといけないわけだ。
座長が全員に説明する。
「舞台は無人島です。背景は海で、客席は山側の方にあることにしましょう。本当は客席を海の上に想定した方が、お客さんにお尻を向けた芝居をしなくても済むので良いんですが、天然の舞台なので、そこは諦めましょう。お客さんを意識すると海を見ないで芝居をすることになりますから、かなり不自然な感じになると思いますが、そこは各自で工夫してもらう他ありません。そこも含めて練習だと思って下さい。まぁ、一組目なので、まずはやってみましょうか。やってみないことには分かりませんからね。それではシュウ君、浜辺の方に移動して下さい。米ちゃんは上手でも下手でも構いませんので、自分の判断でお願いします」
浜辺に移動したものの、僕の頭の中は依然として真っ白なままだった。それでも何かしないといけないと思い、とりあえず体育座りをして海を見つめた。自分としては、もう芝居に入っているつもりである。
ちなみに、上手と下手というのは舞台用語の一つである。お客さんから見て舞台の右の袖口が上手となり、左の袖口が下手となる。米ちゃんは海に向かって右側にいるので、この場合は上手にスタンバイしているということになる。
「それでは本番まいります。用意、スタート」
座長の始まりの合図が聞こえたが、どうすることもできなかった。ただ、過去の座長のダメ出しを思い出すと、ここで不自然に振り返るのは、却って良くないことだというのは知っていた。だから米ちゃんが来るまでは、何もしないでおこうと腹を括ることにした。
座長はかつて言っていた。「映画やドラマではありえないような時間の使い方ができる、それがエチュードだ」と。米ちゃんがまるで僕を試すかのように姿を現さないが、僕もしびれを切らせるわけにはいかなかった。なにしろ無人島なのだから、焦る芝居など必要ないわけだ。
「そんな海ばっか見てたって、すぐに助けなんか来ないよ」
米ちゃんがくたびれた足取りで歩いてきた。
「でも、見てないと見過ごすかもしれないから」
我ながら悪くない返しだと思った。
しかし、これは米ちゃんが返しやすい台詞にしてくれたお蔭でもある。
ともあれ、このやり取りだけで置かれた状況が明確になった。
米ちゃんがリードする。
「それよりさ、飲み水を探す方が先じゃないの?」
「いや、上空から森の中に小さな湖が見えたから、水には困らないよ」
「それ、早く行ってよ」
「ごめん、たった今、思い出したんだ」
「そんな大事なこと、よく忘れることができたね、そっちの方がスゴイわ」
米ちゃんの返しが早すぎて、適当なことしか思いつかない。
「うん、それは、つまり、その、何が大事かは人それぞれだからね」
そこで米ちゃんは僕の周りを一周して、正面に立った。
「前から言おうと思ってたんだけどさ、タケシ君って変わってるよね」
そう言うと、米ちゃんが腰を屈めて、僕の顔を覗き込んだ。
それが本当に至近距離だったのでドキドキした。
これまで経験したことのない位置で女の人の顔を見たので顔を伏せることしかできない。
「ねぇ、照れたの?」
いつもの米ちゃんらしくない芝居だった。
「照れるわけないだろう」
そう言って、僕はとりあえず立ち上がることにした。
「照れてるよ」
立ち上がってから分かったことは、米ちゃんが僕を立ち上がらせるために誘導するような芝居をしたということだ。座長の演出は、常に役者を動かす演出だった。それで僕を立たせたかったのだろう。それが米ちゃんなりの工夫なのだ。
「こんなところ見られたら、誤解されるだろう?」
僕は米ちゃんの立っている海側に背を向けた。
これでやっと観客の方を見ることができたわけだ。
「誰に見られるって言うの?」
米ちゃんは、そこで自然に僕の横へ移動してきた。
これで客席から見やすいポジションで芝居ができるわけだ。
しかしそれと同時に、僕はその意図が理解できたことで顔をニヤけさせてしまった。
これが一番良くないことだ。
座長は自分の芝居を自分で笑うことを極端に嫌う演出家だからである。
「え? どうして笑うの? 何か知ってるの?」
米ちゃんは僕の失敗を物語に転用させた。
これで僕のミスはなくなったけど、質問の答えはさっぱり思いつかなかった。
「……いや」
「だって、笑ったでしょ?」
「……いや、なんでもないんだ」
「何を考えたのか、それだけは教えて」
実際に笑ってしまったので、ここは僕が処理をしなければいけない場面だ。
「……、いや、こんなことを言うと最低な男だと思われるかもしれないけど、助かったのが俺たち二人だけで嬉しいと感じてしまったんだ。だから、さっき、そのことを思い出して、思わず笑ってしまったんだ」
我ながら素晴らしいアドリブで切り抜けたと思った。
「それって、つまり……」
「ああ、婚約者を亡くしたばかりなのに、こんなこと言っちゃいけないし、思ってもいけないんだろうけど、もう、気持ちを隠す必要はないよな。俺はずっと前から、君とこうなることを望んでいたんだ」
「……やっとだよ」
そう言うと、米ちゃんが僕の胸に飛び込んできた。
僕は、その身体を強く抱きしめた。
生まれて初めて女の人の身体を抱きしめた。
そのせいか、エチュードをやる前よりも頭が真っ白になってしまった。
抱きしめたままじっとしていたのだが、座長の「そこまで」という声が掛からなかった。
短いとは思ったが、カットの声を掛けるなら、このタイミングしかないはずである。
早めに切り替えたのは米ちゃんだった。
「ねぇ、私たち、助かるかな?」
「ああ、大丈夫、事故が起こったことは知ってるはずだ。きっと、探してくれるよ」
蛇足のような気もするが、カットが掛からない以上は続けるしかなかった。
「でも、どうやって?」
米ちゃんも困っている様子だ。
「そうだ。飛行機かヘリで探そうとするはずだから、浜辺からSOSの信号を送ろう。流木を拾ってきてさ、それで巨大文字を描くんだ」
「それいいね。じゃあさ、タケシはあっちを探してきてよ。私はこっちの方を探すから」
これは米ちゃんからの退場を求めるサインだ。
僕は素直に米ちゃんが指示した方向にはけることにした。
それから、米ちゃんは去りゆく僕の背中に向かって呟いた。
「ねぇ、タケシ、事故が起こるように細工したのが私だと知っても、笑ってくれる?」
振り返ると、米ちゃんが不敵な笑みを浮かべていた。
「はい。そこまで」
座長のカットが掛かった。
全員がキャストを拍手で称える。
僕と米ちゃんは、素早く他の劇団員に混ざるように座った。
「いやぁ、ちゃんと、お手本になったんじゃないですか」
座長からの悪くない評価だ。
「いやいや、シュウさ、ニヤけすぎ」
米ちゃんが怒った。
「ごめん。でも、自分では上手く誤魔化せたと思うんだけど」
僕の言い訳に森ちゃんが真っ向否定する。
「全然、誤魔化せてないから。もうね、シュウの場合は、自分で上手いこと言えたと思った瞬間、顔に出ちゃうんだよね。あとさ、米ちゃんと抱き合ってた時もニヤけてたし、シュウは舞台に立たせない方がいいね、っていうより、立っちゃダメだよ」
「まぁ、でも、かなり短いけど、いつもよりは、いい練習になったかな」
米ちゃんなりの感謝の言葉だが、僕としては、それだけで充分だった。
座長が大きく頷く。
「そうですね。役者同士ならすぐに客席の方へ向き直ったでしょうし、沈黙も長くは続きませんよね。そういうのが見られただけでも勉強になったんじゃないですか?」
「でも、早く止めてほしかったな。役者じゃないんだから間が持たないって。まだ一人芝居している方が楽だよ」
「まぁ、でも、いいオチがついたじゃないですか。あそこでラブストーリーからサスペンスにできるのは米ちゃんだけですよ」
座長は満足げだった。
「それなら、よかったけど」
米ちゃんも満更でもない様子だ。
「タイトルはどうしますか?」
エチュードに自分たちでタイトルをつけるのも恒例だ。
「何かある?」
米ちゃんが僕に尋ねた。
「……『笑う女』かな?」
「いいですね」
座長のお墨付きが出た。
「だからニヤニヤしないの」
米ちゃんがたしなめた。
「もうさ、『ニヤけ男』でいいんじゃない?」
森ちゃんの言葉に全員が笑った。
場が和んだところで、座長が仕切り直す。
「それでは僕とヒロシさんの番ですね。板付きの指定とカットの掛け声は、いつものように堀田先生にお願いしますね。それではヒロシさんも用意はいいですか?」
「ああ、いい感じに酔いが回ってるな」
ヒロシさんは稽古中でも焼酎を離さなかった。
座長は役者として舞台に立つことが多いので、堀田先生が代わりに演出をすることも珍しくなかった。それでも役者に稽古をつけるタイプではないので、あくまで座長の代役でカットの声を掛けるだけだ。
堀田先生の本職は作家なので、エチュードで役者の芝居を観察して、気に入った言い回しを台本に活かすというのが、彼女の本来の仕事だった。座長と二人で分業して、互いの仕事に踏み込まないというのが、うまくいっている要因ともいえるだろう。
「それでは座長が板付きで始めてください。それとヒロシさんは、お酒を小道具として持ったまま芝居をしてください。どうなるか分かりませんが、それでお願いします」
「いいねぇ、さすが先生は話が分かるなぁ」
ヒロシさんは、すでにほろ酔いといった感じである。
座長は浜辺をウロウロしているが、芝居を始めているというよりも、話の展開を考えている感じだった。他人には「考えるな」と言いながら、自分の番が来たら考え込むという、それが自分のことを棚に上げる浜田座長の特徴の一つである。
「それでは始めます」
堀田先生の声が掛かったところで、座長が浜辺で仰向けになった。
「用意、スタート」
座長がぜいぜいと大きな息をしている。
「もう、ダメだよ」
上体を起こし、上手にスタンバイしているヒロシさんの方をチラッと見る。
「あいつ何なんだよ」
立ち上がろうとするが、くたくたで足腰に力が入らない様子である。
そこへ焼酎を抱えたヒロシさんがやってきた。
「へへへっ」
「あなたね、一体なんなんですか?」
座長はヒロシさんに物語の方向性を託すようだ。
「なんだと思う?」
ヒロシさんは質問返しで座長に丸投げした。
「そんなの知りませんよ。だから訊いてるんじゃないですか」
「お前が知らなきゃ、俺だって知らねぇよ」
「だったら、なんで追い掛けてくるんですか?」
「お前が逃げるからだろう?」
「逃げなければ、もう追い掛けて来ないということですか?」
「そんなことは知らねぇよ」
「だったら、もう逃げませんよ」
そこで座長がしゃがんで胡坐をかいた。
それを見て、ヒロシさんも真似をした。
「だから、なんで真似するんですか。もう逃げませんから、どっか行ってくださいよ」
「そんなの俺の勝手じゃねぇか」
「勝手じゃないですよ。わざわざ無人島まで追い掛けてくるんですから、何か目的があるに決まってるじゃないですか?」
「目的って?」
「それは僕が知りたいんです」
その言葉に、ヒロシさんが大笑いした。
この、不毛な会話が続く出口のないやり取りは不条理演劇の流れで、解散したヒロシさんの劇団が好んで上演していた芝居に似ている。当然座長も知っていることなので、ヒロシさんに合わせている感じだろうか。
そこで、座長が立ち上がった。
「そうか、分かりましたよ。あなたは僕の影ですね?」
ヒロシさんも立ち上がる。
「俺が影? いやいや、お前の影は、その足元にあるだろう? 俺の影も、ここにあるからな」
そう言って、ヒロシさんが自分の影を指差した。
「そういうことじゃなくてですね、怯えていたのは、結局は自分の影だったっていうことで納得して終われるじゃないですか」
「納得しなきゃ終われないのか?」
「終わるなら納得したいじゃないですか」
「その、さっきから言ってる、終わりってのは、なんだ?」
「終わりは、終わりですよ」
「だから、なんだよ?」
「終わりは終わりでしょ」
「この世の中の、一体どこに終わりがあるっていうんだ? 一回も終わったことがねぇじゃねぇか」
「そんなことありませんよ。世の中には最終回や閉店セールがありふれているんですから」
「そんなもん、パート2や新装開店セールに変わるだけじゃねぇか」
「じゃあ終わりっていうのは、なんなんですか?」
「だから、そんなもんは、ねぇって言ってるだろが」
アドリブでの会話の応酬は見事だが、物語がないので観客がだれてくるパターンだ。人生経験が豊富な役者同士なら見応えのある芝居になるだろうが、所詮はセミプロなので限界も早い。座長も本来は好まないタイプの芝居だ。今日はヒロシさんに引っ張られているのだろう。
「終わりがないって、どういうことなんですか?」
「だから、これまで一度として終わったことがないっていうことなんだよ」
「じゃあ終わらせるには、どうしたらいいんですか?」
「分からねぇヤツだな。だから終わらねぇって言ってるだろが」
これはドツボに嵌まったパターンだ。こうなってくると終わらせるタイミングを逃してズルズルと長くなることが多い。そのことは座長もよく知っているはずである。僕が同じことをしたらダメ出しを受ける芝居である。
そこで、座長が土下座した。
「教えて下さい。どうして追い掛けてくるんですか?」
ヒロシさんが大笑いする。
「ハハハッ、質問が最初に戻ったな。お前は毎日昇る太陽に、なんで昇るんですかって尋ねるか? つまり、そういうことだよ」
「ああ、そうか、あなたは太陽だったんだ」
「だ、か、ら、太陽は、お前の頭上にあるだろうが」
「じゃあ、なんで追い掛けてくるんですか?」
「お前は何度も同じ質問に戻って来るけど、ちょっとずつ変化していることに気がつかないか? つまり、そういうことだ」
「質問の答えになっていませんよ」
「これで分からないようなら、お前はまた同じ質問をするということだ」
「そりゃ答えを知りたいですからね、何度だってしますよ。どうして僕を追い掛けてくるんですか?」
「ほらな、俺の言った通りだろ」
そこで、座長が力尽きたように浜辺で仰向けになった。
「カット!」
オチらしいオチはなかったが、堀田先生が終わらせた。
座長は納得いかない様子だが、ヒロシさんは満足げだ。
「ねぇ、座長、オチは?」
米ちゃんが尋ねた。
「そんなもん、ありませんよ」
座長が不貞腐れたように答えた。
得意げに答えたのはヒロシさんだ。
「そうそう、オチなんて無い、ってのがテーマだからな」
「これ、ウチらがやったら絶対叩かれるヤツだよね」
森ちゃんの指摘に、綾ちゃんも同意するように頷いた。
「うん。『背伸びしないで、もっと日常に目を向けて下さい』って言われるパターンだ」
広美も抗議した。
それに対して、座長が弁明する。
「ボクだって、こんなつもりで芝居に入ったつもりはないんですよ。小道具があったんでドタバタのコメディにしたかったんです。それなのに完全に飲まれてしまいましたね。結局、小道具のお酒も必要ありませんでしたし、失敗ではありませんが、負けたのは事実です」
ヒロシさんも後悔する。
「ああ、そうだな。小道具は使うべきだったな。まぁ、いいや、次の時はちゃんと活かすとしよう」
そう言って、焼酎をラッパ飲みした。
「タイトルは?」
米ちゃんが尋ねた。
座長が考えて答えを出す。
「そうですね、『終わらないオチ』じゃなくて、『オチのない終わり』ですかね? いや、違うな。『終わらない世界』にしましょう」
「タイトルだけは立派だな」
ヒロシさんは異論がないようである。
それに対して、劇団員が二人を拍手で称えた。
座長が仕切り直す。
「次は森ちゃんとユウ君の番ですが、ユウ君は、これまで見てエチュードがどんなものか分かりましたかね? 本来ならもっと長く演じてもらうので、いつもと勝手が違いますが、やってることは変わりません。僕のはあまり参考にしないでほしいんですが、できそうですか?」
「はい。うまくできるかどうか分かりませんが、自信もありませんし、それでもやっぱり僕もやってみたいと思いました。見ているだけでも、いますごく楽しいんです。やったらもっと楽しいような気がしてワクワクしています」
そのユウ君の真面目な話しぶりに、僕たちは頬を緩ませることしかできなかった。
座長が演出する。
「じゃあ、早速やってもらいましょうか。森ちゃんが板付きで、ユウ君は上手にスタンバイしてもらいましょう」
「ええっ、逆がいい」
森ちゃんがリクエストを出した。
「それじゃあ逆にしましょうか」
座長は、特にこだわりはないようだ。
森ちゃんが上手で待機して、ユウ君が浜辺に向かう。舞台となる浜辺に着くと、僕がやったように、観客に背を向けて体育座りで海を見つめた。このシチュエーションならば同じになっても仕方ない。ましてや、ユウ君は演技経験がないのだから尚更だ。
「それではまいります、用意、スタート」
座長の声が掛かると、早速森ちゃんが動き出した。忍び足で、どうやらユウ君に気づかれないように背後に回りたいようだ。ユウ君は気づいているに違いないが、気づいていない振りをしている。つまり、芝居が分かっているということである。
ユウ君の背後に立った森ちゃんが、ユウ君に目隠しをした。
「誰だ?」
「……明奈さん?」
ユウ君は森ちゃんの本名を口にした。
これは別にやってはいけないことではないので、特に問題はなかった。
「当たり。ユウ君、よくわかったね」
森ちゃんも本名で返した。
「うん。だって、ここには僕たちしかいないんだよ?」
「ああ、そうだった」
そう言うと、森ちゃんがユウ君の隣に腰を下ろしてしまった。
こうなると、客席側にいる僕たちには二人の表情が見えない。
しかも、早くも会話に困っている様子だ。
「二人っきりだね」
「うん、二人っきりだね」
ユウ君は森ちゃんと同じ言葉を繰り返した。
「寂しくない?」
「うん、寂しくないよ」
これはかなり苦しい状況だ。
経験者の森ちゃんがリードすべきだが、彼女は本来リードするタイプの役者じゃない。
「私のこと、どう思う?」
ユウ君が空を見上げて、時間を掛けて、じっくりと考えた。これは上手な芝居ではなかろうか。予め用意された台本なら、考える間を取らずに台詞を繰り出すのだが、ユウ君は真剣に考えている、と思わせることができている。
「うんとね、自分にはないものをたくさん持っていると思った。見ているだけで元気になってね、この人と一緒に笑いたいって思うんだ。大勢の中に明奈さんがいるだけでね、その輪がとても楽しそうに見えるんだよ」
なかなかの棒読みだったが、普段のユウ君と変わらないといえば変わらない。
森ちゃんの横顔が泣きそうだ、というか、すでに目がウルウルしている。
「うれしい」
そう言うと、森ちゃんはユウ君の肩に頭をもたげるのだった。
「そう言って頂けると、僕もうれしいです」
とんだ茶番である。今まで見てきたエチュードの中でも最低の部類に入るだろう。ユウ君は仕方ないにしても、森ちゃんはヤル気があるのか問われるレベルだ。芝居に自分を出してはいけないとは思わないが、初心者のユウ君相手にするべきではないだろう。
会話が止まった。
森ちゃんは、もう続ける気がないようだ。
「はい、そこまで」
座長も早々に見切りをつけてしまった。
一応礼儀なので、拍手だけはすることにした。
米ちゃんが怒っている。
「ねぇ、森ちゃんさ、これじゃあ練習になんないって。せっかくユウ君が頑張ってくれたのに、もったいないよ」
「だってセリフが思いつかないんだもん」
森ちゃんのいつもの言い訳だ。
「ユウ君はすごく良かったよ。シュウよりユウ君とやりたかったな」
米ちゃんなりの褒め方だが、たまには僕の名前を引き合いに出さずに褒めてほしいもんだ。
座長が感想を口にする。
「まぁでも、二人だけの世界で観客のことも一切気にしないというのも、それはそれでアリだと思ったんですよね。それだけ夢中なんだっていうのが分かりましたし、短編映画ならありそうじゃないですか。背後からしかカメラを回さないというのは面白い試みだと思います」
「ほら」
と、なぜか森ちゃんが勝ち誇った。見る人が見たから面白い、と評価されただけであって、森ちゃんが意図したものは一切ない。それで森ちゃんが褒められるのは納得がいかなかった。僕が同じ芝居をしたなら叩かれるに決まっているからだ。
「タイトルはどうしますか?」
座長が尋ねた。
森ちゃんが即答する。
「座長が言った『二人だけの世界』がいいと思います」
劇団員が改めて二人に拍手を送った。
座長がいつもの癖で腕時計を見ようとするが、腕にないので時間は確認できなかった。
「ええとですね、まだ半分の三組しか終わっていませんが、暗くなる前に夕食の準備だけはしておきたいんですよね。うまく火が点くか分かりませんし、いや、アルコールランプを借りれば苦労しないと思うんですけど、とりあえず焚き木で火を起こしたいと思いますので、今日の稽古は一旦終わりましょう。明日も時間がありますし、続きはまた明日ということで、これからは自由時間となります」