3月31日 昼下がり
時計がないので、もうすでに時間の感覚がなくなっていた。まだ午後一時のような気もするし、もう午後三時でもおかしくないような気がしてしまうのだ。太陽の位置や影の長さで分かりそうなものだが、普段それらを気にして生活していないので、まるっきり分からなかった。
それにしても、せっかく時計を置いてきたというのに、時間を気にして生活してしまうというのは悲しい習性だ。いや、これは個人の性格といっても良いだろう。時計を持たずに無人島に来ても、どうやら僕は原始的な思考に切り替えられないようだ。
これが何も持たずに無人島へ、しかもそこが無人島かどうかも分からない所へ連れて来られたら、いくら僕だって多少は焦って必死になるかもしれないが、所詮は疑似体験にすぎないと認識しきっているので、キャンプ地に来ているのと変わらない心境になってしまうのだ。
「最高だぁ!」
それとは別に石島のロケーションはこの上無なかった。港から山小屋までの舗装された道は人工的でつまらなかったが、防波堤の上から階段を下りて浜辺に降り立つと、その地面の感触に顔がふやけてしまいそうになった。
思えばアスファルトやコンクリート以外の地面を踏んだのが随分と久しぶりで、むき出しの地球の上を歩いたのは高校時代にマラソン大会で山道を走った時以来だった。それ以外だと、中学生の頃まで遡らないといけないかもしれない。
また、南端の岬の下の浜辺、そこは崖下に車両四台分くらいの幅になっているのだが、そこを抜けて西端まで広がる景色を見られただけで、遠路はるばる足を運んで来て良かったと思うことができた。
波打ち際から芝生まで真っ白な砂がびっしりと敷き詰められており、その白い砂浜の道が二キロ先の西端の岬まで緩やかな弧を描くように続いているのだ。群青の海と、真白な砂浜と、新緑の浜辺で、キレイな合同記号が描かれているようで、とても爽快な気分になった。
波打ち際から芝生の奥の崖下まで、深いところでも最大で学校のグラウンド程度の幅しかないので、テントを張ってゆったり寛げるスペースもその範囲に限られるだろう。砂浜からスロープのように小高くはなっているが、もしも津波が来るようだと一溜まりもないはずだ。
緊急時となれば、避難できる道は南端の岬に戻る他ないだろう。そこの道を戻って、小屋のあった地点まで戻るしかなさそうだ。この島は、港から小屋を経由して、南端の岬を通過して浜辺に行く、という一本道しかないのである。
この島の中央に聳える山というか、四方が崖で出来ているのだが、その壁山を眼前に望むと、登ることは不可能ではないと思えた。崖下から山頂を見上げると、素人の僕でも足場になりそうなポイントを見つけられるからである。
ただし山頂まで、あくまで目測だが、十階以上のビルに相当する標高があるので、命綱の準備をせずに上るのは無謀というものだ。仮にロープなど使わずに登り切ったとしても、今度は下りることができないという問題に直面するからだ。
経験者ではないのでよく分からないが、登るよりも下りる方が怖いのではないだろうか? もし無謀にもロープなしで石島の山に登ってしまったら、それで登頂に成功したとしても、救助の手を借りなければ地上に戻ることは不可能だと言い切れる。それくらい急な壁山なのだ。
テントを張るために荷を下ろしたのは、前述した通り、波打ち際から崖下まで一番距離のある場所だ。そこは南端から西端までのちょうど中間地点に位置しており、走れば十五分以内に山小屋へ避難できる、キャンプには最適な場所だった。
浜辺に腰を下ろすと、日本海を丸ごと一望できる最高のロケーションが目の前に広がった。恋人ができたら二人でもう一度来たいと思わせるくらい素敵な景観を備えている。それは到着した劇団員も同様のようだ。
「ここ、最高じゃない?」
それを口にした米ちゃんも輝いて見える。
「ああ、来て良かったよ」
隣の早見君が同意するが、二人が並ぶとお似合いのカップルにしか見えなかった。
「誰だよ、港にテントを張ろうって言ったのは」
ヒロシさんも上機嫌だ。
「すいませんね」
責められた座長も嬉しそうである。
口にはしないが、堀田先生も海に魅せられているようだ。
「でもやっぱり座長って天才だわ」
森ちゃんがおだてた。
「ほんと座長のイベントってハズレがないもんね」
綾ちゃんも大絶賛だ。
「終わってみないと分からないけどね」
広美のひねたところは変わらなかった。
そんな中、ユウ君が僕にお礼を言ってきた。
「ありがとう」
「そんな、お礼なんて」
僕は笑顔を返すことしかできなかった。
全員で最高の雰囲気を味わったのも束の間、直後に揉めたのは誤算だった。テント自体はワンタッチ式で簡単に設営できたのだが、急きょ参加したユウ君の存在によって、部屋割りに問題が起こってしまったのだ。
サークルメンバーは男が四人で女が五人なので、当初は男性陣が二人一組でテントを使えば女性陣が一人余るだけで済んだのだが、ユウ君が来たので男女のペアを作らなければいけなくなったのだ。
「だから二人用を五つじゃなくて、三人用のテントを四つにすれば良かったんだよ」
米ちゃんが腕を組んで文句を言った。
「座長って、そういうところあるよね。詰めが甘いっていうか」
そう言って、森ちゃんが座長にグーパンチした。
「ほんと、そこケチる? っていうのがよくある」
綾ちゃんも手の平を返した。
「そうそう、それでケチって逆に高くついたりするんだよね」
広美も容赦がない。
さっきまで絶賛されていた座長が見る影もなかった。こういう時は余計な口出ししない方がいい。下手に擁護すると「男同士で庇いあって気持ち悪い」とか言われて、僕まで飛び火して炎上するからだ。
「二人用だけど、三人でもイケるんじゃないかな?」
優しい早見君が、しょぼくれている座長のために打開案を出した。
「ムリ、ムリ。二人でも窮屈そうだもん」
米ちゃんがすぐさま却下した。
「ごめんなさい、僕が参加したばっかりに余計な問題を起こしてしまって」
ユウ君が落ち込んでしまった。
それを慰めたのは座長だった。
「いや、いいんですよ、ほら、ボクが外で眠ればいいだけですし、気にすることありませんよ。そうすれば解決じゃないですか」
米ちゃんが首を振る。
「そんなことしたらユウ君が余計に申し訳ない気持ちになるだけでしょ。こういうのって、優しすぎるのはダメなんだって。もうさ、話し合うのも面倒だから勝手に決めていい?」
米ちゃんは、周りが同意する前に話を続ける。
「まず酔っ払いのヒロシさんは女子とペアにさせられないから、窮屈なテントを用意した責任を取って座長が一緒にペアを組むこと。初対面のユウ君も男子とのペアだね」
「待って、米ちゃん」
待ったをかけたのは森ちゃんだ。
米ちゃんは頷く。
「分かってる。森ちゃんは太ってるから一番小さい綾がいいんでしょう? アンタ少しは痩せなさいよ」
「すいません」
森ちゃんの返事には、心がこもっていなかった。
米ちゃんが続ける。
「堀田先生は男子と組ませられないから、私か広美が男子と一緒のテントで寝るしかないよ。後はジャンケンで決めちゃおう。私と広美がジャンケンするから、男子も早見君とシュウでジャンケンして」
米ちゃんが仕切ると誰も反対できないので、結局は素直に従うしかなかった。座長か僕の提案なら反発する広美も、相手が米ちゃんなら何も言わなかった。リーダーの役割を担ってくれる女性がいると、こういう時に助かるのだ。
ジャンケンの結果は、勝ったのが僕と米ちゃんで、負けたのは早見君と広美だった。
「とりあえずシュウじゃないだけで良しとするか」
広美がわざわざイヤミを言った。
「え? 違うよ」
米ちゃんが広美の言葉を否定する。
「男女のペアってさ、女子にとっては罰ゲームだと思うんだ。だからこっちは負けた広美で決まりだけど、男子にとってはご褒美みたいなものでしょう? だから勝ったシュウが広美とペアになるんだよ」
「ええええええっ」
広美が舞台でも出さないような大きな声で絶叫した。
米ちゃんがニッコリする。
「じゃあ早見君がユウ君とペアで、私が先生とペアを組むね。なんだかんだ言って、男女の組み合わせでは広美とシュウが一番仲良いんだから、なるようになったっていうことだよ」
「シュウ君、いきなりオトコ出さないでね」
綾ちゃんが釘を刺した。
「大丈夫だって、シュウにそんな度胸ないから」
そう言って、森ちゃんがバカにして笑った。
「ぜんぜんっ、笑えないんだけど」
広美が本当に嫌がっているようで冗談に思えなかった。
僕が広美と仲が良いというのは完全な誤解だった。広美の毒舌に耐性があるというだけで、しっかり受け止めているということではないのだ。それを夫婦漫才の相方のように思われては心外である。
それでも男女のペアを一組だけ作るとしたら、やはり僕と広美が無難であるというのは納得せざるを得ない結論だ。暗黙の了解として、劇団内では恋愛を禁止しているので、そこを踏まえると、僕と広美がペアを組むのがベターな選択になるわけだ。
そう考えると、これは米ちゃんによるマジシャンズ・セレクトだったのではないだろうか? ジャンケンの結果に係わらず、彼女は初めから僕と広美を組ませるつもりだったのだ。手品やドラマでもお馴染みなので、素人でもやろうと思えば簡単である。
例えば僕が負けていたら、そのまま二人とも罰ゲームとして選ばれていただろうし、僕と広美が勝った場合は罰ゲームだと相手に失礼だとか言って、ご褒美としてペアを組ませていたに違いない。
問題は広美が勝って、僕が負けた時にどうするかだ。この組み合わせで全員を納得させる説明を見つけるのは難しいからである。その場合だけ僕と米ちゃんがペアを組むということも考えられる。
この組み合わせも、恋愛感情が一切ない取り合わせなので問題ないからだ。米ちゃんは素敵な女性だが、恋愛対象として意識したことは、これまで一度もなかった。しかし、そんなことを言うと引っ叩かれるので、口にすることはできなかった。
どちらにせよ、ジャンケンに勝った僕が男女のペアを組まされている時点で、米ちゃんの見えざる意思が存在したのは確かだろう。仮にその意思が見えていたとしても、素直に従うしかないのが劇団内の力関係である。
テントの設置場所は、海に向かって横一列に並び、西側から座長とヒロシさん、早見君とユウ君、僕と広美、森ちゃんと綾ちゃん、米ちゃんと堀田先生のペアが、それぞれ適当な間隔で設営した感じだ。
ただし座長とヒロシさんのテントだけはいびきを考慮して、二十メートル以上離れて一組だけぽつんと設営することとなった。それに対して二人が抗議するということはなかった。合宿では毎度のことなので、むしろ自ら進んで気を利かせるほどである。
ワンタッチ式の二人用ドームテントを組み立てて、実際に中に入って感じたのは、思ったより快適だということだ。子どもの頃に巨大バルーンの中で遊んだ時のことを思い出し、ニヤけてしまうほどだった。
「なに笑ってんの?」
広美が汚物を見るような目で僕を見た。
「いや、このテントが二千円もしないって凄いと思って」
「そんな笑い方じゃないように見えたけど」
勘の鋭い広美に、僕の誤魔化しは通用しなかった。
「言っとくけど、指一本でも触れたら殺すからね」
広美が真顔で警告したが、この真顔こそ広美の演技力の凄味だ。この表情があれば、どんなに現実離れしたセリフも芝居の世界から現実世界に変えることができた。ただし今回の警告を破ったら本当に殺されかねないので、僕としても絶対に破るわけにはいかなかった。