3月31日 昼
北海道の日本海側には有人島の奥尻島があり、そこから真っ直ぐ南下したところに日本最大の無人島である渡島大島が存在する。およそ松前港から船で三時間の距離にある所なので道民にも馴染の薄い島だ。
そこから更に西へ一時間以上掛けて向かった先にあるのが、僕たちが目指す石島という小さな島だった。四時間以上も掛けて上陸する者は珍しく、船を出してくれた漁師さんの話だと、民間の旅行者で島に上陸した話は聞いたことがないと言っていた。
石島に船が接岸できるような港ができたのも半年前ということで、それまでは近づくことさえも叶わぬ島であった。それを遭難した漁船が停船できるようにと工事を始めたのが十年以上前というのだから、上陸した人がいないというのも無理のない話である。
ただ、どこにでも物好きはいるはずなので、石島にも島マニアが行っているはずだと思っていたのだが、インターネット上で検索してもブログに旅行記を載せている人を見つけることができなかった。それくらいレアな場所であった。
「イメージ通りだな」
それが船上から見た石島の第一印象だった。なぜ石島がレアなスポットなのか、それは実際の目で見ることで分かったような気がした。石島という名前の通り、まさに岩しかなかったからである。
見たままを描写すると、だ円ではなく、ひし形の四角柱の岩山が島に鎮座しているといった感じだ。岩肌がツルツルしているので、カップのコーヒーゼリーを皿の上にひっくり返したようにも見える。いや、茶色い菱餅が海に浮かんでいるように見える。
岩山の壁は限りなく垂直で、とてもじゃないが、素人が登れるような壁山にはなっていなかった。ロッククライミングには最適かもしれないが、ロマンを感じる標高ではないし、練習するには交通の便が悪すぎるだろう。
上陸する前に島を周遊してもらうことにした。見ると東端の港から北側半分は断崖絶壁で、歩いて島を一周するのは不可能に思われた。ただ、びっしりと岩礁が敷き詰められているように見えるので、崖下が浅瀬であることは間違いないようである。
干潮の時に濡れるのを覚悟すれば、島を徒歩で一周することもできなくはないのかもしれない。僕は泳げないのでチャレンジしようと思わないが、ウェットスーツがあれば、それほど難しくはなさそうな印象である。
西端から南端までが浜辺になっていた。浜辺の奥まった崖下に草が生えているのはそこだけなので、安全にテントを張れるのもそこだけと言えるだろう。一泊だけとはいえ、念には念を入れておくに越したことはないのだ。
そこから南端の岬まで浜辺を歩くしか道はないようだ。満潮時に道が残っているか不安だが、とりあえず、この時期の同じ時間帯ならば、歩いて島の南側半分を自由に行き来することができるようだ。
南端の岬の崖下を歩いて、港のある東端へ向かうと、途中に階段を上がって防波堤の上を歩けるようになっている。ちょうどそこが中間地点らしく、そこに工事をしていた人が寝泊まりしていたと思われる天井の高い小屋が建っていた。
そこに小屋を建てたということは、そこが島で一番安全な場所ということなのだろう。小屋の近くにテントを建てた方がより安全性が高そうだ。舗装された道は車両二台分の幅になっていて、それが東端の波止場まで続いていた。
島をぐるっと見渡して分かったことは、西端の浜辺から東端の港へ行く道は、南端の岬の崖下を歩く一本道しかないということだ。そして西側の浜辺からは、南端の岬が突き出しているため、東側の港の様子がまるっきり見えないということが分かった。
ただし南端に立てば見通しがいいので、そこからなら西端から東端まではっきりと見渡すことができそうである。とにかく地図で見た通り、東西南北がはっきりしたひし形の島になっているということだ。
船が接岸できるのは島の東端にある港だけなので、僕たちを乗せた船もそこへ入港した。半年前に出来たばかりということもあり、防波堤や突き出た埠頭に、損傷は一切見られなかった。コの字型をした波止場の湾内は穏やかで、上陸するのに何の支障もなかった。
ただ、荷物をすべて下ろし終えた時、漁師さんが「気をつけて帰るんだぞ」と、まるで他人事のように言い放ったのが心に引っ掛かった。「また明日」というお決まりの台詞があっても良さそうだが、みんな船酔いで、それどころではなかったというのが、その時の状況だった。
「帰りたい」
森ちゃんが見るからにぐったりしている。持参したミルクティよりも飲料水を欲しがったので何事かと思ったが、それは飲むためではなく、胃液で酸っぱくなった口をゆすぐためだったようだ。
「ほんと来るんじゃなかった」
綾ちゃんも元気がない様子だ。先ほど船の上から海に吐瀉物を吐き出す姿をモロに見てしまったので、余計にそう見えるのかもしれない。普通なら百年の恋も冷めるところだが、僕は意外にも人間が出来ているので、そういうことで引くことはなかった。
「しゃべるのもつらいね」
弱っている広美を見るのは初めてで、それだけで貴重な体験をしていると実感することができた。普段は僕に対してキツく接してくるので、元気がない姿を見るだけでニンマリとしてしまう自分がいる。
「ねぇ、座長、これからどうするの?」
比較的元気な米ちゃんが、船酔いの女性陣を介抱している。
「もう少し休ませて下さい」
そう言って、座長は地べたで大の字になって目を閉じた。
「ここまで来たら、そんな急ぐ必要もないもんな」
そう言って、ヒロシさんが早速持参した焼酎をラッパ飲みした。
早見君とユウ君はこの日が初対面だというのに、船上の会話ですっかり打ち解けて、魚釣りのポイントを探るため、埠頭の端を行ったり来たりし、二人で海面を覗き込んでいた。僕がロン君と仲良くなった時と同じように、ユウ君が積極的に話し掛けている感じだ。
それとは別に、堀田先生がノートを持ちながら歩き、足を止めてはノートに書き込み、書き込み終わったら、また歩き出すという行為を繰り返していた。基本的に日頃から単独行動ばかりしているので、堀田先生の行動について気に留める劇団員は、僕以外にいなかった。
僕は船の揺れに慣れていたので、船酔いすることはなかった。それでも漁船は初めてだったので乗る前は不安だったのだが、一度船に慣れてしまえば、酔うことはないということが分かった。何事も慣れのようである。
子どもの頃から船旅に憧れて、いつか叶えてみせると思い続けて実現したのが去年の夏休みだった。一人で苫小牧発、大洗行きのフェリーに乗って、観光せずに、すぐにフェリーで引き返すだけの旅行だったのだが、人生を変えるような境地を得たのは間違いなかった。
それは何でもない風景に過ぎないのだが、僕にとっては、それまでの人生で最も美しい風景に感じられたのだ。あのフェリーの船上で見た日の出は一生の宝物であり、生涯忘れることはないだろう。
僕が生まれる前から毎日欠かさず昇ってきたであろう太陽を見て、僕は自分の目に見えないところに、常に美しい風景が存在していると思い知らされたのだ。自分の目に映るものだけが美しいとは限らないわけである。
「なにニヤニヤしてるの? みんなが苦しんでるの見て、よく笑ってられるね」
米ちゃんが海を見て夢想する僕に声を掛けた。
「シュウ、サイテーだな」
広美も僕を睨む。こういう時の広美は冗談か本気か分からない、という芝居の上手さがある。
「シュウ、キモイ」
森ちゃんの場合は本気なのだろう。
「ほんとサイテー」
綾ちゃんの言葉は確実に冗談だと分かる。
「大丈夫か?」
言われ放題も嫌なので、僕は広美の背中をさすってやることにした。
「やめろ、バカ、触るな」
やはり予想通りの反応が返ってきた。
「ねぇ、座長、休むならテント張ってから休もうよ」
じっとしているのが苦手な米ちゃんが痺れを切らした。
イライラしてきたのを察してか、座長がむっくりと起き上がる。
「そうしましょうかね。日が沈んだら何も出来なくなりますからね、その前にやることだけはやっておかないといけません。ということで、みんなを集めてもらえますか?」
号令は米ちゃんの仕事だった。
「みんな集まって!」
しっかりと腹式呼吸が出来ているので、誰よりもよく通る声をしている。
埠頭の先にいる早見君とユウ君も駆け足で戻って来て、米ちゃんを満足させた。
それから十人が輪になって、地べたに座り込んだところで座長が話し始めた。
「さて、いよいよ、こうして無人島生活が始まったわけですが、みなさん気分はそれほどいいわけではないようですね。かくいうボクもすっかり参ってしまったわけですが、時間にすると、あと五、六時間で日が沈む計算になります。この島には時計がないのでスケジュール通りの行動はできなくなるわけで、ここからは早めに行動せねばなりません。まず初めに決めなければいけないのはテントの設置場所です。僕としては、今日のところはもうここから動かなくても構わないと思うんですが、みなさんの意見はどうですか?」
米ちゃんが真っ先に答える。
「移動するにしても小屋のあった所か、あとは突き出た崖の向こうにある浜辺しかないんじゃない? ほら、浜辺の奥に原っぱがあった所ね、そこくらいだから限られてはいるんだけど、水の入ったポリタンクを運ぶのって、結構大変だと思うんだ。だからそこをどう判断するかだよね」
座長が説明する。
「一つ二十キロですよ。運べなくはないですけど、わざわざ運んでまで移動することもないような気もしますね」
それに対して、ヒロシさんが意見する。
「全部運ぶとなりゃ無理だけど、一つだけなら何とかなるだろう? 野郎だけで運んで、疲れたら交代するだけでいいんだし、すぐそこじゃねぇか」
座長が疲れた顔をして説明する。
「見晴らしがいいからすぐそこに見えますけど、地図によると、今いる港から南端の岬まで距離にして二キロ以上はありますからね。そこを二十キロの水を運びながら移動すると、二、三十分はかかっちゃうんじゃないですか?」
「だったら、ここでいいか」
ヒロシさんがすぐに折れたので、僕は流れを変えなければいけないと思った。
「でも無人島に来たのに港にいたんじゃ、一体なんのためにこんな所まで来たのか分からなくなりますよ。座長も言ってましたよね、わざわざ行くんだから、ちゃんとルールは守った方がいいって。だったら浜辺まで行った方が面白いと思うんだけどな」
「どうしたの? 急にやる気出して」
米ちゃんが僕を見て笑った。
早見君が珍しく積極的に発言する。
「ここまで来たら、別々に行動しても良いような気がするけど、それじゃダメかな? 明日の昼には迎えが来るんだし、もう自由でいいと思うんだ」
その言葉に座長が首を振る。
「これは旅行と違って合宿ですから、今までの合宿同様、集団行動は大事にしていきましょう」
そこで米ちゃんが何やら思いついたようだ。
「一回多数決採ってみる? 賛成なら手を上げてね。それじゃあ、ここにテントを張りたい人?」
手を上げたのは座長、ヒロシさん、森ちゃん、綾ちゃん、広美の五人だった。
「ああ、そっか」
その結果を受けて、米ちゃんがペロッと舌を出す。
「ユウ君が急きょ参加したから多数決じゃ決まらなくなったんだ。いつもなら決まってたもんね。ねぇ、どうしてユウ君は移動した方がいいと思ったの?」
尋ねられたユウ君は落ち着いている。
「それは、ここら辺はコンクリートで舗装された固い地面しかないからです。その上にテントを張っても、床が固くて眠れないと思うんです。だったら原っぱの方へ移動した方がいいと思って手を上げませんでした。それと、この時期にキレイな緑色の芝があるということは、地熱も高そうなので、ここよりはマシだと思ったんです」
「ああ、だったら私もそっちにする」
森ちゃんが意見を変えた。
「うん、眠れないくらいなら三十分歩いた方がマシだよね」
綾ちゃんも続いた。
「水は男子に任せよう」
広美も異論はないようだ。
「ということで、ヒロシさん、水を運ぶの、お願いします」
座長が頭を下げる。
「俺はもう男子って呼ばれる年じゃねぇよ」
と言いつつ、ヒロシさんはすぐに立ち上がり、二十キロのポリタンクが置いてある方へと歩き出した。そういえば正確な年齢を聞いていないが、大学を卒業した年齢だということは、前に聞いたことがあった。
現在はテントも寝袋もコンパクトで、どれも安価で手に入れられるので実物を見てびっくりしてしまう。二人用のテントなど折り畳み傘くらいの大きさなので片手で持ち運べてしまうのだ。寝袋もまるで重みを感じないし、子どもの頃に経験したキャンプとは大違いだった。
それら軽めのアイテムを女性陣に任せて、男性陣は水を運ぶことになった。一度は往復してすべてを運ぶことで決まっていたが、すぐに暗くなりそうだったので、この日は五つのうち三つを運ぶことにした。
ポリタンクが空になってから半分移し替えれば軽くなると意見したが、「二十キロくらいで小細工するな」とヒロシさんに一喝されて却下されてしまった。座長は十キロの米を持っていたので、水は残りの四人で運ぶことになった。
南端の岬に行く間にある小屋に寄ることも忘れなかった。事前に避難用の山小屋があることは知っていたが、予想よりも大きかったというのが率直な感想だ。全員で中に入って確かめたのだが、そこで当然の話し合いが行われた。
米ちゃんが初めに口を開く。
「もうさ、ここに泊まっちゃった方がいいんじゃない? ロフトに五人、下に五人でさ、全員で横になっても余るくらいのスペースがあるよ」
座長が補足する。
「使うかどうかは別にして、アルコールランプがありますね。テーブルと椅子もあるから、現代的な生活もできますよ」
「ただ、勝手に寝泊まりしていいのかっていう問題はあるけど」
僕が疑問を口にすると、米ちゃんがあっけらかんと答える。
「いいんじゃない? 後で掃除すればいいんだし、むしろ使った方がいいくらいだと思う」
座長も同意する。
「そうです、そうです。雨が降ったら使わなければ意味がありませんし、そこは気にする必要はありませんね。ただ、寝心地で言えば原っぱの上にテントを広げた方が良さそうですけどね。それにわざわざテントを持ち込んできたので、使わないのは惜しいというのもあります」
「そこだよね」
米ちゃんが腕を組んで考え込んだ。
「あの」
小さな声だったので誰が発言したのか分からなかった、ということは堀田先生だ。
「なに? どうしたの?」
米ちゃんが促すが、堀田先生は口を開こうとしない。
「いいんだよ、気づいたことがあるなら教えてほしい」
米ちゃんが優しく微笑んだ。
堀田先生が赤面する。
「あの、その、ここを、そんな風に使っちゃいけないと思うんだけど、でも、どうしても外で出来なくて、だから、ここをトイレとして使わせてほしくて」
「ああ、そういうことね」
米ちゃんが納得して頷いた。
座長が頭をかく。
「簡易トイレは用意しましたけど、場所までは考えていませんでした。いや、申し訳ない。確かに死角があるとはいえ、茂みがないような場所なので、浜辺で用を足すというのは抵抗があるでしょうね」
森ちゃんも賛同する。
「内側から鍵を掛けられるし、窓はロフトの位置にあるから、外から見られる心配ないもんね。そうしようよ。ちょっとだけ背徳感があるけど、しょうがないね」
「外でするのは絶対ムリ」
綾ちゃんも断固支持した。
「さすが、先生だ」
広美も支持に回った。
「検索した画像では小屋の横に仮説トイレがあったけど、それは撤去しちゃったんだね」
早見君がいま思い出したかのように呟いた。
それに答えたのはヒロシさんだ。
「仮説トイレは放置すると悲惨だからな、まぁ、撤去するだろうな。いいんじゃないか? 汚さないようにすれば文句は出ねぇだろう。こればっかりは仕方ねぇよ。男なら外でも構わないけど、女はそういうわけにもいかねぇもんな」
そこで疑問を感じたので口にしてみた。
「でもこの小屋がなかったらどうしてた? その場合は外でも仕方ないと思ってたんだよね?」
「小屋がなかったら初めから来ようなんて思わないよ、バカ」
広美に怒られたが、僕としては納得できる回答ではなかった。小屋がなければ来ようと思わなかったということは、初めからトイレ代わりにしようと考えていたわけで、堀田先生が提案する前から小屋をトイレとして使うことを想定していたということになる。
いや、それは考えすぎで、単純に小屋があるような無人島なら大丈夫だろうと考えたにすぎないということだろうか? いずれにせよ、トイレの話はデリケートなので、これ以上、話を広げないように努めねばならなかった。
早速三人娘が用を足したいということで、その場に残して他の者は浜辺に行くことにした。簡易トイレやトイレットペーパーの他に水が入ったポリタンクを一つ丸ごと残していこうかという意見も出たが、手を洗う時は海水で洗うことにしようということで却下された。