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4月2日 真夜中

「ぐわっ」

 踏んづけられて目を覚ました。

 いや、単に触れられただけかもしれない。


「あっ、ごめん」

 広美の声だが、街中なら聞こえないような小さな声だ。


「んん」

 声に出したかどうか、自分でも分からなかった。


 テントの入り口が開けられ、中に月明かりが広がった。

 つまり、まだ夜明け前ということだ。

 でもそれだけでは、日付が変わったかは分からない。


「森ちゃん」

 外に出た広美が、隣のテントに呼び掛けたのだろう。

「綾」

 少ししてから、広美が戻ってきた。


 とりあえず、寝たフリをした。

 目は閉じたままだが、なんとなく広美が僕を見ているような気がした。


「シュウ?」

 そう言って、広美は僕の肩を軽めに叩いた。


「んん」

 今度ははっきりと声に出した。


「起きて」

 暗くて表情までは確認できない。

「ん?」

「森ちゃんと綾がいないの」

 不安そうな声だ。

「トイレだろ?」

「知ってるよ。だから……」

 想像だが、モジモジしているように感じる。

「だから、なに?」

 少し間を置いてから、広美が答えた。

「わたしも行きたいの」

 なぜか怒っているような口調だ。

「行ってこいよ」

 そこで、広美は黙ってしまった。

 しばらくしてから、ぼそっと呟いた。

「……一緒に来て」


 確かに、この暗闇の中を小屋まで一人で行くには怖すぎる。男の僕ですら、躊躇してしまう距離にある。夜中の海ほど怖いものはないし、家のトイレですら怖い時がある。それでも文句を言わずにはいられなかった。


「なんで昼間のうちに行かなかったんだよ?」

「行ったけど、またしたくなったんだもん」

 暗いんだから、そこら辺でしろよ、とは思ったが、実際には口にできなかった。

「朝まで我慢は?」

「できない」

「仕方ねぇな」


 とは言ったものの、普段当たりの強い広美に対してトイレに一緒に行ってやったというのは、大きな貸しを作ったことになるので悪い気分ではなかった。それでも嫌々付き添うという姿勢を見せなければ貸しにならないので、起き上がるのも億劫そうに見えるように演技した。


 テントから出て夜空を見上げたが、東の空はまだ日が昇る気配がなかった。

 真夜中といってもいい時間かもしれない。

 隣のテントを見ると、確かに入り口が閉まっていなかった。


 それでも念のために尋ねてみる。

「入り口が開いてるけど、寝てるだけじゃないの?」

「ちゃんと中も見たよ」

 他の人を起こさないように、互いにヒソヒソ声だ。

「綾ちゃん、森ちゃん」


 一応声を掛けてから中を見ると、確かに寝袋が抜け殻のように丸まっていた。中にいてくれると助かると思ったのだが、これで確実に小屋まで行かなければいけなくなったというわけだ。いくら二人で行くとはいえ、僕だって怖いことに変わりはなかった。


 いざ、小屋へ向かおうとしたところで思い出す。ユウ君と早見君のテントの横に置かれていた釣竿がなかったのだ。ということは、すでに二人が朝釣りをしに港へ行ったということだ。どれだけ眠ったか分からないが、寝覚めもいいので六時間は眠っていたのだろうか?


 いや、釣りには夜釣りというものもある。それならばと、僕も釣竿を持って行くことにした。小屋まで行って、広美が二人と合流すれば、そこで僕はお役御免となる。その足で港へ行ってユウ君たちと合流すれば、眠る前に願っていた予定通りの行動となるからだ。


 つまり、結果的にすべてうまくいったということだ。おまけに広美に貸しを作れたので、予想以上ともいえるだろう。貸しを作ってどうなるというものでもないが、恩は売れる時に売っておくに越したことはないのである。


 小屋までの道中、広美が怖さを紛らわすためか、鼻歌を歌っているので、気軽に話し掛けられなかった。その時、なぜか僕は高校時代の家出を思い出していた。おそらくこの寒さと恐怖が、その時の状況を思い出させたのだろう。あの時も暗闇の中をひたすら歩いていた。


 家出の理由は覚えていない。元日だったことだけは覚えている。根雪で街中が灰色に塗り替えられていた時期だ。路上はアイスバーンで、行き交う人はスローモーションのような動きに見えた。


 昼間のうちは寒さなんて感じなかった。なぜなら駅前のバスターミナルなら何時間でも座っていられるからだ。でも日が沈んでからは、座って休める場所なんてどこにもなかった。耳は切れるように痛いし、手はかじかんで動かなくなっていた。


 一度濡れた靴は冷水に足を浸けているのと同じなので、歩き続けるのも困難である。結局は、日付が変わる前には家に帰ってしまった。それが誰にも気づかれない、生涯唯一の、僕だけの家出だった。


 一つだけ分かったことといえば、冬の北海道では金がなければ家出はできないということだ。一人ではどうすることもできず、自分の弱さと向き合わされるのである。自然は簡単に人間の命を殺してしまうし、また、自然はそれに対して何も思わないのだ。


 冬の寒さや風の冷たさに感情はない。寒さで死んでも風が止むことはないし、寒さが和らぐこともない。ただひたすら吹き続けるのだ。圧倒的な自然の前では、人間は謙虚にならざるを得ないのである。


 気がつくと、南端の岬に辿り着いていた。昼間なら崖下を曲がれば、そこから港の先の埠頭まで一望できるのだが、夜中の月明かりの下では、島の輪郭がぼんやりと見える程度だった。これは近視だからというわけではないだろう。


 小屋は崖と同化していて、輪郭すら確かめられないといった有様だ。港にいるはずのユウ君たちの姿が見えないのは当然だが、小屋から戻ってくる森ちゃんと綾ちゃんの姿も、声が届く範囲にいたとしても見過ごしそうだ。


 広美は一言も話し掛けてこなかった。なにか話し掛けてくれれば、僕としても会話で怖さを紛らわすこともできるのだが、会話の取っ掛かりすらくれないので、僕も黙っていることしかできなかった。


「フンフンフンフンッ」


 ただし、僕と同じ怖さを広美も感じている可能性は否定できない。鼻歌の陽気なメロディが何よりの証拠である。どう見ても気分を紛らわせるための行為だ。こういうのは、気が強そうな人ほど怖がりだったりするのかもしれない。


 会話がないので、今度は綾ちゃんのことを考えた。おそらく歩いているうちに身体が温まり、それが綾ちゃんへの気持ちを思い出させたのだろう。高校一年生の時に出会って、それからずっと片思いしているので、綾ちゃんのことを考えるのは、すでに日常の一部になっていた。


 厳密にいうと、考えるというより、前日に見た表情を思い出すという、作業に近い習慣だ。綾ちゃんに片思いしても、告白して思いを遂げようとは思っていない。僕はどちらかというと、好かれる努力よりも、嫌われないための努力に神経をすり減らすタイプの人間だからだ。


 綾ちゃんはこれまで、僕が知る限り三人の男子と付き合ってきたし、僕のことを一瞬でも異性として見たことがあるとは思えなかった。それでも好きになってしまうのは、笑った顔を死ぬまでずっと見ていたいと思うからだ。


 僕の恋愛感情はその程度のものだが、そう思わせてくれる人が綾ちゃん以外にいないというのが、この世界の現実だった。高校に入学して、五月になる前には、もう好きになっていた。演劇部に入部したのも綾ちゃんがいたからである。


 大学に入ってからの堀田先生は、シェークスピアに心酔してしまったこともあり、その影響からか、夏の公演で綾ちゃんは王妃の役をやると聞いている。現在の僕にとって、何よりも楽しみなのが、その舞台を鑑賞することだった。


 自分の人生で起こるどんなことよりも、綾ちゃんの舞台が大切なのだ。もちろん僕も男なので、綾ちゃんで性欲を果たしたいという衝動はある。でもそれで綾ちゃんの舞台が観られなくなるような事態を招くのは御免だった。それくらい舞台の上の綾ちゃんは魅力的なのだ。


 そんなことを考えているうちに、小屋が見えてきたのだが、そこに二人の姿はなかった。用足しの最中ならば、一人は外に出ているはずである。それとも、やはり暗闇が怖いので二人とも中にいるのだろうか? いや、外で用を足すことも考えられる。


 どちらにせよ、小屋の周りや中に人がいる気配が感じられないので、それ以上考えるのはムダだった。テントや小屋にいないということは、二人で港へ行った可能性が高い。なぜなら、一本道しかないこの島で、すれ違うことなく小屋まで来たからである。


 それでも一応、広美に注意を喚起してもらおうと思った。

「いきなり俺が声を掛けると後で文句を言われるからさ、とりあえず中にいるかどうかだけ、先に見てきてよ」


「うん。いなそうだけどね」

 と言いつつ、小屋の前まで行って、中に呼び掛ける。

「森ちゃん、いる? 私だけど、シュウも一緒。綾、いないの?」


 反応はない。やはり中は無人のようだ。

 これで小屋に近づいても、問題はないだろう。


「ここにいないってことは、港へ行ったんだよ。おれらも行こう」

 港へ行こうとすると、すぐに呼び止められた。



「待って」


 待ったけど、広美から次の言葉が出てこない。


「なに?」


 広美の目が怒っている。

「トイレだよ!」

 目的地に着いた途端、いつもの広美に戻ってしまった。


「ごめん」

 そうだった。本来の目的を失念していた。

「待っててやるから、早くしてこいよ」

 小屋から離れたところで待つことにした。


 広美は僕が離れるのを確認してから、小屋の中へ入っていった。

 中から鍵が閉まる音がする。

 しばらくしてから、扉の隙間が一瞬だけ明るくなった。

 その直後、広美の悲鳴が響き渡った。

 僕は釣竿とエサ箱を放り出し、急いで入り口の前に行き、扉を強く叩いた。

 中で広美が慌てている様子だ。

「早く、鍵!」

 声を掛けた直後に扉が開き、中から広美が這って出てきた。

 完全に腰を抜かしている。

「大丈夫か?」

 と言っても、広美から反応が返ってこなかった。

 小屋の中を見ても、真っ暗で何も見えない。

「どうした?」

 呼び掛けてみたが、広美は焦点が合っていない様子だ。

「何があった?」

「なか……」

 広美に説明を求めるのは無理だと判断し、小屋の中へ入ることにした。

 広美はライターを持っていたが、どうやら床に落としてしまったようだ。

 まずは、それを見つけることが先決だろう。

 入り口付近を這いつくばって、暗闇の中をまさぐった。

 広美は入ってすぐに落としたようなので、すぐに見つけることができた。

 そこでライターの火を点けてみる。

 目の前に見えたのは、ロフトの柵にロープで吊るされた、綾ちゃんの首吊り死体だった。


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