4月1日 昼過ぎ
謎の脅迫状は、なぜか僕の手中にある。座長の手から米ちゃんの手に渡り、それを彼女が無言で僕に押し付けてきたのだ。それはまるで暗に僕がやったと決めつけているようで納得がいかなかった。それならばユウ君のようにストレートに尋ねてもらった方がマシである。
「シュウ君が仕込んだの?」
「いや、違うよ」
すでに解散し、周りの者は散り散りになっていた。
僕たちは原っぱで腰を落ち着かせているところだ。
「でも、誰かが仕込んだわけだよね。心当たりはある?」
「さぁ……、でも、こんな子どもっぽいイタズラをするのは、やっぱり座長しかいないんだよね。座長はヒロシさんだと思ったみたいだけど、こんな手の込んだイタズラをすると思えないし、やっぱり座長かな」
「シュウ君、今日小屋に行った?」
ユウ君は、まだ僕を疑っているのだろうか?
「いや、港へは行ったけど小屋には寄ってないんだ。実は僕もヒロシさんと同じで、誰も見てないから外でオシッコをしちゃったんだ」
「そうか、だったらいつ置かれたか分からないね」
僕を疑ったわけではないということか。
「考えても意味ないと思うよ。どうせ座長の仕業だろうし」
「うん、でも分からないことをそのままにしたくないし、頭が勝手に考えちゃうんだ」
「だったら、それも仕方ないね」
そこへ釣竿を持った早見君がやってきた。
「港へ行くけど一緒に行かない?」
僕が答えるより先に、ユウ君が口を開いた。
「僕たちは後で行くから先に行ってていいよ」
昨日知り合ったばかりとは思えない、まるで旧友のような返事だ。
「うん」
早見君もユウ君のフランクな対応に違和感がないようだ。
それからユウ君が去りかけた早見君を呼び止める。
「そうだ。聞きたいことがあるんだけど、この紙、小屋のどこにあったか覚えてる?」
「ああ、それなら、小屋に入ってすぐの右手にテーブルがあったよね? その上にアルコールランプを文鎮代わりにして置いてあったんだ」
「小屋に行ったのは、その時が初めて?」
早見君が思い出しながら説明する。
「うん。いや、昨日の夜中に行って、中が真っ暗だったから、外でしたんだ。ああ、ちゃんと携帯トイレは使ったけどね。でも今日はさっきが初めてかな」
早見君は立ちションをするタイプではないと思っていたが、その通りだった。
それから、僕はユウ君の好奇心に付き合わされることとなった。厄介なことに、質問役まで押し付けられ、聞きたくもないことを聞いて回るという、損な役目を引き受けたわけである。結局、僕も好奇心には克てないということだ。
最初に話を聞くことにしたのは米ちゃんだった。テントでウェットスーツに着替えた直後だったので、どこかへ行ってしまう前に捕まえておく必要があったからである。北海道の四月の海に入るなんて正気とは思えないが、島を一周するのはおもしろそうだと思った。
「話ってなに?」
問題はどう尋ねるかだ。この島で小屋に行った回数を尋ねるのは、トイレに行った回数を尋ねることを意味する。いくら無粋な僕でも、女性に対してそんなストレートな質問をするほどバカじゃない。単刀直入に尋ねては単純に嫌われるだけなので、質問を工夫する必要があった。
「このイタズラだけどさ、本当は米ちゃんが仕込んだんじゃないの?」
「はぁ?」
米ちゃんが目を見開いて怒り出す。
「なに言ってんの? 勘弁してよ。私がそんなことするはずないっしょっ。バカじゃないの? 自分でしょ?」
怒るのも予想できたし、僕を疑っていたというのも予想通りだ。
「いや、俺じゃないけど、俺じゃないなら米ちゃんかと思って」
「それ本気で言ってるの? 私がトイレに行った時は先生も一緒だし、朝起きてすぐに行ったけど、そんなものはありませんでしたっ。だとしたら、稽古の後に一人で港の方に行ったシュウしかいないでしょう。正直に白状したら許してあげる」
「ごめんなさい」
許してあげるという甘い言葉に、つい、いつもの癖で謝ってしまった。
「ほんとシュウってセンスないよね。これなら座長の嘘の方が百倍マシだわ。ほら、こうしてウェットスーツを着る機会もできたし、考えてみれば良かったって思えるもん。それに比べてさ、なにそれ? 紙だけで騙そうとするのが安っぽいんだよ。まぁ、それがシュウらしいところでもあるんだけどね」
許してくれたとは思えない言葉の数々だが、ここはグッと堪えるしかない。何事も穏便に済ませるというのが一番だからだ。それより聞きたいことは聞いたけど、今後のためにも米ちゃんの機嫌を直しておく必要があった。
「うん。ほんと座長はすごいよ。米ちゃんのウェットスーツ姿を見られただけでも感謝しないとな。スゴイよく似合ってる」
「バカじゃないの? 『ウェットスーツが似合ってるね』って言われて喜ぶ女がいると思う? ほんとシュウはセンスがないんだよな」
そう言って、米ちゃんは港の方へ行ってしまった。僕としては全力で褒めたつもりだが、どうやら逆効果だったようだ。それでも米ちゃんと別れた後に、ユウ君に質問の仕方を褒められたので満足だった。
次は本命の座長といきたいところだが、堀田先生と話し合いをしているようなので、草むらで昼寝をしているヒロシさんに尋ねることにした。といっても、ヒロシさんは小屋を利用していないようなので、特に尋ねたいことはなかった。
代わりにユウ君が尋ねる。
「あの、脅迫状のことなんですが、復讐って、なんの復讐か分かりますか?」
ヒロシさんは寝そべりながら大笑いした。
「いやいや、そんなもん、ないよ。あれは単なるイタズラだろう? そこにいるシュウがよく知ってると思うから、そいつに尋ねた方が早いぞ」
ヒロシさんも僕を疑っているということだ。
ユウ君が質問を続ける。
「だったら復讐じゃなくて、劇団内で揉め事があったという話はありませんか?」
「そういうのもシュウの方が詳しいんじゃないのか?」
「いや、僕もあまり稽古場に顔を出してないんで」
ユウ君の質問の邪魔をしてはいけないと思い、極力反応しないように努めた。
ヒロシさんが勝手にしゃべり始める。
「まぁ、昔は早見を巡って先輩と後輩が取り合ったって話も聞いたけど、今はまったくないんじゃないか? ここはすげぇ居心地いいもんな。俺の元いた劇団なんか酷かったよ。色恋で揉めて、金で揉めて、芝居で揉めて、本番中に喧嘩してたからね。一人だけ負担が大きくなるとダメになるんだな。誰が稽古場の金を出してるんだって、文句の一つも言いたくなるだろう? あれから色々考えたけど、結局は客が入るかどうかなんだ。もし客で客席が埋まっていたら解散することもなかったような気がすんな。ここはいいよ、なにやっても完売だからな。上手くいってれば、何事もすべてがよく見えるっていうのもあるんだろうけど、やっぱり客だよ、客。舞台人っていうのは、色恋や芝居で喧嘩しても芸に結び付けて考えられるからな。金回りがよければ余計な心配もすることないだろう? まぁ、ハングリーかって言われたら、そうじゃないんだろうけど、まず、今の客がハングリーじゃないからな。ウチの劇団の持ち味はそこじゃないんだから、気にせず今のままやってりゃいいんだよ。座長も堀田先生もよくやってるよ。いや、役者陣だって、みんな頑張ってるさ」
劇団のことを話しているつもりのようだが、途中からヒロシさん自身のことを語っているような気がした。ヒロシさんはまだまだ話し足りない様子だったが、話が長くなりそうなので、そこで切り上げることにした。
それとは別に、話している間中、左手首のギブスの内側を爪で掻いていたのが気になった。見ているコッチまで痒くなるくらいだ。でも怪我をしているということで、全ての雑事が免除されているのは羨ましくもあった。
次に話をしたのが、テントの前でだべっている三人娘だ。座長は姿が見えないので後回しにすることにしたのだ。本当は一人一人個別で話したいところだが、いつも三人一緒に行動しているので、そういうわけにもいかなかった。
「みんなでお菓子でも食べようか?」
森ちゃんからの申し出は珍しかった。
「私はやめとく」
綾ちゃんが断った。
「なに? 食べないの?」
綾ちゃんがナーバスになっている。
「うん。食べ過ぎてトイレに行きたくなったら嫌だからね」
これは質問しやすい、いい流れだ。
それよりも社交辞令を済ませる方が先である。
「僕は一応、もらっとくよ」
「なに、その態度」
広美がキッと睨んだ。
常に素直でいないといけないことを忘れていた。
「ユウ君もどうぞ」
森ちゃんはユウ君がすっかりお気に入りのようだ。
「どうも、ありがとう」
返事が自然だ。
ユウ君が好かれるのはこういうところなのかもしれない。
「で、なにしにきたの?」
さすがは勘のするどい広美だ。
僕が用もないのに三人に話し掛けないことを知っている。
「いや、三人は今日いつ小屋に行ったかと思って」
「なんでそんなこと教えないといけないの?」
「ほんと、それって、いつトイレに行ったか教えろってことだよね」
「シュウはやっぱりヘンタイチックだな」
三人娘から一斉砲火を浴びてしまった。
「ヘンタイチックなんて言葉はない」
そう返すのが、やっとだった。
「いや、脅迫状がいつ置かれたか気になってさ」
「自分でしょ? だって、早見君の前に港に行ってたんだからさ」
森ちゃんが米ちゃんと同じことを言った。
「ほんと、しらじらしい」
綾ちゃんも僕がやったと信じて疑っていない様子だ。
「そんなことするのはシュウしかいないね」
広美は言うまでもなかった。
「自分で置いて尋ねるわけないだろう」
「それをするのがシュウでしょう?」
広美に何を言っても無駄だった。最近は何を言ってもこんな感じである。少なくとも高校時代はもっと可愛げがあったような気がする。やはり後輩がいないというのが原因かもしれない。身近に敬ってくれる人がいるだけで持たれる印象がかなり変わるからである。
そこでユウ君がじれったくなったのか、口を挟む。
「でも最後に港へ行ったという理屈でいうと、発見者は早見君だから、一番怪しいのは早見君ということになりませんか?」
「ああ、そういうことになるか」
森ちゃんは納得しつつも否定する。
「でも早見君はそんなことしないし、シュウじゃないなら、やっぱり座長?」
その問い掛けに、綾ちゃんの目つきも真剣になる。
「うん。ウチらが行った時にはなかったよね? ああ、でも暗かったから分からないか」
「やっぱりシュウでしょ」
広美は、どうしても僕の仕業にしたいようなので会話を諦めることにした。それにこれ以上は新しい証言を引き出せそうにもないので長居は無用である。聞き取り調査自体もムダのように思えたが、ユウ君は最後まで続けるつもりのようだ。
次は座長の番である。ところが、彼は体調が優れないということでテントの中で寝袋にくるまっていた。何もなければ安静にしてあげたいところなのだが、本命なので僕としても話し掛けない訳にもいかなかった。
「座長、脅迫状の件で少しだけ話を伺ってもよろしいですか?」
「そんなことよりですね、ボクの身体の方をね、心配してくださいよ。見れば分かるでしょう。こっちは具合が悪いんですよ。これは明日辺り確実に熱が出ますね。こんなことならサプライズなんてしなければ良かったですよ」
「大丈夫ですか?」
気休めに尋ねてみた。
座長は意識が朦朧としているように見える。
「そうです。最初にその台詞を言わなければいけません。ただね、大丈夫じゃないのは見れば分かるわけですから、その聞き方は芝居なら不適当とも言えます」
「じゃあ、なんて言えばよかったんですか?」
どうでもよかったが、付き合ってあげるのが僕の優しさだ。
座長が夢想する。
「そうですね、『座長、お疲れだったんですね。夕飯の支度は全部僕たちがやりますので、ゆっくり休んで下さい』とか、『座長が体調を崩しているなんて知りませんでした。それなのに稽古を休まないなんて、本当に頭が下がります』とか、色々あるでしょう」
「なんだか、昔の日本映画みたいですね」
座長が喜びそうなことを言ってみた。
「そうですよ、昔は挨拶を交わすワンシーンだけでも邦画の良さが出たんですから。日頃からもっと勉強してくれって言ってるじゃありませんか。演劇と映画じゃ違いますけど、芝居の勉強にはなりますからね」
座長には昔から溝口と、黒澤と、小津と、成瀬を観るように言われている。演劇と映画では芝居が異なるけど、その違いを知るためにも絶対に観ておくように、と命令されているのだ。僕もいつかは観ようと思っているのだが、なかなかその機会を作れないで現在に至っている。
「よかったら、僕がおかゆを作りましょうか?」
ユウ君の優しさだった。
その言葉に、座長の顔がほころんだ。
「ああ、これですよ、これ。今のがね、芝居じゃないのが惜しいくらいです。今の台詞こそ、お客さんに見てもらいたい芝居なんです。シュウ君、分かりますか? 押し付けるのではなく、やんわりと尋ねる感じ。その、さり気なさが堪らないじゃありませんか」
座長の頭の中は、常に芝居のことで頭がいっぱいのようだ。
それにしても、病人の割には口数が多いのが、どうしても気になるところだ。
炊事をサボるための仮病ではなかろうか?
「座長ね、そんなにペラペラしゃべってると病人に見えないですよ。これが仮に芝居だとして、僕が病人だとしましょう。そんな僕が元気のいいデタラメな病人の芝居をしていたら、座長は絶対に僕のことを怒ると思うんですよね。第一、合宿中に風邪を引いたらだめですよ。もし風邪を引いたのが僕だったら『緊張感が足りない』とか、『みんなに迷惑を掛けるな』とか言って、嫌味ったらしく怒るに決まっています。だから非難したり、怒ったりしないだけでも優しいと思ってください」
「だって仕方ないでしょう? ヒロシさんがお酒臭いんですから。テントで一緒に寝るくらいなら外で寝て風邪を引いた方がマシだって、誰だって思いますよ。あのテントは気密性が高いから匂いが充満するんです」
そこでユウ君が再び優しい声を掛ける。
「だったら僕とテントを代わりましょうか? 今日は夜中に起きて夜釣りをしようと、さっき早見君と約束したんです。そうすればゆっくり休むことができますよね? きっと、早見君も納得してくれるはずです」
ユウ君は僕に内緒で、いつそんな約束をしていたんだろう?
「ユウ君のような人を探してました」
台詞が短い時は、座長が本当に感動している時だ。
「僕も誘ってくれればいいのに」
僕の不満に、ユウ君が申し訳なさそうな顔をする。
「うん、そう思ったんだけど、ほら、シュウ君は広美さんと一緒のテントだから、起こすと迷惑になると思ってさ、誘えなかったんだ」
「それなら仕方がないか」
それでも誘うだけ誘ってほしかったのが本音である。
座長が感心する。
「気を遣う人は気を遣いすぎるもんです。そういう人は自分の行動が裏目になることも全部分かってたりしますよね。それで後から後悔するんですが、反省を活かせないのも、このタイプに多いんです。なぜなら反省したところで、やっぱり気を遣うことを一番に考えるわけですからね。世の中は首を傾げたくなることばかりです。気を遣う人は申し訳なさそうな顔をして、気を遣われた方は不満顔をするんですが、まったくのアベコベじゃありませんか。でもそれが世の中というヤツなんですよ。逆さまにしてやりたいと思う人は、気を遣う人の中にはいないということなんでしょうね。結局、誰かが黙って我慢している、というのが現実社会なんですよ。また、それが芝居の本質でもあるんです」
長々としゃべったが、まるで意味が分からない話だ。
やっぱり座長は熱があるようだ。
それから僕たちは、ここへ何をしに来たのか分からないまま座長と別れた。
残りは堀田先生一人だが、米ちゃんと行動していたことが分かっているので、今さら質問する必要はなかった。それでもユウ君が話をしてみたいというので声を掛けることにした。しかし、最初に話し掛けてきたのは堀田先生の方だった。
「シュウ君、さっきの紙、ちょっと見せてくれない?」
僕は言われるがままに脅迫状を手渡した。
熟読するほどのものではないが、堀田先生はじっと目を凝らしている。
「なにか気になることでもあるんですか?」
尋ねたのはユウ君だ。
堀田先生は視線を上げずに答える。
「うん。この手紙からは復讐者の怨念が感じられないんですよね。だからやっぱり、ただのイタズラなのかな、って思って」
堀田先生は本を書いているということもあり、物事を考えすぎるきらいがある。だから単純なイタズラも見抜けないのかもしれない。
「イタズラじゃないとしたら?」
ユウ君の場合は純粋な好奇心といえるだろう。
堀田先生が熟考し、やがて小さな声で答える。
「うん。その場合、この文面から差出人の人物像を想像すると、とても浅はかで、自分がしていることが間違いだとは気づいていないような人に思える。文面には復讐したいという意思だけを伝えているから、無自覚な罪を犯した人には理解できないのよね。言葉が足りないから『恐怖に震えろ』なんて書かれてあっても、恐怖を抱くキッカケにもならないでしょう?」
つまり、脅迫状が脅迫状になっていないということだ。
「もう少し詳しく教えてくれませんか?」
ユウ君が話の続きを促した。
堀田先生が続ける。
「そうね、差出人は自己完結型の人間で、相手の気持ちを察することができない人。それでいて正義感だけは強そうだから困ったものね。そういう人は短絡的な思考に陥り、ある日突然、過激な行動に走ってしまうの。普段はどんな人だろう? 鈍そうに見えて鋭いのか? それとも鈍そうに見えて、とことん鈍い自分を演じているのか? 情報を与えないようにしているので、本当の自分を隠していることは間違いないと思う。どちらにせよ、これがイタズラで済めばいいんだけど……」
僕とは一切会話らしい会話をしたことがない堀田先生だが、相手がユウ君だと物怖じせずにスラスラと言葉を紡ぎ出した。エチュードでいえば、相性がいい相手ということになるだろう。いや、単純に僕がバカなだけかもしれない。
それから堀田先生はしばらく考えたいというので、脅迫状を預けて一人にしてあげることにした。自分で脅迫状を分析するくらいなのだから、堀田先生は完全なシロといって間違いないだろう。これで差出人が堀田先生ならば、明らかに人格が分裂していることになる。
これで全員の聞き取り調査が終わったが、差し出し人の正体については何も分からなかったということになる。ユウ君の方も皆目見当がついていない様子だ。誰かが嘘をついていることになるが、追求しても仕方がない。それから二人で釣竿を持って早見君の元へ向かった。




