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負け犬女、開始する。

あれから、ひと月弱が過ぎた。

社内では、結婚が破談となった経緯を、例の後輩が自分に都合よい話にして流布したようで、結婚相手に逃げられた負け犬だの何だの陰口を叩かれたりもしたが、退職目前ということもあり、典子が気にかけることは全くなかった。

今回の件で両親に相談した際に、大学入学を機に一人暮らしを始めてからは、盆と正月くらいにしか帰っていなかった実家に戻るよう勧められたこともあり、三カ月の期間限定だが、実家の世話になることを決めたのである。

そう多くない荷物を片付け、「空き部屋」から「人の生活する場所」になったかつての自室で、典子は、


(本体の設置よし、専用タブレットの接続よし、四時間のタイマー設定よし、枕元にスポーツドリンクよし!)


チャイナクレイとアイボリーのボーダー柄が、ふわふわした生地をより柔らかに見せるルームウェアに身を包み、ひとつひとつを確認すると、ほっとしたように息をついた。

運のいいことに、第一陣にどうにか滑り込めたので、初日からのスタートである。

本体と登録費、ソフトウェアの購入は自腹だが、発売当初に比べれば価格も安くなっているので、そう痛い出費にはならない。

周辺機器を含めたそれ以外は、すべて、今回の件の慰謝料を充てた。

課金のための口座を新規に開いて、慰謝料の全額を振り込んだのは、使いきることが厄払いになるような気がしたからだ。

金のかかる趣味もなく、持つものは長く使えるいいものを少し、というタイプのため、アクセサリーやバッグに金をかけることもないので貯金もある。

色々とリセットするまで、趣味と家事以外は何もしないと決めた三ヶ月も、失業保険があるから親の財布を頼らなくていいし、再就職先も決まっている。

博打のあぶく銭のような慰謝料に頼った生活をしなくていいからこそ、ここまで思いきったことができたのだから、その点だけは、あのお軽いお二人に感謝してもいいかもしれない、と思える程度には、立ち直っていた。

それはさておき、キャラクター作成時限定の課金アイテム、「ホーム」の存在を知ったその日のうちに、典子は目指すものを決めていた。

すなわち――晴耕雨読の世捨て人生活。

本体に接続された専用のタブレット端末にDLされた、農耕、牧畜、食品加工、皮革加工、生薬学、彫金、陶芸、木工、紡績、染色、織布、縫製、醸造、蒸留、服飾、音楽、絵画、護身術から、果ては都の災害時緊急対策マニュアル、赤十字の救命救急講座教本、特殊部隊のサバイバル教本まで、多岐に渡る書籍は、そのための参考書だ。

この「ホーム」は、課金すればするだけ、好きなようにカスタマイズできる。

ノイバシュタイン城だろうが姫路城だろうがアラモ砦だろうがパルテノン神殿だろうが太陽のピラミッドだろうが何だって建てられるし、庭、畑、牧場、森、河川や湖沼、入り江、浅瀬、鉱山、荒れ地まで大概のものが選べるので、伝説の第一次産業系アイドルのような開拓者生活だって可能なのだ――ただし課金者に限る、ではあるが。

典子は、この「ホーム」に限界まで課金する気でいるが、そのためにはまず本体を正しく装着し、キャラクター作成をしなければならない。

ベッドの上で本体を自身の体に取り付け横になると、五年以上の付き合いになる愛用のブランケット――北欧のメーカーのもので、優しいグレーととぼけたシロクマの取り合わせが気に入っている――を手繰り寄せる。

目を閉じ、暗転した視界に不意に光が差し込み、眩しさに目を開ければ、どこまでも白く、がらんどうな世界が広がっていた。


『“Klein garden”へようこそ、旅のひとよ』


目に痛いほどの白い空間に、柔らかな女性の声が響くと同時に、目の前に、背もたれと座面にえんじ色のビロードが張られた、アンティークなひじ掛け椅子が現れる。


『どうぞおかけください。少し長い話になりますから』


勧められるまま腰掛けるが、背もたれと座面のクッションの柔らかさ、ビロードの滑らかさ、木の硬さといった感触は、現実のそれとまるで変わらない。

座面やひじ掛けの部分を、感嘆しきりといった様子でなで回していた典子だが、キャラクター作成という本来の目的を思い出し、いずまいを正す。


『あなたの写し身を作る前に、この“Klein garden”についてご説明しますが、お聞きになりますか?』

「お願いします。途中で質問は可能ですか?」

『受け付けますので、気になることがあれば、何でもお聞きください』


それまで白一色だった世界が、唐突に切り替わった。


『世界に名はなく、始まりの巨人たちは自らの住まう地をヒュペルボレオスと呼んだ。ヒュペルボレオスの大地にはいくつかの種族が存在するが、彼らは互いに、それなりに礼儀正しくも、それなりの距離を置きながら付き合っている』


柔らかな女性の声が、深く響く男性の声に変わっていたが、それよりも、眼前に広がる光景に、典子は目を奪われていた。

深い深い、原始の森の中央にそびえるのは、頂上に雪を頂く孤峰。

いや、山のごとき大樹であった。

その枝に、何か動くものがある。


『彼らはエルフ。生命の循環を見守る、なべての精霊の母たる世界樹、ワカフ=カンの子。ワカフ=カンをゆりかごに生まれ、その維持のために生き、再びワカフ=カンへと還る、維持の民』


ちょっとした市道くらいはある枝の上を、人型の生物が行き交うのがはっきりとわかる距離まで近付いた。

男女を問わず、飾り気のない素朴なチュニックとレギンス、布靴という格好だが、その質素さが、かえってほっそりと華奢な体と、繊細に整った容姿の美しさを引き立てている。

何より特徴的なのは、上部の尖った耳殼だろう。

日本では、ロバの耳のように極端に長く尖った耳がエルフの特徴になっているが、“Klein garden”では、いわゆるバルカン人タイプの耳がエルフの耳として採用されている。


『彼らは、滅多なことではワカフ=カンを離れることはない。ワカフ=カンの維持こそがエルフの存在意義だからだ。しかし、好奇心にかられて“外”へ出ていくエルフも、それなりの数でいる』


視点が変わる。

今度は、声がワカフ=カンと呼んだ木の根元に広がる平地だ。

根の隙間やうろ・・に、ダイナミックな幾何学模様と色の刺繍が入った貫頭衣姿の、人型の生き物が、10前後の単位で集まっているが、そのうちの半数ほどは随分と小さい。


『彼らはオーガ。彼らもまた、ワカフ=カンの子。ワカフ=カンの麓をすみかとし、ワカフ=カンとその維持に奉仕するエルフを守る、守護の民』


3メートルはあろうかという、見上げんばかりの筋骨逞しい巨躯の男女が、それはそれはいい笑顔を浮かべながら、楽しそうに武骨な棍棒を打ち合わせている。

その周囲では、男女の半分ほどの背丈の、まだ柔らかで未熟さを感じさせる体つきや顔つきから、子供と思われる幼いオーガたちが、目を輝かせ、歓声を上げていた。


『力を生み出す逞しい体を美徳とし、ワカフ=カンを守ることこそ名誉であるとする彼らだが、好奇心から“外”に行く者がいないという訳ではない』


また視点が変わった。

深い森と峻厳な山脈の麓に、わずかに開けた土地に、いくつかの構造物と、大小2つの動くものの姿がある。


『彼らは、オークとコボルト。オーガの中に生まれた、ひ弱く非力なものたちの末』


また、距離が縮まる。

復元された縄文時代の縦穴式住居のような建物の中では、猪の顔を正面から押し潰してから再成形したような顔と、オーガには及ばないが、それでも十分大きな体躯の人型の生き物と、その生き物の腰少し上までしか身長のない、間延びした犬に似た顔の、一応人型と言える生き物とが、和気藹々と木の実の加工をしていた。

着ているものはオーガと同じような貫頭衣だが、刺繍の柄は動植物を模したもので、かわいらしく優しい趣がある。


『老いた木や、傷み、病んだ木を間引き、森を衰えさせない程度に実りと獣を得て、森を健やかに生かす森守る民』


作業を見守る老いたオークが、生まれて間もないコボルトの赤子を抱いてあやし、コボルトの子供が、オークの幼児に木の皮でかごを編むのを教えるのどかな光景が遠退き、山脈を越える。

ワカフ=カンの森を外から隔てるような山脈の中ほどに、大きな、オーガの身の丈を余裕で越える高さの扉があった。

分厚い金属の扉をすり抜け、長い洞窟を進む。


『彼らはドワーフ。時の彼方に過ぎ去った、最初の巨人たちの末裔』


進んだ先にあったのは、螺旋を描くように掘り下げられた、すり鉢状の巨大な都市だった。


『巨人たちは強大な帝国を築いたが、成立に至るまでの熾烈な争いに敗れたものたちは、辺境の地へと落ち延びた。天然の要塞である険しい山脈に根を下ろし、時と共に出自すら忘れた、岩と鉄と忘却の民』


あちこちで鎚音が響き、オークの胸の下がやっとといった身長ながら、豊かなひげを蓄えた、太ましくも筋骨たくましく男女の間をすり抜け、もときた扉へと戻った視点は、外に出ると加速を始めた。

山脈を一気に駆け下り、森を抜けた先は、広大な大草原だった。

ふわふわした白い毛の塊のような家畜を、長い杖を手にした牧童が追っている。

毛織のシャツに膝下までのズボンとチョッキ、腰のベルトには幾つもの革の物入れをぶら下げている。

だが、よくよく見れば、身長は子供と変わらないが、顔つきは大人のそれだ。

背丈に比べると、不釣り合いなほど大きな足は、蟻どころかバッタが迷い混み遭難しそうなほど、毛深い。


『彼らはハーフリング。彼らもまた、ドワーフと同じいにしえの巨人の末。帝国の終焉を、離散することで生き延び、かつての栄華を忘れ、その日一日の喜びを噛みしめ生きる希望とした、遊牧と享楽、忘却の民』


家畜を追うハーフリングを尻目に草原を越え、川を渡って向かう先は、緩やかな勾配が続く、小高い丘陵――いや、広大な台地だった。

登りきった先には、切り立った断崖に囲まれた、海と見紛う巨大な湖が広がっていた。


『驕り高ぶり、更なる繁栄を求めて禁忌に手を染めた巨人の帝国は自ら滅んだ。栄華を極めた都は一夜にして水に没した後、平原の支配者となったのは、かつて彼らに奴隷として虐げられ、搾取されてきた、最も非力で脆弱なヒューマンたち』


湖から流れ出た川に沿い、いくつもかの森と丘陵を抜けると、人の手による麦畑と、踏み固められ、土がむき出しになった道が現れ、道の先には、城壁に囲まれた、そこそこに大きな町があった。

道なりに進み、城壁の内側に入れば、肌の色も髪の色も目の色もとりどりのヒューマンで賑わっている。

男に多いのはシャツにチョッキ、ズボン、革の靴だが、中には革鎧や鎖帷子、長いローブを着ている者もいる。

女で多いのは、ブラウスにチョッキ、スカーフ、ロングスカートに革の靴というもので、スカーフは色鮮やかな生地に刺繍を施したものが多く、肌を見せているものはほとんどいない。


『かつて巨人の帝国のものであった広大な領土は、反乱を率いた四人の指導者よって割譲されたが、分裂と併合を繰り返し、エウロス、ファオス、ノトス、アウステル、ボレアス、アクィロの六つの王国となった』


ふと、中世ヨーロッパを思わせる石造りの町並みと喧騒とが遠くなり、再び真っ白な空間へと変わった。


『“Klein garden”の世界をご覧いただきましたが、いかがでしたか? それでは、この世界であなたの写し身となるキャラクターの作成に入ります。』


穏やかな女性のものに戻った声に、夢から覚めたように辺りを見回す典子の目の前に、厚みのないスクリーンが広がった。

縦50、横70センチほどのスクリーンには、デッサン人形のような人型のオブジェと、いくつかのか項目が映され、手元にはスクリーンと同じような平面のキーボードが浮かんでいる。


『名前を入力してください。重複していなければ、それがあなたの名前になります』


声に促され、入力した名前は、カナンカッシ。

神話としてはマイナーな部類に入るから、名前の知名度は低いし、重複することはまずないだろう。

何より、典子はその言葉の響きが気に入っている。


『重複する名称がないか照会しています。同一名称はありませんので、使用できます。この名前を使用しますか? 了解です、「カナンカッシ」を登録しました。それでは、次の項目に移ります。性別は購入時の記載から変更できませんが、年齢は“Klein garden”世界での成人にあたる15才までなら下げられますが、上限はありません。ヒューマン以外の種族を選択する場合、ヒューマンでの年齢を該当種族での年齢に置き換えますので、そのまま入力してください――17歳で決定しました。次に種族の選択をしてください。先ほどの説明にありました主要な種族とそのハーフからの選択と、ランダム選択がありますが、ランダム選択の場合、主要種族以外の種族があたることがあります――ランダム選択の結果、チェンジリングとなりました。チェンジリングは、ヒューマンの両親から生まれた非ヒューマン種族です。ランダム決定により、フェアエルフとなります。次に――』


促されるまま、典子は次々と項目を埋めていく。

フェアエルフという種族がどういうものかはよく分からなかったが、見たところ、エルフの上位互換種族であるらしい。

能力値は筋力・体力・器用・敏捷・知力・精神力・生命力・魔力の8つで、ヒューマンはキャラクター作成時の初期値がオール14、ボーナスが10ポイントつく。

典子のフェアエルフは筋力・体力が6、器用・敏捷が16、知力・精神力・魔力が20、生命力が8、ボーナスが4なので、器用と生命力に2ずつ振り分ける。

次に技能だが、フェアエルフの初期の技能スロット数は2と少ない。

フェアエルフの種族特性として、初期技能に精霊魔法があるので実質は3だが、ヒューマンの初期の技能スロットは10である。

ヒューマンと比べて、技能的には厳しい種族のようにも思えるが、技能とは別に、精霊親和(特)と植物親和(極)の種族特性があるので、5と考えることもできる。

ただ、幸いというべきか、典子が目指すプレイスタイルに必要な技能の大多数は、習熟によって得られるとわかっていたので、その点はあまり心配していない。

スロットに入れたのは、鑑定と弓術の2つだ。

鑑定は素材や作製品の品質を確認するためのものだが、戦闘をする気が毛頭ないにも関わらず弓術を選んだのは、中つ国の時代から、エルフといえば弓という信念のゆえだ。


(精霊魔法と弓術を持たないエルフなんて、飛ばない豚じゃあないですか)


ほかの技能は、「ホーム」に引きこもって育てていく予定なので、問題はない。

続いて、多くのプレイヤーがこだわるという容姿の設定に入る。

ステータスのスクリーンから、1/8スケールの立体模型となって表れたデッサン人形を使って設定するようになっている。

土台は実際の典子だが、体形がエルフのそれに変化しただけでも別人感が出ていたので、あとは目の色と髪の色、長さを変えるだけで済ませた。

その目と髪の色も、フェアエルフ用のサンプルから適当に選んだだけである。

本命はその先にあるのだ。


『以上で基本のキャラクター作成は終了となります。課金により、一部構成とアイテムの獲得が可能ですが、課金を行いますか? 登録時に18歳未満の未成年は制限機能により一万円、10000ポイントを上限とします』


課金。

それこそが、典子の大本命であった。

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