負け犬女、誕生する。
結婚を前提にしたお付き合い、というものをしており、結納まで交わした相手が、職場の部下(新卒)を妊娠させたから別れてくれと、テーブルに額をめり込ませんばかりに頭を下げている。
そうした状況で、冷静でいられる人間はそうはいないが、葛西典子は、極めて冷静にその状況を見ていた。
いや、そのように見えていた、と言うべきか。
はっと人の目を惹き付ける、分かりやすい動的な美しさこそないものの、控えめで植物めいた静謐さがある整った顔はからは血の気が引き、紙のように白い。
表情は硬く強張り、やや薄い唇がかすかに震えている。
男の隣では、深刻な知性の欠如が危惧される若い女が、海翔さんは悪くないんですぅ、葛西さんがいるって分かっていたのにぃ、好きになっちゃった絵美里が悪いんですぅと、社会人とは到底思えない、幼稚さばかりが目立つ甘ったれた声と口調で悲劇の女主人公をアピールしていた。
そもそも、いい年をした――典子も海翔も今年で二十七歳になる――大人が『大事な話』のため呼び出した先がファミレスとは、いかがなものか。
その上、絵美里は悪くない、絵美里を愛してしまった俺が悪いんだと、三文にもならない安っぽい恋愛ドラマの主人公になりきって、「許されない愛に生きる悲劇の二人」を始める始末である。
第一声で音を立てて瓦解した愛と情が瞬く間に風化し、相手に対するあらゆる関心と一緒になって、塵と化して自分の中からこぼれ落ちていくのを感じながら、典子はひとつ深呼吸をし、そっと唇を開いた。
「……わかりました。そちらの有責による破談ですので、式場のキャンセル料はそちらで負担なさってください。慰謝料等につきましてはこちらから追って相応の金額を請求させていただきます。あと、絵美里さん、でしたか。あなたとの不適切な関係が破談の原因ですので、そちらにも慰謝料を請求させていただきます。後は愛し合うお二人でどうぞお好きになさってください」
髪の毛一筋ほども取り乱した様子も見せまいと、ことさら優雅な仕草で会釈をし、左の薬指から抜き取った婚約指輪をテーブルにそっと置いて、典子は席を立つ。
愛情の反対は無関心というのは本当のようだ。
裏切られた怒り、悲しみ、やるせなさ、痛み、憎しみ、そうした負の感情を向ける労力すら惜しい――ただの風景でしかなくなった男と、なにやら喚いている気持ちの悪い生き物を置いて、典子はファミレスを出た。
結婚するなら仕事を辞めて専業主婦になってほしいという相手の要望を容れ、数ヶ月前から業務の引き継ぎ等の準備をし、今月末には退職が決まっているのに、今更お流れになりました退職やめますは通用しない。
式の準備で何かと忙しかったが、その必要もなくなった。
さて、これからどうやって時間を使おうかと、ぼんやり考えながら歩いていた典子の足が、家電量販店の前でふと止まる。
『常識が変わる、現実が変わる――VRMMO“Klein garden”! もうひとつの“現実”で、もうひとつの“人生”を楽しんでみませんか?』
巨大な宣伝用ディスプレイの中から呼びかける声と、映し出された映像に、ここ何年も我慢し続けていた趣味の虫が疼く。
相手の趣味に合わせて、興味もなければ好きでもないダーツやビリヤード、クラブでの遊びに付き合っていたが、典子の本来の趣味は、音楽を聴きながらの読書とゲームである。
VRマシンが発表され、発売が開始された時には、実家に本体を冒せてもらって、ゲームのために実家に通うことを本気で検討したほどである。
発表から三年、廉価版も出てすっかり世間に浸透しており、VRMMOも幾つかのタイトルが出ていたが、どれもプレイヤー人口とゲーム内での人間関係の濃度が密なため、後発組を村八分にするような部分があると聞き及んでいることもあって、手を出さずにいたが、あの男と縁の切れた今、自分の好きなことをするのに、何の遠慮もいらないのだ。
サービス開始は奇しくも今月末。
なら。
(……神は言っている、ここで本体を買うべきだと)
口元にごく薄い笑みを浮かべ、意気揚々とした足取りで、典子は家電量販店へと入って行った。




