**2-2 煙草の想い出。
とある病院。独特の消毒の臭いがする待合室。
ここにまでどこからか泣いて嫌がる子供の声が届き、響いていた。
「倉木都さん、倉木都さん!」
目の前の“第二診療室”の札のかけられた扉が開き、白いナース服を着た看護師が良く通る声で名を呼ぶ。
都はこれから自分がなにをされるかわかっているはずがないのだが、周りに影響されて診療室に入るのを全身で嫌がる。
周はそんな都に構わずひょいと抱え上げて診療室へと入った。
「こんにちは、精神科医の兎田と申します」
周は医師を見てひとまず安心した。
なぜなら兎田は若い男性医師で、眉が下がっている優しげな顔だったからだ。
もし顔の怖い老人医師だったら、都は見ただけで怖がってしまう……それを懸念していたのだ。
都はなおも怯えていたが、それは先ほど聞いた子供の泣く声のせいだった。
「記憶がない? もう少し詳しくお聞かせください」
「五歳の誕生日のことです……」
周はあの日の出来事や、それまでの記憶が一部失われていることを順を追って話した。
しかし事故の記憶に関してはなにも話さなかった。
本当は一番医師に相談したかったことなのだが、やはり言えなかった。
そんなファンタジー、あるはずがないから……そう思ったからだった。
「五歳までの記憶がない、それだけならまだしも、一部だけとなると難しいですね」
やはり医師でさえも頭を悩まされる事例だった。
「稀にですが、自分が忘れたいこと……“トラウマ”を記憶から消したいと強く願い、実際にそれに関する記憶を失ってしまう子供もいます。トラウマと言われ、なにか思い当たることはありますか?」
「いいえ、ありません」
「では、頭を強く打ったことは過去にありませんか?」
「ないです」
周自身でさえ驚くほど思い当たる節がない。都は日々楽しそうに見えた。
すべてを否定した周の顔をじっと見つめ、兎田は大きなため息をついた。
それは無意識的な行動のようだったので周は兎田に注意することが出来なかった。
「少し特殊なご家庭のようですが、生まれた直後に拾われた子供ということですので関係性は限りなくないに近いですね……」
周の耳元で小さな声で言う。
都が隣にいるため、聞こえないように配慮してくれているのだ。
兎田は綺麗にセットされていた髪をぐしゃぐしゃと崩してしまった。
周は、まるで実験に失敗した博士のような彼の肩を優しく叩いた。
「大丈夫ですから、落ち着いてください。親として僕も調べてみますので」
「お力になれず、申し訳ございません……私も他の医師に聞いてみます」
若さゆえか、非常に落ち込んでいた兎田だったが、少しは元気を取り戻したようだった。
明らかにベテラン医師よりも上手くいかなかった経験が少ないことを感じさせる。
周は頭を深々と下げ、退室した。
ここでは中学卒業までは医療費を助成する制度があるので、忙しそうにキーボードを叩く音がする病院を後にしてすぐ家に帰った。
目を輝かせて大好きな子供向けアニメを観る都。父は遠くからその様子を見ていた。
煙草に火をつけ、ふう、と煙を吐く。
都が記憶を失ってから、以前よりも一日に吸う煙草の数が増えた気がする。
彼女に副流煙を吸わせることのないように、窓を開け放って外へ向かって煙を吐くようにしている。
「良い匂い! なにそれ!」
アニメに夢中だったはずの都が、気が付けば周の膝の上にいた。匂いを嗅いで、うっとりとしている。
気を付けてはいたものの、やはり家の中に煙が入ってしまっていたようだ。
周自身は煙草の臭いに慣れてしまって感じることが出来ていない。
「……匂い? それ、煙草の臭いじゃない?」
「それが良い匂いなの! 今パパがくわえてる、それからする匂い!」
都が指差したのは、周の煙草だった。
「本当にこれのこと⁉︎」
「うん、ツンとするけど……都は好き!」
「あんまり臭いを嗅いではだめだよ。都が病気になっちゃうからね」
「嫌だ。……パパひどい!」
煙草は副流煙を吸うほうが肺炎の危険性が高まるという。
娘を肺炎にするわけにはいかないので、周はすぐに煙草の火を消した。
さらに、まだ煙草の臭いが残っているところには大量の消臭スプレーを吹きかけた。
一生懸命煙草の臭いを探し回る都を止めた。
「あの臭いは危ないの。だからあんまり嗅がないで。パパも気を付けるけど」
「……うん、わかった。ちょっと寂しいけど……」
穏やかな諭し方が効果的なのか、意外にもあっさりと引いた。
周はもう都に対する叱り方や諭し方をわかっている。
「都にとって、あの臭いは良い匂いなの?」
「うん!」
「変わってるなあ……」
変な嗅覚を持つ都に呆れた。
それとともに、彼女がいないところで吸わなければならないと思った。
禁煙とは言わないあたりがさすが愛煙家、周である。
とりあえず煙草の臭いが染み付いたこの家を消臭することが最優先だと思い、彼は気が滅入った。
掃除が大の苦手で、嫌いなことの一つだからだ。
煙草の臭いが好き。
喫煙者ではないのにそう言った人は、都で二人目。初めては、忘れられぬ恋人だった。
自分は咳が止まらないと言って吸わないのに、煙草の臭いは好きだと言う不思議な女性だった。
久しぶりにその言葉を聞き懐かしさを感じたのだろうか。
その夜、都が寝た後に周は酒を飲んだ。
彼は酒に強いほうではないので、少し舐めた程度だったが。
だがそれでも気分は妙に高揚し、野球中継を観ながら眠ってしまった。
翌朝、一日中周の体調は優れなかった。
第二予定より早く更新出来ました。
**次回更新……6/11ごろまでの予定。
“匂い”は良い香り、“臭い”は良いとは言えない香りを意味しております。
~06/08 加筆、修正完了
~06/12 加筆、修正完了
~07/15 改稿完了