**5-8 あなたは恩人。
間接照明が灯り、淡い光を放つランプが吊るされている薄暗い店内。
からんからん……という氷の音や、若い女性たちがおしとやかに笑う声が良く聞こえるここは、周が今まで足を踏み入れたことのないお洒落なバーだ。
店員もみんな、黒で統一されたスーツ風の制服を着ていて、落ち着いた大人の雰囲気が溢れている。
「どう? 気に入ってくれた?」
その中でピンク色のシフォンワンピースを着た絢華が周のほうに綺麗な笑顔を向ける。
思わずストッキングを纏った美しい脚に目がいってしまう。
彼女は三十六歳とは思えぬ美貌を保っていた。
膝上丈のワンピースも、大胆なノースリーブも、ヒールの高いパンプスも……こんなにも違和感なく着こなせるのは彼女の努力の成果なのだろうか。
「私、ラズベリーカクテルお願いします。倉木くんはなにが良い?」
「俺普段はビールくらいしか飲まないから……田端さんにお任せしても良いかな」
「ううーん、じゃあこのブルーカクテルをお願いします」
静かにバーテンダーがお辞儀をし、奇抜な形をしたグラスを取り出して用意を始めた。
無駄のないその動きを思わず目で追っていった。
「ねえ、倉木くん」
絢華が周の顔を覗き込む。
長くてウェーブのかかった髪の毛がテーブルにつく。
「“田端さん”じゃなくて名前で呼んで?」
「でも俺たちまともに話したことないし……」
「ねえ、やっぱり覚えてない……?」
周の左手の甲を、絢華の細い指がつうっと撫でる。
ぞくり……絢華の瞳をじっと見つめた。
少し下がった眉に、なぜだか申し訳なさを感じさせられる。
大学内で有名な美人と話したのなら覚えていそうだが、一生懸命過去の記憶を引き出しても絢華と話をした記憶はない。
首を縦に振ると彼女の指は周の手から離れていき、彼女は頬杖をついて唇を尖らせた。
「私にとっては印象深い思い出なんだけど……」
そう彼女は大学時代の思い出を一つ一つ懐かしむように話し始めた。
それは大学一年生の秋のこと。
大学の先輩後輩関係なく参加出来る飲み会に彼女は参加していた。
始まってからおよそ三十分……酒の飲める年齢になった先輩たちの酔いも回りきったころ。
「絢華ちゃんも飲みなよ」
「いえ、まだ十九歳なので遠慮しておきます……」
「なんで? ノリ悪いよ?」
彼らは絢華の肩に腕を回し、顔を近付け大声で叫ぶように酒を勧めた。
酒臭い。彼らの声がうるさい。
……男性の先輩たち大勢に囲まれて、怖い。
絢華の額には汗が浮かんでいた。
無意識のうちに膝や指先が震えている。
急いでトイレにでも逃げてそのまま帰ろうか? でもそうしたら明日大学へ行くのが怖い。また明日にもこの人たちと会うことになるし、中には同じサークルに所属している先輩もいる。これからずっと責められるのかとびくびくしたまま学校に行き続けるのは嫌だ。どうしよう、どうしよう。どうしよう、どうしよう……。
元から大勢の人の視線を一度に浴びるのが苦手でパニック状態に陥っていた絢華の前に現れたのは、一人の男性だった。
見たことのない顔だったから、先輩だろうか、そう絢華は思った。
「飲みすぎた、吐きそう。……あはは」
彼は焦点の定まっていない目でそこにいた全員を見回した。
そしてにやりと不気味な笑みを浮かべ、ふらふらと歩いて男性たちにキスしようとし始めた。
「うわあ逃げろ!」
「あはは! あなた酔ってるの?」
逃げ惑う男たち。暴れる男性と逃げる人々を見て笑う女たち。
女性の先輩の“あなた”という言葉から、彼と彼女らは面識がないことが予測できた。
なお男性の学年が謎を深めたが、そんなことを気にしている余裕はその時の彼女にはなかった。
その男性の行動によって一気に絢華の周りにいた人は離れていき、飲み会の場が明るくなったのが感じられた。
なお彼が他の男たちを捕らえようとしている間に絢華はトイレへと席を立った。
別に気になっていたわけでもないのに髪を整えてから部屋に戻ろうとした。
すると、隣の男性用トイレからその男性が出て来た。
水で濡らした指で唇をごしごしと擦っていた彼は、絢華に気が付いた。
「あのっありがとうございました! 助けてくれて!」
「はは、人気者も大変だね」
彼は“じゃあね”と手を振ってすぐに戻ってしまった。
「……そんな些細なこと、って思うかもしれないけど、あのときすごく怖かったから本当に助かったの。その後あなたが同学年だと知って、あれは演技だったんだって気が付いた。“酔ってキス魔になっている”という演技」
「あ……あれは君だったのか……」
「思い出してくれたかな? あれから私は見た目も性格も変わったかもしれないけど、ずっとそのことは覚えてるの。ありがとう」
たしかに、その記憶は周の中にもうっすらではあるが残っていた。
だが彼女自ら言うように見た目が変わり、その記憶と現在の絢華の姿が結びつかなかった。
当時の絢華は大人しく、まったく肌を見せないような清楚な服を着ていたのだが、現在は積極的で目立つ服を着こなしている。
「そんなに感謝されるほどのことじゃないよ……」
「ううん、私にとって倉木くんは恩人なの」
そう言って絢華は両手で周の左手を包み込んだ。
指先の冷たさと、対照的な手のひらの熱が妙に伝わってくる。
彼女は突然、周の左手の甲にそっと口付けた。
彼女の唇の感触は、リップの紅色とともに彼の甲に残った。
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