**5-6 癒してくれた君。
周はベランダに出て、夜を迎え始めた外を眺めていた。
彼のくわえている煙草からわずかに灰が落ちた。
心ここにあらず、といった様子で外を眺めていた間に、気が付けば煙草はずいぶんと短くなっていた。
「おおっと……危ない、危ない」
そうぽそりと独り言を発し、慌てたような足取りでキッチンにある灰皿に灰を落とした。
「まだこんな落書きが残っていたのか」
彼が指でその落書きをなぞる。
灰皿の側面にはひらがなで“くらきのもの”と書かれていた。
力を入れてこすってみても、油性ペンで書いた字は消える気配すら感じさせない。
懐かしむように見るその灰皿は大学生のころから使っている灰皿で、大学時代、ふざけた友人が書いた落書きだった。
くすりと笑った彼は、その友人と年賀状を除くと卒業以来連絡を取っていないことに気が付いた。
結婚式の招待状が来ないこと、年賀状には毎年“彼女が欲しい”と書かれていることを考えると、彼もまた周と同じように独身なのだろう。
「俺に子供がいるなんて聞いたら驚くんだろうなあ……あいつ」
“え? 子供出来たのか⁉︎”……友人の反応を想像し、“言いそうだ”とまた笑った。
実はこのごろは吸う煙草の本数をずいぶんと減らしていた。
考えてみると今年に入って一度も吸っていない。
それまで禁煙なんてしないと思っていた周だったが、小学三年生の都に、
「保健の授業で先生が言ってたよ、“煙草は体に悪いからやめましょう”って」
と注意されたのがきっかけだった。
そのとき、自分が煙草を吸うことによって都が病気になる危険性が高まってしまうと考えが変わった。
それ以来、都がいるところでは吸わないようになったが……今日は都がいない。
再びベランダに出て、煙をふうっと吹きながら久々の煙草を味わう。
「久しぶりに吸う煙草は美味いなあ……」
今回、煙草の銘柄を変えた。
それは彼の心境の大きな変化を表していた。
煙草を吸い始めた当初は“サン”というものを吸っていた。
だが、京と出会った後、彼女にいつもの煙草を買って来てくれと頼んだ。
そのとき彼女が間違えて買って来たのが“ムーン”という銘柄だった。
彼女は、間違えちゃった、と明るく笑っていた。
その直後に京は亡くなった。
それ以降、周は“ムーン”という煙草を吸うようになった。
吸うだけで京のお茶目な笑顔、そして彼女との思い出が目の前に蘇ってくるような気がしたから。
“サン”のほうが好きな味だったが、どうしてもやめられなかった……。
つまり、彼が煙草の銘柄を変えたということは、京が間違えて“ムーン”を購入してしまった思い出に一つ区切りを付けることに等しいのだ。
「俺はもう辛そうな顔なんて見せないからな、京……」
彼はただ一人で静かな茜色の空に言葉を放った。
もちろん反応など返ってくるはずがない。
だが周の耳にはしっかりと聞こえた。
京の“それで良いんだよ”というこの先の道を示すような声が。
彼女を亡くしてから十三年経った今でも彼の記憶には鮮明に思い出が残っている。
あれは同棲を始めて少し経ったころの話。
就職してすぐの周は帰宅したとき、毎日疲れきった様子だった。
ときには上司に理不尽に怒られることもあったし、同僚と意見が衝突することも多々あった。
そんな苛立ちを家で見せることがなかったのは、ひとえに京の優しさがあったからだったと周は思っている。
「ただいま」
ため息混じりにそう言って家に帰った周を、エプロン姿の京が迎える。
ぱたぱたとスリッパの音を立てて玄関へと走ってくるのであった。
その一生懸命に走る姿はなんとも可愛らしく、癒された。
「お疲れ。今日、会社でなに食べた?」
「カレー」
「えっ今日カレー上手に出来たのに! うむむ……」
すごく不満そうに口を尖らせる彼女は、“なんで合うのかなあ”なんてつぶやきながらまたキッチンへと戻っていった。
「ふふふ……」
「なに、笑ってるの」
「嘘だよ。今日の昼食は餃子だった」
「え! なんで嘘つくのよう。びっくりしちゃったじゃない」
腕と足を振り回して怒るその姿もまた可愛くて……そんな小さな意地悪がやめられなかった。
今までも何度か騙されているというのに、周の言うことをまったく疑わないところも彼女の好きなところだった。
「はい、お待たせ」
暖色のライトで照らされたカレーはとても美味しそうに見え、さらに良い匂いが鼻をくすぐる。
「いただきます」
二つの“パン”という音が重なり、二人は同時に食べ始めた。
「美味しい!」
黙々と食べ続けている周をじっと見つめる視線があった。
ちらりと顔を上げ、視線を合わせる。
京はなぜだか驚いたような顔をして、聞きづらそうに口を開いた。
「ずっと考えてたんだけど、なんで今日の夕飯がカレーだってわかったの?」
「なんでって言われても……匂いでわかるよ」
周はもう一つくらい質問があったのかと思っていたのだが、京ははっと気付いたような動きを見せた。
その動きに“もしや”と思い尋ねる。
「質問したいことは、そ、それだけ?」
「え? うん」
彼女はこくんと頷いた、なにがおかしいのかわからないと言うかのような顔で。
……彼女はそういう人だった。
味噌汁に味噌を入れ忘れたり、ゴミ捨てに行く道で転んで骨折したり、そういったエピソードは話しきれないほど多い。
ときには彼女のドジで大変な事態が起きたこともあったが、周はそんな彼女を見て癒されていたし、本当に好きだった。
「京の天然には毎回驚かされたものだけどね……ふふふ」
笑っているというのに、彼の目は潤んでいる。
一生懸命まばたきをして涙を流すまいと頑張って堪えていた。
そんなとき、インターホンが鳴った。
「ただいま!」
「おかえりなさい、都」
……周はそっと灰皿に煙草を押し付けて火を消した。
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