**4-5 真夜中に。
中村さんが帰宅し、家には周と都の二人。
都はリビングにある机の上に漢字ワークとノートを広げ、忙しく手を動かしている。
そっとノートを覗き込むと、“興味”や“清潔”といった熟語がずらりと縦に並んでいた。
その字を眺めたのち、視線を都に移した。
彼女は周の視線に気付かずに手を動かし続けている。
「都、目が近いよ」
「え。あ、ああ……」
周の存在にやっと気付いて少々驚いた様子を見せ、ノートと目の距離をとった。
都はそれからまたすぐに真剣な表情に戻って漢字を書き始める。
そんな彼女を眺める周の瞳は少し潤んでいた。
自分一人で初めて子供を育てると決心したあの日の夜は一睡も出来なかった。
一つの命に自分が深く関わることに対する不安はもちろんだが、大きな決断をしたことに対する後悔もなかったとは言えない。
あのころ何事にもまったく情熱がなかったことは本人も自覚していたため、そんな自分を変えたいという希望を抱いて決断した部分もある。
だが自分が大きく変わることに対して恐怖を感じ、“やはり変わる必要なんてなかったのではないか”とも思っていたのだ。
周はそのころの自分に言ってやりたいと思った。
——その決断は俺を良いほうへ導いてくれるよ。
と、そう一言だけ。
都の存在によって周自身を大きく変えた。
彼女はいるだけで周りにたくさんの笑顔をもたらすことが出来る存在なのだ。
「パパ、じゃあ私寝るね。おやすみなさい」
周はいろいろと考えているうちに机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
いつの間にか風呂に入ってパジャマ姿になった都が、申し訳なさそうな顔をして彼の後ろに立っていた。
疲れきったように眠っていた周を起こしてしまったことを申し訳なく思っているのだろう。
周は彼女に気にしないでという意味を込めて笑顔を浮かべた。
「起こしてくれてありがとう。おやすみ」
リビングから少し離れたところにある和室へと足音が遠ざかっていった。
一本だけ缶ビールを飲み干した周は顔の火照りを感じつつ寝室へ向かった。
その部屋の襖を開けると、そこにはすーすーと穏やかな寝息を立てる都がいた。
まだ都に自室を与えていないので、“そろそろ都の部屋もつくるか……”と考えながら布団に潜った。
周は、ぱちりと目を覚ました。
……なにやら隣からうめき声のようなものが聞こえる。
「都⁉︎」
一瞬で意識が現実世界に引きずり戻された周は飛び起きて隣の布団を見た。
そこにはいつもあるはずの姿がない。
「都、どこにいるんだ⁉︎」
慌てて立ち上がるも、立ちくらみがして足元がふらつく。
その間、彼の脳内ではさまざまな景色がぐるぐると巡っていた。
さらに立ちくらみそうになったが、それでも部屋の中の柱を掴んで前に進んだ。
カタン。
とりあえずリビングへ走った周の耳に飛び込んで来た音は……洗面所からのようだ。
「洗面所にいるのか⁉︎」
リビングから出て、トイレの前を通って洗面所の前に。
照明を点ける。
……都は、そこにいた。
「どうしたの! ……え⁉︎」
たしかに都は、そこにいた。そこにいたのだ。
だが彼女はどこか様子がおかしい。
周の存在に気付いていないのだろうか。
彼の言葉にまったく反応を示さず、ずっと鏡の前で立ったままなので周からは彼女の横顔しか見られない。
しばらく周は石になったかのように彼女をじっと見つめていた。
すると、彼女ははっとして周のほうに向き直った。
「都? どうした?」
「……ぁ……?」
「え?」
「周……さん……?」
冷たい無表情だった顔はふにゃりと緩んだ。
なぜかその目には涙が浮かんでおり、周の背中に手を回す。
突然肩に頭を預けてひっくひっくという声を出して泣く都に戸惑いつつも、周は彼女の背中をゆっくりとさすってやった。
「今でも私、周さんのこと好きよ……」
……弱々しい声でそう言ったのは、都だった。
耳元でする優しい声に、思わずぞくっとする。
「また周さんの温もりを感じられて良かった……」
彼のことを好きだと言い、かつ“周さん”と呼び、さらには“今でも”や“また”という表現をする女性……一人しかいないではないか。
周は弾かれたように彼女を自分から引き離した。
「京……なのか⁉︎」
京。それは都の名の由来となった周の恋人である。
彼女が不慮の事故による死を遂げてから十三年経った今も、彼は彼女のことを忘れられずにいる。
「私はずっと、あなたのそばにいるからね」
周の問いに対してはなにも答えず、にっこりとした笑顔を見せてそう言った。
その笑顔はどこか悲しそうだった。
彼女は悲しそうな笑顔のまま周の頬をその細い指で撫でた。
そして意識を失ったようにがくりと洗面所の床に膝をついた。
「みやこ!」
慌ててその体を抱き上げたが、彼女からは聞き慣れた寝息が聞こえた。
安堵して、額に浮かんでいる冷や汗を自らの肩で拭った。
まだ彼の心臓の音はうるさく響いていた。
だがまず深い眠りについている都を布団へと運んだ。
彼女に起きる気配はまったくなかった。
……咄嗟に彼が呼んだ名が、“都”なのか“京”なのかはわからない。
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