「もう若くないのだから」と息子夫婦に離れへ移された五十歳の私に、隣国の老将軍から求婚状が届きました
「もう若くないのだから、静かにお過ごしになって」
嫁のベアトリスはそう言って、私の手から鍵束を受け取った。
三十二年、私の腰で鳴っていた鍵束だった。
あっけないほど軽い音を立てて、それは嫁の手のひらに移った。
「離れのほうが日当たりもよろしいですし。お義母様のお体のためですわ」
「そうだよ、母上。もう何もしなくていいんだ」
息子のジュリアンも、隣で穏やかに頷いた。
悪い子ではない。昔から、優しい言葉を選ぶのが上手な子だった。
優しい言葉で、私を本邸から追い出すことができるくらいには。
◇
私、マルグリット・ローゼンは、五十歳になった。
ローゼン伯爵家の先代夫人で、夫を亡くして五年になる。
十八の春、父の決めた相手に嫁いだ。
顔を見たのは、婚礼の三日前が初めてだった。
それから三十二年、伯爵夫人として生きてきた。
夫が亡くなり、息子が家を継ぎ、嫁が来て、そして今日、私は離れに移った。
離れには、部屋が二つある。
寝台がひとつ。椅子がふたつ。茶器は、ひと揃いだけ。
二つ目の椅子に座る人はいないので、茶碗もひとつで足りる。
食事は、侍女が盆に載せて運んでくる。
本邸の食堂からは、孫たちの笑い声が風に乗って聞こえてきた。
「お祖母様のところへ行ってはいけませんよ。お疲れになるから」
嫁が子どもたちにそう言い聞かせているのを、私は庭の生け垣越しに聞いた。
それからは、庭にもあまり出なくなった。
それでも時々、夕方になると、離れの窓がこつこつと鳴った。
「お祖母様、いる?」
「しーっ、エミール。お母様に聞こえちゃう」
窓の下に、孫のエミールとリゼットがしゃがんでいた。
七つと五つ。二人とも、泥だらけの靴を履いている。
「まあ。また抜け出してきたの」
「だって、お祖母様のお菓子のほうがおいしいもん」
「お母様のお菓子は、硬いの」
私は窓から、焼き菓子を二つずつ手渡した。
二人は頬を膨らませて、生け垣の向こうへ駆けていった。
その小さな足音が、離れでいちばん賑やかな音だった。
壁の時計が、こち、こち、と鳴る。
一日はとても長く、そして何も起きなかった。
鏡台の前に座るのを、私はいつの間にかやめていた。
映るのは、白いものの混じった髪と、目尻の皺。
もう若くない女の顔だ。
誰も見ないのだから、見なくてもいい。
◇
ただ、ひとつだけ。
離れの小さな文机の引き出しに、私は一枚の紙をしまっている。
チェスの盤面が、鉛筆で書き留めてある。
白の王が追い詰められ、黒の騎士が一手先で待っている。
勝負の途中で終わった盤面だ。
去年の春、私は国境の温泉地へ湯治に出かけた。
夫の喪が明けて、息子が「一度くらいは」と許してくれた、たった一度の旅だった。
宿の中庭に、古いチェス盤が置いてあった。
そこへ毎日、昼過ぎになると、大きな声の老人が現れた。
「おう、ご婦人! 一局どうだ!」
日に焼けた顔に、真っ白な髭。肩幅は扉ほどもある。
私が駒の動かし方を知っていると言うと、老人は目を輝かせた。
最初の一局は、私が勝った。
老人は盤を睨みつけ、それから、腹を抱えて笑い出した。
「はっはっは! 負けた! 見事に負けた!」
負けて、あんなに嬉しそうに笑う人を、私は初めて見た。
「悔しくはありませんの?」
「悔しいとも! だから笑うのだ。強い相手に会えた日は、めでたい日だからな」
「おかしな方ですね」
「よく言われる。もう一局!」
それから二週間、毎日、昼過ぎに一局。
勝ったり負けたり、いや、正直に言えば私のほうが多く勝った。
老人は負けるたびに笑い、勝つたびにもっと大きな声で笑った。
「あなたの手は、静かなのに容赦がない」
「そうでしょうか」
「そうだとも。黙って駒を進めて、気づいたら王の首に刃が当たっている。どこで覚えた」
「夫の相手を、三十年ほど」
「ほう。ご主人はお強かったか」
「いいえ。私が勝つと不機嫌になるので、いつも負けて差し上げていました」
老人は、ぴたりと笑うのをやめた。
それから、ひどく真面目な顔で盤を指した。
「では、ここでは一度も負けてやらんでいい。本気で来い」
その日から、私は一度も手加減をしなかった。
駒を進めるたびに、肩のあたりが軽くなっていく気がした。
名前は訊かなかった。向こうも訊かなかった。
「ハインリヒでいい」と言われて、私も「マルグリットで結構です」と答えただけだ。
最後の日、勝負は終わらなかった。
迎えの馬車が来てしまったのだ。
「続きは、また今度だな」
ハインリヒは、盤面を紙に書き写して私に渡した。
今度など来ないと、私は知っていた。
それでも、その紙を捨てられずにいる。
◇
その手紙が届いたのは、離れに移って三か月が過ぎた、秋の朝だった。
「大奥様、お手紙でございます」
侍女の声が、少し裏返っていた。
差し出された封筒を見て、私も理由が分かった。
分厚い羊皮紙。
封蝋に押されているのは、剣と麦の穂を組み合わせた紋章。
国境の向こう、隣国グラウ辺境伯家のものだった。
封を切ると、まず一枚の紙が滑り落ちた。
チェスの盤面が描いてあった。
白の王が追い詰められ、黒の騎士が一手先で待っている。
私の引き出しにあるものと、同じ盤面だった。
震える指で、手紙を開く。
大きく、のびのびとした、少し右に傾いた字だった。
『親愛なるマルグリット殿。
あの勝負の続きを、残りの人生で毎日したい。
ついては、私の妻になっていただけないだろうか。
ハインリヒ・グラウ』
私は、しばらく手紙を見つめていた。
三回読んだ。
四回目で、喉の奥から何かがこみ上げてきた。
「……ふ」
最初は、小さな息だった。
「ふふ……あはは……!」
止まらなかった。
私は文机に突っ伏して、声を上げて笑った。
侍女が目を丸くして、それから、つられたように口元を押さえた。
毎日、チェスがしたいから、結婚してください。
五十歳の女に、そんな求婚をする人がいるなんて。
笑いすぎて涙が出た。
こんなに笑ったのは、何年ぶりだろう。
思い出せないくらい、昔だった。
「大奥様……あの、どなたからのお手紙で?」
「チェスの相手よ。温泉宿の」
「チェスの……それで、なんと?」
「お嫁に来ないか、ですって」
侍女は、手にしていたお盆を取り落としそうになった。
「お、お受けになるのですか」
「どうしようかしら。五十のおばあさんよ、私」
「おばあさんなんかじゃありません!」
侍女は真っ赤な顔で、首を横にぶんぶんと振った。
この離れに私の世話をしに来てから、彼女が大きな声を出したのは初めてだった。
「大奥様、今、お笑いになりました。お屋敷にいらしたときより、ずっとお若い声で」
◇
その日の夕方、私は初めて自分から本邸の扉を叩いた。
「再婚、ですって?」
ベアトリスの声が、応接間に響いた。
ジュリアンは手紙を読みながら、眉間に深い皺を寄せていた。
「母上、正気ですか。五十ですよ」
「ええ。五十ですね」
「みっともない。母上の年で再婚など、聞いたことがありません」
「ローゼン家の名に傷がつきますわ。社交界で何と言われるか」
「それに、父上に申し訳ないと思わないのですか」
「お父様は、五年前に亡くなりました」
「だからこそです。母上には、父上の思い出と静かに暮らしていただきたい」
思い出、と私は口の中で繰り返した。
夫の思い出で、思い浮かぶのは、私が勝つと不機嫌になった横顔くらいだった。
二人の言葉は、まるで練習したかのように揃っていた。
私は黙って聞いていた。
怒る気持ちは、不思議と湧かなかった。この子たちはずっと、こういう言葉で私を守っているつもりなのだ。
「どこの誰とも知れない男でしょう。財産目当てかもしれない」
ジュリアンがそう言って、手紙の最後の署名に目を落とした。
そして、固まった。
「……グラウ?」
「どうなさいましたの、あなた」
「グラウ辺境伯……ハインリヒ・グラウ。まさか、あの『国境の獅子』か」
息子の顔色が、みるみる変わっていった。
隣国の元将軍。
二十年前の国境紛争を、一度も剣を交えずに終わらせた男。
今は引退して、国境沿いの広大な辺境伯領を治めている。
そんな話を、私はその時、初めて知った。
中庭で駒を倒して大笑いしていた、あの老人が。
「グラウ辺境伯家と縁ができれば、国境の通商許可が……」
「あなた、お義母様の寡婦年金はどうなりますの。再婚なさったら、こちらに入るのでは」
「いや、それよりも持参金をどうするかだ。少なすぎては体面が」
二人は顔を寄せ合って、早口で話し始めた。
もう、私のほうを見てもいなかった。
ああ、と私は思った。
反対したときも、賛成しそうな今も、この子たちの話には、私が一度も出てこない。
「ジュリアン」
私が呼ぶと、息子は顔を上げた。
「お返事は、私が書きます」
「母上? いえ、こういうことは当主の私が――」
「私の結婚です」
自分の声が、思ったよりずっと静かで、はっきりしていた。
「十八のときは、お父様が決めました。今度は、私が決めます」
◇
離れに戻って、私は物置の奥から古い旅行鞄を引っ張り出した。
嫁入りのときに持ってきたものだ。
三十二年、一度も使わなかった。
埃を払って、蓋を開ける。
中に何を詰めよう、と考えて、私は手を止めた。
何を持っていけばいいのか、分からなかった。
伯爵夫人として必要なものなら、いくらでも分かる。
でも、私が持っていきたいものは。
私は文机に向かって、紙に書き出してみた。
乗馬服。
子どもの頃、馬に乗るのが好きだった。嫁いでからは「はしたない」と言われて、一度も乗っていない。
日傘。
海を見てみたい。生まれてから一度も、海を見たことがない。グラウ辺境伯領は、海に面していると聞いた。
それから、あの盤面を書いた紙。
書き出した紙を眺めて、私は少し笑った。
五十年生きて、やりたいことが、たったの三つ。
でも、三つもあった。
窓が、こつこつと鳴った。
「お祖母様、それなあに?」
「旅行鞄よ。お祖母様、遠くへお出かけするの」
「どこへ?」
「海のあるところ」
「うみ!」
リゼットが、窓枠にしがみついて背伸びをした。
「リゼットも行きたい!」
「大きくなったらね。お祖母様が先に行って、いちばんきれいな浜を探しておくわ」
「ほんと? 約束?」
「約束よ」
エミールが、ポケットから何かを取り出して、窓から差し入れた。
丸くてすべすべした、白い小石だった。
「これ、お守り。お祖母様が迷子にならないように」
「……ありがとう、エミール」
私は小石を、盤面の紙と一緒に鞄の内ポケットにしまった。
四つ目の荷物ができた。
翌日、私は侍女を連れて、町の仕立て屋へ行った。
乗馬服を一着、と言うと、仕立て屋の主人は私の顔をまじまじと見た。
「お孫様の、でございますか」
「いいえ。私のです」
主人は一瞬黙り、それから、深々と頭を下げた。
「では、とびきり動きやすいものをお作りいたしましょう」
その夜、私は返事を書いた。
『親愛なるハインリヒ殿。
お申し出、謹んでお受けいたします。
ただし、私はもう若くありません。それでもよろしければ』
書いて、読み返して、最後の一文を線で消した。
消した上から、書き直した。
『ただし、次の一局は私の白番です』
◇
その朝、私は久しぶりに鏡台の前に座った。
映っているのは、白いものの混じった髪と、目尻の皺。
三か月前と、何も変わらない顔だった。
それなのに、違って見えた。
目尻の皺は、中庭で笑いすぎてできたものかもしれない。
白い髪は、陽に当てれば銀色に光るのかもしれない。
私は髪を結い直し、一番好きな藤色の口紅を引いた。
夫が「年甲斐もない」と言ってから、二十年しまい込んでいた色だ。
鏡の中の女が、少しだけ笑った。
その時、門のほうがやけに騒がしくなった。
「大奥様! 大奥様、たいへんです!」
侍女が離れに飛び込んできた。
その後ろから、小さな足音が二つ。孫のエミールとリゼットだった。
「お祖母様! お馬! おっきなお馬が来たよ!」
「おひげのおじいさんが乗ってるの!」
本邸の前庭に出ると、そこに一頭の黒い大きな馬がいた。
鞍の上に、白い髭の老人がまたがっていた。
背中に、古ぼけたチェス盤を紐でくくりつけて。
「おう、マルグリット殿!」
その声を聞いた瞬間、半年前の中庭の匂いがした。
硫黄の混じった湯気と、春の草の匂い。
ハインリヒは身軽に馬から飛び降りた。五十八とは思えない動きだった。
本邸からジュリアンとベアトリスが、慌てた様子で駆け出してくる。
「グ、グラウ辺境伯閣下! ようこそお越しくださいました。私が当主のジュリアン・ローゼンです。母の件につきましては、持参金と寡婦年金の扱い、それから両家の通商について、まずご相談を――」
「母君の荷物は、もうまとまっているのか?」
「は? いえ、それはまだ、条件が決まってから――」
ハインリヒは、息子の前を素通りした。
まるで、そこに誰もいないかのように。
まっすぐに、私の前まで歩いてきた。
「返事が届いて、居ても立ってもいられなくてな」
照れたように、白い髭をかく。
「迎えの馬車を仕立てていたら、チェスが三局は打てる。馬のほうが早い」
「……馬で、いらしたのですか。国境から」
「五日かかった。尻が痛い」
私は、吹き出してしまった。
ハインリヒも、大きな声で笑った。中庭で負けたときと、同じ笑い方だった。
それから彼は、ふっと笑いを収めた。
背中のチェス盤を下ろし、私の足元に膝をついた。
前庭が、しんと静まり返った。
ジュリアンも、ベアトリスも、使用人たちも、孫たちも。
誰もが息を止めて、私たちを見ていた。
「マルグリット殿」
低く、よく通る声だった。
「あなたは、もう若くないと言われたそうだな」
どうしてそれを、と言いかけて、侍女の顔が目に入った。
彼女は頬を赤くして、うつむいていた。返事の手紙に、こっそり何か書き添えたのかもしれない。
「私も、もう若くない。膝は痛むし、朝は早く目が覚める」
ハインリヒは、私の手を取った。
大きくて、ごつごつしていて、温かい手だった。
「だが、私は数えてみた。私たちには、まだ二十年ある。三十年あるかもしれん」
灰色の目が、まっすぐに私を見上げていた。
「あなたの人生は、まだ半分残っています。その半分を、私にください」
風が吹いた。
前庭の楓が、赤い葉を一枚、私たちの間に落とした。
半分。
私の人生は、まだ半分残っている。
誰も、そんなふうに言ってくれなかった。
もう若くない。もう何もしなくていい。静かに過ごせばいい。
私自身でさえ、そう思っていた。鏡を見るのをやめて、庭に出るのをやめて、残りの時間をただ時計の音で数えていた。
喉が詰まって、声が出なかった。
私は、ハインリヒの手を握り返した。
一度、深く息を吸った。
「……条件が、ひとつございます」
「何でも言ってくれ」
「チェスは、手加減なさらないでくださいね」
ハインリヒは目を丸くした。
それから、空が割れるような声で笑った。
「するものか! あなた相手に手加減などしたら、一生勝てん!」
孫たちが、わっと歓声を上げた。
エミールが私のスカートに飛びつき、リゼットが「お祖母様、お嫁に行くの?」と叫んだ。
「ええ。お嫁に行くのよ」
「お祖母様が?」
「そう。お祖母様が」
「閣下、お待ちください。条件のご相談がまだ――」
ジュリアンの声に、ハインリヒはようやく振り向いた。
「条件なら、今聞いた。手加減なしのチェスだ」
「いえ、そうではなく、持参金や年金の」
「要らん。何ひとつ要らん。私が欲しいのは、この人だけだ」
息子は、口を開けたまま固まった。
ベアトリスが、その袖を小さく引いた。
私は振り向かなかった。
振り向かなくても、息子が無事でいることは分かっていたから。
◇
婚礼は、国境の小さな教会で挙げた。
仕立て屋が作ってくれた乗馬服で、私は花嫁の馬に乗った。
はしたない、と言う人は、誰もいなかった。
教会の前には、辺境伯領の兵士たちが二列に並んでいた。
皆、白髪交じりの古参兵だった。かつてハインリヒと国境を守った男たちだという。
「奥方様、ばんざい!」
「閣下に勝ったというのは本当ですか!」
「閣下は四十年、誰にも盤上で負けなかったのですぞ!」
私は馬上で、思わずハインリヒを振り返った。
「四十年、負けなかった?」
「……言っておらんかったか」
「聞いておりません。中庭では、毎日負けていらしたではありませんか」
「だから言っただろう。強い相手に会えた日は、めでたい日だと」
ハインリヒは、耳まで赤くなっていた。
兵士たちが、どっと笑った。
私も笑った。笑いながら、少しだけ泣いた。
◇
それから半年が過ぎた、春のことだ。
グラウ辺境伯領の城門に、王国からの使節団が到着した。
国境の通商許可を求める、貴族たちの一行だった。
その中に、ジュリアンがいた。
城門の前で待たされている一行の横を、一頭の栗毛の馬が駆け抜けていった。
乗っているのは、乗馬服の女だった。
日に焼けた頬で、白いものの混じった髪を風になびかせて。
女は手綱を引いて、馬を止めた。
ジュリアンが、その顔をぽかんと見上げた。
「……母上、ですか?」
私は笑って、馬から降りた。
「いらっしゃい、ジュリアン。遠いところをよく来たわね」
「母上、その……馬に」
「ええ。毎朝乗っているの。昨日は丘の向こうまで行ったわ」
「お一人で、ですか」
「まさか。主人が後ろから追いかけてくるのよ。いつも私が先に着くけれど」
息子は、何と言っていいか分からない顔をしていた。
王都では近頃、ある噂が流れているらしい。
国境の獅子が娶った辺境伯夫人は、ローゼン伯爵家で離れに閉じ込められていた先代夫人だ、と。
今回の通商許可が思うように進まないのも、どうやらそのせいらしかった。
私はそれについて、何も言わなかった。
言う必要もなかった。
「お茶を淹れさせるわ。エミールとリゼットは元気?」
「は、はい。お祖母様に会いたいと、毎日」
「夏になったら、二人を連れていらっしゃい。海を見せてあげたいの。いちばんきれいな浜も、もう見つけてあるのよ」
「母上が、ご自分で?」
「ええ。馬で探したの。岬の下に、白い小石ばかりの浜があってね。エミールのお守りと同じ石よ」
ジュリアンは、何かを言いかけて、唇を噛んだ。
「……母上。離れのこと、僕は」
「いいのよ」
私は、息子の腕を軽く叩いた。
子どもの頃、転んで泣いたこの子に、そうしてやったように。
「おかげで、旅行鞄を出す気になったわ」
ジュリアンは、長いこと私の顔を見ていた。
それから、子どもの頃のように、小さく頷いた。
「……母上、お元気そうで」
「ええ。とても」
◇
その日の夕暮れ、私は城の裏手の岬に立っていた。
目の前に、海があった。
どこまでも続く、青と灰色と金色の水。
波が岩に当たって、白く砕ける。
潮の匂いが、日傘の下まで吹き込んでくる。
辺境伯領に来て、最初に連れてきてもらった場所だ。
初めて海を見た日、私は日傘を差すのも忘れて、ただ立ち尽くしていた。
五十一歳の、春だった。
「マルグリット。勝負の途中だぞ」
振り向くと、ハインリヒが岬の東屋で手招きしていた。
石の卓の上に、あの古いチェス盤が置いてある。
私は東屋に戻って、彼の向かいに座った。
盤面を見下ろす。
白の王が追い詰められ、黒の騎士が一手先で待っている。
あの日の盤面から、私たちはもう百局以上打った。
それでも、最初の盤面だけは、なぜか決着をつけずに残してあった。
「なぜ、この一局だけ終わらせないのです?」
前に一度、訊いたことがある。
ハインリヒは、珍しく笑わずに答えた。
「終わらせたら、あなたが帰ってしまう気がしてな。温泉宿の、あの最後の日のように」
「もう、どこにも帰りませんわ」
「分かっている。分かっているが、年寄りは臆病なのだ」
そう言って、照れくさそうに髭をかいた。
国境の獅子と呼ばれた人が、と思うと、私はおかしくて、少し胸が痛かった。
「さあ、どうする。今日こそ決めるか」
ハインリヒが、楽しそうに髭を揺らした。
私は騎士の駒に手を伸ばしかけて、やめた。
夕日が、海に沈みかけていた。
波の音が、ゆっくりと寄せては返す。
「いいえ」
私は、駒から手を離した。
「次の手は、明日にしましょう」
ハインリヒが首を傾げた。
私は笑って、彼の大きな手に自分の手を重ねた。
「明日がありますから」
(了)




