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「もう若くないのだから」と息子夫婦に離れへ移された五十歳の私に、隣国の老将軍から求婚状が届きました

掲載日:2026/10/26

「もう若くないのだから、静かにお過ごしになって」


嫁のベアトリスはそう言って、私の手から鍵束を受け取った。

三十二年、私の腰で鳴っていた鍵束だった。

あっけないほど軽い音を立てて、それは嫁の手のひらに移った。


「離れのほうが日当たりもよろしいですし。お義母様のお体のためですわ」

「そうだよ、母上。もう何もしなくていいんだ」


息子のジュリアンも、隣で穏やかに頷いた。

悪い子ではない。昔から、優しい言葉を選ぶのが上手な子だった。

優しい言葉で、私を本邸から追い出すことができるくらいには。


◇


私、マルグリット・ローゼンは、五十歳になった。

ローゼン伯爵家の先代夫人で、夫を亡くして五年になる。


十八の春、父の決めた相手に嫁いだ。

顔を見たのは、婚礼の三日前が初めてだった。

それから三十二年、伯爵夫人として生きてきた。

夫が亡くなり、息子が家を継ぎ、嫁が来て、そして今日、私は離れに移った。


離れには、部屋が二つある。

寝台がひとつ。椅子がふたつ。茶器は、ひと揃いだけ。

二つ目の椅子に座る人はいないので、茶碗もひとつで足りる。


食事は、侍女が盆に載せて運んでくる。

本邸の食堂からは、孫たちの笑い声が風に乗って聞こえてきた。


「お祖母様のところへ行ってはいけませんよ。お疲れになるから」


嫁が子どもたちにそう言い聞かせているのを、私は庭の生け垣越しに聞いた。

それからは、庭にもあまり出なくなった。


それでも時々、夕方になると、離れの窓がこつこつと鳴った。


「お祖母様、いる?」

「しーっ、エミール。お母様に聞こえちゃう」


窓の下に、孫のエミールとリゼットがしゃがんでいた。

七つと五つ。二人とも、泥だらけの靴を履いている。


「まあ。また抜け出してきたの」

「だって、お祖母様のお菓子のほうがおいしいもん」

「お母様のお菓子は、硬いの」


私は窓から、焼き菓子を二つずつ手渡した。

二人は頬を膨らませて、生け垣の向こうへ駆けていった。


その小さな足音が、離れでいちばん賑やかな音だった。


壁の時計が、こち、こち、と鳴る。

一日はとても長く、そして何も起きなかった。


鏡台の前に座るのを、私はいつの間にかやめていた。

映るのは、白いものの混じった髪と、目尻の皺。

もう若くない女の顔だ。

誰も見ないのだから、見なくてもいい。


◇


ただ、ひとつだけ。

離れの小さな文机の引き出しに、私は一枚の紙をしまっている。


チェスの盤面が、鉛筆で書き留めてある。

白の王が追い詰められ、黒の騎士が一手先で待っている。

勝負の途中で終わった盤面だ。


去年の春、私は国境の温泉地へ湯治に出かけた。

夫の喪が明けて、息子が「一度くらいは」と許してくれた、たった一度の旅だった。


宿の中庭に、古いチェス盤が置いてあった。

そこへ毎日、昼過ぎになると、大きな声の老人が現れた。


「おう、ご婦人! 一局どうだ!」


日に焼けた顔に、真っ白な髭。肩幅は扉ほどもある。

私が駒の動かし方を知っていると言うと、老人は目を輝かせた。


最初の一局は、私が勝った。

老人は盤を睨みつけ、それから、腹を抱えて笑い出した。


「はっはっは! 負けた! 見事に負けた!」


負けて、あんなに嬉しそうに笑う人を、私は初めて見た。


「悔しくはありませんの?」

「悔しいとも! だから笑うのだ。強い相手に会えた日は、めでたい日だからな」

「おかしな方ですね」

「よく言われる。もう一局!」


それから二週間、毎日、昼過ぎに一局。

勝ったり負けたり、いや、正直に言えば私のほうが多く勝った。

老人は負けるたびに笑い、勝つたびにもっと大きな声で笑った。


「あなたの手は、静かなのに容赦がない」

「そうでしょうか」

「そうだとも。黙って駒を進めて、気づいたら王の首に刃が当たっている。どこで覚えた」

「夫の相手を、三十年ほど」

「ほう。ご主人はお強かったか」

「いいえ。私が勝つと不機嫌になるので、いつも負けて差し上げていました」


老人は、ぴたりと笑うのをやめた。

それから、ひどく真面目な顔で盤を指した。


「では、ここでは一度も負けてやらんでいい。本気で来い」


その日から、私は一度も手加減をしなかった。

駒を進めるたびに、肩のあたりが軽くなっていく気がした。


名前は訊かなかった。向こうも訊かなかった。

「ハインリヒでいい」と言われて、私も「マルグリットで結構です」と答えただけだ。


最後の日、勝負は終わらなかった。

迎えの馬車が来てしまったのだ。


「続きは、また今度だな」


ハインリヒは、盤面を紙に書き写して私に渡した。

今度など来ないと、私は知っていた。

それでも、その紙を捨てられずにいる。


◇


その手紙が届いたのは、離れに移って三か月が過ぎた、秋の朝だった。


「大奥様、お手紙でございます」


侍女の声が、少し裏返っていた。

差し出された封筒を見て、私も理由が分かった。


分厚い羊皮紙。

封蝋に押されているのは、剣と麦の穂を組み合わせた紋章。

国境の向こう、隣国グラウ辺境伯家のものだった。


封を切ると、まず一枚の紙が滑り落ちた。

チェスの盤面が描いてあった。

白の王が追い詰められ、黒の騎士が一手先で待っている。


私の引き出しにあるものと、同じ盤面だった。


震える指で、手紙を開く。

大きく、のびのびとした、少し右に傾いた字だった。


『親愛なるマルグリット殿。

あの勝負の続きを、残りの人生で毎日したい。

ついては、私の妻になっていただけないだろうか。

ハインリヒ・グラウ』


私は、しばらく手紙を見つめていた。

三回読んだ。

四回目で、喉の奥から何かがこみ上げてきた。


「……ふ」


最初は、小さな息だった。


「ふふ……あはは……!」


止まらなかった。

私は文机に突っ伏して、声を上げて笑った。

侍女が目を丸くして、それから、つられたように口元を押さえた。


毎日、チェスがしたいから、結婚してください。

五十歳の女に、そんな求婚をする人がいるなんて。


笑いすぎて涙が出た。

こんなに笑ったのは、何年ぶりだろう。

思い出せないくらい、昔だった。


「大奥様……あの、どなたからのお手紙で?」

「チェスの相手よ。温泉宿の」

「チェスの……それで、なんと?」

「お嫁に来ないか、ですって」


侍女は、手にしていたお盆を取り落としそうになった。


「お、お受けになるのですか」

「どうしようかしら。五十のおばあさんよ、私」

「おばあさんなんかじゃありません!」


侍女は真っ赤な顔で、首を横にぶんぶんと振った。

この離れに私の世話をしに来てから、彼女が大きな声を出したのは初めてだった。


「大奥様、今、お笑いになりました。お屋敷にいらしたときより、ずっとお若い声で」


◇


その日の夕方、私は初めて自分から本邸の扉を叩いた。


「再婚、ですって?」


ベアトリスの声が、応接間に響いた。

ジュリアンは手紙を読みながら、眉間に深い皺を寄せていた。


「母上、正気ですか。五十ですよ」

「ええ。五十ですね」

「みっともない。母上の年で再婚など、聞いたことがありません」

「ローゼン家の名に傷がつきますわ。社交界で何と言われるか」

「それに、父上に申し訳ないと思わないのですか」

「お父様は、五年前に亡くなりました」

「だからこそです。母上には、父上の思い出と静かに暮らしていただきたい」


思い出、と私は口の中で繰り返した。

夫の思い出で、思い浮かぶのは、私が勝つと不機嫌になった横顔くらいだった。


二人の言葉は、まるで練習したかのように揃っていた。

私は黙って聞いていた。

怒る気持ちは、不思議と湧かなかった。この子たちはずっと、こういう言葉で私を守っているつもりなのだ。


「どこの誰とも知れない男でしょう。財産目当てかもしれない」


ジュリアンがそう言って、手紙の最後の署名に目を落とした。

そして、固まった。


「……グラウ?」

「どうなさいましたの、あなた」

「グラウ辺境伯……ハインリヒ・グラウ。まさか、あの『国境の獅子』か」


息子の顔色が、みるみる変わっていった。


隣国の元将軍。

二十年前の国境紛争を、一度も剣を交えずに終わらせた男。

今は引退して、国境沿いの広大な辺境伯領を治めている。


そんな話を、私はその時、初めて知った。

中庭で駒を倒して大笑いしていた、あの老人が。


「グラウ辺境伯家と縁ができれば、国境の通商許可が……」

「あなた、お義母様の寡婦年金はどうなりますの。再婚なさったら、こちらに入るのでは」

「いや、それよりも持参金をどうするかだ。少なすぎては体面が」


二人は顔を寄せ合って、早口で話し始めた。

もう、私のほうを見てもいなかった。


ああ、と私は思った。

反対したときも、賛成しそうな今も、この子たちの話には、私が一度も出てこない。


「ジュリアン」


私が呼ぶと、息子は顔を上げた。


「お返事は、私が書きます」

「母上? いえ、こういうことは当主の私が――」

「私の結婚です」


自分の声が、思ったよりずっと静かで、はっきりしていた。


「十八のときは、お父様が決めました。今度は、私が決めます」


◇


離れに戻って、私は物置の奥から古い旅行鞄を引っ張り出した。

嫁入りのときに持ってきたものだ。

三十二年、一度も使わなかった。


埃を払って、蓋を開ける。

中に何を詰めよう、と考えて、私は手を止めた。


何を持っていけばいいのか、分からなかった。

伯爵夫人として必要なものなら、いくらでも分かる。

でも、私が持っていきたいものは。


私は文机に向かって、紙に書き出してみた。


乗馬服。

子どもの頃、馬に乗るのが好きだった。嫁いでからは「はしたない」と言われて、一度も乗っていない。


日傘。

海を見てみたい。生まれてから一度も、海を見たことがない。グラウ辺境伯領は、海に面していると聞いた。


それから、あの盤面を書いた紙。


書き出した紙を眺めて、私は少し笑った。

五十年生きて、やりたいことが、たったの三つ。

でも、三つもあった。


窓が、こつこつと鳴った。


「お祖母様、それなあに?」

「旅行鞄よ。お祖母様、遠くへお出かけするの」

「どこへ?」

「海のあるところ」

「うみ!」


リゼットが、窓枠にしがみついて背伸びをした。


「リゼットも行きたい!」

「大きくなったらね。お祖母様が先に行って、いちばんきれいな浜を探しておくわ」

「ほんと? 約束?」

「約束よ」


エミールが、ポケットから何かを取り出して、窓から差し入れた。

丸くてすべすべした、白い小石だった。


「これ、お守り。お祖母様が迷子にならないように」

「……ありがとう、エミール」


私は小石を、盤面の紙と一緒に鞄の内ポケットにしまった。

四つ目の荷物ができた。


翌日、私は侍女を連れて、町の仕立て屋へ行った。

乗馬服を一着、と言うと、仕立て屋の主人は私の顔をまじまじと見た。


「お孫様の、でございますか」

「いいえ。私のです」


主人は一瞬黙り、それから、深々と頭を下げた。


「では、とびきり動きやすいものをお作りいたしましょう」


その夜、私は返事を書いた。


『親愛なるハインリヒ殿。

お申し出、謹んでお受けいたします。

ただし、私はもう若くありません。それでもよろしければ』


書いて、読み返して、最後の一文を線で消した。

消した上から、書き直した。


『ただし、次の一局は私の白番です』


◇


その朝、私は久しぶりに鏡台の前に座った。


映っているのは、白いものの混じった髪と、目尻の皺。

三か月前と、何も変わらない顔だった。


それなのに、違って見えた。

目尻の皺は、中庭で笑いすぎてできたものかもしれない。

白い髪は、陽に当てれば銀色に光るのかもしれない。


私は髪を結い直し、一番好きな藤色の口紅を引いた。

夫が「年甲斐もない」と言ってから、二十年しまい込んでいた色だ。


鏡の中の女が、少しだけ笑った。


その時、門のほうがやけに騒がしくなった。


「大奥様! 大奥様、たいへんです!」


侍女が離れに飛び込んできた。

その後ろから、小さな足音が二つ。孫のエミールとリゼットだった。


「お祖母様! お馬! おっきなお馬が来たよ!」

「おひげのおじいさんが乗ってるの!」


本邸の前庭に出ると、そこに一頭の黒い大きな馬がいた。

鞍の上に、白い髭の老人がまたがっていた。

背中に、古ぼけたチェス盤を紐でくくりつけて。


「おう、マルグリット殿!」


その声を聞いた瞬間、半年前の中庭の匂いがした。

硫黄の混じった湯気と、春の草の匂い。


ハインリヒは身軽に馬から飛び降りた。五十八とは思えない動きだった。

本邸からジュリアンとベアトリスが、慌てた様子で駆け出してくる。


「グ、グラウ辺境伯閣下! ようこそお越しくださいました。私が当主のジュリアン・ローゼンです。母の件につきましては、持参金と寡婦年金の扱い、それから両家の通商について、まずご相談を――」

「母君の荷物は、もうまとまっているのか?」

「は? いえ、それはまだ、条件が決まってから――」


ハインリヒは、息子の前を素通りした。

まるで、そこに誰もいないかのように。

まっすぐに、私の前まで歩いてきた。


「返事が届いて、居ても立ってもいられなくてな」


照れたように、白い髭をかく。


「迎えの馬車を仕立てていたら、チェスが三局は打てる。馬のほうが早い」

「……馬で、いらしたのですか。国境から」

「五日かかった。尻が痛い」


私は、吹き出してしまった。

ハインリヒも、大きな声で笑った。中庭で負けたときと、同じ笑い方だった。


それから彼は、ふっと笑いを収めた。

背中のチェス盤を下ろし、私の足元に膝をついた。


前庭が、しんと静まり返った。

ジュリアンも、ベアトリスも、使用人たちも、孫たちも。

誰もが息を止めて、私たちを見ていた。


「マルグリット殿」


低く、よく通る声だった。


「あなたは、もう若くないと言われたそうだな」


どうしてそれを、と言いかけて、侍女の顔が目に入った。

彼女は頬を赤くして、うつむいていた。返事の手紙に、こっそり何か書き添えたのかもしれない。


「私も、もう若くない。膝は痛むし、朝は早く目が覚める」


ハインリヒは、私の手を取った。

大きくて、ごつごつしていて、温かい手だった。


「だが、私は数えてみた。私たちには、まだ二十年ある。三十年あるかもしれん」


灰色の目が、まっすぐに私を見上げていた。


「あなたの人生は、まだ半分残っています。その半分を、私にください」


風が吹いた。

前庭の楓が、赤い葉を一枚、私たちの間に落とした。


半分。

私の人生は、まだ半分残っている。


誰も、そんなふうに言ってくれなかった。

もう若くない。もう何もしなくていい。静かに過ごせばいい。

私自身でさえ、そう思っていた。鏡を見るのをやめて、庭に出るのをやめて、残りの時間をただ時計の音で数えていた。


喉が詰まって、声が出なかった。

私は、ハインリヒの手を握り返した。

一度、深く息を吸った。


「……条件が、ひとつございます」

「何でも言ってくれ」

「チェスは、手加減なさらないでくださいね」


ハインリヒは目を丸くした。

それから、空が割れるような声で笑った。


「するものか! あなた相手に手加減などしたら、一生勝てん!」


孫たちが、わっと歓声を上げた。

エミールが私のスカートに飛びつき、リゼットが「お祖母様、お嫁に行くの?」と叫んだ。


「ええ。お嫁に行くのよ」

「お祖母様が?」

「そう。お祖母様が」


「閣下、お待ちください。条件のご相談がまだ――」


ジュリアンの声に、ハインリヒはようやく振り向いた。


「条件なら、今聞いた。手加減なしのチェスだ」

「いえ、そうではなく、持参金や年金の」

「要らん。何ひとつ要らん。私が欲しいのは、この人だけだ」


息子は、口を開けたまま固まった。

ベアトリスが、その袖を小さく引いた。


私は振り向かなかった。

振り向かなくても、息子が無事でいることは分かっていたから。


◇


婚礼は、国境の小さな教会で挙げた。

仕立て屋が作ってくれた乗馬服で、私は花嫁の馬に乗った。

はしたない、と言う人は、誰もいなかった。


教会の前には、辺境伯領の兵士たちが二列に並んでいた。

皆、白髪交じりの古参兵だった。かつてハインリヒと国境を守った男たちだという。


「奥方様、ばんざい!」

「閣下に勝ったというのは本当ですか!」

「閣下は四十年、誰にも盤上で負けなかったのですぞ!」


私は馬上で、思わずハインリヒを振り返った。


「四十年、負けなかった?」

「……言っておらんかったか」

「聞いておりません。中庭では、毎日負けていらしたではありませんか」

「だから言っただろう。強い相手に会えた日は、めでたい日だと」


ハインリヒは、耳まで赤くなっていた。

兵士たちが、どっと笑った。

私も笑った。笑いながら、少しだけ泣いた。


◇


それから半年が過ぎた、春のことだ。


グラウ辺境伯領の城門に、王国からの使節団が到着した。

国境の通商許可を求める、貴族たちの一行だった。


その中に、ジュリアンがいた。


城門の前で待たされている一行の横を、一頭の栗毛の馬が駆け抜けていった。

乗っているのは、乗馬服の女だった。

日に焼けた頬で、白いものの混じった髪を風になびかせて。


女は手綱を引いて、馬を止めた。

ジュリアンが、その顔をぽかんと見上げた。


「……母上、ですか?」


私は笑って、馬から降りた。


「いらっしゃい、ジュリアン。遠いところをよく来たわね」

「母上、その……馬に」

「ええ。毎朝乗っているの。昨日は丘の向こうまで行ったわ」

「お一人で、ですか」

「まさか。主人が後ろから追いかけてくるのよ。いつも私が先に着くけれど」


息子は、何と言っていいか分からない顔をしていた。

王都では近頃、ある噂が流れているらしい。

国境の獅子が娶った辺境伯夫人は、ローゼン伯爵家で離れに閉じ込められていた先代夫人だ、と。

今回の通商許可が思うように進まないのも、どうやらそのせいらしかった。


私はそれについて、何も言わなかった。

言う必要もなかった。


「お茶を淹れさせるわ。エミールとリゼットは元気?」

「は、はい。お祖母様に会いたいと、毎日」

「夏になったら、二人を連れていらっしゃい。海を見せてあげたいの。いちばんきれいな浜も、もう見つけてあるのよ」

「母上が、ご自分で?」

「ええ。馬で探したの。岬の下に、白い小石ばかりの浜があってね。エミールのお守りと同じ石よ」


ジュリアンは、何かを言いかけて、唇を噛んだ。


「……母上。離れのこと、僕は」

「いいのよ」


私は、息子の腕を軽く叩いた。

子どもの頃、転んで泣いたこの子に、そうしてやったように。


「おかげで、旅行鞄を出す気になったわ」


ジュリアンは、長いこと私の顔を見ていた。

それから、子どもの頃のように、小さく頷いた。


「……母上、お元気そうで」

「ええ。とても」


◇


その日の夕暮れ、私は城の裏手の岬に立っていた。


目の前に、海があった。


どこまでも続く、青と灰色と金色の水。

波が岩に当たって、白く砕ける。

潮の匂いが、日傘の下まで吹き込んでくる。


辺境伯領に来て、最初に連れてきてもらった場所だ。

初めて海を見た日、私は日傘を差すのも忘れて、ただ立ち尽くしていた。

五十一歳の、春だった。


「マルグリット。勝負の途中だぞ」


振り向くと、ハインリヒが岬の東屋で手招きしていた。

石の卓の上に、あの古いチェス盤が置いてある。


私は東屋に戻って、彼の向かいに座った。

盤面を見下ろす。

白の王が追い詰められ、黒の騎士が一手先で待っている。


あの日の盤面から、私たちはもう百局以上打った。

それでも、最初の盤面だけは、なぜか決着をつけずに残してあった。


「なぜ、この一局だけ終わらせないのです?」


前に一度、訊いたことがある。

ハインリヒは、珍しく笑わずに答えた。


「終わらせたら、あなたが帰ってしまう気がしてな。温泉宿の、あの最後の日のように」

「もう、どこにも帰りませんわ」

「分かっている。分かっているが、年寄りは臆病なのだ」


そう言って、照れくさそうに髭をかいた。

国境の獅子と呼ばれた人が、と思うと、私はおかしくて、少し胸が痛かった。


「さあ、どうする。今日こそ決めるか」


ハインリヒが、楽しそうに髭を揺らした。

私は騎士の駒に手を伸ばしかけて、やめた。


夕日が、海に沈みかけていた。

波の音が、ゆっくりと寄せては返す。


「いいえ」


私は、駒から手を離した。


「次の手は、明日にしましょう」


ハインリヒが首を傾げた。

私は笑って、彼の大きな手に自分の手を重ねた。


「明日がありますから」


(了)


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― 新着の感想 ―
日々を真摯に生きてきた人たちの物語ですね。 それを過去にせずに気持ちも人との関係も綺麗に循環してるみたいな。マルグリットさんもハイリヒさんも古参兵さんたちもとても素敵。 だらだら時間を消費するだけのこ…
もう若くない、もう遅い… あの諦念は何だったのだろう。 あの頃、残りの人生の長さを知っていたら 素敵なお話をありがとうございました。
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