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静かな戦いの、始まりの音

作者: 星渡リン
掲載日:2026/01/20

 目覚ましの電子音が鳴るより先に、目は覚めていた。

 寝起きなのに、心だけが先に起きてしまったみたいだった。


 スマホを手探りで掴んで、止める。

 音が消えた瞬間、部屋の静けさが急に大きくなる。


 ――今日だ。


 声にしなくても、胸の奥でそれだけが響いた。


 布団の中に残っている温かさが、やけに薄い。

 指先を動かすと冷たくて、冬がちゃんとそこにいる。


 受験当日。

 そう思っただけで、胃の奥がぎゅっと縮む。


 机の上には、昨夜の自分が並べた道具がある。

 受験票。鉛筆。シャープペン。消しゴム。時計。


 何度も確認した。

 それでも、もう一回確かめたくなる。


 「ちゃんとしていないと、だめだ」


 そう思うほど、手が震えそうだった。


 鉛筆を一本だけ取る。削りたての木の匂いがする。

 鉛筆は正直だ。削れば尖る。持てば書ける。


 うまくいくかは分からない。

 でも、やるべき動作はちゃんとある。


 カーテンを開ける。


 シャッ、と布が滑る音。

 冬の朝の光は薄い青で、きれいなのに温度がない。


 白い息をひとつ吐いて、私は立ち上がった。

 床が冷たい。踵から冷えが上がってきて、背筋が勝手に伸びる。


 廊下に出ると、家の音がした。


 台所から、湯が沸く音。

 食器の小さな触れ合い。

 包丁がまな板に当たる、軽いリズム。


 普段なら安心する生活音が、今日はどこか遠い。

 日常が私の緊張と関係なく進んでいるのが、不思議で少し怖かった。


 リビングの明かりは暖色だった。

 母がキッチンに立っている。背中はいつも通りで、動きもいつも通り。


 私が入ると、母は振り返らずに言った。


「起きた?」


「うん」


 声が乾いている。喉の奥が硬い。

 母はそれに触れないまま、湯呑みを差し出した。


「お茶、熱いから気をつけて」


 両手で包むと、熱が掌に移る。

 熱いのに、心地いい。


 熱さは、今の私にとって“確かなもの”だった。


 テーブルの端に、お弁当袋が置かれている。

 落ち着いた色の布。紐がきゅっと結ばれている。

 袋は少し膨らんでいて、何かが入っているのが分かる。


 母は言葉を足さないまま、カイロを二つ置いた。


 ポン、と軽い音。


 その音が、妙に効いた。

 「頑張れ」より先に、手が動く。


 私はカイロをコートのポケットに入れた。

 まだ冷たい。


 ――でも、冷たいからこそ、温まる。


「忘れ物ない?」


 母が訊く。


 受験票。筆箱。時計。上履き。

 目で追って確認しても、不安がゼロにはならない。


「……大丈夫」


 言い切るのが怖かったのに、口から出た。


 母はそれ以上何も言わない。

 その“何も言わない”が、ありがたかった。


 玄関で靴紐を結び直す。

 結び目を確かめると、ほんの少し落ち着く。


 小さな行為が、今日を支える柱になる。


「行ってきます」


 私が言うと、母は少しだけ声を柔らかくした。


「行ってらっしゃい。焦らなくていいよ」


 焦らなくていい。

 簡単で、難しい言葉。


 でも母の声は押しつけじゃなくて、祈りみたいに軽かった。


 外に出る。空気が刺さる。

 息が白い。


 白い息は、緊張を見える形にしてしまう。

 私はそれが少し恥ずかしくて、息を浅くした。


 駅までの道は短い。五分くらい。

 だけど今日は、その五分が長い。


 信号の赤が長い。

 足音が大きい。

 自分の心臓の音まで耳に届く。


 踏切の前で遮断機が鳴った。

 カン、カン、と一定のリズム。


 私は立ち止まる。

 電車が通り過ぎる数十秒だけ、世界が強制的に止まる。


 止まると、考える。

 考えると、怖くなる。


 ポケットの中でカイロを握った。

 少しだけ温かくなってきている。


 遮断機が上がり、歩き出す。

 駅に近づくにつれ、人が増える。受験生の姿が増える。


 みんな静かだ。

 静かなのに、空気がざわついている。


 改札のピッという音。

 階段を下りる靴音。

 ホームのアナウンス。


 音が重なって、胸の緊張も重なっていく。


 電車に乗る。

 車内は暖房が効いているのに、指先は冷たい。


 隣の受験生が参考書を開いた。

 ページの擦れる音がして、胸がざわつく。


 私も見なきゃ。

 今からでも。


 でも、開いても頭に入らない。

 入らないと焦る。焦るともっと入らない。


 私は参考書を出すのをやめて、目を閉じた。


 息を吸う。

 吐く。


 白い息は見えない。

 見えなくても、私は呼吸している。


 それだけが、今の私の確かなことだった。


 会場の最寄り駅で降りる。

 外はまた冷たく、空が高い。


 校門が見えた瞬間、足が重くなる。

 胸の中に、冷たい石が増えるみたいだった。


 そのとき、担任の先生が門の近くに立っているのが見えた。

 先生は大声で励ましたりしない。

 ただ、受験生の目を見て、短く頷いている。


 私が近づくと、先生が私の名前を呼んだ。


「おはよう」


「……おはようございます」


 声が小さくても、先生はちゃんと聞いたみたいに頷いた。


「大丈夫。やることはやった」


 根拠じゃなくて、事実みたいに言われた。

 やることはやった。私は、確かにやった。


「名前を書けば勝ち。まず、そこから」


 先生は笑わない。ふざけない。

 淡々とした声で、作戦みたいに言った。


 私はその言葉を、ポケットにしまった。

 カイロの温度の隣に。


 教室の空気は固かった。

 紙の匂い、鉛筆の匂い、緊張の匂い。


 机の上を整える。

 時計。鉛筆。消しゴム。受験票。


 並べると落ち着く。

 並べる動作はいつも通り。

 いつも通りが、今日の私を支える。


 椅子が引かれる音。

 紙がめくられる音。

 小さな咳。


 音が少ないのに、音が多い。


 試験監督の先生が前に立つ。注意事項を読み上げる声。

 私はそれを聞きながら、心の中で作戦を繰り返した。


 まず、名前。

 次に、一問目。

 解けるところから。

 止まっても、呼吸。


 秒針がやけに大きい。

 カチ、カチ、と焦りを刻むみたいに聞こえる。


 でも私は、その音を敵にしないことにした。

 秒針は私を責めていない。時間が進んでいるだけだ。


 「始め」


 その一言が落ちた瞬間、教室の空気が変わった。

 世界が紙の上に縮む。


 問題をめくり、答案用紙に目を落とす。


 一瞬だけ、頭が白くなった。

 雪原みたいに、何もない。


 胸がきゅっと縮む。指先が固くなる。

 このまま何も書けなかったら――


 私は“作戦”を取り出した。


 名前を書く。


 受験番号。名前。

 鉛筆が紙を擦る音。


 シャリ、という小さな音。


 その音は、私がここにいる証拠だった。

 書けている。

 書けているなら、私は戦いを始められている。


 一問目を見る。

 難しく感じる。焦りが上がる。


 私は二問目へ視線を移した。

 解ける。


 解けると、呼吸が戻る。

 呼吸が戻ると、世界が少し広がる。


 広がった世界で、一問目に戻る。

 さっきより文字が読める。


 読めるなら、戦える。


 鉛筆の音が増えていく。

 周りの音じゃない。自分の音だ。


 自分が紙の上で動いている音。

 その音が、静かな戦いの“私の始まりの音”になっていく。


 休み時間。

 短い言葉が飛ぶ。


「やばい」

「終わった」

「時間足りなかった」


 矢みたいで、胸に刺さりそうだった。

 私は輪に入らず、水筒を出して一口飲んだ。


 ぬるいお茶が喉を通る。

 ぬるいことが、ありがたい。


 午後も同じように始まる。

 「始め」

 紙をめくる音。

 鉛筆の音。


 一問ずつ。

 一行ずつ。

 息をひとつずつ。


 終わりの合図が鳴ったとき、私はしばらく動けなかった。

 勝ったのか負けたのかは分からない。


 でも、やり切ったことだけは分かる。


 自分の手で、自分の呼吸で、ここまで座っていた。

 鉛筆を持ち続けていた。


 それだけで、今日は勝ちにしていい気がした。


 校舎の外に出る。

 空の色が朝より柔らかい。


 冷たいのは同じなのに、冷たさが鋭くない。

 終わったからだ。今日が終わったから。


 帰り道、また短い言葉が落ちていく。


「英語むずかった」

「数学、無理」

「面接、心臓止まるかと思った」


 私は入らなかった。

 今は、自分の中に残った灯りを守りたかった。


 スマホが震える。

 母からのメッセージ。


『終わった? おつかれさま。好きなもの買って帰っておいで』


 私はふっと息を吐いた。

 白い息が丸く出る。

 朝より少しだけ丸い。


『今、帰る』


 それだけ返して、スマホをしまう。

 ポケットのカイロは、ちゃんと温かかった。


 温かさが掌に広がる。

 温めるのは私の役目。

 でも、温まれる場所は、私の外にもある。


 電車の窓に映る自分の顔は、朝より少し柔らかい。

 笑っているわけじゃない。


 でも、崩れていない。


 受験は、未来を決めるための一回の勝負じゃない。

 今日を越えるための練習だ。


 今日を越えた分だけ、未来へ近づく。


 家に着き、鍵を回す。


 カチャリ。


 その小さな音が、戦いの終わりの音みたいに聞こえた。


「ただいま」


 玄関に声が落ちる。

 母の「おかえり」が返ってくる。


 その返事の音が、あたたかい。


 私は深く息を吸った。

 胸の奥に、熱がある。


 合格発表より先に、確かにここにあるものがある。


 静かな戦いは、始まりの音が怖かった。

 でも今は分かる。


 あの音があったから、私は動けた。

 動けたから、今日を越えられた。


 明日もきっと不安は来る。

 それでも、始まりの音はもう知っている。


 私はその音に、ちゃんと返事ができる。


 鉛筆の音で。

 呼吸の音で。

 生きている音で。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

受験は、大きな勝負のように見えて、実際はとても静かな時間の積み重ねだと思います。教室の空気、秒針の音、紙をめくる気配。そこにいる全員が、外側は静かなまま、内側で必死に戦っている。だからこの短編では「頑張れ」という強い言葉よりも、“音”や“動作”を頼りに気持ちを整えていく姿を描きました。


緊張は悪者ではありません。

緊張するのは、ここまで真剣に準備してきた証拠です。

そして、真っ白になる瞬間が来ても大丈夫。名前を書く。深呼吸する。解ける問題から始める。小さな手順が、あなたをちゃんと前に進ませてくれます。勝つか負けるかより、「崩れずに進んだ」ことが、きっと次の一歩になります。


もし今、この物語を受験の途中で読んでいるなら。

どうか覚えていてください。

あなたはもう、静かな戦いの始まりの音に、返事ができる人です。

鉛筆の音で。呼吸の音で。生きている音で。

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