第2話
シャンデリアの下、
いつものように、麗奈は堂々とフロアに足を踏み入れた。深紅のスリットドレスが、なめらかな肌を引き立てる。
「今夜も、完璧な夜を演じるだけ——。」
そう思いながら、ホステス専用の通路を抜け、VIPルームの扉を押し開けた。
「お待たせ!」
麗奈と他のホステスたちが微笑みながら室内に入ると、すでにボトルが開いているテーブルの前に、二人の男が座っていた。
「麗奈、こっちこっち。」
和真が軽く手を上げる。その隣に座る男——
橘 斗真。
鋭い眼差し。グラスを手にしているものの、まるでこの場にいるのが苦痛で仕方がないという表情。
「麗奈、紹介するよ。こいつが斗真。俺の学生時代の後輩で、今は会社を経営してる。」
「斗真さん、はじめまして。」
麗奈は彼に向かって微笑んだ。完璧な営業スマイル——どんな男も、この微笑みには惹かれる。
だが——
「どうも。」
斗真は、軽く会釈をするだけだった。表情は変わらない。
麗奈はいつものように和真に話を合わせ、彼を楽しませる言葉を紡いでいく。
「そういえば、この前の投資の話、どう?」
「順調だよ。お前も相変わらず経済に詳しいな。」
「和真さんの話が面白いからよ!」
——これまでと何も変わらない。いつも通りの接客。
だが——
「……。」
斗真は反応が薄い。
それどころか、まるで興味がないとでも言うように、ただ淡々と酒を飲んでいるだけ。
麗奈は、ちらりと斗真を横目で観察した。
(……面白くない男。)
普通なら、男たちは少しでも自分に気を引かれようとする。けれど、この男は。
まるで、「ここにいること自体が嫌だ」と言わんばかりの態度。
麗奈が和真との会話を楽しんでいると、斗真がふとグラスを置き、和真に向かって口を開いた。
「すみません、今日は体調がすぐれないので早めに帰ります。」
「え?」
麗奈は思わず斗真の方を向いた。
(本当に帰るの?)
こんな場所、早く抜け出したい——そんな気持ちが透けて見えるほどの冷めた表情。
和真は一瞬、戸惑ったように斗真を見たが、「まあ、無理するなよ。」と軽く肩を叩いた。
斗真は静かに席を立つ。
麗奈は、咄嗟に彼に声をかけた。
「ご無理なさらないでくださいね!またいつでもいらしてくださいね!」
斗真は、それに対して何も答えなかった。
ただ、少しだけ目を細め、「……お疲れ様です。」とだけ呟き、静かに店を後にした。
---
くだらない。
斗真は、そう思いながらグラスを傾けた。
目の前では、和真がいつものように「ナンバーワンホステス」とやらに夢中になっている。酒と女と虚飾にまみれた空間。大人の社交場というより、金で買える幻想にすぎない。
「斗真さん、はじめまして。」
女が微笑む。
完璧な笑顔。作られた声。研ぎ澄まされた所作。
まるで、計算し尽くされた"商品"だ。
「どうも。」
会釈をして、それ以上の言葉を発さなかった。興味がなかった。ただ、それだけのこと。
和真とホステスの会話が続く。麗奈——その名前を、和真は何度も嬉しそうに口にしていた。
(よくやるな。)
斗真は、ぼんやりと眺めながら酒を飲む。この世界にいると、「ホステスとの会話を楽しめ」みたいな空気があるが、彼にはその必要がない。
彼女がどんな風に笑おうが、どんな風に男を惹きつけようが、そんなものに価値を感じたことはなかった。
「すみません、今日は体調がすぐれないので早めに帰ります。」
和真は驚いたように目を向けたが、斗真にとってはこの場にいることの方が、よっぽど気分が悪い。
「まあ、無理するなよ。」
適当に和真が肩を叩く。斗真は立ち上がった。
その時——
「ご無理なさらないでください!またいつでもいらしてくださいね!」
明るい声。振り返ると、麗奈が完璧な笑顔を向けていた。
(……。)
また来るつもりはない。そう思いながらも、適当に「お疲れ様です」とだけ告げ、クラブを後にする。
タクシーのドアが静かに閉まる。
エンジンの振動が微かに響く中、斗真はスーツのポケットから携帯を取り出した。
「また下がってる……。」
画面には、真っ赤に染まった株式チャート。一日中、これが気になっていた。
和真に誘われた時も、クラブに着いた時も、そして——麗奈と対面した時も。
(……やっぱり、無駄な時間だった。)
ため息をつき、指先でスクロールする。戦略的な売買のタイミングを考えながら、頭の中で数字を組み立てる。
彼の世界は、このチャートと、数字の羅列だけで完結していた。
女に愛想を振りまかれようが、シャンパンを開けようが、それが彼の人生にとって何の意味がある?
(……あの女も、結局は金で動く存在だろう。)
そんな思考が脳内を支配する。
斗真は、少し苛立つように画面を消し、シートに身体を預ける。
夜のネオンが、窓の向こうで滲む。
この世界にいる女は、男を惑わせ、金を吸い取るために存在する。
そして、彼もまた、そういう女たちとは関わらない生き方を選んできた。
——だから、もう考える必要はない。
携帯の電源を切り、目を閉じた。
---
タクシーがマンションのエントランスに滑り込む。
東京の夜景を反射するガラス張りの高層ビル。斗真の住むマンションは、まさに都会の象徴だった。
車を降り、無言のままエレベーターへ向かう。人工的な照明の下、スマートキーを取り出し、指で軽くかざすと、静かにドアが開いた。
スーツの上着を無造作にソファに放り投げ、ネクタイを緩めながら、彼はまっすぐデスクのパソコンに向かった。
画面を立ち上げると、赤く染まったチャートが目に飛び込む。
「これは損切りした方がいいな……。」
キーボードを叩きながら、冷静に数値を計算する。
彼にとって、感情の揺らぎは、リスクでしかない。
だからこそ、不要なものは切り捨てる。
冷徹なまでに。
スマホが震えた。
画面を見ると、「和真」からのメッセージだった。
「斗真、体調大丈夫か?」「無理すんなよ、ストイックすぎるせいじゃないか?」
和真は、昔からそう言う。斗真のやり方を、時々「息が詰まる」と表現する。
(でも、それが俺にとっての「普通」だ。)
感情に振り回されるのは、弱い人間のすること。彼は、ずっとそう考えて生きてきた。
斗真はコーヒーを一口飲みながら、
彼は特に考えることなく、指を動かす。
「良さがわかりませんでした。」
送信ボタンを押し、画面を閉じる。
---
翌日の夜
「はははっ!おい、見ろよ!」
和真の豪快な笑い声が、VIPルームの空間に響き渡る。彼のスマホ画面には、斗真からのシンプルな返信が表示されていた。
『良さがわかりませんでした』
「こいつ、マジでこういうやつだからな!」和真は笑いながらスマホを麗奈の前に差し出した。
「ほら、見てみろよ。麗奈、お前の魅力がわからないらしいぜ。」
麗奈はグラスを軽く揺らしながら、画面を覗き込んだ。淡々とした文章。何の感情もない。
「はは、だからモテないんだろうな!あはは!」ホステスたちもつられるように笑う。
「麗奈先輩、ショックじゃないですか?」新人ホステスの桜がからかうように言う。
麗奈は微笑んだ。余裕のある、完璧なナンバーワンの顔で。
「人にはみんな違う価値観があるからね、仕方ないよ。」
そう言いながら、グラスの縁をなぞる指に、少しだけ力が入った。
(楽しもうとすらしなかったくせに。)
麗奈を良く思わない男はいなかった。少なくとも、ここ何年も。いたとしても、それはもう遠い昔の話。
金も、ルックスも、ステータスもある男たち。そんな彼らが、麗奈に夢中になるのは当たり前だった。
だからこそ、「何も感じない」という斗真の態度が、妙に引っかかった。
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数ヶ月が経った。
麗奈は毎晩のようにソファの端に座りながら、穏やかに微笑んでいた。向かいには、金融業界で名を馳せる男。
35歳の投資家、森川俊。
「最近は、海外の株の方がいいみたいだ。」
森川がグラスを傾けながら話す。「アメリカ市場は好調だけど、日本はな……円安の影響が大きい。」
「やっぱり、海外の方が投資には向いてるんですね?」
麗奈は、グラスの縁を指でなぞりながら相槌を打つ。「でも、日本株も捨てたものじゃないでしょう?」
「うん、確かにね。」森川はニヤリと笑いながら、麗奈をじっと見つめた。
「君みたいな美人が、こんな話に詳しいとは思わなかったよ。」
「ふふ……興味のあることには、ちゃんと勉強するんです。」
麗奈は優雅に微笑んだ。しかし、その目は冷静だった。
(男は、知性がある女に惹かれる。でも、それが自分より上だと感じた瞬間に、引くこともある。)
それを知っているからこそ、相手のプライドを傷つけず、けれども惹きつけるようなバランスを取るのが、麗奈のやり方だった。
「じゃあさ、もし投資するなら、どこにする?」
森川が試すように訊く。
麗奈は少し考えたフリをしながら、口を開いた。
「うーん……たとえば、最近なら新興国市場のETFとか?」
「ほう……。」
「アメリカ市場は強いですけど、その分リスクもありますよね? だったら、分散投資の一環として、少し視野を広げるのも大事かなって。」
森川は驚いたように目を見開き、次の瞬間、満足げに笑った。
「面白いね。君、ただのホステスじゃないな?」
「それって、褒め言葉です?」
麗奈は、軽く首を傾げながら微笑んだ。
森川は笑いながら、ポケットから名刺を取り出す。
「もし本当に投資に興味があるなら、いつでも相談に乗るよ。」
「ありがとうございます。でも、投資だけじゃなくて、いい人脈も大事ですよね?」
麗奈は、名刺を受け取りながら、意味深な笑みを浮かべた。
「もちろんさ。」
森川は、上機嫌でグラスを傾ける。
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その夜、斗真はオフィスでパソコンに向かっていた。
「……森川俊一?」
モニターに映る男の写真を見ながら、眉をひそめる。
(また、怪しい動きをしてるな。)
斗真は、森川の投資会社を調査していた。以前から、グレーな案件を扱っているという噂があった。
「最近は海外の株の方がいいみたいだ。」
森川の発言が、金融系のネットニュースにも載っていた。
(相変わらず、投資家を煽るような発言ばかりだ。)
斗真はキーボードを叩きながら、森川の最新の取引データを確認する。
その瞬間、六本木の高級クラブの名前が目に飛び込んできた。斗真が数日前に訪れた店。そこに、森川の支出履歴があった。
(……きっとあのホステス目当てか。)
斗真は、一瞬だけ思い出した。あの作り込まれた微笑み。「またいつでもいらしてくださいね」と言っていた女。
突然、斗真は冷蔵庫のドアを開けた。
冷気が足元に広がる。無造作に並んだミネラルウォーター、プロテインドリンク、そして、バニラアイス。
斗真は、スプーンを手に取り、カップの蓋を剥がすと、そのまま口に運んだ。
とろけるような甘さが、舌の上に広がる。
一口、二口、無意識にすくいながら、今は何も考えないようにしていた。
「.....。」
---
翌朝
朝日が、カーテンの隙間から差し込む。斗真はいつものように早朝に目を覚まし、無言でスマホを手に取った。株式市場の動向をチェックしながら、静かにベッドから起き上がる。
「……今日も下がってるな。」
無駄に感情を動かすことなく、ただ淡々と情報を処理する。必要なら損切りをする。それだけのこと。
冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出す。パソコンを起動し、ニュースサイトを開いた。スクロールしていると、ある見出しが目に入る。
「投資家・森川俊氏、最新の市場見解を語る」
(また、適当なこと言ってるのか。)
そう呟きながら、無意識に動画を再生する。
画面の中で、森川は落ち着いた表情でインタビュアーに応じていた。背景には高層ビルが並ぶ東京の金融街。
「現在の日本市場は厳しい状況が続いていますが、やはり今後の投資先としては海外市場が有力でしょうね。」
「特に、どの国に注目されているのでしょうか?」
「個人的には、東南アジアの成長市場と、新興国の不動産投資ですね。株式市場だけでなく、実物資産にも資金を移すべき時期です。」
斗真は無表情のまま、コーヒーを口に運ぶ。
(相変わらず、耳障りのいい言葉を並べてるな。)
画面の中の森川は、続ける。
「実際、私の会社でも最近、大口の投資家向けに特別プランを用意しました。これからの時代、ただの株式投資ではなく、より幅広い資産分散が必要です。」
(……特別プラン、ね。)
斗真は画面をじっと見つめた。彼の会社——森川アセットマネジメントは、表向きは健全な投資ファンド。しかし、裏ではリスクの高い未公開株や、不透明な海外ファンドへの投資を勧めている噂があった。
「……本格的に動き出したか。」
斗真はコーヒーを飲み干し、画面に向き直る。森川アセットマネジメントの最近の投資動向を調べるため、データベースにアクセスした。
ファイルを検索し、最新の取引データを追っていく。——なぜ、森川俊が、頻繁にクラブを利用するのか?
(単なる遊びか、それとも——。)
「……調べておくか。」
ただの直感だった。しかし、斗真はこれまで直感を無視して後悔したことはない。
パソコンのキーボードを叩き、森川アセットマネジメントの顧客リストを検索する。
「何を仕掛けようとしている?」
もし、このファンドが違法な投資スキームを提供しているなら——関わる人間も危険に晒される可能性がある。
彼が知りたいのは、森川が次に何を仕掛けるのか、ただそれだけだった。