第1話
煌びやかなシャンデリアが照らす六本木の高級クラブ。クリスタルのシャンパングラスが何度もぶつかり合い、高揚した笑い声が空間を満たしていた。
「わー!瑛人くんありがとう!」
麗奈は満面の笑みを浮かべ、グラスを掲げた。 その一瞬、店内のすべての視線が彼女に集まる。 深紅のドレスが彼女の完璧なプロポーションを際立たせ、ルージュの色が唇を妖しく彩っている。
この店のナンバーワンホステス。麗奈。 彼女は誰よりも美しかった。
「麗奈の誕生日だからな!しっかり祝ってあげたい」
瑛人がそう言うと、周囲の男たちも競うようにボトルを開け、次々とシャンパンタワーに注ぎ込んでいく。 泡が弾けるたび、彼らの興奮も高まる。
「ありがとう、瑛人くん。…でも、プレゼントはそれだけじゃないよね?」
麗奈はグラスの縁に指を這わせながら、甘い声で囁いた。 まるで蜂蜜を溶かしたような声に、瑛人の肩がわずかに揺れる。
「もちろん。麗奈には特別なものを用意してるよ。」
そう言うと、彼はポケットからカルティエのジュエリーボックスを取り出し、テーブルの上に置いた。 麗奈の指先がそっと箱の上を撫でる。
「開けてみて?」
瑛人の期待に満ちた声が耳元に響く。
麗奈はゆっくりと蓋を開けた。 そこには、ダイヤモンドが埋め込まれたエレガントなブレスレットが輝いていた。
その瞬間、麗奈の瞳が輝いた。
「……素敵!」
彼女は一瞬、息を呑んだように見えた。 そして、次の瞬間—
「瑛人くん、大好きっ!」
麗奈は瑛人の腕に飛び込み、彼にしがみついた。 甘く、優しく、そしてどこか儚げな抱擁。
「ずっと欲しかったの!」
潤んだ瞳で彼を見つめる麗奈。 瑛人はその視線に完全に呑まれ、嬉しそうに微笑んだ。
「本当か?よかった、麗奈が喜んでくれて。」
彼は満足そうに彼女の髪を撫でる。
「ねぇ、瑛人くん」
彼女は微笑みながら、彼の腕を優しく撫でた。
「瑛人くんの誕生日は来週だよね?」
「ああ、そうだな。」
「36歳の誕生日、一緒に祝いたいな」
彼の指が一瞬止まる。
「……本当に?」
「もちろん!」
麗奈は嬉しそうに彼の胸元に顔を寄せる。
ー
午前4時。
麗奈はタクシーを降り、都心のタワーマンションのエントランスを通り抜けた。 ルブタンのヒールが大理石の床に響く。
エレベーターに乗り込み、24階のボタンを押す。 静寂が訪れると、先ほどの騒がしさがまるで幻だったかのように思えた。
部屋に入ると、ヒールを脱ぎ捨て、ソファに倒れ込む。
煌びやかな夜の女王は、誰も見ていないこの空間では、ただのひとりの女だった。
バッグからカルティエのブレスレットを取り出し、指先で撫でる。 ダイヤが光を反射して輝く。
「……悪くないね。」
そう呟くと、ドレスを脱ぎ、バスルームへ向かった。
熱いシャワーが肌を流れる。 化粧を落としながら、ふと鏡を見る。 そこには、24歳になったばかりの自分の顔。
まだ若い。そして美しい。
麗奈は濡れた髪をかき上げ、鏡の中の自分を見つめた。シャワーを浴びても、落ちないのは口元の作り笑いだけ。
「24歳……頑張ります。」
誰に言うでもなく、呟いた。そして、そのままベッドに身を沈めると、静かに眠りに落ちた。
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翌日
目覚めたのは昼過ぎ。カーテンの隙間から差し込む陽射しが、眩しく感じた。
今日は、和真との同伴。彼もまた、麗奈の恋愛ごっこ相手の一人。
彼女はゆっくりとベッドから起き上がり、タブレットを手に取る。予約していた美容室の時間を確認し、身支度を始める。
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昼下がり
一流の美容師が麗奈の髪をセットしていく。シャンプーの香りに包まれながら、彼女はふと瞼を閉じた。
「35歳の男を夢中にさせて、36になった瞬間に捨てる」
それが、彼女のルール。これまでに4人の男が、このゲームに溺れた。
「麗奈さん、仕上がりましたよ。」鏡の中には、完璧な美しさを纏った自分がいた。
「ありがとう。」
口元に微笑みを浮かべ、美容室を後にする。
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夜、六本木の高級フレンチレストラン。深紅のタイトなドレスを纏い、エレガントなヒールで店内を歩く。待っていたのは、和真——35歳、代表取締役。
彼はスーツ姿で、余裕のある微笑みを浮かべながら、麗奈を迎えた。
「麗奈、誕生日おめでとう。」
「ありがとう、和真さん。」
席につくと、彼はすぐにボトルをオーダーした。「ドン・ペリニヨン・ロゼ」——祝いの席にふさわしい一本。
「昨日は瑛人と一緒だったんだろ?」グラスを手に取りながら、和真が探るような目を向けてくる。
「さすが。情報が早いのね。」
「そりゃあね。俺の大事な人が誰といるのか、気になるのは当然だろ?」
彼の指が、テーブルの上で麗奈の手にそっと触れる。麗奈はあえて手を引かず、微笑んだ。
「でも、和真さんは一番乗りじゃない? 私と過ごす誕生日ディナーは。」
「それは光栄だな。」
彼は満足げに微笑み、グラスを傾ける。
麗奈は、その様子を静かに見つめながら思う。
(この男も、もうすぐ終わる)
彼の視線が、今は甘くても。彼の手が、今は優しくても。あと数ヶ月もすれば、彼は『ターゲット』ではなくなる。
「麗奈。」
「……なぁに?」
「俺は本気だよ。」
また、同じセリフ。これまで何度も聞いた言葉。「本気」なんて、いくらでも偽れるもの。
でも、私にとって「本気」なんてものは必要ない。
「嬉しい!喜ばせ上手なんだから!」
麗奈は、完璧な微笑みを浮かべながら、グラスを一真の方へと傾けた。
「じゃあ……私のために、乾杯してくれる?」
グラスが静かにぶつかり、シャンパンの泡が弾ける音が、夜の始まりを告げる。
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高級フレンチレストランでのディナーが終わり、麗奈と和真はタクシーで麗奈の出勤するクラブへ向かっていた。
六本木のネオンが、車の窓越しに流れていく。和真は麗奈の手を優しく取ると、低く囁いた。
「麗奈、今夜は最後まで一緒にいられる?」
「ふふ、どうかな。」
男たちは麗奈を手に入れたがる。でも、麗奈が「手に入れたい」と思う男は、今まで一人もいなかった。
「私を楽しませてくれたら、考えるね。」
麗奈が唇に微笑を浮かべると、和真は満足げに笑った。
「任せてくれよ。」
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クラブの裏口から入り、ホステス専用の支度ルームへと向かう。
店に入った途端、クラブ独特の香水とシャンパンの甘い匂いが漂う。麗奈は化粧台の前に座り、鏡越しに自分を見つめる。
「さあ、今夜も女王の顔を作らないと。」
そこへ、若いホステスが駆け寄ってきた。
「麗奈先輩!おめでとうございます!」
パチパチと軽く手を叩きながら、目を輝かせる後輩ホステス。桜20歳、入店してまだ半年の新人。
「ああ……ありがとうね。」
麗奈は淡々と微笑む。しかし、その表情にはどこか冷めた温度が混じっている。
「先輩のバースデーイベント、すごいですね!高級シャンパンがどんどん空いてました!」
「まあね。」
「プレゼントもたくさんもらって、羨ましいです……!さすがナンバーワン。」
桜は無邪気な笑顔を見せるが、麗奈の微笑はどこか薄い。
「桜。」
「はい?」
「ホステスはね、"羨ましい"って思う女が負けるの。」
麗奈は化粧台のリップを手に取り、鮮やかな深紅を唇に引いた。
「欲しいなら、手に入れなきゃ。」
「……!」
桜は一瞬、息をのむ。麗奈の言葉には、彼女が積み上げてきた夜の世界の経験が滲んでいた。
「でも……私にはまだ難しくて……。」
「じゃあ、負けるわね。」
麗奈はそっけなく言い放つと、髪を整えて立ち上がった。鏡の中の自分は完璧だった。夜の女王の顔は、今日も崩れていない。
「そろそろ行くわ。和真さんが待ってる。」
麗奈が支度ルームを後にすると、桜はその背中をじっと見つめていた。
麗奈がメインフロアに出ると、和真がVIP席で、すでにボトルを開けて待っていた。
「麗奈、待ってたよ。」
「お待たせ〜!」
彼女は優雅な足取りで彼の隣に座る。
「今日はとびきりの夜にしよう。」
「…素敵な夜に、ね。」
グラスを合わせる音が響く。---
グラスを傾けたあと、和真は何気ない調子で言った。
「そうだ、麗奈。今度俺の学生時代の後輩を連れてくるよ。」
「後輩?」
「そう。会社の経営陣に入ってるんだけどな、あいつには娯楽が足りてないと思うんだ。」
麗奈は、シャンパンを飲みながら軽く笑う。
「そんなに仕事ばっかりの人なの?」
「まあな。ストイックすぎるんだよ……」
和真は少し考えるようにして、続けた。
「女遊びもしないし、夜の店にもほとんど来たことがないらしい。」
「へぇ……そんな人が、六本木に来て大丈夫なの?」
「たまにはリフレッシュさせてやらないとな。」
和真は愉快そうに笑いながら、グラスを揺らした。
「名前は?」
麗奈が興味なさげに聞くと、和真はさりげなく答えた。
「斗真。」
「真面目すぎる男だからな、麗奈みたいな女と話したら、少しは楽しめるんじゃないか?」
「……ふふ、どうかしらね。」
麗奈は、微笑みながらグラスを口元に運ぶ。
和真との夜は、いつも通りに進んだ。
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翌週
静寂に包まれた個室。高級寿司の店特有の淡い間接照明が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
テーブルの上には、繊細に盛り付けられた寿司の皿と、並べられた酒器。そして——36歳の誕生日を迎えた男と、その夜を共にする麗奈がいた。
「麗奈、ありがとうな。」
グラスを片手に、瑛人は微笑む。スーツの襟を軽く緩め、どこか満ち足りた顔をしている。
「何が?」
「俺の誕生日、一緒に過ごしてくれて。」
「ふふ、だって瑛人くんが『絶対に一緒に過ごしたい』って言ったんでしょう?」
「まぁな。」
瑛人は照れくさそうに笑いながら、徳利から麗奈の盃に酒を注ぐ。
「でも、本当に感謝してるよ。麗奈ほどの女性が、俺の人生に現れるなんて思ってなかった。」
「ねぇ、麗奈。」
瑛人がグラスを置き、真剣な表情で麗奈を見つめた。
「俺と、結婚を前提に付き合ってくれないか?」
一瞬、時間が止まったように感じた。
寿司職人の包丁の音が、個室の外で静かに響く。
麗奈は驚いたような顔をするでもなく、ただ優しく微笑んだ。
「瑛人くん……。」
「今まで、麗奈みたいな女性に出会ったことがなかったんだ。」
瑛人の声は真剣だった。これまで何人もの女を見てきた男の目が、麗奈にだけ向けられている。
「麗奈は特別なんだ。美しさだけじゃない。俺を本当に楽しませてくれるし、心の底から惹かれてる。」
「……。」
「もう遊びじゃない。俺は本気だよ。だから——」
彼は静かに、けれど確かに言葉を続けた。
「店を辞めてほしい。俺だけのものになってほしい。」
麗奈は、盃の縁を軽く指で撫でた。
彼の目は、真剣だった。でも、それが麗奈の心を揺らすことはない。
瑛人は、今日で36歳になった。
それだけのことだった。
「……ごめんなさい。」
「え?」
「そういう目では、もう見れないの。」
微笑んだまま、麗奈は静かに言った。
「瑛人くんとは、素敵な時間を過ごせたと思ってる。でも……これ以上は無理よ。」
「麗奈……?」
「お店にも、もう来なくていいのよ。」
瑛人は、一瞬言葉を失った。彼にとって、麗奈は「手に入る女」だった。いつか、彼女も自分を本気で求める日が来る。そう思っていた。
だから、今日——誕生日の夜に、彼はそれを確かめたかった。
だが、彼女の返答は予想外だった。
「……どうして?」
「どうしてもなにも……もう36歳になったじゃない。」
「だから、なんだよ?」
「そういうルールなのよ、私の中で。」
「……冗談だろ?」
「本気。」
彼は、何かを言いかけたが、それを飲み込むように酒を煽った。
「麗奈、今までの時間は嘘だったのか?」
彼の声が、かすかに震えていた。
「俺は、君を本気で愛してる。」
「……。」
「俺のこと、好きじゃなかったのか?」
麗奈は、その問いに答えなかった。
いや、答える必要がなかった。彼女にとって、これは「決まっていた結末」なのだから。
盃に残っていた酒を、ゆっくりと飲み干す。
そして、静かに席を立った。
瑛人が唇を噛みしめる。目の前にいるのに、もう届かない女——それが、麗奈だった。
「今までありがとうね、瑛人くん。」
そう言い残し、麗奈は扉を開け、音もなく去っていった。