番外編 クララの夢・前編
幼い頃に読んだ絵本では、いつも最後に女の子が王子様のお嫁さんになって幸せに暮らしましためでたしめでたしで終わっていた。
ボタニーア家の末っ子として不自由ない生活をしてきたクララは、いつか自分も王子様のお嫁さんに幸せに暮らすのだと、当たり前のように夢を見ていた。
だから十四歳になって、ボタニーア家に皇太子殿下との縁談が持ちかけられた時、クララはやっと訪れた幸福に胸を躍らせていたのだ。
現実はおとぎ話のようにうまくいくわけがないと、そんなことも知らずに。
◇◆◇
まだデビュタントを済ませていないクララは、レオナルトのことを肖像画でしか見たことがなかった。だから舞踏会の前の顔合わせで初めて目にするその姿に、目を奪われてしまった。
太陽を透かしたような金髪に、ルビーのような赤い瞳。その瞳はどんな宝石よりも輝いていて、とても美しかった。
こちらを見つめる瞳は優し気で、それだけで心踊る気持ちになれる。
(駄目だわ。いまのあたしはレオナルト様の婚約者。それにふさわしい淑女の振る舞いをしないと)
もう屋敷の中をはしゃいで走り回ったりなんてはしたない真似はできない。
本当はいますぐ彼の美しさを褒め称えたいけれど、淑女としてそれは許されない。
彼の隣に立つに相応しい令嬢として振舞わなければ。
自分を見つめる赤い瞳は穏やかで、こんな優しい皇太子の妻になれるのは、自分しかいないと。この時もまだ、クララは夢を見ていたのだ。
◇
皇太子の婚約者になり、物語の女の子のように幸せになれるのだと夢を描いていた日々。
それは姉がランデンス大公と婚約をして、ボタニーア邸を出てからも続いていた。
お茶会や夜会で会う令嬢や令息たちは、クララの愛らしさを褒め称えてくれる。
仲の良い、友人たちに囲まれていた。
リーズ・ルクリエ伯爵令嬢もその一人だ。
先代の聖女である母の伯母の孫という、少し遠い親戚だけれど、彼女は社交界デビューをしたクララの面倒をよく見てくれた。
社交界のことを何もわからないクララにとって、リーズは頼りがいのある姉のような存在だと、そう思っていた。
ある時、社交界でとある噂が流れていた。
当代の聖女がクララだという噂だ。
まだ聖女の力を覚醒していないから、大見えを張って聖女と名乗ることはできないのでクララは聖女の噂を否定していたけれど、誰もが思っていただろう。皇太子も、兄のカルロスも、それからリーズやほかの貴族たちも。
聖女の力は十五歳までに覚醒するのが通例だ。ボタニーアの血筋の女性でまだ十五歳を迎えていないのはクララしかいなかった。
だから誰もが、当代の聖女はクララだと思っていた。
そのことをクララはあまり気にしていなかった。
なぜならクララが社交界で一番気にしていたのは、皇太子であるレオナルトとの距離感だったのだから。
いつも優しい婚約者は、クララのことをとても大切にしてくれた。
夜会では必ずファーストダンスを一緒にしてくれたし、将来皇室の一員として出迎えてくれるための贈り物も頂いた。太陽のように輝く大輪のひまわりの紋章付きのブローチだ。皇太子の婚約者としての証でもある。
だけど確かに近くに居るはずなのに遠い距離を、クララはレオナルトとの間に感じていた。彼の赤い瞳はクララを見ているようで見ていないような、そんな違和感。
それをリーズに相談したこともある。
「あなたが未熟だからじゃない?」
甘やかしてくれるきょうだいとは違って、リーズの言葉遣いはいつもはっきりとしていた。
「もっと令嬢らしく振舞えば、皇太子殿下もクララのことを認めてくれるはずよ」
彼女の言っていることはもっともなこともあり、クララはその言葉を信じた。
だけどリーズの助言はどんどん増えていく。
「あなたの服はフリルばかりね。皇太子妃になるのならそんな子供っぽい服ではなくって、大人っぽい服がいいんじゃないかしら」
「食べ過ぎて太ったら、皇太子殿下は見てくれないかもしれないわ。それに人前でたくさん食べるのはお行儀悪いもの。もう少し食べる量は減らした方がいいかもね」
リーズは姉であるラウラよりも年上で、いち早く社交界デビューしている。彼女の助言が間違えているとは思えないけれど、それらを聞くたびにクララは少し憂鬱な気分になった。
そんな折に、狩猟祭が北部で行われることになった。
大好きな姉と数カ月ぶりに会えば、この憂鬱も少しは晴れるかもしれない。
そんな期待に胸を高鳴らせて参加した狩猟祭で、クララは衝撃的なことに気づいてしまう。
◇◆◇
初めての北部。初めての狩猟祭。
そして久しぶりに会う、姉。
姉と再会は、クララの憂鬱で淀んだ思考を晴らしてくれた。
久しぶりに淑女の嗜みを忘れて抱擁したことも、彼女の話を聞いたのも。
自分のことを話そうとするとまた淀みが出てきそうで話せなかったけれど、もしレオナルトとの距離がもっと詰められたら話せるようになるのだろうか。
婚約者であるレオナルトとの距離はずっと変わらないままだ。
普段はあまり表情を変えることはないけれど、婚約者である自分の前では柔らかい笑顔を見せることがある。その笑みを見ると自分は特別なんだと実感ができるのに、なぜかそこには見えない壁が存在しているように思えた。
その理由に気づいたのは、狩猟祭の後のことだった。
狩猟祭では大きな出来事が二つあった。
ひとつはランデンス大公がブラックドラゴンを討伐したこと。
もうひとつは、姉のラウラが遅咲きの聖女として覚醒したこと。
前者はランデンス大公の強さを帝国貴族たちに知らしめて、後者はクララにとって衝撃的をもたらした。
他の令嬢たちが陰で、「ニセモノ聖女」と噂しているのにも気づいていた。
自ら聖女だと自称したことはないけれど、当然自分が覚醒するとクララ自身も思っていた。その傲慢さを自覚してしまい、大好きな姉に対して申し訳ない気持ちが湧き上がる。
だけどその憂いは、ラウラが自分のために怒ってくれたことによりすぐに解消された。
クララが聖女だと自称していたという噂を流していたのは、頼りにしていたリーズだった。
リーズがどうしてそんな噂を流したのかはわからない。クララを貶めようとしていたのか、それとも別の思惑があったのか。
リーズはカルロスと婚約しているから、今後もまったく関わらないというのは無理かもしれない。けれどこれからは憂いも少なくなるのだろうと思うと、すっきりとした気分になっていた。
だから、だからあの時――。
舞踏会でたまたま見かけたレオナルトが、ある女性を見ていた視線に気づいた時――。
クララは自分の眼を疑った。
あの視線はいつも自分に向けられているものの、はずだ。それなのにそれとは違って、どこか切なげで、何かを求めているようでもあって――。
(どうして、どうして――!)
レオナルトの視線は一瞬のことで、すぐに逸れていた。
だから気のせいなんだと、クララは自分に言い聞かせることにより、耐えることができた。
でもそれから数か月後に、より確信する出来事があった。
それは、疫病を収めた聖女が帝都に凱旋してきた夜に行われた、舞踏会でのこと。
レオナルトはファーストダンスを終えると、他の貴族たちと会話をするか、皇族の席に戻るのが常だった。彼は婚約者であるクララ以外とダンスを踊ることがない。だからそれもクララを特別に思っているからなんだと思っていた。
クララもダンスを終えると、令嬢たちの輪に混ざって社交界の流行話などに花を咲かせる。そこには前までいたリーズはおらず、数カ月ぶりに帝都に戻ってきたラウラはまだダンスを踊っているようだった。その相手は第二皇子であるアルベルトで、その後は兄であるカルロスとも踊っていた。まだ話しかけることはできそうもない。
久しぶりに帝都に戻ってくるラウラに、クララは自分でデザイナーに依頼してドレスを用意した。ラウラに似合う、薄桃色のドレスだ。派手過ぎず、だけど質素に見えないように高級な生地を用いて上品に仕立てている。
姉の着飾った美しい姿を目にするのがクララは好きだった。
だから今回も、姉の美しさを際立たせるドレスを用意したのだけれど――。
ダンスを踊っているラウラのことを、皇族用の席からレオナルトが狩猟祭の時と同じような眼差しで眺めているのに気づいてしまった。
(……やっぱり)
嫌な考えが脳裏を過ぎり、お腹が痛くなる。
「クララ様、どうされたのですか?」
一緒にいた令嬢がクララの様子に気遣ってくれるが、クララは愛想笑いで誤魔化した。
「……お姉様を見つけたので、挨拶をしてきますね」
会場の中心から離れて一人になったラウラに話しかけようとして、ラウラが皇族用の席を見ていることに気づき、胸騒ぎがした。
(もしかして……ううん、そんなわけがないわ。だって前に大公様との話を色々聞かせてもらったもの)
クララは黒い感情を抑えながら、久しぶりに会った姉に声を掛ける。
「お姉様、どうかなさいましたか?」
「――あ、クララ」
ラウラは笑顔を見せながらも、どこか不安げに皇族の席を見上げている。
「そのなんだかあったみたいで」
その視線を追うと、近衛騎士と皇帝陛下が会場を後にするところだった。
見てたのは皇太子じゃなかったんだ。そのことに安堵する。
陛下たちの様子を見るに何かあったのは確実だろうけれど、いまは舞踏会の最中だ。
クララは不安そうにしているラウラを話に誘導した。
その時、ふと皇族の席に座っているレオナルトと視線が合った。
頭を下げると、レオナルトはどこか険しい顔でこちらを見ている。……もしかして姉を見ているのだろうか?
レオナルトの真意はわからない。
そもそもこの婚約自体、皇室とボタニーアとの関係を維持するためのものでしかなく、ボタニーアの令嬢であれば姉妹のどちらでもよかったという噂を耳にしたことがある。
でも、もしあの婚約がラウラに向けたものなのであれば――。
初めはただ、おとぎ話のように王子様と結婚をして幸せに暮らしたいだけだった。
だけど社交界に出てからわかったことがある。実際の貴族の結婚はおとぎ話のように幸せに満ち溢れてはいない。夢を描いていたようなことにはなりえない。
それでもレオナルトは婚約者である自分に優しくしてくれて、その優しさは本物だと思っていた。自分に向けられた笑みも、特別であると。
だけど、それはどうやら違ったらしい。
また胸がじくりと痛んだ。
(どうしたら、レオナルト様はあたしを見てくれるんだろう)
姉の面影ではなく、自分を見てほしいと、そう考えるのは傲慢なんだろうか。
後編に続きます。