67.誤算
驚いたように目を見開いたカイルの足が、地面に縫い付けられたかのように凍りつく。だが魔力が足りないのか、それ以上氷は広がらなかった。
「私、寒いのは少し苦手なんですよね。……ああ、寒い」
カイルが両手で抱くように体を震わせる。
「ゼブル様!」
背後のゼブル様の顔を見るが目は開いていない。地面に掌が触れていて、そこから氷が広がっているようだ。
「ゼブル様、お気づきですか!?」
再度呼びかけるが反応はなかった。意識が戻ったのか、それとも無意識の反応なのか判断はできないけれど、それでもゼブル様は私を守ってくれたんだ。
「――それにしても、あなたがランデンスに来てから誤算ばかりです」
カイルが白い息を吐きながら呟いた。
「あなたがランデンスに来なければ、ここまで計画を早める必要はなかったのに。ボタニーアの力は少し厄介ですから……。あなたが聖女の力を覚醒する可能性が少しでも残っている限り私の計画はまともに作用しないかとも思いました」
だから婚約者の内に消そうと考えたのだそうだ。聖女の力を覚醒する前に、私を。あの夜会の帰りの襲撃で。
まさかあの襲撃が自分を狙ったものだとは思いもしなかった。
でも、いま思い返すと、倒れた馬車の扉から私に刃を向けた敵は、私を殺そうとしていた。その後アリシアが毒矢を受けたのも、私が標的だったからで――。
「まあ、あれは成功しても失敗してもよかったのですが、団長の反応が見たかったというのが本音ですね。――でも一番の誤算は、狩猟祭ですよ。あの時私は本気で団長を消すつもりでした。それなのに」
途中までは上手くいっていた。結界を壊し、隣国にブラックドラゴンの住処を教え、あとは消耗したゼブル様の首を――。
「まさかあそこで、あなたの聖女の力が覚醒するとは思いませんでした」
私とゼブル様が結婚したら、私はランデンス城にいることになるだろう。聖女の力があれば、ゼブル様の傷を治すことができる。それだとカイルの計画は上手くいかないかもしれない。そう考えたのだそうだ。
だから私が疫病で南部に向かったのをいいことに、計画を早めることにした。
「……本当に誤算ばかりです。あとは止めを刺すだけ、というところでいつもあなたに邪魔をされる。今回も、コーディが団長の姿を見失わなければわざわざあなたと一緒に団長を捜すことにならなくても済んだのですけどね」
ゼブル様の氷のように冷たくなっている手を握りしめる。
カイルは長々と話を続けているが、それはきっと時間稼ぎだろう。
「もしかして、私の話を時間稼ぎだと思っていますか? これはただの雑談です」
「……ッ」
「正直に申しますと、団長の首は自分の手で切り落とさないと本当に死んだのかがわからなくて不安ですが、あなたならここからでも消すことが可能なんです」
カイルの指先が私に向く。その指の周辺に顔の大きさのサイズの水の塊が浮いた。
「建前上、攻撃魔法は苦手なのでできないということにしているんです。まあ、苦手なのは本当ですし。でも実際は、ただコントロールが下手なだけなんですよ」
カイルが指を振り被ると水の塊が勢いよく私に向かってきた。
腕でガードしようとするが、水を前にそれは無駄なだけだった。
腕をすり抜けた水の塊が私の顔に纏わりつく。
「人は水の中で息ができませんから……って、もう聞こえていませんよね」
ッ!?
息ができない。苦しくて、水とともに視界がぼんやりしてくる。
腕で水の塊を引き離そうとするが、水を掴むことはできない。
苦しくて、苦しくて、だらりとした手が、傍らに横たわっているゼブル様の腕に触れる。
――その瞬間、目の前が一瞬暗くなった。
◆
意識を失ったかと思えば、すぐに視界が明るくなった。
さっきまであったはずの息苦しさもなくなっている。
「ここは――」
そこは見たこともない場所だった。緑の生い茂る、自然豊かな楽園のように見える。
それなのにどこか懐かしさを覚えるのは、どうしてなのだろうか。
『…………』
歌声が聞こえた。安らかで心地が良くって、まるでお母様が寝るときに聞かせてくれた子守唄のようで――。
遠くに髪の長い女性が見えた。絹のような白い髪。どこか遠くに視線を向けながらも、彼女は歌っている。
ふと、その視線が私を捉えた。
「お母様?」
『………………』
歌声は止まない。ただその姿がぼんやりと見えているだけ。
彼女がなぜかお母様に似ているような気がして――。
足を一歩踏み出すと、白靄のなか緑に囲まれた芝生で歌っていた人が、ふと私から視線を逸らして、また遠くの空を見上げた。
『…………あの子を、助けてあげてね』
その姿に今度はカヒナ様の面影が重なった。
「助ける、どうやって」
誰を助ければいいのだろうか。
『………………』
彼女はまだ歌い続けている。
その歌声が、どんどん遠くなる――。
◇
息苦しさが戻った。
座っているのも苦しくて、私の体がゼブル様の上にうつ伏せのように倒れ込む。
目の前にゼブル様の顔があった。
ふと、数刻前のカイルの言葉を思い出した。
あんなのただのおとぎ話に決まっている。でも、もしおとぎ話の魔法が存在するとしたら、彼も目を覚ましてくれないだろうか?
そんな夢に縋るように、私はゼブル様の顔に自分の顔を近づけた。
水が邪魔をしてうまくできないかと思ったが、すんなりと彼の口に自分の口を重ねることができた。
周囲の温度が急激に下がっていくとともに、私の顔を被っていた水の塊が弾けて、消える。
「……ッ、カハッ」
息苦しさから解放された。
ふと視線を感じて下を見ると、思ったよりも近くにゼブル様の顔があった。
その灰色の瞳が、私のことを呆然としたように見つめている。
「ぜ、ゼブル様!」
呼びかけると、彼は眉間に深い皺を作った。
そういえばゼブル様の上に被さったままだった。いくら婚約者といっても、この状態のままだとさすがに不愉快よね。
ゼブル様の上から慌てて退くと、私はカイルの姿を捜した。そうして見つけたカイルの様子を見て、水の塊が消えた理由がわかった。
カイルの全身が、首から上だけを残して氷漬けになっている。その唇は紫色になっていて意識がないようだ。
カイルが意識を失ったから、魔法が解けたようね。
「寒さで気を失ったようだな。……まだ死んではいない。いろいろと聞きたいこともあるからな」
足取り悪く立ち上がったゼブル様は、なぜかわからないけれど私と視線を合わせようとしない。
洞窟の隅の方を、灰色の瞳でにらみつけている。
「とりあえず、拠点に戻るぞ」