50.冬の訪れ
聖女の力を覚醒してからもう一カ月は経っていた。北部はすっかり冷え込んでいて、十二月上旬は静謐さを思わせるほど静かに過ぎていく。
そんな静寂をうち破る声が、騎士たちの訓練場から聞こえてきた。
訓練所を覗くと、カイルが【青蘭騎士団】の騎士たちに訓練をしているようだ。騎士たちの顔色を窺うに、地獄の訓練メニューをしているのだろうか。
剣を片手に持っているカイルだけとても涼しげな顔をしているが、他の騎士たちの顔色はとても悪い。息切れで地面に倒れている人もいる。
私の護衛についていたから訓練を受けずに済んだアリシアが、ホッと息を吐いている。そんな私たちにカイルが気づいて近づいてきた。
「ラウラ様が訓練場に顔を出されるなんて珍しいですね。どうされましたか?」
「ゼブル様を探しているのだけど、ここに来てないかしら」
「訓練場には来てないですよ」
「相談したいことがあって探しているのだけど、執務室にもいなかったわ。ジョンも姿を見ていないらしいのだけど」
「うーん、もしかしたら人気のないところで休んでいるかもしれないですね。先日のこともありますし」
人気のないところと聞いて、一カ所だけ思い当たるところがあった。
「もしかしたら、あそこに――」
「団長を見つけたら、たまには私の訓練に付き合ってくださいと伝えてくださいね」
「伝えておくわ。ありがとう、カイル」
カイルにお礼を言って歩き出そうとすると、カイルの柔らかい笑みがアリシアに向いた。
「そういえばアリシアは今日の訓練がまだですよね。護衛はエリックに任せて、すこし付き合っていきませんか?」
「わ、私は、そのお嬢様のお傍についていないといけませんので」
「俺が護衛を代わるから、アリシアは副団長に付き合えよ」
カイルの誘いを断ろうとしたアリシアだったが、いつもの明るい瞳が嘘かのように淀んだ瞳のエリックに腕を掴まれて逃げ道を失ったようだ。エリックの手を振り払うと、助けを求めるような瞳で見つめられるが、私にできるのは応援することだけだった。
「アリシア、頑張って」
「さあ、お嬢様。行こうぜ」
訓練から解放されたのがそんなに嬉しいのか、笑顔で歩きだすエリックを連れて、私は庭園に向かった。
「ここからはひとりでいいわ」
「そうっすか。俺はここでお待ちしています」
庭園の端にある雑木林のようなところに、現在だとゼブル様と私しか入ることのできない温室に向かうため、私は足を踏み入れた。エリックは雑木林の入口のところで待たせている。
ここに踏み入るのは夏の終わり以来、二回目だ。前に来たときは木々が私を避けるように誘い入れてくれたけれど、今日は特に何もなかった。整備されている木々の間を私はゆっくりと歩いて行く。それにしても結界があるからか、冬なのに木々は青々と茂っていて、枯れる気配がない。
これも結界の一種なのかしら。
緑の道を歩いて辿りついた先に小さな礼拝堂を見つける。
扉を開いてすぐ女神像の前で祈りを捧げている一人の男の姿が目に入る。
彼の祈りが終わるのを待つ間、私は女神像を見つめていた。
『…………あの子が、話していたわ。……とても、似ている人を、見つけたと……』
一カ月前にカヒナ様に会ったときに言われた言葉を思い出す。
女神像をよく見てみると、髪の長い女性だった。顔立ちは私というよりも、お母様に似ているように思える。
でも、きっと気のせいよね。ボタニーア家の歴史は、帝国の歴史と同じぐらい長いものだ。女神ルナティアとは関係ないように思える。
祈りが終わったのか、ゼブル様が立ち上がる。
「ゼブル様」
呼びかけると、灰色の瞳がこちらを見た。いつもの鋭さはどこか削がれていて、ぼんやりとしているように思える。
近づくと、彼はポツリと呟いた。
「お祖母様は、帝国に嫁いできて幸せだったのだろうか」
その言葉に、私は咄嗟になにも答えられなかった。
元大公夫人であり、ルティーナ王国の王女だったカヒナ様。
彼女がこの国に嫁いできた時は、まだ両国の関係は良好だった。それに暗雲が立ち込めたのは、五十年ほど前に先々代皇帝が皇位を得てからのことだった。
当時の皇帝により、大公とともに北部に追いやられてからのカヒナ様の人生は、幸福だったと言えるのだろうか。母国との戦争を見守っていることしかできないどころか、大公や息子たちが戦争に行くのを止めることもできない立場だった。病を患ってからほとんど寝室から出ることもできずに、いつしか彼女の存在は忘れられるようになった。
だけどカヒナ様は、家族のことを大切に思っているだろう。あの日に一度会っただけだけれど、「あの子」と口にした時のカヒナ様は幸せそうで、ゼブル様を想う気持ちはきちんと伝わってきた。それに先々代の大公様も、カヒナ様のことを大切に想っていたはずだ。そして、ゼブル様だって。
「ゼブル様も、先々代の大公様も、それから先代の大公様たちも。カヒナ様を大切に想われていたのであれば、ただ不幸のままこの世を去られたとは思えません」
過ぎ去りし未来で、過去に戻る前のことが脳裏を過ぎる。
私を裏切り捨てた、アルベルト様とカルロスお兄様。あの時の絶望をなかったことにはできないけれど、いまは私の傍にも居てくれる人がいる。護衛のアリシアやエリック、それからなによりもゼブル様がいる。
「……そう、だな」
ゼブル様は呟くと、また女神像を見やった。その横顔からは表情は読めないけれど、彼もカヒナ様のことを大切に想っていたのだろう。
「……今頃は、お祖父様や、父上や母上と一緒かもしれないな」
「ええ、きっと穏やかな笑顔でいらっしゃると思いますよ」
それは、冬の始まりとともに訪れた。
半生を北部で病とともに過ごしてきた、カヒナ・ランデンスが永い眠りについたのだ。
葬儀は静謐な雰囲気のまま、元王女であり大公夫人だったカヒナ様の葬儀としてはとても質素なものだったけれど、ゼブル様や使用人、それから彼女を知る家臣たちにより厳かに執り行われた。
埋葬するまで見送った頃には日が暮れていて、空にはまるで彼女の安らかな旅立ちを見送るかのような、大きな月が輝いていたのを憶えている。
『…………あの子を、見守ってあげてくださいね』
埋葬する前に見たカヒナ様はとても穏やかな顔をされていて、私はカヒナ様から言われた言葉を思い出していた。
最後の肉親を亡くされたゼブル様の心は計り知れない。
それでも、ゼブル様の最期まで傍にいたいって、私は改めてそう思った。