40.伝令
早朝。目を覚ました私は、夢で見た記憶をおぼろげながらも思い出していた。
レオナルト様とした約束。それはもしかしたら婚約のことだったのかもしれない。
家に届いたあの手紙には、ボタニーアの令嬢を婚約者に迎えたいとしか書いていなかった。それは私とした約束を憶えていたレオナルト様なりの配慮だったのだろう。
そして約束を忘れていた私は、彼を選ばなかった。
だからレオナルト様は、過ぎ去りし未来でも私に冷たくしていたんだろうか?
いつも何か言いたげな顔でこちらを見ては、赤い瞳を歪めて顔を逸らしていた。視線が合う回数は少なく、言葉を交わすこともほとんどなかった。
どうして嫌われているのかがわからなくて悩んだこともあったけれど、嫌われるきっかけを作ったのは私だった。
だけど、いまさらその記憶を思い出したところで、私たちの関係に変化があるとは思えない。
私はゼブル様の婚約者で、レオナルト様の婚約者はクララだ。
この関係はなにがあっても変わらない。
ベッドから降りてカーテンの隙間から覗いた明け方の空は、どんよりとした曇り模様だった。雨が降るかもしれない。
◇◆◇
早朝のランデンス城の前は慌ただしい人で行き交っていた。
城に残っていた【青蘭騎士団】のメンバーと皇室騎士団の人たちが話し合っている。
まだゼブル様やアルベルト様たちは帰ってきていない。この様子だと狩猟祭二日目は中止になる。
「ああ、ラウラも来たんだね」
私に気づいたカルロスお兄様が近づいてくる。
「カルロスお兄様、お怪我は大丈夫なのですか?」
「ああ、怪我は完治したよ。もともとそこまで大きな怪我ではなからね。それにランデンス領の回復魔法士の腕が良かったんだ。皇室騎士団に勧誘したいぐらいだ」
「それは無理でしょうね」
「ああ、もちろん知っているよ。北部の貴重な人材を引き抜くつもりはない」
「それはよかったです。……ところで、お兄様」
これはいま問うべきなのかどうかわからなかったけれど、狩猟祭が終わったらすぐに帝都に戻ると言っていた。だからもう訊ねる時間がないかもしれない。
「クララのことなんですが?」
「クララが、どうかしたのかい?」
「その、変な噂を耳にしたのですが……。聖女の……」
「ああ、なんだその噂か。クララはまだ聖女の力を覚醒していないよ」
やっぱりそうなんだ。
「それにクララ自身も自分から聖女だと名乗ったことはないらしい」
「それならニセモノというのはどういうことなんでしょうか?」
「それは俺にもわからないな。まあでもさ、その言葉がどこから出てきたのかはわからないけど、当代の聖女はほぼ高い確率でクララだろう? それぐらいの噂、クララが聖女の力を覚醒したらどうにかなるんじゃないか?」
カルロスお兄様は噂に対してあまり興味がないようだ。ほとんどのみんながクララが聖女だと思っているのだろう。私も過ぎ去りし未来の記憶がなかったらそう考えていたはず。
――でも、その噂、本当にそのままにしておいてもいいのかしら。
そんなことを考えていた時、広場に大きな音が響いた。
城門の開閉音だと気づき、ハッと顔を上げる。
一瞬で静かになった広間に、息を飲む音が響く。もしかして残りの参加者が帰ってきたんじゃないだろうか、そう思った人が大半だった。
でも期待はすぐに薄れる。
城門から入ってきたのは、馬に乗ったひとりだけだ。青い騎士服を着ている。
馬に乗った人物はレオナルト様たちを見つけると、その近くで止まった。
誰が戻ってきたのか気になって近づくと、新緑の髪色が見えた。あの髪色に、見覚えのある顔。よくエリックたちと喧嘩している、コーディという騎士だ。
「ほ、報告します!」
全身泥だらけでとても疲れた顔をしているのにも関わらず、コーディの声は良く響いた。
全員が固唾を飲んで見守る中、朝になってようやく帰ってきた参加者の一人の口から出てきたのは、とんでもない言葉だった。
「森の中に、ブラックドラゴンの成体が出現しました!」
「ブラックドラゴンだと!」
さすがのレオナルト様も、顔を険しくさせて叫ぶ。
「はい! 現在、【青蘭騎士団】が戦っています」
「……戦況はどうなんだ?」
コーディの話曰く――。
昨夜、帰還する途中でブラックドラゴンと対峙して、戦闘になったそうだ。
昨夜というと、もう何時間も経っている。
もしかしていまも戦っているの? ゼブル様たちは無事なんだろうか。
「コーディといったか? 森の中で、第二皇子を見かけなかったか?」
「あ、はい! 僕たちと一緒に居ました。――というか」
コーディの顔が、すこし忌々し気に歪む。
「第二皇子が、ブラックドラゴンを連れてきたんです」
その場にいる全員が息を飲む音がした。
アルベルト様がブラックドラゴンを連れてきた?
ブラックドラゴンといえば、暗黒の森のヌシだ。ドラゴンのほとんどが知能が高く、滅多に人前に姿を現すことはない。
だけどブラックドラゴンだけは例外だった。
ブラックドラゴンは、狂ったドラゴンだと云われている。魔物だろうが、人間だろうが、見つけた生き物を容赦なく攻撃するからそう伝えられている。
だけど、ブラックドラゴンは暗黒の森の奥に封印されていたはず。
その結界が解けたなんて話は、過ぎ去りし未来でも聞いた覚えがないのに――。
「大丈夫か、ラウラ。手が震えているよ」
カルロスお兄様に言われて、自分の手が震えているのに気づいた。
こちらを心配する言葉を口にしながらも、カルロスお兄様の顔も青くなっている。
「ブラックドラゴンか。アルベルトのやつ、なにやっているんだか」
「……ブラックドラゴンに、勝てるでしょうか?」
「…………わからない。でも、戦っているのはあの大公だよ? そう簡単に、やられるとは思えないけどね」
私もそう思いたい。思いたいのに。
震える手をギュッと握る。体の奥底から、恐怖が膨れ上がってくる。
怖い。もし死んでいたら。無事だと思いたいのに。
「……私にも、できることがあれば、いいのに……」
ここで待っていることしかできない自分がもどかしくて、握りしめた自分の拳を見つめる。
微かに震えるそれは、私の心の不安を見せつけてくるかのようだった。
※次の話から少しの間、ゼブル視点の話になります。