35.狩猟祭当日
『カトレイヤ侯爵には気をつけてください』
晩餐会の前に、カイルから忠告を受けたことを思い出したのは、晩餐会会場を出たところだった。カトレイヤ侯爵とはテーブルも違ったので、すっかり忘れていた。
もうほとんどの貴族が会場から姿を消している。皇族の二人も、クララやカルロスお兄様もそれぞれの客間に戻って行った。
私も早く自分の部屋に戻ろうとしたとき、会場を出たところでカトレイヤ侯爵から声を掛けられたのだ。
「ボタニーア嬢ですよね。カーティス・カトレイヤと申します」
侯爵に会うのは初めてのことだったけれど、一目で彼がカイルやエルミラの父だということが分かった。淡い紫色の髪をしていたからだ。
人の好さそうな顔に、優し気な眼差しをしている。カイルからの忠告を受けていなかったら、警戒することはなかっただろう。
「先日――といっても二カ月ほど前のことですが、家の夜会にいらっしゃったみたいですね。その帰りに襲撃があったという話を聞いたのですが、本当ですか?」
夜会の帰りに襲撃があったことは少し調べればわかるだろう。だからそれを聞かれること自体はおかしくない。
だけどその言葉を口にした時のカトレイヤ侯爵の瞳は、どこか探るようだった。
「襲撃は確かにありました」
「そう、だったのですね。我が領からの帰り道で襲撃に遭われたと聞いて、私もエルミラもとても心配していました」
実際エルミラから無事を確認する手紙を貰っている。夜会の後も、手紙のやり取りだけは続いていて、狩猟祭の間にお茶を一緒にしようと約束している。
「私も、騎士団の皆さんも大きな怪我はありませんでした」
本当はアリシアが危険な状態だったけれど、ゼブル様からあまり怪我のことを他人に話すなと言われていたので、そう答えた。
カトレイヤ侯爵は、ホッと安堵する溜息を吐いた。
「それはよかった」
「侯爵様も、狩猟祭に参加されるのですか?」
「はい。一応これでも元騎士ですから。引退してから随分と時間は経っていますが、小さな動物や魔物ぐらいなら、仕留められると思います」
優勝は難しいでしょうが、と公爵は笑う。その柔和な笑みは、カイルによく似ている。
「それでは、私はこれで。引き留めてしまって、申し訳ありません」
お辞儀をして去って行くかと思われた侯爵だが、ふと足を止めるとそっと不安そうな顔で振り返った。
「その、息子は元気にしていますか?」
「カイル卿でしたら、先日も元気に騎士団の訓練をされていましたよ」
定期的に行われる地獄の訓練メニューで疲れ果てた騎士たちを、たまに見かけることがある。護衛の交代でやってきたエリックが死にそうな顔をしていたり、朝は元気だったアリシアが夕方に顔を青くしていたり――。そんな騎士たちを尻目に、カイルだけはとても充実した顔をしていたのでよく覚えている。
「そうですか。教えていただき、ありがとうござます」
今度こそカトレイヤ侯爵は去って行った。
私はその背中を見ながら、カイルからの忠告を思い出していた。
「……侯爵に気をつけてくださいって、どういうことなんだろう」
もしかしてあの襲撃が? でも、息子を気にかける姿は、私の父の表情とたいして変わらないように思えた。
それに侯爵がゼブル様を襲撃する理由なんて、あるわけないのに。
「考えても無駄ね」
それよりも気がかりなのは、数名の騎士と一緒に国境に行ったゼブル様だった。
本当に明日帰ってくるのだろうか。
『無事に帰ってくるといいな』
アルベルト様の不吉な言葉を追い出すように、首を振る。
◇◆◇
狩猟祭当日。
ランデンス城の内側の広場には多くの人でごった返していた。狩猟祭に参加する貴族たちや皇室騎士団や青蘭騎士団などの騎士たち。それから応援するために集まった令嬢たち。
狩猟祭の間、令嬢たちはランデンス城の広場でお茶会をすることになる。そのため多くの令嬢が自慢のドレスで着飾っている。
「ゼブル様、まだかしら……」
「伝令もあれから来ていないようですが、きっとすぐに戻られますよ」
私の呟きに気づいたアリシアが答えてくれる。もう一人の護衛であるエリックは狩猟祭に参加するらしくここにいない。だからなのかはわからないけれど、アリシアは少し機嫌が悪そうだ。
「アリシアも、狩猟祭に参加していいのよ」
「いいえ。私の仕事は、お嬢様を護ることですから。森から逃れてきた魔物がいないとも限りません」
「でも厳重な城門もあるし、兵士たちもいるわ」
「いいえ、構いません。そもそも北部の人間にとって、狩猟祭は馴染みのないものです。気を緩めるわけにはいかないのです。……あいつと違って」
あいつとは、エリックのことだろうか。
アリシアはエリックに対してだけ感情を露わにするような気がする。
「大公はまだみたいだな」
あまりに耳にしたくない声に振り返ると、アルベルト様が笑みを浮かべて立っていた。
「せっかくの優勝候補だが、いないとなると少し寂しいな。せっかくだから競ってみたかったんだが。――なあ、ラウラ嬢。今年の狩猟祭、誰が勝つと思う?」
「っ……それは、もちろん」
私が答えるよりも早く、大きな音が響いた。見ると、城門が音を立てて上がって行く。
多くの人の視線が集中する中、馬とともに漆黒の髪の騎士が姿を見せた。
私は逸る気持ちを抑えながら、アルベルト様の問いに答える。
「ゼブル様です」