28.冷酷な瞳
ほとんど無意識な行動だった。なにかに導かれるように私は木々の間を通り抜けていた。
目的の建物の前まで来て我に返った時にはもうすでに遅かった。
「やっぱり、見間違えじゃなかったわね」
目の前には小さな礼拝堂がある。一見するとなんの変哲のない礼拝堂のようにも見えるけれど本来オレンジ色の十字架がなくてはならないところにあるのは、銀色の十字架だった。
これはルナティア教の礼拝堂だ。
現在のスカーニャ帝国にあってはならないもの。ペンダント以上に危険なもの。
もしこんなものがランデンス城にあることがバレたら、謀反として関わった人間すべてが処罰されるだろう。私がいくらボタニーア家の娘だからといっても、ランデンス大公と婚約しているのだから免れられるとは思えない。
自分の運命を変えたいと、自由を手に入れたいと思って婚約したはずなのに。
これはエリックたちにもバレてはいけないことだ。
どうしてランデンス城にルナティア教の礼拝堂があるのかわからない。
だけどカヒナ様の温室が厳重に隠されている理由は分かった。
「いまは使われていないのかしら」
礼拝堂はツタに覆われている。だけどよく見ると扉の付近は綺麗だった。
扉をゆっくり押すと、鍵は掛かっていないようですんなり開いていく。まるで私を待ちわびていたみたいに。そんなことがあるわけがないのに、なぜだかそう思った。
礼拝堂のなかに椅子はなかった。多くの人がお祈りに訪れることがないから必要ないのだろう。
奥に女神ルナティアの像がある。その前に、一人の男が跪いていた。
漆黒の髪に青い騎士服。その後ろ姿を見間違えるわけがない。
ゼブル・ランデンス大公だ。
熱心に祈っているようで、入ってきた私の姿に気づいていない。
緊張で震える手から、ハンカチが床に落ちていく。ハンカチとともに落ちた十字架のペンダントが、床に当たってカランと金蔵の音を響かせた。
男の影が動く。ぐるりと振り向くと、冷酷な瞳が私を見た。
目の前に、白銀の剣先を突き付けられる。いつの間に、近くに。
「何者だ。ここでなにをしている?」
咄嗟のことで答えられずに震えながら見上げると、灰色の瞳と目が合った。その瞳がわずかに大きくなる。
少し戸惑った様子を見せながらも、ゼブル様は剣を下ろさなかった。
「なんで結界が発動しなかった……。あなたは、どうやってここに来たんだ?」
「……て、庭園にいたらか、風が吹いて、そうしたらこの建物が見えたので」
「風? いくら強風が吹いたとしても、庭園からこの建物が見えるわけがないだろう」
確かに見えるわけがない。だけど、あの時は確かに見えたんだ。
訝しげな顔で私を見るその灰色の瞳が、いつもよりも冷たく感じる。まるで死の間際に、牢獄の中にいる私を見下ろしていたアルベルト様やカルロスお兄様のように。
緊張と恐怖で全身が震える。
目前にある剣先がゆっくりと下がっていく。
斬られると思ってギュッと目を閉じると、耳に微かなため息が届いた。
「もういい。殺すつもりはない」
瞼を開けると、ゼブル様は視線を落としていた。
「……ここに無断で入った使用人が、処罰されたって話を、聞いたのです……」
「処罰といっても、魔法の誓約書を交わしただけだ」
「誓約書?」
「礼拝堂のことを話そうとしたらその舌が溶けてなくなるというものだ。命までは奪うつもりはない」
ちなみに魔法の誓約書を交わした使用人や騎士たちの多くはお金に困っていたらしく、謝礼金をあげたらほとんどの人間が喜んで実家に帰って行ったそうだ。
もしこのままランデンス城で働いていたら、礼拝室のことをつい話してしまうかもしれないし、舌が溶けるよりかはそっちの方がいいと思ったのだろう。
「もしかして、私もその魔法の誓約書を交わさないといけませんか?」
「……そうしたいのか?」
「信じられないかもしれませんが、礼拝堂のことは誰にも話すつもりはありません。ですが、ゼブル様が望むのなら誓約書を交わさせていただきます」
舌が溶けてしまう恐怖は残ってしまうけれど、死ぬよりかはましだ。
ゼブル様は剣を鞘に納める。
「このまま婚約を続けるのであれば、誓約書は不要だ。どうせ結婚したらランデンス城の女主人になるのだから。先代の大公夫人――母上も、ここの存在を知っていたが父と誓約書を交わしたりしていなかった。家族なのだから誓約よりも、信頼感が大切なんだそうだ」
つまり私は、誓約書を交わさなくてもいいということだろうか?
「それに結婚したらここのことは話すつもりだった。だからそう身構えなくてもいい」
先ほどの冷たい影は鳴りを潜め、どこか戸惑ったようにゼブル様は私を見つめている。
「剣を向けてしまってすまない」
「こ、こちらこそ、勝手に入って申し訳ございません」
剣を向けられたときは怖ろしかったけれど、彼も礼拝堂の秘密を守るためだったのだろう。あの冷酷に思えた雰囲気も鳴りを潜めている。
ゼブル様は床に落ちている十字架のペンダントを拾うと、眉を顰めた。
「こんなものを持ち歩いているのか?」
「庭園に落ちていたんです」
「これが? ……そうか。預かっておこう」
てっきりゼブル様のものだと思ったのだけれど、違うのだろうか?
そこで私は思い出した。
「そういえば、このペンダント見つけた時、エリックも一緒でした。カイルを呼んでくるように頼んだのですが……」
「……そうか」
「あとでどうにか誤魔化しておきます!」
「いや、そこまでしなくてもいいのだが」
「いい妙案を思いついたのです。これなら疑われないかと」
「そ、そうか。なら、頼もうか?」
この作戦ならうまくいくかもしれない。
浮かれていると、フッと息を吐くような音がした。灰色の瞳と目が合う。ゼブル様はなにやら眉間に皺を寄せているようだった。
コホンと咳をすると、いつもの無表情に戻り、背後の女神像を見つめる。
それから見比べるように私に視線を向けると、ポツリと言葉を漏らした。
「この礼拝堂は、お祖父様がお祖母様のために秘密裏に建てたものだ。ルナティア教はスカーニャ帝国では異端とされているが、その理由を知っているか?」
「いいえ。詳しくは知りません」
だけど確かルナティア教には、不気味な噂があったはず。
「女神ルナティアは、生と死を司っている女神だ。だけどそれを、帝国とソレーユ教は呪いだと怖れた。いや、陥れたんだ」
生は、命ある生命を尊ぶこと。そうすれば自分の命を全うできる。
死は、死んだものを慈しむこと。自分が死んだ後、安らかに眠れるように。
ルナティア教の教えだ。
「しかも当時は謀反で国が荒れていた。隣国の王女と婚姻していた大公を疎ましく思っていたのもあるだろうが、国民の関心を別のものに逸らすのが一番の目的だったんだろうな。死を怖ろしいものと捉える人の心を利用して」
ソレーユ教以外の宗教は異端だとして、スカーニャ帝国中のソレーユ教以外の教会をすべて焼き払う御触れを出した。特にルナティア教は帝国中に呪いを撒き、死者を甦らせようとしている、狂信者たちだと。
偽りの言葉を並べて、陥れて。
「ルナティア教はそんな悪趣味なものじゃないというのに。人の命の大切さを教えてくれるものだ」
「――そう、だったのですね」
何も知らなかった。私が生まれる随分と前の話だから当たり前なのだけれど、知ろうとすら考えたことがなかった。
「帝国民が知らないのは無理もないことだ。ルナティア教について知ろうとすれば、すぐ牢屋行きになってしまうからな」
そもそも教会と一緒に、資料も焼き捨てられているかもしれない。
「話しすぎたな。そろそろ戻ろうか。カイルたちを待たせているんだろう?」
ランデンス城の庭園の秘密。
それを知ってしまったいま、妙に胸がすっきりとしていた。