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以上が、誘拐事件のあらましです。
う、十年も前のことですよ。
嵯峨崎更紗は元の通り屋敷に戻され、織笠湊は散々に制裁を受けた挙げ句、放逐されたそうです。
まあ、そういうことと次第があったから、織笠湊が嵯峨崎家に恨みを抱いていて、酒に砒素を盛ったというのもあながち当てずっぽうではないのですよ。
更紗のその後については、湊の予想した通りでした。
翌日の夜から、始まりました。
姉と全く同じように、この世のあらゆる肉体的苦痛を受ける日々が。
それから十年間、ある宴会の乾杯の席で一族の者達が一斉に毒酒を呷る日まで、ずっと。
ねえ。
もう少し待てなかったのですか?
せめて、更紗の身体がもう少し大人になるまで。
それで許されるものではないですけど。
せめて。
おや?
どうしました?
顔色が悪いですよ?
そろそろ思い出しましたか?
どうやら思い出したようですね。
いいえ、あなたはもう思い出しています。
嘘を吐くな!
そう、それでいいのです。
では、それをずっと語って聞かせているこの私は。
私は、誰でしょう?
ふふ、気持ちはよく分かりますよ。
だって、随分事情通じゃありませんか。
十年前にふらりとやってきた少女について、やけに詳しい。
どうしてそんなことを知っているのだろうって。
疑っていますね。
戻ってきたのかもしれない。
戻ってきて、杯に毒を混ぜ、そしてまたここに来たのかもしれない。
唯一の生き残りにとどめを刺すために。
そう。
もしかして、私こそが。
織笠湊なのでは?
ふふ。
あはは。
あはははははははははははははははははははは!
残念。
違いますよ。
そうだったら良かったんですけどね。
でも折角なので教えましょうか。
実は私、織笠湊の消息を知ってるんですよ。
ええ、見つけましたよ。
警察よりも先んじて。
彼女は私達のすぐ側にいました。
睡蓮の泉です。
あの泉、中心のあたりは意外と深いのですね。
泉の底に重石入りの麻袋が沈んでいて、その中に彼女の遺体が入っていました。
織笠湊は、あの日のうちに殺されていたんですね。
リンチを行っている最中の弾みか、元々殺すつもりだったのか。
まあ、元々の方ですかね。
ああ、いえ。嘘は吐いてないですよ。
湊の件は警察には教えてないんです。
だから警察が織笠湊を全国指名手配しているのも本当です。
この家の関係者も、自分達が殺したから織笠湊は犯人ではありません、なんて言えないですよね。
はい。
分かりましたか?
犯人は織笠湊ではないのですよ。
しかしそれでは困りますよね。
誰かが酒に砒素を混ぜたのは間違いないのですから。
そうなると次に怪しいのは嵯峨崎更紗です。
何せ十年にも渡って痛めつけられ、嬲られ続けて来たのですから、動機は十分でしょう。
しかし、彼女にも不可能です。
だって、更紗はまるきり白痴で、この世界に毒なんてものがあることすら知らないのですから。
毒という概念を持たない者が、毒殺を企てるなんて出来ません。
そうやって、娘達からあらかじめ抵抗する手段を奪っているわけです。
これこそが嵯峨崎が施した、目に見えない檻なのです。
この冷たい檻の中で、何人の娘が息絶えて来たのでしょうね。
嵯峨崎更紗ではない。
では使用人の誰かでしょうか?
織笠湊以外にも嵯峨崎に不満と疑念を抱いている者がいて、そいつが酒に毒を混ぜた。
否定も出来ませんけど、漫然としていて決め手に欠けますね。
でも、彼らはここに染まりきっていると思いますよ。
主に命じられれば湊を殴り殺して泉に沈めることすら平然とやる連中ですから。
その点、私は彼らを信用しています。
と、こうなると犯人がいなくなってしまいます。
前提を、考え直してみましょうか。
嵯峨崎更紗。
彼女がもし白痴ではなかったら?
どうでしょう。
言葉を知ることも、何を学ぶことを許されず、ろくな概念のない世界で生きていたはずの嵯峨崎更紗が、本当は確かな知性と智慧と頭脳と感情と概念と計画を持っていたら?
今まで誰一人として破ることが出来なかった――否、破るという概念を与えられていなかった嵯峨崎の檻。
虚島という、概念の牢獄。
人知れず、嵯峨崎更紗が破っていたのだとしたら?
それは当然、あなた達の飲み物に砒素の一つでも混ぜてみたくもなるでしょうね。
しかし、そんなことが可能だったのでしょうか?
更紗の部屋の棚に、本なんて一冊もありません。
ものを教える人間も勿論いません。
一部のそれ専門の使用人が限られた言葉だけを使ってやり取りをするだけで、他の者は終始無言を徹底されています。
あらゆる知識を得るべきものを、排除してあるのです。
そんな状況で学習なんて、果たして可能なのか?
織笠湊はね、毒を仕込んだのです。
ちょっとしたおまじないだったのかもしれません。
期待はしてなかったと思います。
しかし、意味はありましたよ。
湊の目論見より、遥かに。
それは概念のない世界を破る鍵、嵯峨崎そのものを蝕む猛毒でした。
更紗を連れて逃亡することを決断する直前、湊はかつて自分が使っていた学用品を一つ、更紗に預けています。
何だと思います?
それはね。
かつて湊が愛用していた、国語辞典です。
それを、うさぎのぬいぐるみの腹の中に入れてこっそり更紗に持たせたのです。
湊は言いました。
「これをあげたこと、誰にも秘密ですよ」
更紗はこう答えました。
「わかった」
面白いですよね。嵯峨崎の辞書に秘密なんて言葉が載っていたとは思えないのですけど、更紗は秘密という言葉と概念を理解していました。
隠し事の多い家庭で育ったせいなんですかね?
いえ、ちょっと興味深いなと思ったので。
誰にも秘密にしたまま、更紗は国語事典を読み始めました。
五十音をひらがなで何とか読める程度の語学力しかなかったので、それは苦労しましたよ。
毎日、誰にも知られないように、千を超えるページの十万を超える単語を、ひたすら読み続けるのです。
それは狂気に近い感情だったかもしれません。
他に縋るものを持たないが故に。
来る日も来る日も。
元から自分が知っている少ない単語を見つけ、そこから繋ぎ、結びつけ、考え、少しずつ辞書を読み解きました。
十年間、何万回と繰り返し、全てのページを丸暗記してしまうくらい。
あれは、凄いですね。
こんな素晴らしいものがこの世にあるなんて。
痛みとは、苦しいとは、つらいとは、悲しいとは、怒りとは、思考とは、抵抗とは、復讐とは、計画とは、殺人とは、毒とは、毒殺とは――何か。
地獄のような日々の中で、更紗はかつての娘達のように、衰弱し、立ち枯れはしませんでした。
自分がどんな仕打ちに遭っているかを完全に理解し、自らの意思で持って堪え忍ぶことを選択出来たから。
始めに言葉ありき。
創世は神の言葉、ロゴスからはじまった。
言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在する、と。
なるほど。
楽園の天使達はその実、羽をもがれて地面に這いつくばる蟲でした。
言葉を得て、私は初めて人になれました。
織笠湊には、感謝してもしきれません。
でも、同時に後ろめたくもあります。
大量殺人の罪を、彼女に着せたままでいるわけですから。
湊の遺体を引き上げた時、麻袋の中の彼女は骨になってはいませんでした。
腐ることも朽ちることもなく、十年前に亡くなったときのままの姿でした。
まるで眠っているみたいでしたよ。
あれは、死蝋というのですね。
睡蓮の泉は特殊な成分を含んだ水が湧いて出ているようで。
底は深く、冷たく、そして澄んでいます。
その特殊な環境が彼女をそうしたのだと。
美しかったです。とても。
悩んだのですけど、彼女の亡骸はもう一度泉に沈めました。
今度は、内々にですがきちんと弔って、汚い麻袋なんかじゃない、立派な棺に入れて。
湊はあの泉の底で、永久に美しいままでいることでしょう。
みなもに咲き誇る睡蓮花は、彼女への、手向けの花です。
さて。
復讐。ふく、しゅう。仇討ちをする。仕返しをする。
砒素入りの酒の味は如何でしたか?
一人だけ生き残るなんて運が良い。
いえ、この場合は悪かったですか。
楽に死ねるなんて思わないで下さいね。
何も分からないまま死んでいった娘達の分。
そして何の落ち度もないままに殺された織笠湊の分。
どうぞ、ご覚悟を。