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湊の職場は嵯峨崎の邸宅の、北館でした。
虚島には島の南北に本館と北館の二つがありまして、本館には旦那様とその親族が住まわれています。
客人が訪ねてくるのもそちらですね。
では北館はというと、こちらには婦女子のみが住まわれます。
旦那様――嵯峨崎桂之進の娘達と、長男である嵯峨崎順之助の許嫁達が一緒に住んでいます。
こちらは少々説明が必要ですかね。
まず、許嫁達。
達というからには、複数名います。代によって変動はあるみたいですけど、少ない代でも三人はいたそうです。多い時には十人はいたとか。
ふふ、豪勢でしょう?
許嫁はですね、幼少の頃から決まっているんです。
三つにもならないくらいから嵯峨崎に引き取られ、将来の花嫁として北館で特別な教育を受けて育ちます。
教育。きょう、いく。ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること。
まあ、間違いではないですか。
これはこれで教育なのかもしれません。
基本的には、淑女としての礼儀作法とか、そういうことを仕込まれます。
それだけです。
それだけ。
他には何も教えません。
いえ、むしろ何も教えないことを主眼にしているのですね。
極端な無菌培養、とにかく純潔で清廉で、汚れのない天使のような女性を創ることを目的にしているのです。
彼女達と話をしてご覧なさい。
本当に驚きますよ?
丸っきり、天界から舞い降りた天使です。
煩雑な下界のことなんて何にも知らないのです。
正直、あまりに天使過ぎて会話が成り立たないこともありますけど。
まあ、そういうのが好きな御仁もいらっしゃるようで、側室にも漏れた娘は、誰かしらの養女や花嫁に貰われることもあったようです。
莫大な金と交換で、ね。
実娘の方も大体同じです。
先ほど、織笠湊と嵯峨崎更紗の出会いの話をしましたね。
覚えてますか?
睡蓮の咲いたみなもを、嵯峨崎更紗は黙って指差したと言ったでしょう?
尋ねる言葉を知らないのですよ。
彼女らは嵯峨崎の女として必要と認められた言葉しか知らないのです。
人が言葉を失うと、どうなると思います?
概念がね、なくなるのです、
例えば、この世に『悪』という概念が存在することを、彼女らは知りません。
知らないので、考慮することも備えることも出来ません。
そういう発想が、生まれないんですね。
徹底して、そういう風に創られているのです。
ただし嵯峨崎の実娘と許嫁達とは一つ大きな違いがあります。
嵯峨崎の娘は、極端に短命なのです。
二十は生きられないですね。
長くて十八といったところでしょうか。
娘だけです。
遺伝子系に疾患があるのではとか、原因不明の奇病だとか、言われていたみたいですね。
まるで、咲いた花が美しいまま立ち枯れるように、死んでいきます。
さて、織笠湊が次に会ったのは嵯峨崎咲妃――更紗の姉です。
湊は更紗に案内されて北館に来たわけですけど、結果的に湊は誰に会うよりも先にこの姉妹と遭遇したことになりますね。
何というか、凄いことですよ。
運が良いのか悪いのか。
島に来たばかりの新入りが咲妃に会うなぞ、あり得ないことです。
本来ならもっと嵯峨崎のしきたりに慣れてから、少なくとも一年以上は面通し願えなかったと思います。
でもそうすると、湊はそもそも咲妃に会うことすらなくなっていたわけで――これもまた運命の巡り合わせというものなのかもしれませんね。
咲妃は北館にある自室のベッドで寝ていました。
妹が不意に連れてきた見知らぬ人間にも、咲妃は静かに微笑みかけるだけでした。
咲妃も更紗と同じです。
疑う、とか、怪しむ、みたいな概念を持っていないのですね。
嵯峨崎の教育の根幹はこれです。
単に語彙が少ない、言葉足らずな娘を育てているわけではないのです。
概念の少ない娘。
だから外部との接触の少ない島に住んでいるのでは、なんて考えてしまいますね。
咲妃の無垢な微笑みに、湊は胸を衝かれました。
だって、咲妃の顔、明らかに死人のものだったのですもの。
血色というものがまるでなく、異様に蒼白い肌。
亡者のそれ、そのものでした。
誰が見たって一目で分かります。
この娘はもう長くはない、と。
ああ、そう言えば湊はほんの何日か前に本物を見てるんでしったっけ。
自分の父親の亡骸を。
だったら尚更驚いたでしょう。
あれと同じものがまだ生きていて、自分に微笑みかけているのですから。
と、そこで扉がばたんと開きまして、ようやく家政婦長閣下のご登場です。
家政婦長は無言で湊を引っ張りだして、この部屋で見たことは忘れるように強く言い含めました。
これが湊が仕事を始めてから、言いつけを守らず好奇心で咲妃の部屋を覗いた――みたいな話だったらば、きつい罰を受けていたのかもしれませんけどね。
今回に限りお咎めなしです。
まあ、自分達の職務怠慢ですし。
とにかく、忘れ、口を噤むよう言い含めました。
忘却。ぼう、きゃく。忘れ去ること。忘れること。
人の記憶はそんな都合良く、忘れたいことが忘れられるようには出来ていません。
あなたもじきに思い出すでしょう。
織笠湊はこの日のことを、ずっと、忘れませんでした。