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嵯峨崎家の屋敷は、下北半島の沖合に浮かぶ小さな孤島にありまして、島名を虚島と書いてうつろじま、と読みます。
本土から見たとき、蜃気楼の関係で島の姿が見えたり見えなかったりすることからついた名だそうです。
織笠湊もまた、行きがけの船でそんな話を聞いたことでしょう。
どんな気持ちでいたでしょうね。
少なくとも、明るい心持ちではいられなかったでしょう。
本土を離れ虚島に行き、嵯峨崎家に仕える、というのは他の家の家政婦として働くのとは意味合いが異なります。
二度と本土に戻ることはない――なんて言われていますね。
多少大袈裟な嫌いはありますけど、間違ってはいません。
嵯峨崎家に仕えるというのは、生涯をそこの従者として働くことを意味しています。
初めからそういう約束で虚島に行くのです。
代わりに、親族に多額の金が支払われます。
まあ、一種の身売りですね。
悪く言えば奴隷です。
過酷な環境で強制労働されるわけではありませんが、生涯、自由はありません。
一方で嵯峨崎の一族もまた、虚島から出ることはありません。
男の子は幼少の頃は本土の学校に通うのですけど、長じてからはずっと島にいます。
女の子は文字通り、一生をこの島で過ごします。
何か用件がある場合は、客人の方が船に乗って、嵯峨崎の歴代当主に会いに来るのです。
凄いですよ?
地元の実業家から貴族院の議員までが、こんな田舎にまで来て、わざわざ船に乗り海を越えて嵯峨崎の当主に謁見を乞うのですから。
大袈裟だと思いますよね。
真実と虚構が綯い交ぜになって、嵯峨崎の実体は蜃気楼のように虚ろなんです。
ただ、何人もの人間の一生を簡単に買えるくらいの財産と権力を持っていたのは、間違いのないことです。
湊はその当時、十六歳でした。
女学校を中退しての奉公だったとか。
父親が何かの事故で急逝したそうですね。いや、病気でしたか?
まあ、どちらでも一緒ですね。
まとまった金が必要になったのです。
未練を捨てきれないように学校の教材を数点持って、彼女はやって来ました。
送ってくれた漁師は島に一歩たりとも踏み入ろうとはせず、また迎えの者もいませんでした。
仕方なく、湊は屋敷を探して道なりに進みました。
途上、湊は澄んだ泉の側で遊ぶ美しい少女を目にしました。
年齢は、当時はまだ六歳ほどだったでしょうか。
手には大きなウサギのぬいぐるみを持っていました。
少女は泉のほとりに座って、じっとみなもを見つめていました。
湊は、鬼が出るか蛇が出るかと戦きながらここまで来たのです。
安心というより、拍子抜けだったかもしれません。
湊は少女に近づき、尋ねました。
「私はこの島のお屋敷に奉公に来たのだけど、お屋敷の場所は分かりますか?」
少女は答えず、じっと水面を見つめています。
そして、そこに向かってそっと指を差しました。
示された水面には、沢山の花が浮かんでいました。
「ああ、それは睡蓮です。睡蓮の花です」
湊はそう答えました。
泉にはまるでクロード・モネの絵画の世界を切り取ったみたいに、睡蓮が一面に咲いていたのです。
「すいれん」
少女はそう反芻し、僅かに驚いたように目を見開くと、湊に向かって微笑みました。
それはあまりにも無垢で、本物の天使のような、そんな微笑みでした。
嵯峨崎更紗と織笠湊の、これが出会いです。