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週末の彼  作者: 雨堂かなめ
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週末の彼

 私はいつも週末だけ図書館に寄る。

 金曜日だけは閉館時間が遅いから。

 昔から本を読むのは好きだった。だけど大きくなるにつれて読まなくなって、大学を出て社会人になってからはほぼ読まなくなった。

 仕事で疲れ果て、家に帰ればご飯を食べてお風呂に入って寝るだけの生活。スマホでネットニュースを見ていたらいつの間にか寝落ちしていた、なんてこともよくある。

 だけど先月、たまたま見た市の広報誌に市立図書館が試験的に金曜日だけ閉館時間を21時にするという記事が載っていて。

 私は急に読書欲が湧いてきた。図書館は会社の近くだったから。

 家と会社の往復だけじゃいけない、何かをせねばと思っていた。いくらやりたい仕事に就けたとはいえ、これではいわゆる社畜じゃないかと、プライベートを充実させねばと。

 週末の仕事帰り、一時間ほど図書館で本を読む。本は借りずにここで読み進める。わざわざ返しにくるのが面倒だから。来なければならないなんていう無理はしない、そのぐらいの手軽さで始めようと思った。

 広報の成果なのか、金曜の夜の図書館は結構人がいた。時間的に主に社会人と思われる人ばかりでさすがに子連れや小学生は見当たらない。

 私は一昔前に流行った恋愛小説が並ぶ棚で読んでみたかった小説を見つけて読み始める。ふと思いついた流行中の小説はやはり誰かが借りているようで。置いてあるパソコンで検索したら予約でいっぱいだった。

 流行が去ったものだと誰も借りないし、読むこともない。そうなるとここでいつでも読み進めることができる。

 四人掛けの机に座る。ちょうど他にいなかったから一人でゆっくり机を使えた。

 映画やドラマにもなった小説は読み始めると面白くて時間が経つのも忘れた。だけど一生懸命にになって疲れるまで読んでは図書館通いが続かなくなる。読み終わることが目的ではなくて、ここに通って無理なく読み続けることが目的なのだ。

 三分の一ほど読んだところで私はハードカバーの表紙を閉じた。

 そしてふと顔を上げた時、前に位置する机に人がいるのを見つけた。読み始めた時はいなかったように思ったけれど。

 高校生だ。彼が着ている制服は知っている。私もそこの卒業生だから。

 本を読む姿勢と視線が真摯で、ページをめくる指が綺麗で。その姿に思わず見惚れてしまった。

 下を向いているから顔は見えない。顔が気にならないわけではないが、図書館という一枚の絵の中にバランスよく収まっている男子高校生は、その本を読む姿は、神聖な何かに見えた。

 私の日常にはないもの。癒し、だ。いつまでも見ていられた。心が洗われる気がする。

 くたびれたような大人たちの中にはない、まだ何も知らない、穢れていない、純な存在。大げさかもしれないけど、かつて私もいた世界はもうとても遠く戻れない世界だ。懐かしさと憧憬と。

 また会えるといいなと思っていたら、翌週、翌々週も彼はいた。同じ席に。

 大体この時間に訪れる人は決まっていて、声はかけないけど生萌知らないけどあの人は今日も来てるなと思うほどには見知っている。座る席も自然と決まってくる。だから私もそうで、彼もそうだった。

 勉強をしているわけではない。本を読んでいる。ページをめくる時にかすかに見えるのは写真集のような、あるいは写真が多用してあるような本。

 見ているこちらの背筋がしゃんとなるような、綺麗な姿勢で読んでいる。

 とはいえもちろん私もいつまでも彼に見惚れているわけではなく、ここに来ている目的を達成する。ニ十分もあればあとがきまで読み終え、今日は新しい本を選ぶことができそうだ。

 恋愛小説はハッピーエンドが好きだ。たとえご都合主義であっても、やっぱり幸せな結末がいい。リアルには理不尽なことがたくさん転がっている。だからせめてフィクションは楽しくて幸せな気分になりたい。

 今読み終わった話も、主人公が遠回りをしたけど彼氏と想いが通じて将来を誓い合う、というラストだ。苦労せずに何もかも手に入れる話はどうかと思うけど、一生懸命頑張った末に幸せを手に入れるというのは理想でもある。

 さて、次は何を読もう。私は席を立った。

 現代作家・恋愛小説、とラベリングされた棚へ本を返しに行く。

 少し色褪せた背表紙、一時期はいろんな人に読まれたはずだけど、今やそのポジションは、出版年代ごとに分けられている別の棚だ。

 次は何を……と探していると、背後に気配がした。誰か同じジャンルの本を探しに来たようだ。

 え……。

 だけど。なんだか。

 私の後ろに立ったまま、動かない感じで。その気配は子供ではない。

 すぐ後ろにいるのか、息遣いが聞こえる……? 男の人?

 まさか……痴漢?

 ここは職員さんがいるカウンターから死角の本棚だ。たくさんある中でここに立つということはどういうことだろう。自意識過剰かもしれない。この本棚に読みたい本があるのかもしれない。

 でもやっぱり怖い。

 勘違い女でもいい、馬鹿野郎と怒鳴られても笑われてもいい、とにかく早くここを立ち去らなきゃ。

 ぐっと肩にかけた鞄を握った時、後ろの人がもっと近づいてきたのか荒い息が聞こえた。

 ひっ。

 やばい。もう迷ってる暇なんかない。

 どうとでもなれと床を蹴って棚の横へ飛び出したら、人にぶつかった。人の胸あたりに。

「す、すみま……」

 目の前にグレーと白と緑色があった。

 腕を掴まれていて。多分私がぶつかった反動で転ばないように。

 後ろでチッと舌打ちがしたあと歩き出す音がして。怖くて後ろを振り向けなかったけど、多分私の後ろに立っていた人は立ち去った。

「あ、あ、あのっ、すみませんでしたっ」

 がばっと勢いよく離れて顔を上げてみれば。

 あ……。

 ……こんなに背が高かったのだ。いつも座っているところしか見たことがなかったから。180センチ近くあるのではないだろうか。

 私がぶつかったのは、多分、私が見惚れている高校生。制服がそうだったから。

 なにより、私を掴んでいてくれた手に、指に見覚えがあった。長くて綺麗な指。間近で見ればより綺麗だった。

 男の人なんだ、とどきりとする。遠目に見ていたよりずっと腕も手も大きくて、肩幅も広くて。制服を着ていても少年、というよりは男性なんだ、と。顔にかかった前髪で見えなかった顔は柔和だけど目に力があって、賢そうで。

「大丈夫でしたか?」

「え?」

「あのおっさん、知り合いじゃないですよね?」

「え……あ、はい」

 変声期をすでに迎えている声に胸がキュッとなった。艶のある、それでいていやらしさを感じない瑞々しい澄んだ声。

「もしかしたら痴漢かもしれないと思って。お姉さんを追いかけて行くような感じだったから」

 ……。

 偶然居合わせたわけじゃなくて。おかしいと思って追いかけてきてくれたのだ。

 違うかもしれないし違わないかもしれない。結局何もなくて。でもこの子にもそう見えたのなら。

「本当にありがとうございます。助かりました。ここだけの話、ちょっと怖かったので……」

 なんて優しい子だろう。見ず知らずのおばさん(高校生から見れば26は十分おばさんだろう)を気遣ってくれて。

「いえ。お姉さん、いつも俺の近くの席で読んでいるので、勝手に知り合いみたいに思ってしまって……えっ」

 ほっとしたのか、急にぽろぽろと涙が出てきた。情けない。高校生の前で。

「ご、ごめんなさい、何でもないんです、大丈夫。もう行ってください」

 怖かった。何もなかったけど。もしこの子が来てくれなかったら。私はうまく逃れられていただろうか。

「外のベンチで何か飲みますか? 俺自販機でお茶買ってきますよ」

「いっいえいえいえ、だいじょう、ぶです。もう大丈夫。ちょっと気が緩んだだけで」

 図書館のすぐ横には小さな公園があって、ベンチがいくつも設置してある。昼間だときっと休憩してる人も少なくない。今は夜だから人はいないけど防犯上か街灯がたくさん立っていて明るい。

「ここの職員さん呼びますか?」

「本当に、大丈夫っ。そろそろ閉館だし、お兄さんが来てくれて何もなかったから大丈夫です、ありがとう。帰ります。ありがとうございました!」

 気遣ってくれる彼にめいっぱい頭を下げて、私は逃げるように図書館を出た。

 背中にお気をつけて、という声を聞きながら。

 小走りで自動ドアを抜けて、駅へとそのまま直行する。

 恥ずかしい。本当に恥ずかしい。

 泣いてしまったこと、大人の女としてちゃんとお礼すら言えてなかったこと。

 ……十近く離れているだろう男の子に心臓が口から飛び出そうな程バクバクしてあの場に居続けることができなかったこと。

 顔、赤くなかっただろうか。いや、こんなに頬が熱いのに赤くなかったはずはない。

 恥ずかしい。

 図書館と場所からかやや近付いて話しかけてくれる彼の声が優しく甘く聴こえて。

 何やってるの、私!

 とにかく。

 来週、来週は大人の女としてきっちりお礼を彼にしなければ。

 ……来週、来てくれるだろうか。来たら、でいい。

 痴漢もちゃんと対処する次からは。誰にも迷惑がかからないように。声を出して助けを呼んで。

 よし。

 私は改札に定期券を通す。

 もう大丈夫。落ち着いた。月曜日には事務所のみんなに笑い話として話せる。気になってた男の子とも話したんだよね、と。

 ……何年生だかわからない。胸のバッチの色で学年がわかるけど卒業して随分立つ私には瞬時にわかるはずもなく。

 深入りはしない。偶然の偶然で接点ができただけだ。

 お礼には小さな焼き菓子でも添えよう。残らないように。すぐ食べ終われるような。

 重い女だと思われないように。


終 


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