追憶 1 【セザール視点】
兄の従者に付き添われ入って来た女性は、意志の強そうな紫の瞳に、白銀の髪の持ち主だった。母の時代に流行った、Aラインの慎ましやかで上品な、彼女の瞳と同じ色のドレスを身に纏い、同じ生地のリボンで髪をゆった出立ち。まるで、母の時代に描かれた絵画を見ているようなそんな錯覚に襲われた。
あのドレス、どこかで見たような…。
遥か昔の記憶が甦る。母が健在だった頃、宮殿は陰謀と計略が渦巻いていた。他国からの人質同然で嫁に来た母。そんな母に幼き息子を守る術は無かった。その母と、自分を保護して下さった王妃様、その側に居た優しい笑顔の女性。そう、その人が着ていたドレスだ。俺はその優しく美しい女性が大好きだった。髪や目の色は違うが、ああ、彼女はその女性にそっくりなのだ。彼女は誰だったのか…。あの時代、彼女のいた時だけは、唯一、覚えている心休まる温かな雰囲気の漂う時間だった。
ご自分と我が子の命も狙われているのに、俺ら親子まで自分の宮殿に招き入れ、守って下さった先代王妃。常に緊張感に溢れていた生活の中。その女性が来た時だけは、先代王妃も母も、そして、兄達もその緊張から解き放たれていた気がする。子供ながらに、それが嬉しくて、その女性が来るのを心待ちににしていた。兄が王になってから、その女性は王妃の宮へ現れることは無くなった。
「其方は大公に死ねと言うのだな」
相手にとどめでも刺すような兄の言葉で、セザールの思考がこの場所に戻る。
俺に死ねとは?クソ、前の遣り取りを聞いて無かったから、全く話が見えない。
「お言葉の意味がわかりません。どうして、大公殿下にそのような…」
怯えるようなディーン令嬢の声がセザールの耳に入ってくる。
「余の話しを聞いておったのか?余には数十人の兄弟がいたと言ったであろう?そして、現に今、生き残っておるのは余と大公であるセザールのみだ。それが意味する事はわかるであろう。余には同じ母を持った弟も居たが、その者も今は存在せぬ」
ああ、そういうことか、俺の命を使ってディーン令嬢を脅したのか。全く、意地の悪い。そう言われて断れる令嬢など存在しないことをわかっていて仰っていらっしゃる。大方、師匠の頼みで俺を生かしたとでも仰ったのだろう。ふっ、本当は俺には孫娘はやらんと豪語なさっていたのにな。
「わ、わかりました。その婚姻お受け致します」
震える声で承諾するディーン令嬢に、セザールは憐れみの目を向ける。
「ふむ。わかってくれればそれで良い。余も無駄な殺生をせずに済むでな。よし、では、数日後に優秀な使用人と宮殿医を其方の家へ送ろう。費用は気にせず使ってくれ、此方で全て持とう。なに、余とセザールの命の値に比べたら、微々たるものよ。気にするでない。其方の弟に登城してもらう訳にはいかぬ、詳しい事はこちらから人を送るので、その者と話し合ってくれ。セザール、御令嬢に命を救って頂いたのだ、感謝し、御令嬢を馬車までお送りしなさい」
兄の嘘とはいえ、命を救ってくれたのだ。礼を尽くさねばならないな。
セザールはいつになく紳士的な態度で、ディーン令嬢の前に立つと跪き、その手を取り、その甲に唇を落とした。
「命を救って頂き有り難う御座います、ディーン子爵令嬢。本日を持って婚約することになりましたので、ツェツェリアと呼ばせて頂いても宜しいでしょうか?」
「は、はい」
放心状態なのだろうか、先程の自分の意思を貫く姿勢とは違い。此方が促すままディーン令嬢は素直に従う。
「有り難う御座います。私の事は、セザールとお呼び下さい。では、まいりましょうか、ツェツェリア」
「はい」
名前呼びに、もう少し抵抗されると思ったのだが…。
「ツェツェリア、近々、貴女の社交界デビューを行いたいと思います。その時、私がドレスをプレゼントをしましょう」
「はい」
心ここに在らずで、『はい』とのみ返事をするツェツェリアに、あんなことがあったのなら仕方ないと、同情心が芽生える一方で、婚約者として紹介された自分に、一切興味すら示さないツェツェリアへ苛立ちを覚えた。
はっ、あれきしの事で、この俺が目に入らぬと!
馬車への道すがら、何を聞いても何を言っても『はい』と答えるか。なら、理不尽な要求を飲んでも、俺のせいでは無いな。俺に感心を示さなかった自分を恨めよ。そうだな、まず何をして貰おう…。
社交界デビューさえしていれば、病の兄ごと面倒を見ると言って求婚してくる者は沢山いたであろう美貌の持ち主。その美しい顔に自分のように、誰もが見惚れただろう。ライラック姫が彼女の弟に入れ上げているのも、ツェツェリアのこの美貌を見れば納得がいくな。不運が重なり、その姿を社交界に現すことが無かった為、全くの手付かずだったことが容易にわかる。
この美貌だ存分に見せびらかすのも楽しかろう。だが、その反面面倒ごとも増えるか…。とっとと、領地へと引っ込むのが得策だな。領地へ戻れば、兄さんとて簡単には手出しは出来ないのだから、他の者達には皆無に等しい。
「ツェツェリア、婚約は一ヶ月後、適当に開かれるパーティーで社交界デビューをし、二ヶ月後にはこの帝国で式を挙げよう。正式な式は我が国に着いてからだ。よいな」
「はい」
案の定、ツェツェリアは『はい』とのみ返事をした。
「君が承諾してくれて助かる。婚約の準備、婚姻の準備は此方で行うので心配いらない。だから、君には明日から我が宮で過ごしてもらうことになるよいな」
「はい」
この際、面倒ごとはこの場所で承諾を貰うか。幸い後ろに侍女といけ好かない兄の従者もいることだしな。家計は逼迫しているのだろうこちらで全て用意するか、当面のドレスと彼女の面倒を見る侍女が必要だな…。後は…。
背後から睨んでくる、神経質な従者を無視し、セザールは次々に今後の予定への承諾をとって行く。
「では、また、明日お迎えに上がります。楽しみにしていますね」
セザールはツェツェリアを馬車まで送り、見送った。
「ゴホン」
背後からわざとらしい咳払いが聞こえる。
「なんだゼロニアス」
侍女達が去ったのを確認して、従者が口を言葉を紡ぐ。
「大公。一方的にことを進めらるのはいかがかと思いますが?」
神経質に寄った眉間の皺を一層深くし、ゼロニアスと呼ばれた従者はセザールを睨みつけるが、セザールはどこ吹く風だ。
「そう睨むな。ちゃんと了承を得たでは無いか。それに、俺はいつもよりだいぶ紳士的に令嬢へ接した筈だが」
「ですが、ディーン子爵令嬢のお心には、大公の言葉は届いていなかったと見受けられますが?大公もそれをご存知だったでしょう?その令嬢への態度も、令嬢へ敬意を表したわけでは無く、刺激を避ける為だったのでは?」
気が付いていた。だから敢えてだったのだが、流石付き合いが長いだけあるな。
「フッ、そう冷たく当たるな。だが、先手を打っておいた方が無難な気がしてな。あの令嬢、中々肝が座っておるぞ。流石師匠の孫娘、黄金の猟犬といい勝負だな」
「大公!」
鋭く睨む従者をセザールは宥める。
「そうカリカリするな、兄さんが年々恰幅がよくなるにつれ、お前はどんどん細っそりしてゆくな」
「それは、あなた方兄弟の所為でございます。最近ではライラック姫にも手を焼いておりますゆえ」
ゴホンと咳払いをすると、従者はセザールに王の執務室へ行くように促した。
執務室には、もう、王の姿がありその横には王妃が座っていた。促されるまま向かいのソファーへ座ると、王妃は目をランランに輝かしている。王である兄はニヤニヤとしてセザールに視線を這わせる始末だ。
「どうだ、美しいであろう?まあ、王妃には敵わんがな」
兄の楽しくて仕方ないというような視線が鬱陶しい。
「美しい御令嬢ですね」
美しいと思ったのは事実なので認めておく。
「ふふふ、そうでしょう?なんだって、貴方の初恋の相手にそっくりですものね♪」
初恋の相手?
「そりゃぁそうだろ、なんたって初恋の相手の娘なのだからな」
セザールの返事など待たず、楽しそうに話す兄夫婦にセザールは軽いパニックに陥った。
「あまりにも、彼女が帰るのを貴方が嫌がるから、宥めるのが大変だったわ」
昔を懐かしむように王妃は頬に手を当てる。
「そうであったな。其方と余の弟が必死で宥めておったな」
世継ぎ争いで亡くなった兄の母を同じくした弟。セザールのもう一人の兄と呼べる存在だ。
この頃のセザールの記憶は曖昧だ。少年期である上、ショッキングな出来事が多かった為かも知れない。王座獲得の為、兄弟間の争いは熾烈を極め、その上、最愛の母を亡くし、保護者である王妃も幾度となく死の淵を彷徨った。一月に一人以上の兄弟が命を落とした。
「兄さん、オレの命を盾にするのはやり過ぎでは?それに、師匠には、孫娘とは絶対に結婚させん!と言い切られたっていうのに。もし、断られたら、俺に死ねと?」
「いや、お前に、死なずにすむようにディーン令嬢を口説けと命令するつもりだった。流石にそれでお前を殺すのは理不尽だからな。それに、あれほど浮名をながしているお前だ。初心な小娘ひとり落とすなど朝飯前だろう?」
軽く言っているが本気だろう。冷酷な人だ。度々こうして警告される。お前は駒だと、自分の意思を持てば盤上から消しさると。
「ははは、自分から口説いたことなどありませんから、口説き方など知りませんよ」
「嫌味な奴だ」