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現代恋愛

まどろみながら幾千の話を、そして最後に一つの話を

作者: アンリ

 夕暮れ時、僕は公園のベンチで途方にくれていた。これが夢であったなら。


 そんな僕の隣には病院で借りたばかりの松葉づえがある。怪我をしたのが今日の昼過ぎのこと、今では右足をギプスで固定されて立派なけが人になっている。


 だけど今悩んでいるのは怪我のことじゃない。金銭面のことだ。診察代と帰路に使ったタクシー代とで、財布に五百円しか残っていないのである。


 自宅マンションは目と鼻の先にあるが、立ち上がるだけの気力が回復してこない。それほどまでに精神的にまいっていた。


 と、うつむく僕に通りすがりの女性が突然声をかけてきた。


「どうしたの?」


 特段美人でも可愛いわけでもない、おそらく二、三歳年上の女性。まったく知らない人。だが不思議と親近感を覚える人だった。


 だからだろうか、「お金がなくて」と己の状況をつい口にしていた。


「お金?」


 言葉にされたことで他人に話すにはシビアな話題であることを自覚した。


「すみません、変な話をして」

「話、聞こうか?」

「え……でも」

「いいから。ね」


 しつこく聞いてくる彼女に面倒くささと警戒心を覚え始めたところで、彼女がぱちんと手を打った。


「じゃあ交換しようよ」

「交換?」

「そう。二人して話したいことを相手に話すの。それで相手の話を聞いてあげたらお金をもらうっていうのはどう?」

「それいいですね。一つにつき百円でどうですか」


 手っ取り早く現金を手に入れるチャンス、こんなに都合のいい話はめったにない。すばやく人差し指を一本立ててみせると、彼女が「交渉成立」とほほ笑んだ。ここまであっという間のことだった。


「じゃあ僕から話しますね」


 あれほど鬱屈していたというのに、気分はあっさりと高揚していく。


「この足のことなんだけど。実はこれ、歩道橋の階段で転んだんです」

「それってあの大通りのところの?」

「はい。三段跳びで駆け下りていた僕が悪いんですけど……ぐきって捻って、階段下までまっしぐら。骨は折れてなかったけど靭帯を痛めちゃって」

「うわあ。それは大変だったね」


 労わるように見つめられ、胸につかえていた重しがすうっと減じられていくのを感じた。怪我をした直後から今までずっと独りで行動してきたが……思った以上に気が張っていたようだ。


「うちの親、今出張でいなくて。あ、僕んち父一人子一人なんです」

「うん」


 こんなところで同情されたくなかったから、相槌一つで済ませた彼女に好感をもった。


「まあそういう時はスーパーで適当に買って食べればいいんです」


 中学生ならそれくらいのことはできる。


「でも」


 つい深いため息が出る。


「診察代とかで手持ちに五百円しか残らなくて。父さんが帰ってくる三日後までどうやって食いつなぐか、それを考えると……」


 もう一度ため息をつく。


「家にお金や食材の買い置きはないの?」

「だったらこんなふうに悩んでないですよ。なのにこんなことになっちゃって……ほんと最悪です」


 何度も吐き出したため息のせいか、それとも愚痴のせいか。最悪だとまとめながらもだいぶ心が浮上してきた。


「なんだか話したらすっきりしました。ありがとう」


 感謝の気持ちを込めて「じゃあ次はあなたの番ですね」と言おうとしたところで――彼女が予想外のことを言った。


「ね、今の残金は三百円だよね?」

「……三百円?」

「うん、ケガをした話と、食べるものに困っている話。合計二つ聞いたから。五百円引く二百円は三百円、でしょ?」


 当然のように語られたその瞬間、彼女に抱き始めていた好感度が一気に下がった。


 とたんに胸が重苦しくなる。それは彼女に声を掛けられる以前の比ではなかった。吐き気すらする。この人の本性はきっと悪魔だ。


 僕はポケットから財布をだすと百円玉二枚を突きつけた。


「どうぞ。じゃ、もう行きますね」

「え? 私の話は聞いてくれないの?」


 それに立ち上がりかけていた僕の動きは一瞬止まった。本当は百円でもいいから欲しい。安い菓子パン一個、それを買えるかどうかは大げさではなく命にも関わる。だけど。


「いいです」


 これ以上不愉快な思いはしたくなかった。



 *



 自宅に戻って空腹を抱えて放心しているとインターホンが鳴った。


 松葉づえを使うのももどかしく、無事な方の足一本でジャンプを繰り返し、飛びつくように壁掛けの応答ボタンを押す。


「はいどうぞ」


 ろくに画面で相手を確認することなく入口のドアを遠隔で開ける。それから松葉づえをつきつつゆっくりと玄関に向かった。どうせ宅急便の類だろうと思いながら。


 だが玄関のインターホンも鳴り、何も考えることなくドアを開けたら。


「……え? なんで?」


 そこにいたのはさっきの女性だった。

 なぜここに――恐怖に震えかかった僕の目は、彼女の持つスーパーの袋に釘付けになった。


「ああ。これ?」


 視線に気づいた彼女が、購入品で膨れ上がった袋を顔の横に掲げてみせた。


「三日分の食糧、買ってきた。パンでしょ、バナナでしょ。牛乳でしょ。カップラーメンもあるよ。あとカレーを作ってあげようと思って。あっためるくらいならできるよね。それとサラダの材料。レタスちぎってプチトマトを飾るだけだから」

「……どうして」

「あ、なんで部屋番号が分かったかというと」

「入っていくところ見てたんですよね。じゃなくて」


 すると彼女がレシートを差し出してきた。


「金額、見て」


 それはまさしく僕が今日行こうとしていたスーパーのものだった。品物名の羅列の下に合計金額が大きく印字されている。


「千八十五円って書いてありますね」

「そう、千八十五円。だから私の話を十個聞いてくれる?」


 八十五円はおまけにしてあげるからお願い、と添え。


 そう言った彼女の表情は本当に困った顔をしていて、だからつい吹き出してしまった。


「いいですよ」

「ほんと? やったあ」


 両手を挙げた彼女の額の前で、スーパーの袋ががさがさと揺れた。



 *



 キッチンに案内し包丁や鍋といった道具のある場所について説明すると、彼女は腕をまくり手を洗い、それからおもむろに作業に取り掛かり始めた。


「あ、それ食べて待っててね。まだできあがるまで時間がかかるから」


 指し示されたのは鮭おにぎり。

 こういう気遣いも干からびた胸にはじんと沁みる。


「……ありがとう」

「何言ってるの。正当な報酬、そうでしょ?」


 振り返った彼女はいたずらっぽい目つきをしていた。

 そういえば――公園で「三百円」と言ったときの彼女もこういう顔をしていたような。


 もっとわかりやすいジョークを言ってくれたらよかったのにと思いつつ、ダイニングの椅子に座る。おにぎりのフィルムをめくっていたら、彼女がペットボトルのお茶をコップに注いで渡してくれた。ここまでされれば彼女の人間性は明らかだ。


 だが彼女は自分の言動に何ら気負うことなく、今も僕が一人感動しているというのにさっさと米を計量しとぎ始めた。


「お米あってよかった。三日分炊いておくね」

「あ、今日の分だけでいいです」


 さすがに三日も炊飯器に入れたままのご飯は食べたくないし、この初夏の季節、食中毒にでもなったら足の怪我を抱えているわが身には大打撃だ。


「えっと。ラップにくるんで冷凍しておけば、チンするだけで炊き立てに負けないご飯が食べられるんだけど」

「そうなんですか?」

「じゃ、これで百円ね」

「へ?」

「ご飯の保存の仕方を話したから、残りはあと九百円分ってことで」


 じゃっじゃっといい音を立てながらリズミカルに米をとぐ背中が揺れている。いつもは父さんがとぐ米を今日は見知らぬ女性がといでいる。何回か水を替え、水量を整え、炊飯器に入れてスイッチを入れるまでは流れ作業のようだった。


「じゃあ炊き上がるまでに急いでカレーを作っちゃうね。ほらほら、おにぎり食べて」


 促されて口に入れたおにぎりは信じられないくらいおいしかった。それもそのはず、今日は遅い朝ごはん以来何も食べていなかったのだ。なじみのスーパーのどうといったこともないおにぎり、それがこんなにおいしく感じられるなんて……。


 夢中で食べ終えると、彼女は野菜を洗い終え皮をむいているところだった。お茶で口をすっきりさせたタイミングで、彼女は僕に背を向け、包丁を動かしながら語り出した。


「じゃがいもの芽は毒なんだよ」

「それくらいは知ってます」

「じゃあ人参の皮はむかなくてもいいって知ってた?」

「え。そうなの?」

「うん、そうらしいよ。テレビでやってた。でもむいちゃうよね」


 ふふふ、と笑った彼女の肩がふるりと揺れた。


 しばらくは包丁の音だけがした。


 切られた材料はざるの中に次々と投げ込まれていく。


 黄色がかったじゃがいもの山。次にそれを覆い尽くしたのは緋色がかった人参だ。そのコントラストははっとするほど鮮やかだった。


 彼女は次に玉ねぎを二個取り出した。


「……あと七百円分かあ」


 話したいことがあるような、話したくないような、どっちつかずなトーンで彼女がつぶやいた。


 セロハン紙のような音をたてて玉ねぎの皮がむかれていく。やがて明るい茶色の層の奥から見慣れた白い球体があらわれた。


 こちらに背を向ける彼女の顔はもうずっと見えていない。だから僕はここから時折見える彼女の手元にずっと見入っている。


 すべての皮がむかれた二個の玉ねぎは照明の下でつやつやと光り輝いている。


 まとめた薄皮をシンク脇の三角コーナーに捨てると、彼女は包丁の刃先を球体の一つ、頭頂部にあてた。


 ざ……く。


 間延びした音を立てながら玉ねぎを半分に割ると、切断面を下にし、それからはしゃくしゃくと軽やかに刻んでいった。


「ねえ知ってる? たまねぎって冷蔵庫に入れて冷たくしておくと、切ったときに目にしみないんだって……」


 語尾の震えは彼女の肩の震えに同期していたから、すぐにその言葉の意味を察することができた。


「目が痛いなら早く水で洗ったほうがいいですよ」

「ううん大丈夫。このまま全部切っちゃう」


 彼女がまた包丁を動かし始める。とはいえ、薄い緑がかった白い球体に刃を当てるたび、包丁の動きは鈍くなっていった。


 続けてもう一個。


 ざ……く。

 しゃく、しゃく。


 生成されていく半月型の玉ねぎがまな板の上でシーソーのように揺れている。いくつもいくつも。

彼女はいつから泣いているのだろう。


 顔が見えなくても分かる。まるで痛みに耐えきれないといったように彼女は泣いていた。それでも包丁を動かす手を止めようとはしない。


 とっさに脇においていた松葉づえに手を伸ばした、その時。ようやく彼女が包丁を置いた。


 顔を伏せたままこちらを向いて水道のコックを上げ、流水を手にすくい乱暴に顔を洗い出す。よほど痛いのか、長い間冷たい水で顔を洗い続けていた。


 やがて水を止め、ポケットから取り出したハンカチで顔を拭うと、彼女は背をぴんと伸ばし朗らかな声をあげた。


「あー、すっきりした」


 一瞬見えた表情も随分すっきりとしている。


「よし、次は肉を切るね」


 そう言った彼女がなぜか鍋を火をかけた。サラダ油をひき、そこにまな板を傾けて刻んだばかりのたまねぎを落としていく。


「あの……肉が先じゃないんですか」

「たまねぎはなるべく丁寧に炒めて甘さを引き出したほうがいいから」


 軽く鍋の中のたまねぎを混ぜ返してから、ようやく鶏肉のかたまりがまな板の上に置かれた。


 机の上のレシートを見ると、『鳥もも肉』とある。


「やった。僕、カレーは鶏もも肉を入れたやつが一番好きなんです」


 返事を期待したが、彼女は肉を切るのに集中しているようで何も言ってくれなかった。時折思い出したように鍋の中身を混ぜつつ、肉の小片をまな板の隅に淡々と積んでいく。


 ふと窓の方を見ると、空はすっかり暮れていた。太陽は完全に沈み夜のとばりが降りている。


 こうして他人と、異性と同じ空間に二人でいるということを急に自覚した。なぜか今、名前も知らない女性と二人きりでいる。しかもカレーを作ってもらっている……。


 じゃーっとはじけるような音が響き出し、僕はまたキッチンに視線をやった。


 鍋に肉を投入したのだろう、騒々しい音を立てながら手早い動きで炒めている。一切の遠慮もない激しさで。


 彼女はしばらく炒め続けると、次にざるに蓄えておいた野菜を加えていった。ごとごとと重たい音を立てながら、じゃがいもと人参が鍋の中に納まっていく。


 彼女がより一層調理に集中していく。木べらを動かす右の上腕がややふくれているのは相当に力を込めている証だ。


 足のことがなければ代わってやれるのに、といまだ手を離せないでいる松葉づえを意味もなく掴んでみる。


 見知らぬ人、しかもそんなに年齢の違わない人に料理をさせている罪悪感が胸に迫ってきたところで――ようやく彼女の手が止まった。


 計量カップで五杯と半分きっかりの水を鍋に加えていく。じゅわーっと小気味のいい音をたてたのは最初だけで、あとは静かに加えられていった。最後の半分を注ぎ入れる頃には、僕のほうからも鍋の中身がしっかりと目視で確認できた。水面で油が照り輝いている。


 鍋から離れた彼女は汚れた器具をシンクで洗い出した。白く大きな泡を立て、ざるや包丁やまな板を磨いていく。うつむいたままで、丁寧に。


「そういえば」


 ようやく言葉を発することができた。


「なあに?」


 あの一瞬から一度も彼女の顔は見えていないが、思ったよりも明るい声だったから会話を続けることができた。


「夜遅くなっても大丈夫なんですか。家の人、心配してませんか?」


 泡のついたままの彼女の手が一瞬止まった。


「私、一人暮らしなの」

「一人暮らし?」


 その年齢で、と驚きが先にきた。僕より年上といっても高校生くらいに見えるのに。


「あ、ごめん。いや、ごめんっていうのはそういう意味じゃなくて。なんていうか」


 机の上で馬鹿みたいに両の手を握ったり開いたりしていると、ふふっと笑い声がした。


「変わらないね、亮は」


 シンクの中でかちゃかちゃと金属音が鳴った。


「僕、名前教えましたっけ」

「私、名前も知らない人の家に入ったりしないから」


 他にも口にしがたい違和感はある。だがそれについて言葉にするよりも先に彼女が言った。


「残りはあといくつ?」

「え?」

「私、あといくつ話すことができる?」


 問われ、ああそのことかと意識が当初の話題に戻っていく。彼女はここに十回分の話をしたくて来たのだ。そういう体を装って、初対面の僕の窮地を救うために。


「あなたも話して僕も話したから……」


 指折り数えて記憶をたどっている間に彼女は洗い物を終えた。次に戸棚から小皿をだしレタスをちぎりプチトマトをのせる。彼女の言っていたとおり本当に簡単なサラダだ。


 僕が解を出せたのは、鍋が沸騰し、彼女があくをすくい終わった頃だった。


「残りあと五つだと思います」


 自信はないがたぶんこれで合っている。


 彼女は身を屈めて弱火に設定すると僕の方に振り向いた。

 それは調理を開始してから初めて彼女ときちんと対峙した瞬間だった。


 彼女の両目は涙に濡れ、真っ赤になっていた。


「どうしたの? どっか痛いとか苦しい?」


 立ち上がりかけ、痛めた足に体重をかけてしまった。


「いたた……」


 両手を握りしめ歯をくいしばって耐えていると、伏せた顔、頭の上のほうから彼女が心配そうに声をかけてきた。


「大丈夫?」


 僕はなんとか顔を上げて答えた。


「大丈夫じゃ……ない。でも……あなたも大丈夫じゃないですよね」


 言うや、彼女の瞳からぽろっと涙がこぼれ落ちた。

 痛みに食いしばる歯の隙間から、僕は気力でもって言葉を吐き出した。


「座って……。話……聞くから」

「でも」

「いいから。僕はカレーを食べたい。だから話を聞く。それでいいですよね」


 見つめる彼女の瞳が揺れた。


 こくんとうなずき向かいの席に座る。それでもしばらくは言葉が出ないようで、こぷこぷと鍋の煮える音だけが二人の間を埋めるようだった。


 こぷ。

 こぷこぷ。


 じんじんと響くような足首の鈍痛が遠くへ吸い込まれていこうかという時。


「……私、好きな人がいるの」


 その一言で僕は自分の認識が間違っていなかったことに確信をもてた。

 やっぱりこの人は自分の話を聞いてもらいたくて僕に話しかけてきたのだ、と。

 僕に食事を提供するためではなく、自分のために。


 だけど不思議と腹はたたなかった。


 こうして泣きはらした目で座る彼女を見ていると、見返りなどなくても話を聞いてあげたい、そう素直に思える。


 こぷ。

 こぷこぷ。


「……知り合ったのはあの公園。あそこの花壇、私が手入れしているの。住んでいるアパートには花を植える場所なんてないし、でも切り花を買う余裕もないし。だから苗と土を買ってあそこで育てさせてもらってるの。それが私の唯一の贅沢」


 こぷこぷ。


「その人は土を触っていた私に声をかけてくれたの。どんな色の花が咲くのって」


 そこまで言うと彼女は黙ってしまった。

 鍋から発せられる、こもるような音だけがまたこの場を支配していく。


 ふいに彼女が立ちあがり鍋の火を消しに行った。


 割ったカレールウを煮込んだ鍋の中にそっと沈ませていく。木べらでゆっくりと混ぜると、室内はあっという間にスパイスの香りで充満した。


「カレーのルウは一度火を止めてから入れないといけないの」

「……そうなんですか?」

「そう。カレーを作るコツはね、レシピ通りに作ることなの。勝手なことをしてはいけないの。それがおいしく作るコツ」


 よし、と木べらを動かす手を止めた彼女が鍋の底を見ながら火をつけ直す。そしてまた僕の正面の椅子に座った。


「あと十五分煮込めば完成」


 彼女がルーの空き箱を「はい」と僕に渡した。裏のほう、読むと確かにそう書いてある。


「へえ。火を消してからルーを入れるってことも書いてあるんですね」

「……私の好きな人も知らなかった」


 話は突然再開された。


「初めて私の部屋に来たとき、彼にカレーを食べてもらったの。話の流れで作り方を教えてあげたらすごく興味津々で。それでね、自分でも作ってお父さんに食べさせてあげたいから練習につきあってほしいってお願いされたの。だから次の日もカレーを作ったんだ。今度は二人で」

「いい思い出ですね」

「あの日のカレー、すごくおいしかった。自分で作るよりもずっと。……ねえ、私あといくつ話せる?」

「え? ああ、いくつだろう。でももういくつでもいいです」

「そういうわけにはいかないよ」

「いいって。サービスです」

「……それじゃだめなの!」


 激高は突然だった。

 彼女が苦しげに言葉を発していく。


「それじゃだめなの。ちゃんと決めたとおりにしないとだめなの」

「どうしたんですか急に」

「決めたとおりにしなくちゃだめなのっ!」


 こちらを見据えてくる彼女の表情には鬼気迫るものがあった。


 カレーを作るようにルールに従わなくてはならないという彼女には並々ならぬ気迫があり――だから僕はあらためて記憶を反芻していった。


「……好きな人がいること。その人との出会い。カレールーの入れ方。その人とのカレーを作った思い出」


 指を折り、ためらいの後告げた。


「あと一つ……です」


 彼女のほてった顔が一気に青ざめた。


「一つだけ? もうあと一つしか話せないの……?」


 まるで死を通告されたかのような表情だった。


 とっさに僕は話していた。


「うちは料理は父さんの担当なんだ」


 驚きに目をしばたいた彼女に構わず話していく。


「父さんの得意料理は目玉焼き。朝飯の定番にもなってる。でも他はてんで駄目。野菜炒めは焦がすし、カレーもいまいちだし。そのくせしょっちゅう『うまいか』って尋ねてくるんだ。僕はそれにいつも『うまいよ』って答えてる。今度僕も父さんにカレーを作ってみます。レシピ通りに。あなたがしていた通りに」


 そこまで一気に語って笑ってみせた。


「僕は父さんの得意なメニューと不得意なメニューについて話しました。父さんの口癖と僕の予定についても。全部で四つです。だから差し引き、あなたはあと五つ話していいんです」


 くしゃっと彼女の顔が歪んだ。


 くつくつと煮える鍋からは食欲をそそるカレーの匂いがずっと漂っている。ピーという音が炊飯器から鳴った。ご飯も炊けたようだ。あと十分煮込めばカレーのほうも完成する。


 だがその前に僕は彼女の話を五つ聞く必要がある。


「どこから話せばいいんだろう……」

「どこからでも。好きなところから話せばいいんです」

「ああ、やっぱり変わらない」


 泣き笑いになった彼女が僕を見た。


「……ずっとあきらめきれずにいるの。ねえ、どうすればいい? 亮のこと、待つしかできないことが苦しくて、辛くて……」


 一度決壊した言葉は止まることを知らないのか、彼女が早口でまくしたてていく。


「亮のことが好き。すごく好き。でも待っているだけの今は辛くて……。ねえどうして? どうして私を独りにするの? いつまで私を待たせるの?」


 食い入るように見つめてくる瞳に僕は戦慄をおぼえた。


「あなたは……」

「あなたじゃない」


 ぴしゃりと叩きつけるように吐き出された言葉は鞭のようにしなって飛びかかってきた。


「私は絵里。ねえ、ちゃんと呼んでよ」

「エ、リ?」

「違う」


 立ち上がった彼女はひどく興奮していた。


「そんなふうに怯えたような声で言わないで。いつもみたいにちゃんと呼んで! バカっ……!」


 僕は何も言えず彼女を見上げた。目をそらすことはできない。だが何を言えばいいのか分からない。


 あなたのことは知らない――そう言い切ってしまえば済む話だ。

 実際、僕はこの人のことを知らないのだから。

 エリという名前にも何の感慨も覚えない。


 この人は善良だと深く考えずに結論づけてしまったが、実はストーカーなのかもしれない。まだ中学生の、外見も内面も秀でていない僕だが、他に考えられない。だって覚えていないのだから。そう、僕はこの人のことを本当に知らないのだ。


 だけど彼女を否定することも拒絶することもできないでいる。何も足を痛めていて動けないことや彼女のすぐ後ろに包丁があることが理由ではなくて。


 直感に従うことを選び僕は黙し続けた。


 ふいに彼女が気を緩めた。


 キッチンへ行き、鍋の火を止める。それだけのことでこの場のもわっとした濃密な空気が少し正常に戻ったようだった。


 戸棚から深い大皿を取り出し、炊き立てのご飯をよそう。そこにできたてのカレーをかける。こげ茶色の液体が真っ白なご飯の上をとろとろと覆っていく。肉、じゃがいも、人参、玉ねぎ。全部がちゃんとそこにある。レシピ通りに作られた、完璧なカレーの完成だ。


 それを彼女は僕の前に置いた。


「食べて?」


 ――動けなかった。


 大盛りのカレーは傍にあることでよりいっそういい香りがする。だが食欲は消え失せてしまった。


 それに食欲とは別の欲求が湧いている。


 彼女のことを――知りたい。


 だがそれは知るべきことなのか?

 知っているはずのことなのか?

 彼女の正体は?


 真実は――?


「……あと一つです」


 顔を上げ、きっぱりと言った。


「あと一つ。それですべてを僕に教えてくれますか」


 彼女が一瞬ひるんだ。


 だが小さく開けた口をきゅっと閉じ、一度目を閉じ、次の瞬間には凛とした表情になった。……たぶん僕も同じ表情をしている。


 彼女は僕を真っ直ぐに見返してきた。


 そして唇を開き――。



 *



「ああ、お父さん」


 立ち上がりかけた絵里に「いいから」と座ったままでいるよう促し、祥司は隣の丸椅子に腰を降ろした。


「お父さん。昨夜は私、いつも以上に面白い夢を見たんですよ」

「この前は海水浴、その前は雪だるまを作る夢だったよね」

「はい。でも昨夜の夢はちょっと変わっていました」

「へえ。ではどんな夢だったか聞かせてくれるかな」

「一つにつき百円ですけどいいですか」


 年相応の皺の多い瞼を重たげにしばたいた祥司に、ふふっと絵里が笑った。


「一つ話を聞いてあげたら相手に百円払う、そんな交換条件をした夢だったんです。昨夜の亮くんは中学生でした。歩道橋から落ちて足の靭帯を切って、お金も食料もなくて。それでとっさにそんな話を持ちかけちゃって」

「……ああ、あれは中二の夏だったか。そうそう。あの時は出張先に珍しくあいつの方から電話してきたんだ。泣きそうな声で。それで急いでその日のうちにトンボ返り。上司には怒られるし散々だったよ。ほんと迷惑な奴だよ。……ほんと、馬鹿で間抜けな息子だよ」


 二人の視線はいつしかベッドに眠る青年に移っていた。


 青年は静かに眠っている。耳をそばだてないと聴こえないくらいの静かな寝息をたてて。注意深く観察しないと本当に生きているのかどうかすら分からない、そんな状態がすでに半月ほど続いている。高所での作業中、足を滑らせ地面に叩きつけられるように落下してから――今まで。


 青年は身に着けるべき安全帯をつけていなかったという。


「昨夜の夢でもつい亮くんに話しかけて、しかも家まで押しかけて。カレーまで作ってあげて。でも亮くん、なんで私が自宅を知っているのかもキッチンを使い慣れているのかも全然気にもとめてなくて」


 痛ましそうに自分を見る祥司にかまうことなく絵里は話を続けていった。


「夢で見たのはおつきあいを始めた頃のことが混在しているんです」


 公園で花の世話をする絵里に亮が声を掛けたのは、普段から職場で顔を合わせていたから。絵里の勤める工場に亮は数年遅れで入社していた。


『どんな花が咲くの?』


 これをきっかけに二人の関係は同僚から恋人へと変わった。


「亮くん、夢の中でもお父さんにカレーを作ってあげたいって言ってました」

「……うん、あのカレーはうまかったなあ」

「初めての亮くんの手料理に、お父さん、感極まって涙ぐんだんですよね。その時のことを亮くん、ちょっと照れくさそうに話してくれました。……私、その時思ったんです。この人と家族になりたいって」

「……そうだったのかい」

「はい……。私には家族がいないから……だからずっと憧れていたんです。家族というものに。でもそんなの大それた願いだと思っていました。毎日決まった時間に起きて、仕事をして、寝て。施設を出てからずっとそうやって生きてきましたから。そうやって独りで死ぬまで日々を過ごしていくんだって……思ってたんです」


 絵里はたまらずといった様子で、眠る愛しい青年を見つめた。


「……でも亮くんと出会って幸せの意味を知りました。同じような毎日なのに、一緒に同じものを食べておいしいねって喜びあえる人がいることがどんなに幸せなことなのか……。食べさせてあげたいって思える人がいることがどんなに素敵なことなのか……」


 顔を両手で覆った絵里の左手、薬指にはささやかに輝く指輪がはめられている。


「亮くん。私を独りにしないで。私には亮くんしかいないの。お願い、起きて。目を開けて。また一緒にカレーを作ろう? いっぱい話そう? ねえお願い、お願いだから……」


 青年が眠りについたこの半月、絵里は現実を認めまいと泣くことを自らに禁じていた。だがもう限界だった。何度も何度も夢で青年と会い、幾千と言葉を交わし――しかし目覚めればそこは朝で、夢は夢でしかなく、現実は悪夢の続きでしかなかった。


「もう夢だけじゃ……さみしい……」


 絵里の震える肩に祥司がそっと手をおいた。


「……すみません。昨夜は夢でも亮くんを責めてしまったんです。何も分からない中学生の亮くんを。本当にひどいですよね」


 謝る絵里に祥司は小さく首を振った。

 そして眠る息子の手を握るや、声を張り上げた。


「おい、亮! 絵里さんが呼んでいるぞ! お前がいないと駄目だって泣いているぞ!」


 目を見開いた絵里にかまわず、日陰の下にいるような顔色の息子を見つめながら祥司は繰り返した。


「お前じゃなきゃ駄目なんだよ。早く目を覚ませこの馬鹿息子……!」


 それ以上は言葉にならず、祥司もまた下をうつむいた――その時。


「……二人して馬鹿って言わないでほしいな」


 かすれた声に二人がそろって顔を上げると、固く閉じられていたはずの亮の瞼がうっすらと開かれていた。


「ようやくこっちに戻ってこれたよ」


 口元を抑え驚きに固まる絵里と、絶句する祥司と。


 だが二人の表情は途端にほころび、それを見る亮もまたほほ笑んでいた。

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[良い点] これは爽やかな雰囲気の恋愛小説……ん、いや、サイコホラーみたいになってきた……いや、なんかSF的なそういう感じのやつか? からの! ということで、ずっと二人が会話を交わしているだけのお話な…
[良い点] うわー。 すごく切ない……!! 最後の最後まで全然オチが読めなかったです。 でも、最後で亮くんが目覚めてくれて良かった(;;) とてもアンリさまらしい短編だと思いました。 恋愛モノでありな…
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