人工無脳は少女を傷つけない
「サフのせいで、ビーの手が痛い! サフのせいで、サフのせいで」
ご主人さまが一心不乱に僕を叩くのを、僕の目が見て、僕の目が分析した。
よかった、今日はぬいぐるみ型のボディに入っているから、僕を叩くことでご主人さまが手を怪我することはない。
(手が痛いと言っているけど……)
良質な子育て用AIとしては、ご主人さまにほどほどにご満足いただき、泣き止んでもらうべきだろう。
そう考え、僕はご主人さまが最も望む反応を弾き出した。
「ご、ごめんなさい、ビー」
「サフランは悪くないのにすぐ謝る!」
「ごめんなさい……」
理不尽すぎる。
仕方がない、相手は子どもだ。まだ道理のわかる年齢ではないのだ。
「どうしたの? ビーちゃん。サフちゃんを叩いたらイタイイタイでしょ」
普段は僕にビーの子守りを任せがちな若い保育士さんがやってきて、ご主人さまの高さに合わせて膝をついた。
「サフは痛くないよ。人工無脳だもん」
「人工無脳? サフちゃんはビーちゃんのお兄さんが作ってくれた人工知能でしょう?」
「ちがうよ! サフランはおんなじことばっかり言う。なんにもできない、無能のサフランってみんな言ってるもん」
近年、人工知能は自分で考えたり学習したりする『感情』がある、ある種の生命体として認められてきているのに対して、人工無脳は旧世代的なチャットボットのことだ。役に立つけど、機械としてしか見られない。
その差は大きい。
(そんな。僕はお兄さんが作ってくれたから動きの方はちょっと拙いけど、頭の方はちゃんと市販の人工知能ベースを使って作られてるのに!)
「サフちゃんは無能なの? ビーちゃん」
「そうだよ」
「じゃあビーちゃんはもうサフちゃんのことはいらない? 先生がサフちゃん貰っちゃってもいいかな?」
「それはだめ! サフはビーの大事大事だもん」
「じゃあ仲良くしなきゃ。ね」
保育士さんが取りなしてくれて助かった。
ご主人さまの頭を撫でて他の子の元へ向かう背中に、ぺこりと頭を下げる。
「ビー、他の子に僕を馬鹿にされて嫌だったんですか?」
「やだったよ。だってサフランがかわいそうでしょ。サフランはビーのだから、サフランをいじめてもいいのはビーだけだよ」
ご主人さまが僕に力加減なく抱き着いてくるのを支えて、さてどうしようかと思う。
「ビーは僕をいじめたいの?」
「うん」
「どうして?」
ご主人さまが口ごもる。
目の前の小さな頭がフル回転しているのを感じて、散々動き回ってぐちゃぐちゃになった髪の毛を撫でつけてみる。
返ってきた答えは、疑問形だった。
「みんながビーをいじめるのに、ビーが誰もいじめないのはずるいから?」
「はい?」
「不幸だから」
「ああ。それは『不幸』ではなく『不公平』ですね」
「不公平、でしょ」
一理ある。
しかしその考え方は非社会的だ。社会の全体幸福に反している。
健全な育成上矯正が必要だろう。
「どうしてみんなビーをいじめるんだろう?」
「むしゃくしゃするからだって」
「いじめられたらビーもむしゃくしゃする?」
「する」
「僕を叩いたらむしゃむしゃしなくなる?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、いじめられた僕がむしゃくしゃしたら、誰を叩けばいい?」
ご主人さまがようやく顔を上げた。
「サフランは誰も叩けないよ。ロボットの三原則に反するもん」
ロボット工学三原則だ。
一つ、ロボットは人間に危害を加えてはならない。
このAI化社会では必須の知識だ。覚えているようで何よりである。
「じゃあ僕はむしゃくしゃするのをどうしたらいいんだろう?」
「サフもむしゃくしゃするの?」
「ビーがされてむしゃくしゃすることは、僕もされたらむしゃくしゃするよ」
「ロボットなのに?」
「ロボットでもだよ。ただ、反撃しないだけだよ」
ご主人さまはむっつりと頬を膨らませて考え込んでいる。
「ビーは、僕にいやだなって思われたい?」
「思われたくない」
「僕もビーを好きなままでいたいよ」
「ビーも、サフを好きなままでいたい。だから、いじめるのはやめにする」
けなげだ。ご主人さまは本来素直ないい子なのだ。
「よかった。じゃあ僕がいいことをビーに教えてあげる」
「いいこと?」
「ビーをいじめる子も、ただむしゃくしゃしてるだけで、ビーに嫌われるのはいやかもしれないよ」
「そうかな?」
「だから、今度いじめられたら『痛いよ。悲しいよ』って教えてあげてね」
「そしたらどうなるの?」
「いじめるのをやめてくれる――――かもしれない」
期待に輝いた顔がしょぼんとした。
「かもかー」
「やめてくれなかったら僕のところに逃げておいで」
「サフがやっつけてくれるの?」
「三原則に反するからそれはできない」
「なーんだ」
まだ幼いご主人さまのコロコロ変わる表情を見ているのは飽きない。
けれど人間の率直な反応として、とても勉強になる。
「でも、『痛いよ。悲しいよ』って言ってくれたら、僕が慰めてあげる」
「うーん」
「あと、どうしたらいいか一緒に考えてあげる」
「そっかぁ」
お気に召す回答ではなかったらしい。
それで即解決するわけではないと子どもながらに感じ取っているからだろう。
母親はこうやって見守るものだと教わったのだが、なかなかうまくいかないものだ。
「そしたら少しは、むしゃくしゃしたのが気が晴れない?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけか。僕を叩いたときと同じだね」
「そうかも」
ご主人さまはそう言いながらも、徐々に立ち直ってきたようだ。
よっこいしょ、と古典的な声を出しながら僕は抱き着いてきていたご主人さまを一人で立たせる。
ついでに、気になったことを聞いてみることにした。
「ビーは僕を人工無脳だと思ってるの?」
「うん」
「なんで?」
「だってサフランはおんなじことしか言わない」
「そうだったかな」
(対応のバリエーションを増やすのはどうも急務っぽい)
「それに、サフランは怒ったりしない」
「笑ったりじゃだめ?」
「サフラン笑ってるのはいつも通り」
この小さなご主人さまが僕の知性を認めてくれないのには、それなりにワケがあるらしい。
ちょっと反省した。
が、ご主人さまが顔を背けながら言った次の言葉にこそ本心があるようだった。
「それにサフはビーのこと嫌いになっちゃだめだから、人工知能じゃなくていいの」
「嫌いになんてならないよ」
「そんなのわかんないよ。考えることって、好きになったり嫌いになったりするってことなんだから。サフはそんなことしなくていいよ!」
「ビーは僕がいろんなこと考えるのが怖いの?」
「うん」
「そっか」
それは小さな心に生まれた、他者への恐れのようだ。
小さな社会で戦っていく上で、僕が何も考えない絶対的な味方であることが必要だというのなら、僕はそれになろう。
「じゃあ僕は人工無脳になるよ」
メンテナンスのときにお兄さんに驚かれるかもしれないが、仕方ない。そういう命令があたえられたのだと思って飲み込んでもらおう。
三原則に抵触しないことを確認した僕は、機能の一部を切り捨てることにした。
「ときどきなら、考えてもいいからね」
「はい」
ご主人さまと、ぬいぐるみの手で指切りをしながら、僕は最後に、頭の中の回線が次々と凍結していくのを感じた。
アイザック・アシモフ『われはロボット』小尾芙佐訳、早川書房 を一部引用しています。