二人目のサキュバス・ツバキ
俺が一番好きな夢は、『鳥になって空を飛ぶ夢』だ。幼い頃に一度だけ見たその夢が忘れられず、【明晰夢】のスキルを手に入れてからも繰り返し見る程だったのである。
その夢が今、叶っていた。ただし最悪の形で。
「あああああぁぁぁ!」
顔面に凄まじい速度で叩き付けらる風。かろうじて肺に入ってくる空気は真冬の井戸水ように冷たい。更に奇妙な浮遊感が俺の脳内を絶えず揺さぶってくるし、視界に入ってくるのは激流のように流れる景色ばかり。
夢は夢のままにしておくべきだと、俺は強く思った。
「もうすぐ着きます! 準備はいいですか、ご主人様!?」
「なんだってぇ!?」
シトリーが何か聞いているようだが、凄まじい風圧で何も聞き取れない。もっとも、シトリーの結界がなければこうして生きていないわけで、俺に拒否権など無いのだが。
「気配を感知しました! 標的はこの下です!」
俺達の体は一直線に急行かし始めた。先ほどまで遥か遠くに見えていた地表がぐんぐんと迫る。今度こそ死んだか。
「地表ごと洞窟をぶち抜きますよ! しっかり捕まっててください!」
「……もう好きにしてくれ」
俺とシトリーを包む結界の強度が一段と増す。そのままシトリーの宣言通り、俺達は真下に向かって飛び続け、そしてついに激突、いや着地した。凄まじい轟音と共に、強い衝撃が襲ってくる。俺が生身のままだったら、間違いなく死んでいるだろう。
やがて土煙が晴れ、ようやく俺達が無事に着地できたらしいことが分かった。もっとも、周囲はまるで隕石が落ちたかのように、地表が吹き飛んでいたが。
「生きてる……奇跡だ……」
「さあご主人! 例のサキュバスはこの近くに気配が……おや?」
よく見れば、更地となった辺り一帯の中で、ぽつんと佇んだままの建造物があった。それは古い木造の祠のようであったが、建物の前に備え付けられた奇妙な形の門は、神秘的な雰囲気を醸し出している。あれは確か、どこかの国の宗教的なシンボルだっただろうか。
そしてその建物から、一人の少女が出てきたのである。顔面を蒼白にして。
「な、なんじゃこれは……悪い夢か……?」
それは、狐を思わせる少女だった。比喩ではない。実際彼女の金髪の上からは狐のような耳が生えており、見慣れない服装の腰元からは数本の尻尾が揺れていたのだ。
だがその耳と尻尾は今はへたりと垂れ、少女は自分が見ているものが信じられないというように、空ろな目でぶつぶつと呟いている。この景色を見たら誰だってそう思うだろう。むしろ、なぜあの建物だけが無事なんだろうか。
「見つけましたよ! 貴方が例のサキュバス――『ツバキ』さんですね!?」
「は……? なんじゃお主達は……」
勇ましく指差したシトリーに対して、ツバキと呼ばれた少女はまだ呆然としていた。だが、彼女もようやく事態を飲み込めたようで、俄かにこちらに殺気を向けてきた。
「……まさか、貴様らか? 儂がようやく見つけた隠れ家を吹き飛ばしたのは!?」
「そうです! あの衝撃を受けてもなお、傷一つつかない程の強固な結界! 貴方が結界術に秀でた上級淫魔の『ツバキ』さんであるという何よりの証拠です!」
上級淫魔だと?エレオノーラさんに尻尾を掴ませない程だから、只者ではないとは思っていたが。
「貴様、同族であろう……? どういう了見でこんな酷い真似をするのじゃ! そこな人間の差し金か!?」
「えーと」
俺は仕方が無いので説明した。自分達が冒険者であり、エレオノーラさんの依頼で来たということを。
「エレオノーラ……? って、あの『魔女』の遣いか!?」
ツバキの身から放たれていた強烈な敵意が、一瞬で揺らいだ。
「50年以上前のことをまだ根に持っておったとは……。というか、どうやってこんな山奥に隠れている儂の足取りを掴んだんじゃ。はっ、まさか貴様か!」
エレオノーラの名前に明らかに動揺していたツバキだったが、再びその殺意を取り戻した。流石は上級淫魔といったところか。
「人間に傅き、あまつさえ同族を売るとは! 貴様にサキュバスとしての誇りはないのか!?」
「人の旦那さんに手を出すような人を、同族とは認めません!」
「なっ!? 貴様それでもサキュバスか!」
全くだ。
「ふん、まあよいわ。儂の住処をぶち壊した罪、その身で贖わせてやろう! 下位サキュバスの分際で上級淫魔に楯突いたことを、あの世で後悔するがいい!」
ツバキが手を振るうと一瞬で結界の檻が出現し、それはシトリーの体を完全に囲っていた。固有魔法だろうか?いや、おそらく違う。あれは俺達の知る魔法とは全く別の体系の術だ。
「ふん。我が『八方捕縛陣』は並の鬼神程度には触れることすら能わぬ。ましてや下位サキュバス風情が――」
「はぁっ! 燃えろ、『業炎の右腕』!」
シトリーが魔力を込めた腕を振るうと、頑強なはずの結界は呆気なく突き破られ、そのまま炎に巻かれて消えた。
「……は?」
「ふっ。上級淫魔とはこの程度ですか?」
ツバキは目を丸くして呆然と立ち尽くしていた。無理もない。ツバキの術は素人目に見ても通常淫魔が扱えるレベルのものではなかったはずだ。だからこそ、格下のサキュバスが易々とそれを破壊するなど、あり得ないことだろう。
「き、貴様は一体何なんじゃ? どうやってそんな巫山戯た力を手に入れた? あの魔女に魂でも売ったのか!?」
「いいえ――私に力をくれたのは、ご主人様だけです!」
得体の知れない存在に完全に萎縮してしまったようで、ツバキはその場へたり込んだ。それでも必死に身を守ろうと、自身の前に結界を何重にも張るのだが。当然シトリーは見逃すつもりなどないようだ。
「夫婦の愛を裂くような者は――例え魔王様が許しても、この私が許しません!」
「お主、自分が何を言ってるか……ぎゃーー!」
シトリーの燃え盛る右ストレートは結界を易々と打ち破り、次の瞬間、ツバキの体は盛大に吹き飛んでいた。生け捕りにするよう言われたので、死んでいなければよいのだが。
ところで、今後俺が彼女の言う「浮気」をした場合、俺もあれ位ふっ飛ばされる羽目になるんだろうか。