英雄の過去
「とあるサキュバスの捕獲、ですか」
俺は反芻するように言った。依頼の内容としてはそれほど難しいとも思えないが、救国の英雄であるエレオノーラさんからの依頼が、簡単である筈もない。重要なのは、その真意だ。
「そのサキュバスの情報と、捕獲したい理由を教えていただけませんか」
「勿論だとも。だが、決して口外してくれるんじゃないよ。何せアタシの人生における最大の恥だからね」
そう言ってエレオノーラさんは、訥々と話し始めた。
魔王ギルデルスターンの討伐後。国の再建が進み、日に日に活気付いていく中で、勇者エルヴィン達もそれぞれの生き方を考えるようになったそうだ。そして、エレオノーラさんは結婚という道を選んだのである。
「相手はパーティーの一人、"上位プリースト"のサミュエルだ。真面目で、無口で、退屈な男だと最初は思ったものさ。だがそれから色々あってね。あの朴念仁に求婚された日のことは今でも覚えているとも」
しばらくして二人の間には子供が産まれ、苦労をしながらも何とか上手くやっていたそうだ。だがそんなある日の夜、街中で一匹のサキュバスがエレオノーラさんに話しかけたという。
「はっきり言って雑魚だったから、最初は放っておこうと思ったのさ。だが、そいつがアタシに言ったんだ。『昨日、貴方の旦那さんに抱かれましたの』とさ。恥ずかしい話、当時の私は頭が真っ白になってね。その隙を突いて、そいつは姿を眩ましたのさ」
初めは魔物による質の悪い嫌がらせだと思うようにした。だがどうしても不安を拭えず、彼女は主人を問い詰めたのだ。そして――
「あの亭主は顔面蒼白にして、『すまない』と一言言っただけだった。当然アタシは問い詰めたが、それ以上のことは聞き出せなかった」
当然彼女は激昂した。だがそれでも、最終的には赦したという。
「出産直後の妻を置いて他の女を抱くなど論外だし、亭主がそんな人だとは思いたくなかった。けど仲間の女剣士にも相談してね。一度の過ちには目をつぶろうということになったのさ」
結局のところ、彼女が夫を愛する気持ちを捨てきることは出来なかったのである。この話は二人の間で無かったことになり、その後の家族生活は円満なものだったという。
「そんな亭主も、10年前に逝っちまった。子供達に見守られて、安らかな死に顔だったよ。あの人は善き夫であり、父であった。あの人と結婚してよかったと、胸を張って言える」
エレオノーラさんは遠くを見つめるようにして言った。
「だからこそ、あの一件だけが心残りなのさ。別に亭主を恨んでいるわけじゃない。男なら一度くらい間違いを犯すこともあるだろうと、この歳になれば分かる。だがアタシにはどうしても、あの人がそんなことをするようには思えないんだ。惚れた女の弱みにしか聞こえないだろうけどね」
その時のエレオノーラさんの顔は、伝説の英雄などではない、どこにでもいる普通の人間のものだった。
「勿論悪いのは亭主の方さ。だがあの様子だと本人も相当苦しんだことだろう。結局あのサキュバスと何があったのかは口を割らなかったが、後ろめたいことはあるんだろうさ。それが一体何なのか、それだけを知りたいんだよ」
エレオノーラさんは改めて俺達に向き直った。
「そのサキュバスは『ツバキ』という名らしい。大した強さではないが、とにかく逃げ足が速くてね。おまけに魔法でもない妙な術を使うもんだから、結局アタシには捕まらなかったのさ。そこでアンタ達に頼みたい。サキュバス同士なら情報も手に入るんじゃないか?」
「なるほど。お話ありがとうございました。エレオノーラさんと、夫であるサミュエルさんのためにも、必ずそのサキュバスを捕らえてみせます。シトリー、『ツバキ』という名前に聞き覚えはあるか?」
俺はシトリーに話し掛けるが、シトリーは下を向いて俯いていた。
「……おい、シトリー?」
「……う、うううぅぅぅ」
珍しく大人しく聞いていたと思っていたシトリーは、突如として大粒の涙を零しながら、泣き出していた。
「なんて、なんて切ないお話……! そうですよね、例え愛する人に浮気されたとしても、簡単に切り捨てることなどできないですよね……。何故なら、それが愛というものだから……!」
「シトリー、一体どうした?」
「……分かりました! どんな手を使ってでも、そのふざけたサキュバスをひっ捕らえて見せます! 人の夫に手を出すなんて最低の輩です!」
言っていることは正しいのだが、サキュバス的にその価値観はどうなんだろう。
「私の友達でサキュバスの情報通がいるので、外で通信の魔法をかけてみます! ちょっと失礼!」
バタバタと部屋を出て行くシトリーを、俺とエレオノーラさんは呆然と見ていた。
「……今更なんだがあの娘、本当にサキュバスなんだろうね?」
「落ちこぼれだと言ってましたが、多分あの性格のせいでしょうね」
サキュバスは人間の不貞や堕落を好む存在のはずなんだが。シトリーはどうも恋愛至上主義というか、少女趣味的な側面がある気がする。
そのシトリーが、一瞬で外から戻ってきた。
「ご主人様! 分かりました!」
扉を開けた際、自動迎撃であろう白銀の矢が飛んできたが、彼女は何事もないかのように華麗に回避していた。いや、今の彼女の目には本当に映っていないのかもしれない。
「『ツバキ』というサキュバスは大陸を転々としながら寝床を移しているそうで、今は『アルベージュ大森林』の洞窟内でひっそりと暮らしているそうです! エレオノーラさんに見つかるのがよほど恐ろしいと見えます!」
「……そんな正確な場所まで分かったのかい?」
「サキュバスはテリトリーに敏感ですし、夢の世界を行き来した残滓を追えば位置の特定くらい簡単です! さあご主人様! 今すぐ奴を捕らえに行きましょう!」
「待て、『アルベージュ大森林』といえば大陸の南端じゃないか。どう行っても一週間はかかるぞ」
「私がなんとかします!」
そう言うとシトリーは、俺の腕を掴んで強引に外まで引っ張ってきた。レベル100を超える本気のサキュバスに力で適うはずもない俺は、大人しく引きずられていった。
「今から風魔法『スルーラ』で目的地まで飛びます!」
「『スルーラ』は対象に風を纏って高速で打ち上げる、対空射撃用の魔法なんだが。それを人間に使うって言ってるのか?」
「今の私ならいけます! 勿論ご主人様の周囲には結界を張りますのでご安心を!」
『スルーラ』による射出速度は"機工士"が扱う銃弾並みである。結界で風圧は防げるにしろ、俺の平衡感覚とかはどうなってしまうのだろう。
というか、そもそも大陸を縦断する距離を飛べるとは到底思えないのだが。もはや俺に拒否権など無かった。
「エレオノーラさん、もし俺が途中で死んだらギルドに一報を――」
「はああぁぁぁ! 大いなる風の神よ、我が仇敵を打ち倒すための道標をここに!――『スルーラ』!!」
俺は悲鳴すら置き去りにして、シトリーと共に大空へと打ち上げられていった。
「……若い者はせっかちだねえ」
エレオノーラは嘆息したが、あの二人なら大丈夫だろうと思い、部屋に戻ることにした。