俺の幼なじみが小学生に戻っていた
斜め向かいに住む幼なじみが、小学生に戻っていた。
奈留とは、三歳の頃からのつきあいである。
この区画が新興住宅地として売り出された時、ほぼ同時に引っ越してきた。
双方の母親は、ローン返済のために忙しく働いていた。父親は家を購入したために朝早くから家を出て、遅くに帰ってくる。頼れる親族もいないワンオペ育児にてんてこ舞いの母親同士は、必然、様々な面で協力しあっていた。小学校高学年になるまで、奈留の二歳年下の弟も一緒に、きょうだいのように育った。
俺は小学校五年頃から、学校から帰った後、コンビニで腹ごしらえをして塾に通うという生活を始めたので、奈留の母親の力を借りないようになっていた。
奈留も習い事やクラブや弟の世話で、互いに顔を合わせて連絡しあうことも無くなっていた。
俺が中学に合格してからは、言葉を交わすことすらまれになった。
親同士は仲が良いので、しょっちゅう行き来していたが、遊びに来ても部屋に閉じこもったまま、挨拶すらしなかった。
「ええ? 奈留ちゃん、スカウト断ったの!? もったいない!」
「ね? ひどいでしょ。ママに言って~」
「駄目よ。絶対。ただでさえ、彼氏くんのことでパパがピリピリして大変なんだから」
「可愛い娘も考えものね。うちなんてつまんないわよ。中学生にしてほっとんど話さないんだから」
この頃になると、奈留はもう幼なじみの奈留ではなかった。
足が綺麗なモデル並みの体型で、ニキビ一つない顔にはいつだって笑みが貼り付いていた。
第二次成長期を境に、俺と奈留は真逆の方向へ進んでいくのを感じていた。
奈留の母親の愚痴が二階の廊下にまで聞こえてくる。
奈留は、中学生の時から彼氏が切れたことがなかった。
共働きだから、家に連れ込み放題でしょう。もう、困るのよ。竜也だってサッカーで夜遅いし。もちろん、信じているけど、相手の男の子だって、我慢できないでしょう。小さい頃の方がまだ良かったわよ。
うらやましい悩みだわ。ウチの息子にもそんな心配してみたい。挨拶すら交わさないわよ。大人になったら、普通に会話するようになるって思ってきたけど、ずっとあのままのような気がする。男なんてつまらない。なんのために育てたのか分からないわよ。
あけすけな母親同士の話から、奈留の近況は知ることができた。
もう二度と、永遠に、俺と幼なじみの時間は、交差することはないだろう。
大人になっても俺は無口で無愛想でオタクで、できたら大学を出てからプログラミングの会社入って、パソコン相手に、数字と文字の羅列とともに会話をする。
笑顔と笑い声から遠く離れた場所で、輝いていた、幼なじみと過ごした日々を、たまに夢に見るのだろう。
△△△
そして今日、家に戻ったら、幼なじみが部屋にいた。
「ごめん。勝手に入った」
小学校四年生ぐらいの姿で。
「空いてて良かった。ひーくん、コンビニ行くときに、たまに鍵をかけないで行くじゃない。不用心だって、おばさんいっつも怒っててさ。部屋からひーくんが外に出るのを見て、思わずこっちに来ちゃった」
ひーくん。
その名で呼ばれるのは、いつ以来だろうと、ものすごくどうでもいいことを考えた。
「ひーくん、私、分かる?」
「うん」
それは、分かる。
奈留だった。
小学校四年生の頃の。
俺も、奈留を、避けずにいた頃。奈留も、俺も避けずにいた頃の。
幼なじみでいられた頃の、奈留だった。
「ひーくん」
「うん」
「私、小さくなった……」
泣いてはいなかったが、最後の語尾は、かすれるように細くなって、消えた。
その言葉に、なんと答えていいのか分からず、俺はただ、十歳の奈留を見つめた。
いきなり小さくなった姿を家族に見せることはできないと、奈留は言った。
「病院、連れて行かれて、何かされるかもしれないじゃない。それにうちのママ、絶対パニックになる。なんかもう、ちょっと想像しただけで、とんでもない騒ぎになって、学校とか色々なところにこの状態、バレて、人の噂になるのが、頭の中をかけめぐっちゃって」
奈留の心配も最もだった。
二人で何度も考えたが、これが学校や友達に知られないはずがない。
本当のことは伝わらないとしても、あることないこと、面白おかしく話が広がっていくだろう。
そういう時代であることは、嫌というほど理解していた。
「けど、突然いなくなったら、警察とか学校とか、動くんだぞ。同じ事じゃないか?」
「明日には、戻っているかもしれないじゃない。もう少し様子見る」
「俺がここで、かくまえって?」
「だって、ひーくんしか、頼れる人いない」
奈留は、別に俺を信じてそう言っているわけではない。
今俺の母親が、単身赴任先で入院している父親の看病のために、しばらく不在にすることを知っているからだ。
父は胃潰瘍が相当悪化しており、緊急に手術が必要という話で、仕事の段取りをつけたあと母親は飛んでいった。俺はもう、一週間程度放っておかれても全く平気と思われている。
家族が誰もいない状況を知っていて、奈留が俺の元へ逃げ込んできただけなのは分かっている。
この状態にパニックになりつつも、色々と考えを巡らし、最悪の状態を回避するようにするのが、正しい行動なのかもしれない。
だが、俺も奈留も、不思議と、淡々としていた。
心が、パニックになることを拒否しているような感覚だった。
一度でも乱されてしまったら、もう、このバグを直せないのではないか。
黒い画面に浮かぶ文字の羅列を、どうにかしようと思っても、キーボードに手を乗せられない状態だった。もしも一文字でも変えてしまったら、次から次へと分からない箇所が出てくる。どんどんどんどん、それが無限に増え続けていく。そしてそれを直すことはもう、今の自分には無理なのだと、考えずとも、感覚として分かっている。そんな心境だった。
それが、俺たちに、淡々と、ただ日常を、やり過ごすだけの行動を選ばせた。
「奈留、服ぶかぶかだけど、小学校の時の服ってなかったの」
「あるわけないよ。小学生って、骨格とか、やっぱり小さいんだね。私、思ったよりデブだった? とか思ったけど、子供が小さいんだ」
「何言ってんだ。当たり前だろ」
奈留はケタケタと笑った。
まさか、この状況で笑うとは思わなかったので、俺は少し引いた。
「あはー、懐かしい。その、ひーくんの返し」
懐かしい。
そんな風に、奈留も思ってくれたことに、俺は驚いた。
奈留の、頭から突き抜けていくような笑い方を、俺も懐かしいと感じていたからだ。
その夜、俺はパスタをゆで、レトルトのミートソースをかけたものを、奈留と二人で食べた。
胃に入っていく感じはしなかったが、何とか口にした。
奈留は最初は口にしたが、すぐに止めてしまった。
そのあと二人でバラエティ番組を見て、俺は風呂に入ったが、奈留は入らなかった。
客間に布団を敷こうとしたが、奈留はそれを嫌がった。
「一人で一階に寝るのは嫌だ。ひーくんの部屋に敷いてよ」
十歳の奈留だ。
馬鹿な欲情など、しないと思っていた。
十歳の頃は、奈留にそんな気持ちを抱いた事なんて一度も無かったのだから。
なのに十七歳のおれは、夜に奈留がベッドの下に寝ていると思っただけで、馬鹿な興奮を抑えられなかった。
こんな状況なのに。
奈留は、一睡もしていないというのに。
泣いて、騒いでしまったら、もうバグの連鎖は止められないと、無意識の恐怖に脅えているというのに。
俺は、そんな恐怖よりも、情けない欲情を抑えるのに必死だった。
△△△
翌朝、案の定だが、奈留の家族が俺のところにやってきて、奈留が帰っていないことを告げに来た。
「警察には?」
我ながら淡々とした言葉だと思った。もう少し焦るのが普通なのかと思ったが、なぜかおばさんもおじさんも目がうつろだった。何を見て、何から考えたらいいのか分からないように、視線がさまよっている。
「夜中だったけど、行って、捜索願を出してきたのね。携帯電話でね、すぐに場所は特定できるって言われたけど、あの子、置いてったのね、携帯」
「えっ?」
携帯で居場所が分かることを、俺は全く失念していた。奈留が、それを昨日所持していたかも、確認すらしなかった。俺も昨日は、SNSに繋がるものが恐ろしく、手元から離していた。ネット上で、奈留に関する噂話が溢れ出るのを、見るのが怖かったのだ。
「おかしいでしょう。警察も、それは、携帯を持ち歩かないなんて女子高生の行動として不思議だって、ちょっと今、ネットでトラブルになったんじゃないかって、調べて……」
話が締まらないまま、おばさんたちは去って行った。
これはやはり、全てを晒しても帰った方がいいのではないか。俺はすぐに奈留にそう伝えよう自室に飛び込んだが、奈留は俺を見るなり、言った。
「やっぱ駄目だ。帰れないよ。怖い」
話を聞いていたのだろう。押し入れに隠れているように言ったのに。俺は困り果てて、奈留に頼んだ。
「帰ろうって、奈留。説明するしかないって。噂話が一人歩きするのは、どうにもならない。どんな噂されようがもう同じだって。せめて、おばさんたちを助けてやらないと」
「あたしは助けられなくていいの!?」
ヒステリックな泣き声に、驚いたのは俺よりも奈留の方だった。ヒクッとしゃっくりのような声を最後に口を閉ざし、小学生の、小さい背中を俺に向けた。
「ひーくん。学校行って」
「だって、奈留……」
「学校に行かないと変に思われるよ。早く行って。もしも私が、家に帰る気になったら、勝手に帰るから。鍵は郵便受けに入れておくから」
奈留が携帯を自宅においていったのは、足がつくかもしれないとか、そんな頭が回る話ではなかっただろう。
昨日の俺と同じように、ただ、怖かったのだ。
SNSの世界から、自分が殺されていくのを見るのが。
心配という連絡網の裏側にある、好奇心と憶測という化け物が、もう自分では絶対に倒せない、モンスターになっていくのを、見たくなかったのだろう。
俺もその日、学校で携帯を、時間しか見なかった。
ネットに一瞬も繋げなかった。
そして、その週最後の授業を終えて、家に戻ったときには、
奈留は、五歳くらいの女の子になっていた。
△△△
「奈留。飯、食った?」
「んーん」
奈留は、幼い頃、こんな声だっただろうか。
十歳の時の奈留の声は、十七歳の奈留とどう変わっているのか分からなかった。
だけど五歳の奈留は、明らかに以前と違うと分かるほど、声が高くて細かった。
「でも、さすがに、お腹すいてきた」
ぶかぶかの服をぐるぐる身体に巻き付けて、俺を見上げてくる幼なじみに対し、俺はもう、欲情の欠片も浮かばなかった。
不思議な感情と引き替えにして。
俺が、何とか、守らなければという、思いだった。
世間に何が晒されることになろうと、奈留の思いを大事にしてやろう。そこだけは腹をくくった。
五歳になった奈留を見た瞬間に、それは定まった。
「ねえ、ひーくん」
「うん」
奈留は、精神も幼くなったように、俺の膝の上に乗って、俺に体重を預けながら話した。
十歳の頃は俺に対して警戒を解かなかったのに、今の奈留は、俺を庇護者のように思っているのが分かった。
もはやこの幼い身体では、何もできないと思っているからか、それとも俺の意識の変化に気づいたのか、それは分からない。
パニックになることもなく、静かに、この状況を、二人で過ごした。
直せないバグが、無音のまま、ものすごいスピードで、この世界を侵食していくのを、ただ見つめていた。
「どうしてひーくん、私のこと無視するようになったの?」
細い足をゆらゆらさせながら、幼い声で奈留が訊く。
「奈留が、どんどん可愛くなっていったから」
独り言ですら表に出せなかった思いが、口ずさむように自然と外に出た。
「なあに、それ」
「俺は、お前の彼氏と違って、だっせえ不細工だしさ」
「不細工じゃないよ。うちの彼氏のほうがださいよ。浮気するしさ」
「まあ、男だから仕方ねえよ」
「ひーくんがそんなこと言うなんて思わなかった」
「こじらせてるぶん、俺の方が最低の男かもよ」
「絶対に違うよ」
奈留は俺の背中に手を回して、幼い力で抱きしめてきた。
「彼氏だったら、私を追い出して、すぐネットでこのこと拡散したよ。私を、守ってはくれなかったよ」
不思議なことに、俺は。
その力を、抱きしめられていると感じた。
抱きつかれている、ではなく。
広い腕で、大きな手で、奈留を包み込んでいるのは俺の方だったというのに。
奈留は、
引け目を感じて言葉を交わせなくなった情けない男よりもずっとずっと、
ずっと、強い、女の子だった。
△△△
土曜日の朝。
身体に染みついている休日の朝の習慣からか、俺はその日、十時過ぎに起きた。
下に敷かれている布団から、小さな声が漏れた。
「アウ」
奈留が、赤ん坊になっていた。
窓から見える奈留の家の前に、パトカーが止まっていた。
それを見下ろしていた俺は、カーテンを引き直し、クローゼットからTシャツとトレーナーをだし、布団の上の奈留を抱き上げた。
「汚れちゃったから、着替えような。嫌なら、んぎゃー、って泣いて。でもこのままだと冷たいから、タオルなりなんなりは挟まないといけないよ。着替えが嫌なら、んぎゃーって、言って」
赤ん坊の奈留は、しばらくじっと俺の顔を見つめ、顔をしわくしゃにして笑って見せた。
一瞬でこみあげてきたものを、俺は渾身の力で止めた。
おしっこを漏らしてしまった布団から、奈留を自分のベッドに寝かせ、服を脱がせた。軽くタオルで身体を拭いてから、最初にTシャツを着させた。Tシャツの裾を折り曲げて、足の間に挟み、紐で固定する。トレーナーも同様に裾で足をくるむようにして折りたたみ、袖で巻いた。
「これからも、気にしなくて、いいからな。うんちでもおしっこでもして、当たり前なんだから」
俺は奈留を抱きながら、笑った。
笑った、つもりだった。
ぼたぼたと、赤ん坊の奈留の顔に、涙が落ちる。
「飯、飯、食べよう。パン、かな。パン、なら、食えるかな」
涙が奈留にかからぬように、俺は上を見上げた。必死で抑えても、身体がぶるぶると震える。嗚咽がこぼれる。
馬鹿か、俺は。
俺が、先に、バグってどうする。
奈留は、赤ん坊なのに、何も話せず何も訴えられない赤ん坊なのに、泣き声一つ出さないというのに。
「奈留……」
俺は、一声も出さずに俺を見つめている奈留を、ベッドの上に置いた。
「奈留……奈留、いいんだ。もう、泣いていい。大声で、泣いて、いいから。叫んでいい。外に声が漏れても、それで人が入ってきても、調べに来ても、俺は絶対に、お前を守る。絶対に、何からだって守ってみせる。だから、いい。泣いていい。叫んで、訴えていいんだ」
興奮した俺の涙が、奈留に降りかかる。
無垢な瞳で。
強い、心で。
奈留は、俺に、笑った。
小さく、喉から弾けるような声を出して、奈留は、俺に、笑った。
その小さな笑い声は、
ひーくん。
そう、告げられた気がした。
「奈留……」
情けない、弱い、俺は。
ただ奈留を抱きしめて、ひたすら泣くことしかできなかった。
奈留の小さな手が、頬に触れる。ほんの小さな力しか伝えられぬ手が、俺の涙で濡れていく。
それでも俺は、泣くのを止められなかった。
泣かない奈留を、狂おしいほどの愛おしさの中で、抱きしめていた。
それから奈留は、俺の腕の中で眠り始めた。
俺は、ベッドの上でずっと奈留を抱いていた。
身体は、横にしなかった。壁によりかかって、眠る奈留を見つめ続けた。
これからどう奈留が変化するのか、分からなかった。その瞬間を、見逃すわけにはいかない。腕がしびれ、身体が痛くなってきたが、俺はトイレで用を足す時すら、奈留を離さなかった。飯も食わず、外がどうなっているのか一度も確かめず、ただ奈留を抱きしめ、頬に触れ、小さな寝息を確かめ続けた。
そしてそれは、明け方の一瞬に起こった。
夜も寝ずに奈留を抱きしめていた俺の腕から、ふと、力が抜けた。
自分の腕から力が抜けたのだと思った。慌てて肩に力を入れて奈留を抱き直そうと思ったら、もう、腕の中に奈留はいなかった。
本当にそれは、一瞬だった。
腕の中にあるものがTシャツとトレーナーだけになったあと、俺はしばらく身動きできなかった。
まさか。まさか、存在が消えるなんてことがあるわけがない。
もしかしたら、胎児の状態で、Tシャツの中にあるのかもしれない。俺はトレーナーと、Tシャツを丁寧に調べた。もしかしたら落としてしまったのかもしれない。ベッドの上のシーツも見た。見た。調べた。何度も。何度も。何度も。奈留の痕跡が、ないかどうか、必死で見た。
奈留の身体がどこに行ったのか、俺は分からない。
肉体が、この世界から、消える。
なぜいきなりそんなことが起きたのか、そしてなぜそれが奈留だったのか。
この世界にもしも神というものがいるならば、神にとって、奈留はいらない存在だったのだろうか。
奈留は、この世界のバグだったのだろうか。
異質な記号一つ消えたことで、この世界は成り立ったのだろうか。
奈留の遺伝子は。
あの強く、優しく、美しい遺伝子は、どこに消えてしまったのだろう。
俺の中に、入っていればいい。
俺の皮膚の中に、俺の肉体の中に、奈留という美しい記号が、同化されていればいい。
神は、いつか気づくだろう。
俺の記号に重なった、奈留の記号を。
思うように回らない世の中になったときに、神はバグの原因を見つけ、俺を排除しようとしてくるだろうか。
おそらく俺は、そうなったとしても、少しも動じることはないだろう。
神の野郎、気がついたかと、その時やっと、神に対してせせら笑う事ができるかもしれないが。
幼くなる身体を、やがて消え失せる事実を、受け入れるだろう。
最後の最後まで、奈留の記号を抱きしめながら、同時に無になることを、幸せにすら思うだろう。
俺は、忘れない。
奈留が消えたことで、表も裏でも社会が騒ぎ、人は哀しみ、嘆き、そしていつしか元の生活に戻っていったけれど。
俺は永遠に、失われた記号を、忘れない。
△△△
俺は人に遅れること四年、高校と大学を卒業した。
あれから一切、人と交わらなくなった日々を思えば、四年でなんとか社会に復帰できたことは、上々と言わなければならないだろう。
俺は、高校の時に想像していた将来とは全く真逆の道を進むことになった。
実家からは遠く離れた県の、高校教師の職を得た。
何度目かの転勤後、俺は海沿いの町にある県立高校に赴任した。三十四歳で他県出身の独身に、希望地などない。
「せんせー、結婚しないの?」
「うるせえよ、勝手だろ」
着任しても一ヶ月ぐらいで、俺は生徒らとこんな会話をできるくらいの社会性は身につけていた。
「質問じゃねえなら寄ってくんじゃねえよ」
「先生の授業、進学校レベルで難しいって評判悪いんだよ」
「俺は底上げのためにここに来させられたんだよ。文句よりも質問して?」
女子らを散らすために俺は花壇に向けていたホースを軽く振り回した。きゃー、最低、と甲高い声を上げて女子らが逃げていく。
翻るスカートが気になっていた昔が懐かしい。今ではもう、何も眩しく映らない。近寄りがたいと思っていた存在は、ただの生徒になってしまっている。
それでも、かつて聞いた声を、彼女らに重ねることがある。
十代独特の韻を含んだ声に、どこか、似たところはないか、無意識に探す。
何度も何度も、耳に貼り付いたその声を思い起こす。
彼女らの韻にそれを重ねて、ああ、まだ自分は忘れていないと安堵する。
「ひーくん」
全然意識などせずに、明るく呼んできたあの声。
それでも、奈留。
お前の方も、久々に俺に呼びかけるときに、緊張していなかったか。
ちょっとは、意識していなかったか。
今みたいに。
「ひーくん、って、呼んでも分かる? 先生」
分かるよ。
奈留。
全くお前は、変わっていないから。
あの時の、十七歳の姿のままだから。
俺は、変わっただろうにな。
オッサンになっただろ。
「かっこよくなったから、一ヶ月も、声をかける勇気、持てなかったんだよ。ひーくん、全然私に気づいてくれないし。忘れちゃったのかって、ショックだったよ」
無茶言うなよ。
受け持ちでない生徒の顔なんて、それこそまだ、記号ぐらいにしか見えてないよ。
「ひどいよ。私は、三歳くらいから前世の記憶戻って、ずっとずっと、会いたかったのに」
神は、美しいあの記号は、バグではなかったと気がついてくれたのだろうか。
世界に必要だったのだと、思い直してくれたのだろうか。
この世界は、今、ちゃんと稼働しているのだろうか?
俺が奈留に触れてしまったら、また消えてしまうことはないのだろうか?
俺はもうこれ以上、悪夢を見ないでもすむのだろうか。
いつまで経っても臆病で、世界に手が伸ばせないでいる俺に、高校生になって戻ってきた幼なじみの手が、優しく伸びてきた。




