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道場の片隅で、フーは使われていない竹刀を見定めていた。道場に入り始めた子供が使う、使い古されたものに静かに眼差しを注ぐ。
手持ちの得物がなくなってから、もうしばらくがたつ。
「フー姉っ!」彼女の背中にかけられた荒げた声。道場の師範代を務めるヤンだった。「なんで、あんなものを受けたんですか?」
姉と慕うほどの彼女はかつて、目の前の子供たちのようにここで剣術を学んでいた。
ヤンがこの道場の世話になりはじめたころの話。
彼女が刀を置いたのは、彼が師範代と名乗らせてもらうよりも前の話。
それでも男は、彼女をすぐに手練だと見抜いていた。
「なんでって」振り向かずに彼女は答える。「あんなに血走られたら、困るでしょう?」
「そんなこと言っても」少年は目を伏せた。「フー姉に何かあったら」
「そのときは、手助けしてね。師範代」
振り向き、ヤンと対面したフーの手にはひとふりの竹刀がにぎられている。手元で軽くしならせ、風を切るとふたつ、頷いた。
「うまく相手ができればいいな」
得体の知れない男と戦う。そのための僅かなときでさえ、彼女は普段通りの口振りだった。
涼やかな笑みを浮かべる彼女を前に、あぁ、そうだ。と、ヤンは思いだした。
姉と慕う彼女が、負けた姿をみたことがない。
***
「ほぉ。まさか、本当にやってくるとは思わなんだ」
道場破りは、竹刀片手にやってきたフーに気持ち悪いほど滑らかな笑い方をした。
「手練と褒められてしまいましたから」
フーは柔らかい調子を崩さない。構える真似も見せない。
「ご指導いただけましたら、光栄です」
「ただ、得物は考えたほうがいい。それで、オレに立ち向かおうとでも思っているのか?」
「余興、ですから」
フーの握る竹刀は、明らかに丈が短い。
子供が使うような竹刀。
こじんまりとした佇まい。彼女の体躯では振り抜くことができる精一杯の大きさではあるけれど。
しかし、それは傍目からは子供だましにしか見えない。
「そこまでされたからなあ」
あぐらをかいた男はおもむろに立ち上がる。
「ちゃんと相手をしなきゃあ、ならなくなっちまった」
服から落ちない、砂がまだらな模様を描く。
ざんばらに切り揃えていない髪からのぞく瞳は、鉄を溶かしたようにドロドロと光っている。
節くれだった、手足は死神のように。
男の放つ歪な迫力に包まれたかのように、静まり返る。
それなのに、いつものように振る舞う彼女。
ヤンはハラハラとした様子を隠すことができない。
フー姉が、敗れるとは到底思えないけれど。
彼女の腕が落ちていなければ。
「連れ合いが戻ってくる前の一興になれば、いいなと」
彼女は構えない。
だらんと子供用の竹刀を下げたまま、相対する。
男は、鞘から刀を抜いた。
刀が緩く、半円を描き、目の前で構えられる。
ゆっくりとした所作が逆に迫力を増す。
刃先が、にんまりとフーの顔に向けられる。
「話が違うぞ!」
「小僧は黙っておきな。俺は道場破り。一つ一つの戦いに真剣だ。余興に巫山戯て戦うのは失礼だろう」
一目見るだけで重さを感じさせるような紋のうねり。
陽光が降り注ぐわけでもないのに、僅かに降り注いだ光が乱れたように反射する。
「さあ、殺ろうぜ」
そう、誘われて、初めて。
フーはゆっくりと竹刀を正面に構えた。
久しぶりに構える所作。
肩の力が抜けた自然な構えに、まるで水の中に飛び込んだかのように静まり返る。
彼女は微笑っている。