凡人転移
「先日、二月十四日に二十二名の新宿区民が一斉に姿を消していることが判明しました。頻発している集団失踪事件もこれで十件目となります。この不可解極まりない事件に警察も……」
朝からまた物騒なニュースやってんなぁ、なんて思いながら制服姿でトーストを頬張る。さくさくとした食感を味わい終えると用意済みのバッグを肩にかけ玄関へと向かった。
赤戸と書かれた標識の家を出て、いつもの住宅街をあくびをしながら歩いていく。一限目の数学に憂いを帯びながら行く道は代わり映えのしない退屈な風景だ。
いつもの交差点、いつもの曲がり角にいつもの猫。いつものペストマスク男。
「……は?」
いくつものいつもに紛れたひとつの異常。それにあっけにとられた俺はつい間抜けな声を出してしまう。
大きなハットに捻くれた杖、白いコート。それら特徴的な衣装を身につけていて尚、そのペストマスクには目を引きつけてやまない異様さがあった。
なんだあれ…… コスプレか?
俺はあまりの異様さに感覚がマヒしたのか、「あっ、すいません……」なんて会釈をしながら脇をすり抜けていく。
通り抜けたあと自身のした行為の危うさに気づき、怖気づきながらちらりと後ろを振り向いた。しかし、あのペストマスクマンは何事もないように俺に背を向け、立ちすくんだままだった。
なんだったんだよ一体……
何事もなかったことに安堵した俺は下を向きながらため息をつく。
オォォォオオォォォオォォォォ……
――瞬間、声が聞こえた。いや、あれは声なんかじゃない。何かおぞましい怪物の鳴き声のような、体の芯を冷やすような低い音だ。
その音の出処を探るため後ろを振り向いた俺の目に映ったのは、遠吠えを上げるように真上を向いて音を発するあのペストマスクマンの姿だった。
やばい。危機を感じた俺はバッグを抱え走り出す。
よくわかんないがあそこにいちゃまずい。本能が叫ぶ。
しかし、全てはもう遅かったのだ。そう思うほどに早く俺の体に異常が走った。走るために踏み込んだ足はじめんに縫い付けられたかのように動かないし、バッグを抱えた腕だって全く力が入らない。
身体の自由を奪われたことに恐怖を覚えるより早く次の変化が現れた。それは感覚の消失。視覚、聴覚、嗅覚に触覚。それらの感覚が薄らぐように消えていく。
変化の連続に俺は驚愕し、焦りで何も考えられなくなる。無闇矢鱈に身体を動かそうとすれど、コンクリに埋められたかのように全く動かせない。
そして、視界は完全に闇に落ちた。それと同時に身体を浮遊感が襲う。
比喩的に落ちた視界とは別に、体は物理的にどこからか落ちている。そのことにまた俺は恐怖するが、その浮遊感は足に感じたふんわりとした感覚と共に霧散した。
知らず知らずのうちにギュッと閉じていたまぶたを開けると、闇に慣れた目に痛いくらいの光が差し込んできた。
しばらくしてようやっと光に目が慣れた俺は、辺りの風景の異変に気づく。先程まで民家が立ち並んでいた周囲には直径二メートルほどもある太い樹が幾本となく生えていて、その太さに見合うだけの高さに樹冠を形成している。
巨大樹の森。
そう表すべき森の中、ぽかんとできた樹幹の穴から木漏れ日がさし芝生のような草が生い茂る。そんな場所にぽつんと立たされていた。
「え……?」
変わり果てた周囲の風景に本日二度目の呆気にとられた俺は、これまた二度目の間抜けな声を出した。
ぐるりと周囲を見渡せど、草むらに面している巨大樹とその先十メートルほどまでしか確認できない。濃い樹幹に空が覆われ、光が遮られているからだろう。
そんな自身の置かれた状況に俺は更に困惑し、思考は空回りしていく。
「あ、これ夢だわ」
結果、現実逃避にも等しい理解へと逃げ、心を落ち着かせることになる。
うん。それなら納得がいく。そもそもこんなファンタジックな森、夢以外でありえない。
それにしては朝食べたトーストの触感や味、頬を撫でる風がリアル過ぎたが、意識がばっちりある状態で見る夢もあるのだろう。
そう考え思考を落ち着かせる。
グルルゥ……
しかし、次の瞬間背後から聞こえた動物の唸り声に、俺の思考はまた困惑の渦に飲み込まれることになる。
壊れた機械のようにぎぎぎと首だけで後ろを振り向く。そして俺の背後、巨大樹の幹から体を現したのは茶色い体毛に覆われた体高三メートルもあろうかという巨大グマだ。
「うわあああああああああ!!」
一瞬で恐怖に埋め尽くされた俺は、情けない叫び声をあげながら走り出す。普段運動なんてやらないせいでフォームも何もない不格好な走り方で巨大樹の森へと入っていく。
巨大な体を揺らして俺を追いかけるクマは、巨大さに見合った足の速さを見せる。俺との距離はすぐに近づいてしまった。
眼前に迫ったクマが長く鋭い爪を振り上げる。俺は体を守るように細く弱弱しい腕を顔の前に挙げる。
そして、クマは俺めがけてその爪を振り下ろ―――
「遠斬・二式」
せなかった。
どこからか飛来した不可視の斬撃により、長く鋭い爪は太くたくましい腕ごと斬り下ろされてしまったからだ。
そして、再度聞こえた斬撃の風を切る音と共に、クマはその恐ろしい顔を切り裂かれ、地に倒れ伏した。
「なっ……!」
驚きながら斬撃と共に届いたつぶやくような声の方へ顔を向けた。すると、そこに映っていたのは袴を身に着け薙刀を担ぐ、紫に光るオーラをまとった女性の姿だった。
「ふぅ。大丈夫かい? 少年」
うなじ辺りで一つにまとめた髪に凛とした顔つき。そんな真面目そうな雰囲気に似合わず、活発そうな印象を受ける笑み、そして何よりざっくりとした口調。そんなちぐはぐな雰囲気を持つ女性は、身にまとったオーラを消すとこちらに歩み寄ってくる。
「え、えっと……? あ、ありがとうございます」
突然のことで完全に脳がオーバーフローした俺はわけもわからずお礼を口にした。
「はははっ。どーいたしまして。とりあえず怪我とかはしてないみたいだねぇ。ま、多分来たばっかでわけわかんないとは思うけど、とりあえずついてきてもらえるかい?」
「あ、はい」
状況についていけてないがとりあえず素直に頷く。ないとは思うが断った瞬間薙刀でばさり、なんて嫌だからな。
「よし。じゃあこっちだよ」
そう言って腰まで伸びた髪を揺らしながらひらりと翻った。すたすたとかっこよく歩く後ろ姿に一瞬見とれてしまった俺は、離れていく背中を追うため早歩きで歩き出す。
「あ、あの…… 結局これはいったいどういう状況なんでしょうか?」
森の中を行く背中に追いつくと、混乱する頭を働かせて状況を理解することにした。
「最近ニュースでよく見かけたろ? 集団失踪ってやつ」
そう言ってため息をつくと、警戒したように周囲を見渡しながら話し始めた。
「あたしらはそれの被害者なんだと思う。あぁ。そういえば他のやつらが言ってたな。これは異世界転移だって」
「異世界転移?」
異世界転移というと最近アニメでやってたあれか。大分評判は悪いらしいが。
「そう。あたしらは何らかの手段でここ、異世界に飛ばされちまったらしい」
おうむ返しで聞いた俺に少し笑うように答えた。
「確かにこんな森やらあんなクマやらはいませんもんねぇ」
「あぁ。ただそれだけじゃない」
「え?」
納得したように呟いた俺に、かぶせるように話し始めた。
「魔法だよ、魔法。さっき見たろ? あたしが撃ったヤツ」
そう言われ自身の記憶を遡る。
そうだ。そういえばそうじゃないか。あの時俺を救った攻撃は飛ぶ斬撃、少年漫画チックな不思議パワーだった。
「そういえばあれは…… あれ? でもあの…… 集団転移の被害者ってことは貴方も日本人ですよね?」
「ははっ。あたしは園部 八重。生粋の日本人さ。そういえばそっちの名前も聞いてなかったね」
途中で名前がわからず詰まったのを察したのか、さらっと名前を教えてくれた。園部にしろ八重にしろ古風な名前だなぁ、なんてくだらない感想を抱きつつ、自身の名前と共に後半の言葉でさらに深まった疑問を言葉にする。
「赤戸です。赤戸 圭。それで、だったらなんであんな……」
「あぁ、キミ…… ケイもすぐにわかると思うよ」
「え?」
いたずらっぽい笑みと共に答えた園部さんに、俺はつい気の抜けたような声を上げてしまった。そんな俺の姿がおかしかったのか声をあげて笑い始める。
「……ふふっ。ま、それは後でのおたしみってことで。さ、ついたよ」
笑いを抑え勿体付けると、半歩後ろを歩いていた俺に振り向き、手で巨大樹の一本を指し示した。
しかし、俺にはその木が他の木と同じものにしか見えなかった。確かに他の木より若干太い木はするが、それだけが理由で俺をここまで連れてくるとは思えない。
「園部さん。この木が一体……?」
「八重でいいよ。この木はあたしが寝床にしてる所でね。ちょっと隠してあるからわかりづらいと思うけど、ここにでっかい洞うろがあるのさ」
そう言ってうねる巨大樹の根っこに覆いかぶさった草をどかす。すると、しゃがめばギリギリ人一人通れそうな穴が出てきた。
「ちょっときついかもしれないが付いてきてくれ」
その言葉に従って四つん這いで進むヤエさんの後ろについて行く。木の洞にしては長い穴をしばらく行くと、出た先は何と石造りの螺旋階段だった。もうわけがわからない。
人三人くらいは並べそうな広い階段が下へと続いている。明らかにあの木とのサイズ差がおかしい。
さっきから不思議ワールド全開な感じで俺はさっぱりついて行けません。
「驚いたろ? こんなんが他にもちょこちょこあるんだぜ」
「ファンタジーな世界観ですねぇ」
「それじゃこっちだよ」
呆れっぱなしでそんな感想しか出てこない。
そんな俺の反応が面白いのか、口に笑みを浮かべながら促すように言った。俺はそれに頷くと階段を降りていく八重さんを追う。
コツコツと石畳をローファーがたたく音が響く。
光るコケによって照らされた螺旋階段を降りていく。
――突然、心臓に強い衝撃が走った。
喉奥から何かが駆け上がる感覚がしたかと思うと、口から鮮やかな血が吐き出される。
吐き出された血と共に俺の意識が抜けていく。
「……早いな」
暗転する視界の中、驚いたように呟いた八重さんの声だけが響いた。