短編:蒼碧の街
「ダヤン!まってってば!そんなに速く走ったら落ちちゃうよ!」
前方を走る8歳ぐらいの少年はひょいひょいと人二人通るのがやっとの足場を駆け抜け、あっという間に見えなくなってしまった。
私はため息をついて壁にもたれかかる。
少し強い風が吹き、私の髪をさらさらと鳴らした。
「いやー、今日もいい天気だ。こんなに空が澄んでても、下界は見えないんだよね」
そう言って私が見渡す先には、どこまでも広くどこまでも蒼い大空が広がっていた。
***
フィー=シーン。それが私たちが住んでいる島の名前だ。
空の真ん中にぽかんと浮かぶ巨大な島。
おとぎ話で語られるくらい昔から浮いている。
一日あれば歩いて一周できるくらいの大きさの島に3万人ほどの人が住んでいる。
その中でも私たちはあまり身分が高くない。
お金がたくさんある商人やえらい司祭様とかは中心部の地面がしっかりとしていて雨や風の来ない城下町に住むことができるけど、私たちののような普通の市民は島の大地にぐるりとめぐらされた外壁に住んでいる。
分厚い壁をくりぬいた部屋と部屋をつなぐ足場の下には青空が広がっている。
内地に買い物に行くと内地の知り合いに今にも落ちそうで怖くないかと聞かれる。
そんなわけはない。
風が吹き抜けるこの足場の上が私たちの遊び場だからだ。
私たちは足場の穴を飛び越え、駆け抜ける。
風の子供だ、と大人たちが私たちを指さしいうたびに私の心は喜びに震えた。
足場の中でも特に高いこの足場(私は勝手に風の踊り場と呼んでいるが)は私のお気に入りの場所だ。
さっきまで追いかけていた親戚のダヤンはきっと内地へ遊びに行ってしまって、もう追いかけても見つからないだろう。
どうせ見つからないのなら、と私は腰を下ろし足の下の空に目を向けた。
しばらくそうしていると風の踊り場に上る階段から軽快な声が聞こえてきた。
「よっ!またここにいたんだ。ヤンおばさんが料理作るのを手伝えって言ってたよ」
「いいのよ。どうせまた『新作のお菓子』を味見させられるにきまってる。自分では食べようとすらしないのに。あのどろどろのゼリーをまた食べたくなったんだったら私の代わりにエイコフが行ってもいいわよ?」
私がそういうと幼馴染の少年は笑いながら私の隣に腰かけた。
ライトグリーンの瞳にも、青い空がうつった。
「ねえ、エイコフ」
「なに?」
「この空の下ってさ、何があると思う?」
「またそれか。おばあちゃんは大昔にフィーの町はもっと大きな大陸の一部で、それが浮かび上がって今の島ができたって言ってる。僕はこの島より大きなものがあるとは思わないけどね」
「私はきっととっても大きな地面があってみたこともないような景色が広がっていると思う」
「飛行機が発明されたら、飛んでいけるかもしれないけどな。内地の研究家はそういったおとぎ話みたいなことは研究しないからなあ」
「もし、飛行機が発明されたら、そしてそれが巨大な大陸につながっているとしたら、エイコフはその飛行機に乗って遠くへ旅をしに行きたいと思う?」
「とっても楽しそうだけど、まずありえないし僕は今の生活で満足だから。両親がいて妹がいて友達がいて、それと君がいて。君だってこの場所の風が好きだからここにいるんだろう?」
「そうよね。ぜいたくを言っても仕方がない。うちの親なんて・・・・・・」
私が言いよどむとエイコフが少しすまなそうな顔になり、何か言いそうになって、やめた。
少しすまないことをしたと思う。
両親が行方不明になってからもう1年と少し、一人暮らしにも慣れてきた。
両親と過ごした記憶ももう思い出になってしまった。
その一方で下に落ちていった人は下にある豊かで広大な土地で幸せに暮らしているのだ、という祖母から聞いた昔話をいまだに信じている自分もいて、両親の話をするときは今でも少し顔が引きつってしまう。
急に心の奥からこみあげてきた、さみしさと懐かしさの入り混じった気持ちを振り払うと、エイコフに笑顔を向ける。
「あ、なんか気を使わせちゃったかな?あんまり気にしてないから。ほら、今日は天気もいいしナサカバザールにでも行こう!バーフェおじさんがお店を出してるかも」
「う、うん。僕も買いたいものがあったんだよ。たぶんお金も余るしおごろうか?」
「そういう魂胆で言ったんじゃないって。まあでも今回はおごらせてあげるわ」
ははは、とエイコフが笑い、それにつられて私も不安を笑い飛ばせた。
いい友達を持ったものだと思う。
立ち上がりざまに空を見上げると太陽はもう真上に来ていて、明るく輝いていた。
ナサカバザールはこの島でも一二を争うほど大きな大通りとそこに集まる色とりどりの商店によって構成された内地の一番外側にある外壁(またはその近隣)に住んでいる人向けの商店街だ。
そこの中でもバーフェおじさんの経営するマンモンタルト(香草で焼いたマトイというヤギの一種の肉を生地で包み蒸した肉まんのようなもの)はぜっぴんで、私たち外壁の子供たちはその安さもあっておやつとしてよく食べに来ることがある。すっぱくて少しだけ辛い香草と、あまめでうまみの強いたれが本来は臭みが強く筋張っていて食べにくいマトイの肉をおいしくしている。本来は晩のおかずにも見ないような高級な肉料理を私たちがおやつに食べられるくらい安くなっているのはこれのおかげだ。
大人気のその屋台は夜は飲み屋として行列ができるが、昼間は火事が終わりほかの主婦としゃべりにくる主婦や、もしくは私たちのようなまだ仕事についていない若者のたまり場となっている。
今日は特にすいていたため私とエイコフはマンモンタルトをそれぞれ頼むとバーフェおじさんのいるカウンターの前の席に座った。
「んま。この味ならもっと内地で営業しても通用するんじゃない?」
「ありがとう。でも、内地じゃこんなのはおやつにすらならないよ。マトイの肉なんて犬のえさにさえならないと思ってるだろうね」
「それをこんなにおいしくしてるのがすごいって言ってるんじゃん。
満足顔でマンモンタルトをほおばると香草の香りとソースのうまみが鼻を通り抜けて外へと抜ける。
少しマトイの肉は堅いのだがしっかりと煮込まれているためあまり気にならない。
隣で私のものよりも一回り小さいマンモンタルトをほおばるエイコフも満足な顔をしていた。
「で、バーフェおじさん。最近内地はどう?今年は曇りの日が多くて不作が続いてるって話だけど」
「いや。全然不作なんかじゃないぞ。単なる内地のお偉いがたのでっち上げさ。ここだけの話・・・・・・だれにもいうなよ?内地じゃ新しい脱穀法が完成して今までよりも柔らかくておいしいパンが焼けるようになったらしい。ただ、その脱穀法を使うと同じ量の小麦でも二割ぐらい少ない量の小麦粉にしかならないんだそうだ。結果今までの小麦の量じゃ足りなくなっちまったってわけだ」
「でもエイコフのお母さんはまた小麦が値上がりしたって文句を言っていたわよ?それにその新脱穀法で作ったパンもパン屋さんですら見たことないし」
「腹立たしいことだが、内地じゃ誰もがおいしいパンが食べたくて新しい脱穀法での脱穀ばかり行われているんだ。そのせいで小麦が品薄になってそのとばっちりで外側の小麦まで高くなってる。きっと元の脱穀法には戻そうとしないだろうから、うちのタルトもこの価格では・・・・・・おっと。こんなこと君たちに話しても仕方がなかったね。まあ、いろいろと大変だってことだよ」
「そう、なんだ。ごちそうさま。とってもおいしかった。また来るね!」
さあいこう、とエイコフに話しかけようと隣を見るとエイコフは何か真剣に考え事をしているようだった。
エイコフの後ろには少し傾きかけた太陽が通りを照らしていた。
***
「ふう、久々に思いっきり遊んだような気がする」
「いやあ、僕も疲れたよ。ちょっと『風の踊り場』で休んでいこうよ。まだ夕食まで少しあるしね」
二人でまた風の踊り場に腰掛ける。
朝方は吹いていた風は少し強さを増し、壁の隙間に渦巻いてひゅうひゅうと音を鳴らす。
目に染みるような夕日がいつの間にか出ていた雲に照り返してまぶしかった。
私は夕日がきれいだったからか、なぜか少しさびしいような気分になりしばらく何もしゃべらないでいた。
エイコフも同じだったかはわからないがしばらく私たちは何もしゃべらずにただじっと夕日を見つめていた。
じりじりと沈んでいく夕日はとうとう雲の海に半分ほど埋まり、あたりがほの暗くなってきたところで私はやっと家に帰らなくてはと思い立ち上がる。
エイコフも立ち上がると軽く伸びをし、私の顔をみてにっこりと笑う。
「さて、帰ろうか。またげんこつを食らいたくないだろう?」
「そうね。ちょっと遅れただけで怒るんだから。ほら、家まで競争!」
ぴょんと風の踊り場から足場へ乗り移るとそのままぴょんぴょんと足場を渡っていく。
少し立ち止まって後ろを見るとエイコフはまだもたもたと慎重に足場を降りていた。
しょうがないなあとため息をつきエイコフのほうへと戻ろうとした。
その時だった。
ひときわ強い風が下からめくるようにふきあげ、エイコフは体勢を崩した。
そのままあっ、という短い声だけを残して落ちて行った。
***
食べ物はそこそこの量を持った。
昨日から一睡もしないでエイコフを探しているエイコフの両親には悪いが、心配するなと書置きを残してきたので平気だと思っておくことにする。
私はいつも通り風の踊り場のふちに腰かけて下をじっと見つめていた。
いつ振りだろうか、こんなにも空が怖いのは。
それでもエイコフを探しに行くのだと心に決めたからには引き返すわけにはいかなかった。
もう、私が本当に信頼している人間はエイコフかいなかったのだから。
勇気を振り絞って両手で体を空中へと押し出す。
臍の下を引っ張られるような落下感とともに急速に雲海が迫った。
雲を抜けた。
私は目を見開いた。
胸の中からはさっきまでの悲しみは掻き消え代わりに感動と興奮で満ち溢れた。
みどりの木々で覆われ、上空には見たこともないような鳥たちが悠々と舞っていた。
大陸は本当にあったんだ。
私の目の前にはどこまでも碧の大地が広がっていた。