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侍ファンタジー

作者: 野黒 鍵

 一艘の小舟が海岸に流れ着いた。

「ん? どこだ、ここ」

漂着の衝撃で目を覚ました和装の青年、藤堂春馬が身体を起こし辺りを見渡す。終わりの見えない海岸線。視線を上げれば雄大な山々が連ねていて、高く険しい山の頂上は雲にかかって見えない。海岸から山々を結ぶのは、どこまでも広い草原や森。

 「こんな自然、俺の国にはないよなあ」

独り言を言いながら春馬は船から降りる。

 今まで見たこともない自然がある、ということはここは外国? 春馬の国である『倭の国』の全てを見て来たわけじゃないので一概には言えないが、自分の国では感じたことのない雰囲気がある。これが噂に聞く『南蛮』という所なのだろうか。

 そんなことを考えながら春馬は船に乗せていた唯一の荷物である『和傘』を取り出そうとするも、足がふらつき小舟へと寄りかかる。もう何日も食事を口にしていたかったからだ。倒れそうになるのを何とか踏ん張り、乱れた『着流し』を正して和傘を杖代わりにして歩みを進める。体を動かすと視界も悪くなり、ぼんやりとしか見えなくなって来ていた。空腹で頭も働かなくなって来て、考えることも止めた。ここが倭の国でも外国でもこのまま何も食べなければ餓死してしまうだろう。

 残された力を振り絞り辺りを見渡すと悪い視界でも町らしきものが見えた。

 「とりあえず何か食わないと……」

よろめく足取りで春馬は町へと向けてゆっくりと歩き出した。

「死に損ねた命だからな。こんな所で餓死するわけにもいかんだろう」

諦めそうになる気持ちを奮い立たせ、重い足をなんとか動かす。

 ただ町に着いても危険はある。ここの国の人間からしたら、外国人となるのは春馬である。追い出されるか、下手すれば捕まることもあり得る。

 まあ、その時はその時だろう、と割り切ることにした。結局、町で何かを口にしなければ、どちらにしても死んでしまうのだから。

 視界が霞んでいるからだろうか、結構歩いたつもりだったが町はまだ遠かった。

 「ピギャー!」

形容しがたい声が森の方から響いた。それは鳥のような気もするが、こんな大きな声で鳴く鳥を春馬は知らない。外国には変わった動物もいるんだなあ、と春馬は思い歩みを進める。今、この状況で未知の動物に襲われたらひとたまりもない。戦うのはもちろん、走って逃げる力も無い。森が住処なのだろうか。森には近づかないようにしようと心に留める。

 町は森から離れているが、少し焦りを感じつつ気持ちだけ急ぎ足で町へと向かった。


 無心で足を進め、やっと思いで町の入り口に辿り着いた。目の前はぼやけていて良く分からないが聞こえて来る声から活気のある町であることが分かった。これくらいの町であれば飯屋の一つでもあるだろう。微かに感じる匂いを辿って飯屋を探す。

 「これは香辛料の匂いか……」

南蛮渡来の香辛料を使った炒め物は妹の桜も良く作ってくれていたな、と春馬は思い出していた。いつも仕事が終わって家に近付くと香辛料の匂いがしていた。服装や格好は南蛮物を好まない桜だったが、料理は南蛮物を好んでいた。

 桜を思い出していると、ふと力が抜け立っていられなくなった。家路を思い出し、気が緩んでしまったのだろう。

 こんな外国の地で果てることになるなら桜の眠る土地で死にたかった、と願うのは身勝手なことだろうか。まあ、身勝手だろうな。そう思いつつ春馬は意識を手放そうとした。

 「アンタ、なにこんな所で寝てんの? 営業妨害なんだけど」

強気な女の声が春馬に聞こえて来た。そうかここでは邪魔になるか、と体を起こそうとする春馬だったが、力が入らず少し身悶えするのが精一杯だった。

 「悪いな。見ての通り動けん……」

身悶えすることを止め、力を振り絞り春馬はそれだけ答える。

「怪我してる、って訳じゃなさそうね。アンタ行き倒れかい?」

声の主は春馬を様子を覗っているようだった。

 「ここが料理屋って知っての嫌がらせ? ここでアンタが餓死でもしたら悪い評判立つんだけど?」

どうやら声の主は飯屋の者らしい。人が言い返せないのを良いことに好き勝手言っているな。少し腹が立って来たが、立つ腹は空っぽだった。

 言い返すことも出来ない春馬は考えた。 もういい、ここで餓死することで目の前の女に対して一矢報いてやろう。そう決意して春馬は目を閉じる。その顔は穏やかで、まるで布団で眠るようだった。

 「ちょ、ちょっと! なに覚悟を決めた顔して目を閉じてんだい!」

女は驚いた様子で声を荒げていた。

 ふん、慌てているな。いい気味だな。……ちょっと大人げない気もするが。

「まったく、しょうがない男だねえ!」

怒った声が聞こえたかと思うと同時に、女は春馬を引きずって店内へと連れて行った。

 あれ、もしかして怒らせた結果、俺は飯屋の食材にされる? 俺の国では人間を食べる文化は無いが、外国しかも南蛮ならやりかねない。南蛮の蛮は野蛮から来ているのだから!

 せめて首からはねてくれと願うのは、自分が元武士だからか、と春馬が考えていると、どこかに座らされていた。体を起こす力もなく、目の前の机に突っ伏していると目の前から香辛料の効いた良い匂いがして来た。桜の影響で春馬も南蛮の料理が好きになっていた。食欲に導かれるまま視線だけ上げると、目の前には美味しそうな料理がいくつも並べてあった。

 なんだ、飯屋特有の嫌がらせか、と思っていると

「さあ食べな!」

と、思いがけない言葉が掛けられた。

 視線だけ声の主に向けると腕を組んで偉そうにしている雰囲気だけは感じた。にこやかに笑う表情からは嫌味は感じなかった。ただ、腹の空いた男に飯を食わせてやろう、という優しさだけがそこにあった。

 だが、それが純粋な好意や親切であったとしても、春馬はそれを受ける気はなかった。過去の出来事が春馬を人間不信にさせ、誰かに借りや貸しを作るのは嫌になっていた。

 ――他人に関わると碌なことがない。情けを掛けられるくらいなら死んだ方が良いとさえ思う程だった。

 だから春馬は目の前にある料理を黙って見つめて、そして口を開いた。

 「いらん……」

春馬はそう一言だけ呟いて再び突っ伏した。

「はあ? 金なんて取らないからさっさと食べなさいよ!」

女に言われて気が付いたが、春馬は金を持っていなかった。そもそも飯屋で食事を取るなんて、食い逃げでもしない限り無理な話だったのだ。もちろん春馬に食い逃げなどする気は無かった。

 「他の誰かにやってくれ……」

それだけ口にすると、ふらふらな体に鞭を打ち、残された力を振り絞って立ち上がろうとした時だった。女は春馬の頭を押さえつけ、立ち上がれないようにした。

 「一度出した飯はそいつのもんだ。それを誰かにやるなんて許さないよ。アンタが選べる選択肢は二つ。一、飯を食う。二、アタシに捌かれる。さあ、選びな?」

 頭を押さえつけつつ顔を近づかせて女は不敵に笑った。それなら春馬が選ぶ選択肢は後者だ。借りを作るなんて考えられない。

「じゃあ、一思いにやってくれ」

春馬は残された力を使って体を起こし、顔を下に向け首を見せる。さあ、ここを狙ってくれと言わんばかりの姿勢を作り、振り下ろされる一撃を待つ。

 「バカなこと言ってんじゃないよ」

春馬を襲ったのは女による平手が後頭部に直撃した痛みだった。

「そこは飯を食うことを選ぶ所だろうに」

女は呆れた様子で春馬に声をかける。

「……」

それに対して春馬は無言で答える。自分は何があっても情けは受けない、と意志を表していた。

 ――ぐう、と腹の音が鳴る。

 黙って頭を下げる春馬だったが、その顔が朱に染まる。目の前に美味そうな飯が並んでいるのだ。腹が鳴るのも仕方ないだろう。

 「腹が減ってるんだろう? 何を意地になってんだい」

自分を思って飯を作ってくれたのだ。理由くらい話すべきだろう。そう思った春馬は下を向いたまま口を開く。

「……借りは作りたくない」

そうこぼす様に春馬は呟く。

「はあ、何を言ってんだかねえ。店の前で倒れられた時点で、こっちは迷惑してんだ。その時点でアンタはアタシに借りがあるんだよ。それを今更借りを作りたくないだって? それならもう手遅れってもんよ」

 言われてみればそうかもしれない。迷惑を掛けたのなら、それはもう立派な借りだ。その相手が飯を食えと言っているのに逆らうというのは、ただの我儘だろう。

 「そうか。そうだったな……だが、借りは返すからな」

春馬は出された飯を食うことに決めた。ぼやける視線で箸を探すが見当たらなかった。代わりに大きな匙が目に付いた。そうか、南蛮では匙を使って食事をするのか、と思い匙を手に取り平皿に盛られた米を口へと運ぶ。

 口にしたことのない料理だったが、南蛮の香辛料がどこか懐かしかった。


 腹も膨れ、体に元気が戻って来た。頭も回るし視界も良好になっていた。店の壁は春馬の知っている木製や土や砂ではなく、均一な形の石が積み上げられた物であった。外国では石造りの家なのか、と春馬が関心していると女に声を掛けられた。

「アンタ、難しい顔してご飯食べるのな。作り甲斐ってのがないねえ」

溜め息交じりに女主人はそう愚痴をこぼした。

 飯を食いながら考え事をするのは昔からの癖だった。桜にも「兄さんは表情を変えずに食べるから美味しいのか不味いのか分かりません」と良く小言を言われていた。

 「すまん、妹にもよく怒られていたが、どうにも直らなくてな」

そう言って女へ視線を移すと、その姿に春馬は驚いた。女は金色の長い髪を持ち、顔立ちは彫りが深く色白の肌。そして一番春馬の目を引いたものは長く尖った耳だった。南蛮人の鼻は高いと聞いていたが、こんなにも耳が長く尖っているなんて聞いたことがない。それに服装も薄く、肌の露出も多く飾りの付いた服を着ていて、服装だけでも異国の人間だと分かる。少なくとも倭の国ではない。

 春馬の表情を見て女は笑っていた。

「なんだい、『エルフ』を見るのは初めてかい?」

「えるふ?」

春馬は女主人の言っている単語を認識出来ず発音もおかしかった。というよりも『エルフ』という言葉を春馬は知らなかった。

「やっぱり。アタシ達はエルフって種族なのさ。この耳や髪の色が特徴さ。他の特徴としては、そうだね。アンタ達ヒト種と比べると長命ってところかな」

「ヒト種? お前達は人間を種類で分類しているのか?」

「何言ってんだい? アタシ達は人間じゃなくてエルフだってば」

「う、うん?」

 会話が噛み合っていなかった。言葉を話し、二本足で立っていたので春馬は女を人間だと思っていた。だが、『エルフ』というのは人間ではないらしい。南蛮人以外にも外国には人間、いやエルフが存在するのか。

 エルフというのは人間とエルフを区別しているのだろう、と納得することにした。郷に入っては郷に従えという言葉もある。

 「お前の言うことは良く分からんが、まあ分かった」

「どっちなんだい」

女主人は笑いながら春馬の背中を叩いた。

「そのお前っての止めな? ヒトの中じゃどういう意味合いか知らないけど、エルフ達相手には良い言葉じゃない」

叩いた後、腕を組んで女主人は少し春馬に説教をした。

「そうか、それは悪かった。じゃあなんて呼べば良いんだ?」

「ああ、そうか。自己紹介もまだだったね。アタシは『アディ』だ。この料理屋の主人さ」

「俺は春馬だ。俺は、そうだなあ……。浪人ってとこかな」

「『ハルマ』ね。ロウニンってのはなんだい?」

「仕事をしてない駄目人間ってところだな」

「なんだいそれ」

アディは大笑いしながら春馬の背中を叩いていた。考えるより先に手が出る性質なんだろう。

 背中を叩かれながらも春馬は違和感を覚えていた。アディに身を任せながらも春馬は考えていた。

 「どうしたんだい?」

春馬が無言で考え事をしていると、アディは不思議そうに声を掛けた。

 アディに声を掛けられ、春馬はその違和感の正体に気付いた。外国は外国の言葉を話すと聞いていた。それなのにアディは倭の国の言葉である『倭語』を話している。それなのに言葉の認識に若干のずれがある。倭の国の人間なら知っているであろう浪人という言葉をアディは知らず、春馬は『エルフ』なんて言葉を知らなかった。その疑問を春馬はそのまま口した。

 「アディが話しているのは倭の国の言葉だよな?」

「ワノクニ? なんだいそれは?」

「俺の国だよ。こういう格好をした武士とかがたくさんいる国」

春馬は立ち上がり、両手を広げて自分の着流しを見せる。

「いや、知らないな。ヒトがエルフの国に来るなんて数百年ぶりだし。それにワノ国ってのも聞いたことがない」

首を傾げながらアディは答えた。

「そんな馬鹿な。その言葉だって倭語だろ?」

「いや? これはエルフ共用言語だろ? そういえばアンタ、エルフ語上手だね。どこで習ったんだい?」

ますます春馬は混乱して来た。知らない文化や風習があるのは「ここが外国だから」で済む問題だ。だけど同じ言葉を使っているのに互いが違う言語を話していると言っている。この『ずれ』は何だ?

 「俺は一体、どこに流れ着いたんだ……」

春馬は頭を抱えて思案していた。

「何を悩んでるのか知らないけど、エルフのことが知りたきゃリリアン先生に聞いてみるといいよ」

「『りりあん』先生?」

「そう、この国で一番の賢者さ。エルフのことは勿論、アンタが悩んでることも解決してくれるかもよ?」

「……賢者か」

アディの言う事はもっともだ。ここは外国だ。外国のことは外国のエルフに聞くのが早い。それも賢者に話しを聞けるなら尚更だ。

 そう考えた春馬は和傘を手に取り腰を上げる。

「世話になった。必ずこの恩は返す。ありがとう」

そう言って春馬は深く頭を下げた。

「なんだいなんだい! 良いんだよそんなの気にしなくて」

アディは頬を朱く染め、大げさに片手を大きく振っていた。

「そういう訳にはいかない。『リリアン』先生に会って来たら必ず戻る」

春馬は顔を上げ答える。

「はあ、困った奴を拾っちまったよ。はあ……仕方ない、色々こき使ってやるから覚悟しな?」

春馬の堅い態度に溜息を吐きながらもアディは笑顔を浮かべる。

「リリアン先生の家は店を出て左へ真っ直ぐ行くと、町外れに大樹が見えて来る。そこがリリアン先生の家だよ」

「店を出て左へ真っ直ぐの古い大樹?」

大樹が目印なのだろうか。疑問を浮かべながらも春馬は店を出る。

「わかった。じゃあ、直ぐに戻る」

「いいからゆっくりしておいで」

「すまない」

「はいはい、じゃあ気を付けて行っておいで」

「あ、ああ。行って来る」

そう言って春馬は歩き出した。店から出ようとした時、昔の癖で春馬は振り返った。アディは一瞬真顔になったが、次の瞬間には噴き出した。そして優しい笑顔を浮かべ手を振った。春馬も一瞬真顔になったが、それに答えるように会釈をして春馬は再び歩き出す。

 「行ってくる、か。久しぶりに口にしたな」

そう呟いた春馬の心に暖かいものが宿り、自然と笑みが浮かんで来た。

 それなのに春馬の頬には一滴の涙が流れた。春馬自身が一番驚き足を止める。この涙はなんだ? と春馬は少し考えたが、その正体に春馬は直ぐ思い至った。

「そうか、最後に口にしたのは桜が死んだ日だったか」

 頬を袖で拭い、春馬は再び歩き出す。桜はもういないってことを噛みしめて――。



 アディの言われた通りの道を歩いていく。町に着いたばかりの時は空腹で良く見えていなかったが、ここの町並みは少し倭の国に似ていた。

 家々が横繋がりに建っていて、それが小さな道を作っている。それは倭の国も同じだった。違う点といえば建物の材質や建造法だろうか。倭の国の家は木造で壁には土を使っているのに対し、ここの国は石を使っている。それはアディの料理屋でも確認していた。さらに倭の国は何軒かの家が繋がって建てられていて、それは大きな家を敷居で区切っているのに近い。

 それに対してここの国は一軒一軒が独立して建てられている。倭の国も領主や金持ちの人間は独立した一軒家を持っているが、庶民の家はそうではない。エルフの国は庶民でも一軒一軒の家に住むことが出来るようだ。

 物珍しそうに辺りを見て歩いていると、家の群が途絶えてしまった。場所を間違えたかと周囲を見渡してみると少し離れたところに大きな樹が見えた。あれがアディの言っていた目印だろう。そう思い大樹へと近づくが、近くに家らしきものは見当たらない。

 場所を間違えたか? と春馬は思ったが、ここまで来るのに分かれ道など無く一本道だった。春馬はとりあえず、大樹の根元まで行ってみることにした。大樹の影に家が隠れているかもしれない。そう思った春馬だったが、近くまでやって来て考え改めた。

 「うーん……」

春馬の前には不思議な光景が目に入って来た。

「――扉だ」

大樹の根元に扉が付いていた。

 これも一種の木造だろうか、と的外れな事を春馬は考えていた。

「いや、待て。そもそもこれは家なのか?」

当然の疑問に思い至ったが、これも外国では普通なのだろうか、と思い扉を開けることにした。

「頼もう」

声を掛け大樹へと一歩踏み出す。外は大樹だったが、中は異様に縦長いことを除けば普通の家と同じ造りをしていた。陽が射さないため、中は真っ暗だが、所々に行燈のような物が壁に付けられ、明かりが灯してあった。上部には床が螺旋状に設けられていた。

 「なんじゃ、頼みは何も聞いてやらんぞ」

上階から女子の声が聞こえて来た。誰かが居るということは、やはりここは家なのだろう。

 「いや、頼むじゃなく頼もうと言ったんだ」

「やはり頼むと言っておるじゃないか。この国じゃ珍しいが物乞いか?」

春馬に答えるように声がしたかと思うと、小さな少女が降って来た。それは落下ではなく、滑空するかのようにゆっくりと降りて来た。

 春馬は内心かなり驚いていたが、表情の乏しさが落ち着ているように見せた。

 「なんじゃお主、何者じゃ?」

少女が再び声を掛けて来たので我に返った春馬は慌てて答える。

「あ、ああ。お前は侍女か? 『りりあん』という賢者を訪ねて来たんだが、ここで合っているか?」

「どこか発音が変だが、ここは確かにリリアンの家じゃ」

「そうか、良かった。りりあん先生にお目通り願いたい。取り次いでもらえるか?」

「ほう?」

侍女は腕を組んで春馬を舐め回すように見ていた。急にヒトが訪ねて来て侍女は訝しんでいるのだろう。この国での賢者という身分がどれくらいのものか分からないが、侍女がいるくらいなので高い身分のなのだろう。警戒されても仕方がない、と思い何も言わず視線に耐えていた。

 「まあよい。ヒトだからそんな勘違いをしているのじゃろう」

勘違いが何のことを言っているのか春馬には分からなかったが、話を通してくれると侍女は言っていた。

「そうか。それでは頼む」

春馬が安心して侍女に取り次いでくれるように頼むが、侍女は一向に動く気配が無い。ただ「まあよい」と言ってから腰に手を当てて、無い胸を張っていた。

 「すまない、りりあん先生を呼んで欲しいんだが……」

「うむ、ワシがリリアンじゃ」

「……」

これは侍女なりの冗談だろうか、と春馬は思ったが目の前に立つ少女は自分こそがリリアンであると言わんばかりに立っている。少女の冗談に腹を立てるなんて大人げない。春馬はとりあえず笑うことにした。

「面白い面白い。じゃあ、りりあん先生を呼んでくれるかな?」

表情を変えずに侍女の冗談を面白かったと春馬は褒める。すかさずリリアンを呼んで欲しいと頼む。

「何が面白いんじゃ! だから、ワシが、リリアンだと、言っておるじゃろう!」

地団駄を踏みながら自称リリアンは怒り出した。

「い、いや。聞いた話によるとりりあん先生とは賢者だと聞いた。それが君のような少女な訳がないだろう?」

自称リリアンの気迫に押され、こちらに悪意は無いと慌てて弁明する。

「……お主、いくつじゃ?」

「今年で十七だな」

「ワシより全然年下じゃないか! ワシは今年で九十七じゃぞ!」

「九十七? 見るからに十代前半だろう」

「馬鹿者! エルフとヒトを比べるでない。ワシらは三百は生きるんじゃぞ? ワシなんてまだまだ若いがお主よりは年上じゃ! 年長者を敬え!」

春馬が自分よりもずっと年下と知り、リリアンは更に強く地団駄を踏み怒り出す。

 にわかには信じられない春馬だったが、アディもエルフは長寿だと言っていたことを思い出した。ということは目の前にいる少女が本当に賢者リリアンなのだろう。

 「そ、そうなのか。それは悪い事をした」

春馬は慌てて頭を下げる。

「ふ、ふん。ワシは年長者だからな。それくらい許してやろう!」

ぷい、と顔を逸らしながらも横目でチラチラと春馬を見ていた。これは褒めろという合図なのだろうか。

「あ、ああ。やはり年上の方は心が広くて助かる」

「そうだろう、そうだろう」

腕を組んでうんうん唸っており、その顔は誇らしげだった。

 ここまでの会話で分かったことだが、確かにリリアンの実年齢は春馬よりずっと年上である。だけど精神年齢はもしかすると、春馬もよりも年下なのかもしれない。ここは自分が大人になるべきだろう、と春馬は思った。


 「それで? ワシに何のようじゃ?」

面を食らっていた春馬だったが、リリアンの言葉に当初の目的を思い出した。

「端的に用件を言うと、俺は遭難したようだ」

「遭難? 遭難してこの国に着いたと?」

「ああ、そうなんだ」

春馬の言葉にリリアンは怪訝な表情を浮かべる。

「お主は遭難し、『帝国』からこの国へやって来た、と言うじゃな?」

聞きなれない国名をリリアンは口にした。外国では倭の国を『帝国』と呼ぶのだろうか、と春馬は疑問をそのままリリアンへとぶつける。

「帝国というのは倭の国のことか?」 

「ワノクニ? なんじゃそれは?」

「ワノクニじゃなくて倭の国な。俺の生まれ育った国で、こんな格好をした人間が沢山いる国のことなんだが」

「ワノ国……聞いたことないのう」

目を瞑って考えを巡らせたリリアンだったが思い当たらなかったようだ。

 春馬の格好を再び良く見たリリアンは今更のように驚いていた。

「そういえばお主の格好、ここらへんじゃ見かけんのう。それもワノ国の服なんじゃな?」

「ああ。これは着流しと言って庶民の服だな」

「キナガシ? 聞いたことが無いのう」

やはり春馬がこの国の言葉を上手く発音出来ないように、リリアンも倭の国言葉は上手く発音出来ないようだった。同じ言語を使っている筈なのに、言葉には『ずれ』のような物が発生している。

 春馬はそのことでアディとの会話を思い出した。アディが口にしているのはエルフ共用語だと言っていた。まずはそのことを確かめるべきだろう。

 「変なことを聞いて悪いが、あの照明器具は何て名前なんだ?」

春馬の中にある知識では、あれは形は変わっているが『行燈』という名前のはず。

「あれか? ヒトには珍しいのか? あれはランタンというのじゃ」

「『らんたん』。行燈ではないのか?」

「アンドン? いや、あれはランタンじゃぞ」

やはり、認識には『ずれ』がある。互いに自国の名称を上手く発音出来ていない。会話をする分には問題が起きないが物の名前や固有名詞には『ずれ』が多いようだ。

 少し『ずれ』の正体が見えて来た気がしたが、この『ずれ』が発生している理由が春馬には分からなかった。

 「おい、急に黙ってどうしたのじゃ」

春馬が黙々と考え事をしていると、リリアンは春馬に声を掛けた。

 リリアンは賢者と呼ばれているからには、知識や思考能力も自分より高いはず。そもそも、自分一人で考えても分からないから、と尋ねて来たのだった。

 春馬はリリアンに今、自分の抱えている疑問を打ち明けた。

「最初にも言ったが、俺は遭難したんだ。俺の生まれ育った国、倭の国から海を渡ってこの国にやって来た。ああ、そう言えばこの国の名前すら聞いてなかったな。ここは何ていう国なんだ?」

「……ここはウィンドエルフが暮らす『風の国』じゃ」

春馬の言っていることを訝しんでいるのか、リリアンの表情は硬かった。国名に聞き覚えは無かったが、『風の国』という単語の意味は理解出来る。春馬には風と国の二つの単語を知っているからだ。

「風の国、か。やっぱり知らない国に来たんだな。ということは俺は最初、外国に流れ着いたんだと思ったんだ。だが使っている言葉は同じ。それならここは、まだ倭の国なのか? と思ったが、それも違うようだ。それなら俺はどこにやって来たんだ? というのが、ここにやって来た理由だ」

「うーむ……お主の言っていること、にわかには信じられんな」

「俺もリリアン先生の立場ならそう思っただろうな。だが、事実としてそうなんだ。仮定でも妄想でも良い、何か意見をくれないか?」

春馬の真剣な態度に、リリアンは再び目を瞑り、思考を巡らせる。

 「いくつか質問をするが、嘘は吐くでないぞ? まず、お主の話している言葉はエルフ共用語ではないのじゃな?」

「ああ。俺は倭語を話している」

「二つ目。お主は遭難したと言っていたな? しかも海を渡って、と」

「そうだ。俺は舟で風の国近くの海岸に漂着した」

「風の国の近く、じゃと?」

春馬の答えに驚き、リリアンは瞑っていた目を開いた。

「あ、ああ。それがどうした? 嘘は吐いていないぞ? 今も俺が乗って来た舟が打ち上げられている筈だ。確認してもらえば分かる」

リリアンは言葉が違うということより、春馬は海を渡って来たということに驚きを隠せないようだった。

「後で確認に行くとしよう。それより、ちょっと待っているがよい」

そう言うとリリアンは宙にふわりと浮いて上階へと飛んで行った。春馬は内心、かなり驚いたが、リリアンが降りて来た時と同様に表情の乏しさが冷静さを失っていないように見せていた。

 リリアンが何かを探しているようで物音がしばらく響いていたが、間もなく滑空するかのようにリリアンは降りて来た。

 降りて来れるなら、飛んでも行けるのか、と春馬は分析し内心の驚きも治まって来ていた。

 「風の国周辺の地図なんぞ、滅多に見ないもんじゃから探すのに手こずったわい」

そう言って、部屋の中心にある大きな机に物が置いてあるのも構わず地図を広げる。

 「ここに描いてある小さな町が『風の都』、この町じゃ。分かるな? それでお主が漂着したという『海岸』というのはここのことじゃな?」

「ああ、そうだ。俺は海岸を出て右手にこの町が見えたからな」

「うむ、それでは間違いないな。じゃあ、お主の言う『海』を見るのじゃ」

リリアンは春馬が漂着した海岸から海へ向かって指進める。それに従って春馬は視線を移していくと信じられない物が描かれていた。

「陸地、だと? この地図はかなり縮小されているのか?」

「いや、風の都とお主の言う『海岸』の距離を見るんじゃ。そんなに縮小された地図じゃないことが分かるじゃろう?」

「そんな馬鹿な。俺は確かに海を渡って来たんだぞ?」

「そうか。じゃが、それは有り得んよ。お主が海だと言っているのは見ての通り『湖』じゃ」

「嘘だと思うなら舟を見てみると良い。確かに俺は海を舟で渡って来たんだ」

「うむ、それに偽りは無いかもしれん。舟もあるじゃろう。じゃがな、そこは湖なのじゃ」

「し、信じられん。それじゃあ俺はどうやってここに来たって言うんだ……」

 一歩進んで二歩下がる。いや、何歩も春馬は戻ってしまっただろう。進めば進むほど見えない暗闇が春馬を包み込んでいるようだった。




 事実を確認するため、春馬とリリアンの二人は春馬が乗って来たという舟を確認しに行くことにした。

 歩いて海岸もとい、湖の畔に向かっていたが、会話は無く思い空気が漂っていた。リリアンは何かを考えているようで無言で、春馬は先程の衝撃が抜け切れておらず無言だった。

 リリアンの家は町外れにあるため、湖は直ぐに見えて来た。

 舟は湖に無い方が逆に良いと春馬は思っていた。それなら頭が混乱しているとか夢、幻を見たという事で話しは簡単に済む。

 春馬の思いとは裏腹に、湖の畔には舟が打ち上げられていた。

「ああ……これだこれ」

見えて来た舟は間違いなく春馬が乗って来た舟だった。春馬は指をさして落胆した声を出した。

「この小さな舟で海を渡ったのか?」

リリアンの疑問はもっともだった。海を渡るにしては小さく、この舟は渡し舟のような形状をしていた。

「そうだ。海を渡った、というのは結果であって、実際は遠島の刑で島流しにされたんだ」

「島流し? なんじゃそれは?」

遠島の刑というのは倭の国の刑罰なのでリリアンは知らないようだった。どう説明したものか、と春馬は考えていたが、取り繕うことは止めて正直に話すことにした。

「島流しっていうのは死刑だな。罪を犯した人間をこういう舟に乗せて海に流すんだ。倭の国は海に囲まれているんだが、周辺の海流に一度捕まると遠くへと流されるので、本来であれば海上で死を迎える。首を切り落とす刑もあるが、島流しが一番重い刑だな。楽に死ねず、餓死を待つか海に身を投げるしかないからな」

 あっけらかんと春馬は説明したが、要するに春馬は死刑にあって運良く風の国へとやって来た、と言っているのだ。春馬の説明を聞きリリアンは険しい表情を浮かべる。

「つまりお主は死罪を受けた罪人だと言っておるのじゃな?」

「ああ、そうだ」

「……何故、死罪を?」

躊躇い気味にリリアンは問い掛ける。

「俺は主君に仕える武士だったんだが、その仕える主君を殺したんだ」

「主君殺し、か。理由を聞いても良いか?」

春馬は苦い顔を浮かべ、話すことを躊躇ったが、死罪になるような人間が近くにいるなんてリリアンからしたら恐怖でしかないだろう。そう思った春馬は重い口を開いた。

「――俺の妹は主君に殺されたんだ。その仇討ちだ」

「妹君が……そうか。すまぬ、嫌なことを言わせてしまったようじゃな」

「いや、いいんだ。死罪だと話したのは俺だからな」

 二人の間に沈黙が流れた。

 春馬は視線を湖へと向ける。確かに湖面は穏やかで、波一つ無かった。これが海な訳が無いか、と春馬は思った。

 「さて、用は済んだことじゃし、戻ろうかのう」

沈黙を破ったのはリリアンだった。

「そうか、時間を取らせて悪かったな」

そう言って春馬はリリアンを見送ろうとしていた。

「ん? お主も用は済んだじゃろう? 一緒に戻るじゃんろう?」

「用は済んだが、その自分で言うのもなんだが怖いだろう? 俺は罪人だぞ」

「お主が怖い? 面白い冗談じゃな。確かに殺しは良くないと思うが、ワシは仕方ないと思う。それに自分は罪人だ、なんて馬鹿正直に言う奴なんて怖く思えるか」

リリアンはそう言うと笑って歩き出した。リリアンの言葉に二の句を継げないでいた。確かに春馬自身は仇討ちをしたことに後悔も反省もしていない。だが、それは春馬個人の問題で、他人から見たらただの人殺しだ。そんな相手を怖くない、と思えるのだろうか。

 リリアンの笑顔は自然に見え、そこに緊張や警戒は感じられなかった。それ以上に初対面の時よりも態度が柔らかくなったように春馬は感じていた。

 「どうしたのじゃ? 早く行くぞ?」

「あ、ああ」

戸惑いながらも春馬はリリアンの後を追って歩き出した。


 リリアンの家に二人は戻った。リリアンに勧められるまま腰を下ろし、その対面の席にリリアンも座った。

「お主の言っていること通り、舟はあったのう。それじゃあ海を渡って来たというのも本当なんじゃろうな」

「ああ。嘘は吐いてない」

「ワシも嘘を吐いているとは思っておらんが、信じられなくてな。じゃが、舟は本当にあったからのう」

 春馬はふと浮かんだ考えをリリアンに聞いてみることにした。

「俺が言うのもなんだが、湖の対岸に町はないのか? そこから俺が流され来た、という可能性はないか? 記憶は餓死寸前だったから夢と現実が混乱しているとも考えられる。」

「ほう、面白いことを言うのう。じゃが、それは有り得ん。これを見るがよい」

そう言って、家を出る前に見せた地図を再びリリアンは広げた。

「見ての通り、湖の周辺にある町はこの風の都のみじゃ」

「そうか」

「それにもし町があったとしても、そこから来たとは考えにくいじゃろう」

「何故だ?」

「言葉じゃよ。意識が朦朧として国を勘違いしていた、としてもワシ等の間で起きている言葉の『ずれ』は説明出来まい」

「それもそうか……じゃあ、俺は一体どうなってしまったんだ」

「あ、そうじゃ!」

リリアンは何かを思い出したようで、慌てて上階へと向かい何かを探し始めていた。しばらく格闘する物音が聞こえていたが、目的の品を見付けたのか、リリアンは再び戻って来た。

「なんだそれは?」

「これは歴史書じゃ。特にヒトについて記述されたものじゃ」

そう言ってリリアンは歴史書を広げる。書かれている文字はやはり春馬には読めなかった。

「ヒト、つまり帝国が出来た経緯が書いてあるんじゃ。えっと……ここじゃ。ヒトはある日突然現れ、数を増やし国を築いた。その国が帝国の始まりである」

「ある日突然現れた?」

「そうじゃ。ヒトは昔からこの世界に居たのではなく、急に現れたと書かれておる。これは春馬の状況と同じじゃ」

「うーむ……」

「ヒトは別の世界からやって来たとされているのだ。つまり春馬も別世界の住人である可能性が高い。むしろその方が、今の現状を説明出来るじゃろう」

「別世界、か。良く分からんな」

自分の住む世界の他に、別の世界があるなんてこと、春馬は考えたことも無かった。それは海の向こうにある外国ではない、別の世界。

 「うーん……」

春馬は自分の理解を超える考えを聞き、頭が痛くなって来ていた。

「焦ることはないじゃろう。ゆっくりと考えればよい」

「いくら考えても分からなそうだけどな」

苦笑いを浮かべながら春馬は答える。

 「よっと。とりあえず今日はお暇するな」

「なんじゃ? 用事でもあるのか?」

「アディっていう料理屋の女に飯を世話になってしまってな。その借りを返すって約束をしていたんだ。あまり遅くなっても悪いだろう」

「律儀な奴じゃのう。アディなら知っておるが、借りとか気にするようなエルフじゃなかろう」

「俺が嫌なんだ。リリアンには話したから言うが俺は主君の事があってから人間不信なんだ。もう誰かと関わりを持つの嫌なんだよ。だから借りは返して、綺麗さっぱり関係を清算したいんだ」

「色々と思うことはあるが、敢えて言うまい。じゃが、一つ勘違いしていることがあるぞ? お主は人間不信かもしれんが、エルフ不信じゃなかろう?」

「それは、そう、だが……」

「まあ、しばらくはこの町におるんじゃろう? また来ると良い。お主は興味深いからのう」

リリアンは笑いながら言う。

「……分かった」

そう言って春馬は腰を上げ、リリアンの家を後にする。

 春馬の後姿を見ながらリリアンは独り呟く。

「ワシを訪ねて来た時点で関係は出来てしまっておるんじゃがな。あやつはどこか抜けておるのう」

そう呟いて笑う。それは優しい笑顔だった。



 リリアンと別れた春馬はアディの飯屋へと戻って来た。

「今帰ったぞ」

「はいはい、おかえり。今、忙しいんだから二階でも行ってくつろいでて」

「そうはいかん。何か手伝うぞ」

「あー、そうだったね。じゃあ厨房に行って皿洗いでもやっててくれ。面倒見てらんないんだよ」

それだけ春馬に告げるとアディは給仕の仕事に戻った。陽も落ちて、ちょうど飯時になっていた。アディの料理屋は繁盛していた。春馬も邪魔にならないように厨房へと向かった。

 「アディに皿洗いでもしてろと言われたんだが」

そう言いながら厨房に入ると、ここはここで戦場だった。料理長が怒声を上げながら指示を出し、出来た料理を給仕達が手早く運んでいく。春馬が倭の国で見たどの料理屋よりも活気づいていて、従業員達も忙しいながらも楽しそうだった。

 「おーい、こっちだこっち」

春馬の声も聞こえていたらしく、若い男のエルフに手を引かれて春馬は洗い場に連れて行かれた。

「さあ早く片づけちゃうぞ。さっさと片づけないとあっという間に埋まっちゃうんだよ」

その言葉は冗談ではなく、給仕がどんどん使用済みの食器を持ってくる。見よう見まねで流れ続ける水を使って更に付いた汚れを流し、それを重ねて布で拭く若い女のエルフへと渡す。皿の洗い方はこの国でも同じだった。春馬は倭の国では珍しく、家事を手伝っていたので皿洗いは得意だった。自分から進んで手伝っていたわけじゃないが、手伝わないと桜が拗ねるので仕方なく手伝っていた。

 「へえ、意外と手際がいいんだな」

手を止めて隣のエルフが関心したように春馬を褒めた。

「昔から皿洗いは手伝わされてたんだ」

「ははん。アンタ、嫁さんの尻に敷かれるタイプだな?」

「嫁さん、って。まあ、あんまり変わらないか。多分そうだな」

『たいぷ』という言葉は春馬には良く分からなかったが、言いたいことは伝わった。春馬の場合、嫁ではなく妹だが、頭が上がらなかったのは事実だ。

 若いエルフの男の言葉に苦笑いを浮かべながら答える。

 こうして外国に来てまで皿を洗うなんて思ってもみなかったな、と春馬は感慨深いものを感じていた。桜のことを思い出すと、また暗い気持ちに一杯になりそうだったが、厨房の活気と止むことのない食器達が春馬に考えることを止めさせていた。


 「手がふやける……」

春馬の仕事が終わったのは店が閉店してから一時間後であった。店が閉まってからも使用済みの食器は片付いていなかった。それに加えて皿を洗った後、皿拭き手伝っていたので閉店後も仕事は無くならなかった。店が閉まると料理人達が店を後にし、給仕達も使用済みの食器を洗い係に任せて帰ってしまった。最後まで仕事が残るのは雑用にも近い、春馬達洗い係だった。

 エルフの二人はこんな雑用でも楽しそうだった。

「どうして二人は楽しそうなんだ?」

「意味が分かんないな。君、えっと名前は?」

「春馬だ」

「ハルマ。ヒトの名前は変わってるね。僕はトーマス、よろしくな。それでハルマ、君は皿洗いは嫌いかい?」

「好きでも嫌いでもない」

「そうか、それは僕も同じだ。それでも僕が楽しく見えるのはエイミーと一緒だからだろうね」

そう言ってトーマスは皿を拭く若い女のエルフを見た。

「相変わらず口が上手ね」

「本心だよ?」

二人は顔を合わせて笑った。

「好きな子と一緒に居られるんだから楽しいに決まってるだろ?」

片目を瞑りながら笑顔でトーマスは春馬に向かって言った。片目を瞑る意味は良く分からなかったが、それでも親愛を示しているような気がした。そんなトーマスを呆れ顔でエミリーは見ていたが、それでも軽蔑の意図は感じられなかった。むしろ親愛。何だかんだ言いつつも良い仲であることが春馬にはうかがえた。

 「少し分かる気がする」

「だろう? 僕が生きる理由なんてエミリーと一緒にいたいからってだけだからね。一緒にいられるなら、皿洗いでも何でもするさ」

「分かったから。ほら、手が止まってるわよ、トーマス。」

「あはは、すまない。さあハルマ、さっさと片づけるよ」

それから三人は無言で皿を片付けた。その間、春馬はトーマスの言っていたことを考えていた。大事な相手と一緒に居られればそれで良い。それは春馬にも理解出来た。ただ、それを知ったのは桜が死んでからだった。

 「おう、お疲れさん!」

春馬が考えに沈んでいると、男勝りな声が三人だけの厨房に響いた。顔を上げるとアディが笑顔で入って来た。

「どうだいハルマは? ちゃんと働いてたかい?」

そうトーマスとエミリーに尋ねた。

「真面目にこなしてましたよ。しかも手際も良いし僕も見習わないといけませんね」

「へえー、そうかい。やるじゃないか」

「あ、ああ」

「後はいいから、二人はもう帰んな」

「はーい」

「お疲れさまでしたー」

元気よく二人は厨房を後にした。

 「ハルマも、もう良いぞ。って言っても泊まる宛もないか。うちの二階の奥の部屋が空いてるから、そこを使いな」

「そこまで借りを作るのは……」

「またごちゃごちゃと。男の癖に細かいやつだねえ。いいから使いなさいって。明日も頑張ってもらうんだから、ちゃんと休みな」

「……すまない。だが、後片付けは最後までやる」

「はいはい」

 春馬の気持ちも察しながらも折り合いを付けられるのは年の功だろう。

そんな気遣いも申し訳なくて、春馬はまた落ち込んでいた。

 「リリアン先生には会えたのかい?」

「ああ。また来いってさ」

「そうかいそうかい。それは良かったね」

そう言って力強く春馬の背中を叩いた。

「いってえ」

「あはは。そのなんだ、暗い気持ちでいたら心が参っちゃうぞ? 明るく、な?」

そう言ってアディもトーマスのように片目を瞑って笑った。その合図はこの国で励ますような意味があるのか、と春馬は理解した。それに答えるように片目だけ閉じようとして上手くいかず、結局両目を瞑ってしまった。

「なんだいそれは。ウィンクのつもりかい?」

大きな声で笑うアディにつられて春馬も少し笑顔がこぼれた。

「そう、笑っていれば良い事は起きるよ」

そう言って再び春馬の背中を思い切り叩いた。

「さあ、片付いたしさっさと寝な」

 アディに促されるまま春馬は二階の割り当てられた部屋へと向かった。扉を開けて箱型寝具へと倒れ込むと、疲れからか春馬はそのまま眠ってしまった。



 エルフの国での生活も数日が過ぎ、春馬も少しずつ馴染んで来ていた。昼間はリリアンの所に行き、質問に答えたり研究の手伝いをしていた。夜はアディの料理屋を手伝う。実はアディの店は飲食店ではなく、居酒屋のようなもので夜しか営業していなかった。なので昼間はリリアンの所で暇を潰していると言っても過言ではなかった。何もすることなく一人でいても暗い気持ちにしかならないし、リリアンも喜んでいるので、その方が良いだろう、と春馬は納得していた。

 今日もリリアンの家に向かって春馬は歩いていた。春馬がリリアンの所でしていることと言っても、倭の国がどんな所なのか、そこに住む人々の生活や文化について教えているだけだったが、リリアンは興味深そうに聞いていた。

 それに対してリリアンも春馬にエルフの国の事や言葉も教えていた。

 「『リリアン』、今日も来たぞ」

そう言って大樹の扉を開けて家に入る。春馬も横文字を使うのにも慣れて来ていた。概念や詳細は違うが、用いる言語が同じという事で春馬がエルフ共用語特有の単語を覚えるのも早かった。最初は違和感を覚えていたが、次第に気にしなくなっていた。

 「おお、相変わらずの暇人じゃのう」

春馬の声を聞き、ふわりと宙を浮きリリアンが上階から降りて来た。初めは驚いた春馬だったが、リリアンが風を操るエルフであること。降りる時は空気の層を纏っているから、ゆっくり降りられることを聞き、そういうものなのか、と漠然と納得してからは慣れてしまった。 分からないことは恐怖や驚きを招くが、知ってしまえば何てことはない。ただ理屈や詳細は分からないままだったが。

 今日も為になるのかならないのか分からない会話をして春馬はリリアンの家を後にした。


 「食材が足りないだと?」

春馬がリリアンの家から戻ると、厨房からそんな料理長の怒号が聞こえて来た。開店まではまだ時間もあり、春馬は部屋に戻ろうとしたが、様子が気になって厨房を覗くことにした。

「馬鹿野郎! 俺達は仕込みもあるってのに食材が足りないってどうすんだよ! アディさんも今日は月に一度の会合に出てるし買い出しに行ける奴いねえんだぞ?」

食材はまだ残っているが、確かにいつもの来客数から予測すると足りなくなりそうだった。少なくとも余るくらいに食材は無いと問題である。

 春馬は厨房へと入りると料理長に声をか掛けた。

「俺が行こうか?」

「え、おぉ! ハルマ居たのか! いやー助かったぜ。まだ仕事の時間じゃないのに良いのか?」

「ああ、構わんぞ」

料理担当は早目に仕事に取り掛かるが、終わりも閉店と同時で一番早い。春馬達洗い物担当は開店してから仕事に入るため、仕事は一番遅く始まり、一番遅く終わる。

 「そうか、じゃあ悪いがこれを頼む」

そう言ってメモを渡された。エルフの国の文字も初めてみる文字で読めないかと思ったが、書かれている意味を元々知っていたかのように理解出来た。

 元の世界の知識がこの世界の知識に変換されたんじゃないか、とリリアンは言っていた。春馬はそう言われたらそうなのか、としか思わなかったがリリアンは興奮していた。

 「じゃあ、行ってくる」

「ああ、頼んだぞ」

店を出て右、北側へと向かう。この町の北には大きな広場があり、そこで市場が開かれている。そこに行けば食材、衣服など何でも揃うとトーマスは言っていた。春馬は南側のリリアンの家からアディの居酒屋までの往復しかしてこなかったので、市場に行くのは初めてだった。

 坂を上って行くと開けた大きな広場が見えた。そこには屋台のような小さな店が沢山あり、店先で売り子達が声を上げていた。「この店の果物が世界で一番甘いよ!」や「こんな丈夫な服、世界のどこを探しても見つからないよ!」など、自分の店の商品がいかに優れているかを宣伝していた。

 春馬は自分の家が刀鍛冶であまり人気が無かったことを思い出した。ああやっていかに自分の品が優れているかを宣伝しないと売れないのか、と頑固な父を思い出し、それは無理だろうなと思い直した。ただ、父よりも桜の打った刀の方が立派だった。それを俺が宣伝してやれば桜はもっと有名な刀鍛冶になれたのかもしれんな、と春馬は感慨深く思った。だが、自分も口下手なのでどちらにしても駄目だっただろうな、と自嘲気味笑った。

 ふと妙な人影が目に付いた。外套に頭まで覆われた者が裏路地に消えていくのが見えた。普段なら気にならないのに、何故か目に留まって離れなかった。どこか潜むような立ち振る舞いに、怪しい気配を春馬は感じていた。

 春馬は外套の者がやけに気になったので、後を付けようと思った時だった。広場中央の鐘が辺りに鳴り響いた。これは市場がもう直ぐ閉まるという合図だ。一度目の鐘は終わりが近いことを告げ、二度目の鐘は市場の終わりを告げる。

 頭から外套の集団が離れなかったが、それよりも今日の食材の方が大事なので春馬は慌てて買い物を済ませることにした。


 買い物を済ませて戻ると、厨房からは良い匂いがしていた。

「戻ったぞ」

春馬の声に料理長が両手を広げて近づいて来た。抱きしめられるのか、と身構えていたが、ただ材料を受け取ってくれただけだった。避けるつもりで身構えていたので、春馬は少し渋い顔をしてしまっていた。

 「ハルマ、すまない。おかげで助かった」

渋い顔をしていたので、春馬が不満を訴えていると思い、料理長は申し訳なさそうに詫びた。

 「お前ら! 料理人はいくら腕が良くても食材がなきゃ無職と同じなんだからな!」

春馬から弟子達に視線を映し、先程よりも大きな怒号を上げた。

「ああいや、良いんだ。俺は料理の腕も無い無職だからな。手伝えることがあったら言ってくれ」

「ハルマは良い奴だなあ。おい、お前ら! ハルマに免じてこれくらいにしておくが、こんな失敗は二度とするなよ!」

「「はい!」」

弟子達は縦に長い白い帽子を手に取り、料理長に頭を下げる。

 「じゃあ、俺はこれで」

食材を全て渡して厨房を後にしようとした時。

「ありがとうなハルマ」

「助かったよ」

そう言って春馬の手を取り、弟子達は各々感謝を伝える。その様子を見て腕を組み大きく頷く料理長。

「あ、ああ。気にするな」

視界の隅に料理長が見えて苦笑いが浮かんだ春馬だったが、視界から料理長を消し、弟子達を見て答える。

「じゃあ、また後で。店が開く前に来る」

そう言って今度こそ春馬は厨房を後にした。


 アディの店は今日も繁盛していた。いつもと同じくらいに忙しく、いつもと同じくらいに店が閉まった。ここに来る客は常連客ばかりなので、ある種一定の仕事量だった。だからいつもと同じように料理人達の仕事が終わり、料理長は帰って行った。他の料理人達も一緒に帰るかと思いきや、春馬の側にやって来た。

 「手伝うよ!」

そう言って料理人達は使用済みの食器を各自、勝手に洗い始めた。

 「おいおい、どういう風の吹き回しだい? いつもはさっさと帰えるだろ?」

夕方の事を知らないトーマスは訳が分からず混乱していた。昨日までお互いの帰る時間というか、お互いの事自体に無関心だったのだ。早く帰ること、遅く仕事が始まること等、周りの仕事なんて気にしないで、ただ自分の仕事だけやる。そんな割り切った関係性だった。それが自分達の仕事は終わっているのに残って皿洗いを手伝うなんてトーマスは生まれて初めて見た。

 「ハルマは良い奴なんだ。だから手伝うってだけだよ」

料理人達はうんうんと頷き合い、洗い物を進める。トーマスには夕方の事は言いたくなさそうなので、春馬はどういうことだ? と訴えるトーマスの視線に肩を竦めて答える。どういうことだ? と諦めず疑問を持った目で今度はエミリーを見る。春馬と同じように肩を竦め、「良いから手を動かして」、とトーマスを促した。納得いかないといった顔をしながらも止めていた手をトーマスは再び動かした。

 トーマスが視線を食器に移したのを確認して、春馬は料理人達に目をやった。料理人達は笑顔で親指を立てていた。春馬は自分の親指に何か付いているのか、と思い同じように親指を立てて確認するが特に何も無かった。再び料理人達に視線を移すと、春馬が親指を立てたこと見るや、満足そうに頷いていた。ああ、これも片目を閉じる合図と同じように親愛の合図のなのだろう、と春馬は解釈した。

 三人でやる作業を十人近くでやったので、あっという間に終わってしまった。

「こんなに早く終わったのは初めてね!」

いつもは冷静なエミリーも興奮していた。エミリーは仕事が少しでも早く終わると興奮していた。それが今日は少しなんてものじゃなく、本当にあっという間に終わってしまった。興奮してトーマスの背中を何度も叩いていた。

「よし、じゃあ帰ろうか」

綺麗になった食器を片付け終わり、料理人達は帰り支度を始めた。

 「手伝ってくれて助かった。こんなに早く終わったのは初めてだ」

「いやいや良いんだよ。あのまま食材が足りなかったら、今よりもっと遅くまで料理長に叱られてたんだ。これでも早く帰れる方だよ」

「そうか。それでもありがとうな」

「止してくれよ。こんなんで借りは返せたなんて思ってないからな」

借り、という言葉聞いて内心複雑な心境になった。誰にも借りを作りたくない、というのは他人に対して不信感を覚えていたからだ。もう誰とも関わらないようにしよう、と桜が死んだ日に春馬は思った。

 だけど、この世界にやって来てアディに借りを作り、料理人達に貸しを作ってしまった。もう独りで生きていくなんて思っていたけど、生きていく上でそんなのは無理なのかもしれない。

 リリアンも言っていたが、人間不信だがエルフ不信じゃないから良いのか? と春馬は思い始めていた。

 そんな考えが顔に出ていたのか、料理人は春馬の肩を叩いて笑った。

「そう嫌な顔すんなよ。これからもよろしくな」

「え? あ、ああ」

「そういえば名乗ってなかったな。俺はメイプルだ」

そう言ってベーコンは手を差し出した。これも親愛を示す合図なのだろうか、と思い同じように春馬も手を差し出すと、ベーコンはその手を握って来た。そしてベーコンはにっこりと笑った。ふくよかな顔は笑うと目が潰れて見えなくなるが、それは醜くなく愛嬌があった。

 「俺はシロップさ」「私はバニラよ」「オレはエッセンス」「僕はジャムだよ」と次々に料理人達と手を握り合って、厨房から出るのを見送った。流れで手を握りあったが、桜以外の女子と手を握り合ったのはバニラが初めてだったな、とぼんやり考えていると肩をトーマスに揺さぶられた。

「握手までして、どういうこと? 料理人達は手が仕事道具だから気を許した相手としか握手なんてしないんだぞ」

手を握り合う行為は握手というのか、と春馬は思い、先程握り合った手を見ているとトーマスの声は耳に入っていなかった。

「聞いているのかい? 一体君達に何があったんだよ! 僕だって握手したことないんだぞ?」

再び強く肩を揺さぶられ、春馬はトーマスの言葉に耳を傾けた。

「まあ、色々あったんだよ」

 聞く耳を持ったと言っても、人の失態を肴にする趣味はないので春馬は誤魔化すことにした。

「それより聞きたいことがあるんだよ」

「それより、って君ねえ」

「いいからいいから。今日ちょっと広場の方に行ってみたんだ」

広場に言った用事は勿論伏せる。

「そうしてたら裏路地に全身を黒い外套で覆った奴等がいたんだ。俺はそんな恰好しているエルフ見たことないが、一般的な服なのか?」

「全身を黒い外套、ローブってことかい? 栄えている国には学問を学ぶエルフ達もいるからローブを着るなんて珍しくないけど、この国は田舎だからかなり特殊だね。この国でローブを着ているのはリリアン先生くらいじゃないか?」

「そうね。私もローブを着ているエルフなんてこの国じゃ見たことないわ」

「やっぱりそうだよな……」

 外套、ローブを着ているエルフはこの国ではリリアンだけだと二人は言うが、リリアンのローブとは趣が違っていた。リリアンの着ている服をローブと呼ぶのなら、夕方の連中の服装は外套と呼ぶべきだ。リリアンのローブは丈が長く、機能より見た目を優先している。それに引き換え外套は見るからに見た目より機能を優先していた。確かに丈は同じように長いが、腰の辺りで帯がしてあり、邪魔にならないように配慮されていた。それに頭まで覆うことが出来て、連中が居た場所は裏路地。明らかに人目を避けてようとしていたことが分かる。嫌な気配が外套のようにこの国をすっぽりと覆ってしまう。そんな予感を春馬は感じた。

 「暗かったし見間違いかもしれないな」

「それか疲れているんだよ」

表情を曇らせた春馬をトーマスは心配した。

「そうかもしれないわ。せっかく早く仕事が終わったのだし、早く休むといいわ」

「そう、だな」

二人に心配されながら厨房を出る。二人が店から出るのを見送って春馬も二階の自室へと向かった。

 「何も起きなければ良いが」

寝床に就いても悪い考えが頭から離れなかった。



 春馬はいつもより早い時間に目を覚ました。朝から外が騒がしかったからである。

 朝市か祭りでもやっているのかと窓から顔を出し、春馬は騒ぎのする方を見る。窓を開けると騒ぎが一層良く聞こえて来が、それは賑やかというより狂騒に近かった。歓声のような喜びではなく、悲鳴のような悲しみ。

 春馬の頭には昨日見掛けた怪しい連中のことが過る。

 ――あの時に感じた嫌な気配は勘違いではなかったのか。春馬に後悔の念が押し寄せる。数日という短い期間ではあるが、ここで生活をここに暮らす住人や町を春馬は少し好きになっていた。そんな町が悲劇に襲われるのは春馬としても喜ばしいことではない。

 最近は部屋に置きっぱなしにしていた和傘を手に取り部屋を出る。階段を下りるとアディは渋い顔をして入り口の近くに立っていた。

「早いなアディ。この騒ぎ、何かあったのか?」

「ああ、ハルマか。お前もこの騒ぎに起こされたのか。アタシも聞いた話だが、なんでも帝国が城を占拠したらしい」

「帝国が城を占拠? 城を落とされたということか?」

「そうらしい。それで広場に……」

「なんだ。なにがあった?」

目を瞑り眉間を指で押さえながら、アディは重たい口を開いた。

「……国王様の首が広場に晒されているらしい」

「晒し首、か」

 倭の国では罪人の首を晒す『獄門』という刑罰があった。それより昔の時代では敵将の首を取り、それを晒したこともあったようだ。今回は帝国が城を占拠した、ということから後者だろう。自分達が国を取ったのだ、とその国の民に知らしめるのが目的に違いない。

 「私達エルフは戦った結果、相手を殺すこともある。だが、それでもこんな酷い仕打ちはしない……」

アディは苦々しく呟いた。

 倭の国では今でも刑罰で首を晒すことがある。それは倭の国も帝国も変わり無い。しかも帝国はヒトが築いた国である。倒した相手の首を晒すのは人間の文化、ということだろうか。

 倭の国で生活していた頃の春馬はそれが当たり前のことだと思っていた。だが、こうして近しい相手が心を痛めているのを目の当たりして、それが当たり前なんて思えなかった。

 人間もエルフも頭を使って考えることが出来るのだ。戦って相手を殺すことになったとしても、亡き者を辱める必要は無いのだ。

 首を晒すことで相手に敗戦国である、と知らしめることは確かに出来るが、そんな非道な事をしなくても理解出来るはずだ。

 春馬は初めて自国、人間の文化を恥じた。春馬が一人落ち込んでいると、アディは再び言葉を続けた。

「ハルマの気持ちも分かる。帝国の残虐さや野蛮さは理解出来ないな。それも確かに重い問題だけど、帝国兵は逃げ延びた姫様を探しているらしい」

「姫?」

「ああ。広場に姫様の首は晒されていない。しかも懸賞金が掛けられている。幸いなことに姫様だけは逃げ出せたらしい」

この国に王がいることは聞いていたが、姫ということは娘か。娘がいたとは知らなかった。

「そうなのか。それで帝国は風の国を乗っ取った、ということだろう? 帝国は国民を殺すのか?」

「それがそうじゃないらしい。王族は皆殺しにすると宣言しているが、国民は税を課すだけらしい。しかも元々払っていた税と同じだけでいいと」

「つまり王族以外は今までの生活と変わらない、ということか」

 帝国は王族による反撃を恐れているが、国民から攻撃は怖くない。むしろそのままの生活を送らせることで反感を買わないようにし、しかも税収を得る。晒し首なんてことをするからには国を丸ごと頂くなんてことも辞さないと思ったが、意外に合理主義のようだ。それか、風の国を落とすことで得られる他の何かが目的か。

 いずれにしても風の国の庶民が酷い目に遭うことはなさそうなので、春馬は安心していた。王族達は不憫だと思うが、それでも身近なエルフ達が無事であるなら、それで春馬は十分だった。


 「ちょっと広場を見て来る」

現状の危険を把握しておく必要があると春馬は考えた。いくら帝国が国民に対して何もしない、と言っても絶対的に信頼して良いものではない。昨日見かけた外套の連中が帝国兵じゃない可能性もある。この国に不穏分子が紛れ込んでいるのは間違いない。発見出来たとして何が出来るという訳ではないが、受け身でいるのも危険だ。

 広場に到着すると人だかりが出来ていた。隙間から台座のような物が見える。ということはあの台座には王の首が晒されているのだろう。見て気持ちが良いものではないので、周辺に視線を巡らせる。

 「昨日の連中はあそこにいたのか」

裏路地へと歩みを進める。

「朝でもここは暗いな」

昨日は夕方だったが、朝でも明かりの届かない裏路地だった。この細い路地は意図して陽が射さないように造られているようだ。それに普通に生活していれば目に付かないような場所に入り口がある。そのまま歩みを進めると城の前にある大きな吊り橋の下へと続いていた。吊り橋の下には穏やかな川が流れていた。吊り橋のしたからも水が流れ出ており、これは城の下水が川へと流れているのだろう。城へと続く下水の穴は鉄柵に覆われており、少なくとも外部からの侵入は不可能だろう。

 「おや?」

そう思った矢先、内部からしか開けられない扉がこじ開けられていた。

 「金属の扉が真っ二つか……」

倭の国でも剣の達人は鉄をも両断すると聞いたことがあるが、これは刀剣による断面ではない。鋸で切ったような雑な断面だが、鉄を鋸で切れるはずもない。となると倭の国では見たことのない武器や道具の類か。それが知れただけでも収穫だ。

「店に戻ろう。リリアンの様子も気になる」

踵を返し、裏路地へと戻ろうとした時だった。

「――貴様も帝国兵か?」

その声と共に春馬は背後を何者かに取られた。和傘を握る左手を抑えられ、首筋には細身の刃物を当てられている。

「俺は帝国兵じゃない」

「嘘を吐け! この国にヒトがいるはずがない! 帝国兵でなければ貴様はどこの者だ!」

話から察するに背後にいるのはエルフだろう。帝国兵に対して敵意を剥き出しにしているということは王族か? このまま帝国兵と疑われたままでは殺されかねない。隙を見て拘束から抜け出そうと春馬は様子を覗っていた。

「離しなさい、ジレス」

足音と共に可愛らしい声が聞こえて来た。

「し、しかし!」

「これは命令よ、ジレス。そんな野蛮なことをしては帝国と何も変わらなくてよ」

「……御意」

渋々といった様子で後ろの人物は剣を引き手を離した。

「ジレスも良く見なさい。この方はヒトではあるけれど、帝国人ではないわ」

「衣服、でしょうか?」

「それもそうですが、人種が違いますわ。肌の色に背格好も違いすぎます。別種と考えて問題ないでしょう」

別種、という単語に良い気はしないが、誤解が解けて良かった。

「俺もヒト種だが、違う国から来たんだ。数日前からこの国に住んでいる。アディという女主人の酒場だ」

「酒場ですか。なるほど」

押さえられた手首を擦りながら振り返る。細身の両刃剣を腰の鞘に納めた男のエルフ。このエルフが春馬を拘束したのだろう。そのエルフの斜め後ろには背の小さい女のエルフが見えた。

 二人は小声で何かを話し合っていた。今朝もこの国に関わるべきではない、と判断したのだ。ここは大人しく立ち去るべきだろう。

 春馬は静かに振り返り、来た道をそっと引き返す。そのつもりであったが、春馬は手を引かれて動けなかった。

「すみませんが、私達をその酒場まで案内して頂けますか?」

「いや、俺はお前達と……」

関わるつもりはない、と言うつもりだったが言葉を続けられなかった。手を握る女エルフは笑顔で春馬を見つめていた。顔立ちも背格好も、勿論人種も違う。だけど目が桜に似ていた。強い決意に満ち明日を見つめる目。国が取られ明日すら見えない状況で、こんなにも強い目を保てるのか。死に際の桜も同じ目をしていた。明日なんてなかったのに……。

 そんな目をされて断れるわけもなく、春馬は溜息を吐きながら答える。

「はあ、わかったよ」

「ありがとうございます! 私はマール。この国の王女です」

「マール様! 危険です! 見ず知らずのヒトに身分を明かしてはいけません!」

「私達が迷惑を掛けてしまうのは間違いないのです。身分を隠したままというのは不義理でしょう」

なんて言いつつも約束を交わしてから身分を明かすというのは策士というか腹黒というか。温室育ちのお嬢様、という訳ではなさそうだ。

「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「ハルマだ」

「ハルマさん。これから暫くの間、よろしくお願い致しますわ」

そう言って無理矢理握手をして微笑むマール。

「はあ。はいはい」

溜め息を吐きつつも悪い気はしなかった。



 「戻ったぞ」

「はいはい、おかえり、ってアンタ誰拾って来たんだい」

春馬の後に続いてマールとジレスも酒場に入る。その二人を見てアディは驚いていた。

「あ、アンタ! 姫様を連れて来たってのかい?」

「すまん。成り行きでそうなってしまった」

「すみません。ご迷惑を承知でお願いしたいのですが、数日の間匿って頂けないでしょうか。勿論、お礼は差し上げます」

そう言ってマールは身に着けている指輪を外し、アディへと渡そうとする。

「これは王家の指輪じゃないですか? そんな高価な物受け取れませんよ」

流石のアディも敬語を使っていた。それに指輪は受け取れないと慌てて返そうとしていた。

「私達がここに来ただけで帝国に目を付けられる可能性がございます。その代わりとしては安すぎるくらいです。しかし私はこれくらいしかお渡し出来る物はありません。ですから受け取ってください」

深く頭を下げながらマールは指輪を受け取らない、という姿勢を崩さない。

「はあ、最近の若者は頑固ですねえ」

溜め息を吐きながらアディは春馬を見る。俺は違うぞ、と言うように視線合わせる。アディは苦笑いを浮かべながら指輪を受け取る。

「わかりました。こういう態度の方に何を言っても仕方ない、というのは最近経験済みですからね。とは言ってもここは酒場です。エルフ達の出入りも多く、姫様がここに居られることが知られる可能性が高いですよ?」

「寧ろそれが狙いです。出入りの多い場所では情報も多く仕入れられます。そしてそんな場所だからこそ帝国の裏をかけると考えます」

「木を隠すなら森の中、という訳ですか。確かに外に居るよりはどこかに潜伏する方が見付かり難いでしょうね。わかりました。部屋に空きが少ないので一部屋しかお貸し出来ませんが」

「それで充分過ぎます。すみませんが、しばらくお世話になります。危険が迫るようでしたら我々は姿を消します」

マールとジレスは頭を下げお礼を言う。

「部屋はアンタの隣だ。案内してやんな」

そう言われ春馬は二人を二階へと誘導する。

「姫様、ここは危険過ぎます。ヒトにも我々の事が知られています。コイツが帝国に売らないという保証はありませんよ」

春馬に聞こえるようにジレスはマールに忠告する。

「ジレス。そんなことを言ったら誰も信用出来なくなります。それに帝国に私達を売りたいのなら、こんな手間を掛ける意味がありません」

「そ、それはそうですが!」

「それにハルマ様に失礼です。謝りなさい、ジレス」

「くっ……申し訳ない、ハルマ殿」

「別に気にしていない。それにジレス殿の言っていることは間違っていない。それに自分の主人を心配するのは当然だろう」

振り返ることなく春馬は答える。ジレスとマールは面を食らったのか、一度二人で顔を見合わせたが、春馬と距離が出来てしまったので慌てて追いかける。

「ハルマ様も国に仕えたご経験が?」

追いついた春馬にマールは興味深そうに顔を覗き込んでいた。春馬はちらりと視線をマールに向けるが、再び前を向く。

「昔のことだ……」

「そう、ですか」

もう少し聞きたそうなマールであったが、春馬の顔を見て聞くことを止めた。悲しみというより、それは憎悪を持った顔をしていたからだ。

 「ここだ」

部屋を案内して春馬は一階へと引き返す。いつもの日課であるリリアンの元へと向かうためだ。マールの隣を通る時、春馬は声をかけられた。

「ハルマ様は、王族が嫌い、ですか?」

「ああ。お前もお前に従う騎士様も嫌いだ。俺は関わらないから好きにやってくれ」

それだけ告げると、春馬は一階へと降りて行った。



 「おーい、リリアン。無事かー」

部屋に入るなり、春馬はリリアンに声をかける。

「ハルマか。良く来たな」

春馬は毎日来ているが、リリアンは毎回歓迎といった様子で春馬を迎え入れる。リリアンを訪ねるエルフも少なく、リリアンも春馬が家に来てくれることは内心嬉しいのだ。最近の二人のは気心しれた幼馴染にような関係になっていた。

 「帝国に城を取られたらしいが、リリアンは無事か? 賢者ってことは結構名が知れているのだろう?」

「はあ、そうなんじゃよ。帝国から招集がかかっておる」

「それは本当なのか?」

「本当も本当じゃ。帝国はウィンドクリスタルについて知りたいようじゃ」

「『うぃんど』……なんだ?」

「ウィンドクリスタル。風の力が込められた水晶と認識すればよい。ワシらがウィンドエルフという話は以前にしたな」

「あ、ああ。たぶん」

「多分、じゃなく絶対じゃ。ワシらが風の力を使えるのもウィンドクリスタルのおかげじゃ。帝国がこの国に攻めて来たのもそれが狙いのようじゃな」

「ウィンド……風の水晶ってやつは俺達のようなヒトでも扱えるものなのか?」

「お主、覚える気がないじゃろ……」

リリアンは物言いたげな視線を春馬に向けるが、春馬はそれを受け流す。はあ、と溜息を吐き話を続ける。

「まあよい。ヒトにも扱えるか。それはワシにも分からん。だが、ヒトが自然の力を使った、という記述は残されていない。ヒトはヒトとして工業的発展を選んだようじゃからな」

「工業的発展? 手作業の?」

「そんな訳なかろう。工業つまり機械じゃな」

春馬にはそれがどういうものなのか理解出来なかった。倭の国でも手作業による工業が発展して来ていた。だが、機械という概念が理解出来なかったのだ。

「機械ってなんだ?」

「うーん、お主の国は文明レベルどうなっているのじゃ?」

「そんなこと言われても」

「まあワシも具体的に何、と問われても答えるのは難しいが。エルフの国に機械は無いので見せることは出来ないしのう」

そうじゃ、とリリアンは何か思い出したようで、ふわりと高く飛んで行った。四階にある机から小箱を取って降りて来た。

「これは機械といえるか微妙じゃが、これに近いものだな」

そう言ってリリアンは小箱のに裏面に付いている金属の『耳』を回す。数回回した後、小箱の蓋を開いた。すると中に入っている円柱の金属が回り出し、音楽が流れだした。

「これは『からくり』か」

機械というのは「からくり」に近いものだろうか。倭の国にも「からくり」と呼ばれる人形があり、歯車や糸を使って個別の動きを繋ぎ合わせる。それによって人形が歩いているように見せたり、と一つの動きを生み出す。倭の国にもからくりの技師はいたが、それが発展するというのは想像出来なかった。

「『からくり』が何かは分からんが、歯車などを使って、手で行う作業を自動化させる。みたいなことを聞いたことがあるのう」

「運搬とかに使うのか? 歯車と歯車を布等でで繋ぎ、歯車を回転させることで布に乗せた物を運ぶ、みたいな?」

春馬はふと浮かんだ想像をリリアンに説明した。

「ほう、ハルマは意外に賢いのう。そういう機械もあるようじゃぞ。確かベルトコンベアとかって言うらしいぞ」

「べるとこん……」

「ああ、ワシが悪かった。お主は頭の切れは良いが、頭は悪いのう」

「うるさいぞ」

馬鹿にするリリアンの頭を春馬は満足するまでぐりぐりすることにした。


 「それで、なんで帝国はウィンドクリスタルなんてものを欲しがる?」

「おそらく機械の動力に取り組もうとしているんじゃろうな」

「動力?」

「ああ、このオルゴールの動力は手でネジを巻く。これが内部のバネに圧力を加えるのだ。そのバネが元に戻る力を動力に、ってお主聞いておらんな」

「分からぬ単語が出て来た段階で、俺の思考は停止した」

「つまりオルゴールを動かすには手で力を加える必要があるじゃろ? これをウィンドクリスタルを使って行う、みたいなことじゃろう。ワシも機械に詳しい訳じゃないが」

「なるほど。何か凄いやつってことは分かった」

春馬の答えを聞き、両手を広げて吐息を漏らす。

 「そんなことを知っても俺には役に立たんからいいんだよ。それで帝国による招集ってのはいつなんだ?」

「……明日じゃ」

「明日? いつ戻れるのだ?」

「戻れるか分からんのじゃ。そのまま帝国お抱えの研究者になれ、と言われる可能性が高いのじゃ。クリスタルに詳しいエルフは賢者くらいじゃからな」

諦めたようにリリアンは呟く。明らかに帝国に仕えるなんて嫌だ、といった様子だった。そんなリリアンを放っておけなかった。

「じゃあ、俺と逃げるか!」

「は、え? 何を言っておるのじゃ?」

「今日、この国から出てしまえばいいだろう? それでどこか違う国に逃げればいい」

「無茶を言うのう」

文句を言いつつもリリアンは笑顔を浮かべていた。そして腕を組み考えを巡らせていた。

 「帝国での一生と俺との逃避行なら、後者の方が断然魅力的だろう?」

悩んでいるリリアンの頬をつつきながら春馬は言う。

「それはもちろんそうじゃが、お主はいいのか? 帝国からは目を付けられ、ここには戻って来れなくなるんじゃぞ?」

「俺は構わんぞ。もともと流れ着いただけだからな。あー、アディには挨拶しないとな。世話になったからな」

「う、うむ。お主が良いなら、共に行こうかのう」

照れくさそうにリリアンは答えた。

「おう。なら早く出た方が良いな。今夜にでも出発しよう」

「今夜じゃな。分かった」

「じゃあ、俺は早速準備に戻る。夜には迎えに来るから寝るなよ?」

「子供扱いするでない!」

「ははは、すまんすまん。じゃあ、またな」

春馬はそう言ってリリアンの家を後にした。リリアンは春馬の後姿を嬉しそうに見つめていた。



 春馬は店に戻ると直ぐにアディを探した。客間にアディの姿はなく、厨房を探すがアディの姿は無かった。まだ開店まで時間があるので、料理人達は誰も来ていなかった。客席、厨房に居ないとなると上か、と春馬は二階へと向かう。

 階段を上っていると話声が聞こえて来た。

「広場で買い物をしていて聞こえたんだが、姫様がここに潜伏しているとバレているみたです。広場の騒ぎがありましたから朝から大勢のエルフ達が外に出ていましたからね。目撃されていてもおかしくない。それに姫様と騎士様の格好では、やはり目立ってしまうのでしょう」

「そうですか……それは困りました。私達はこの格好しか手持ちが無いのです」

「それならウチにある服で良ければ好きに使って下さい」

「何から何まで申し訳ありません」

春馬は階段の途中から盗み聞きをする形になっているが、マールが深々と頭を下げている様子が手に取るように分かった。

 そういえばマールは良く頭を下げ、感謝と謝罪を口にしていた。それは春馬の国の領主達とは少し違った。それでも付き従える者に命令するのは変わらない。そんな関係を見てしまうと春馬の心は荒んでしまう。嫌な記憶が甦ってしまうからだ。

 「部屋にある服は自由に使って下さい。それでは」

そうアディが口にすると扉の閉まる音が聞こえた。どうやら会話は終わったようだ。春馬は再び階段を上り、廊下にいるアディと遭遇した。

「おや、戻ってたのかい」

「今帰った所だ。それより、アディ話がある」

そう言って春馬はアディを自室へと連れて行った。

「なんだい改まって」

「俺は今夜、この国から出ようと思っている」

「えらく急だね」

「ああ、リリアンが帝国に声を掛けられているらしい。そのまま帝国に行ったら、もう帝国の研究者になってしまうかもしれない。だから俺がリリアンを連れて逃げようと思ってな」

「それをリリアン先生は何て?」

「俺と行きたいと言っている。まだアディからの借りを返せていない中で申し訳ないんだが」

「そんなのはどうでもいいんだよ。そもそもアタシは借りとかそんなのは要らないって言ってたんだからね。そうか、リリアン先生が春馬と行くってかい。お前も隅に置けないね!」

そう言うとアディは春馬の背中を叩き、大口を開けて笑った。

「痛いって。俺達はそんなんじゃない。ただ、何となく生きている俺がもう一度誰かの役に立てるならって思うんだ」

「そうかい。それならアタシは止めないよ。帝国なんかに殺されるんじゃないよ」

再び手を振り上げたので、春馬は再び叩かれると思い身構えたが、頭を撫でられただけだった。

「落ち着いたら帰っておいで。いつでも歓迎するぞ」

「あ、ああ。ありがとう」

少し気恥ずかしかったが、素直に感謝の気持ちを伝える。倭の国では自分の居場所を無くしてしまったが、ここで新たに帰れる場所が出来たことが春馬には嬉しかった。

 「今日は店のことはいいから、もう休みな。今夜出るんだろう?」

「ああ。何から何まですまない」

「いいんだよ。困った時はお互い様だよ。だからアンタの目の前で困っている人がいたら助けてやるんだよ」

「分かった」

「よし、じゃあお休み」

挨拶を交わし、アディは部屋から出て行った。

「ありがとう」

去ったアディの影に再び感謝を口にして春馬は眠りについた。



隣室からの物音が聞こえ、春馬は目を覚ました。窓から見える外の景色はすっかり帳が下りていた。部屋の扉を開けると一階から賑やかな声が聞こえて来た。まだ店は営業中のようだった。忙しい時に挨拶に行っても邪魔になるし、湿っぽいのは好きじゃない。それにきっとアディから話はされているだろう。そう思った春馬は一人店を出ることにした。

 「また帰ってくるんだ。その時に謝ろう」

そう口にして階段を下りて、そのまま出口へと向かった。誰にも会わず外に出るとアディが後から頭を叩いた。

「馬鹿もん! 一人でそっと出て行くなよ」

「悪い」

「はあ、まあアンタは格好付けたがりだからね。それでもちゃんと挨拶はして行くのが人情ってやつだろう?」

「そう、だな。悪かったアディ。行ってくる」

「行ってらっしゃい。いつでも帰っておいで」

いつもは男勝りのアディも優しい顔をして春馬を見送った。ああ、アディは母みたいだな、と本人に知られたら「アンタみたいなデカイ子供育てた覚えないよ!」と怒られそうなことを春馬は思った。

 これから何が起きるか分からないし、どうなるか分からない。それでも死ぬ前にアディには顔を出そう、と決意し春馬は夜の闇に消えて行った。



 「おーい、リリアン。来たぞー」

リリアンの家に到着し、春馬はいつものように声を掛ける。そういえば春馬は夜にリリアンの家を訪ねるのは初めて出会った。いつもならこの時間はアディの店を手伝っているからである。

 リリアンの家は明かりが一つも点いておらず、家中が真っ暗だった。

「おーい、リリアン。寝てるのか?」

声を掛けつつ手探りで箱型寝具を目指す。リリアンの家は何度も来ているので、前が見えなくてもある程度は進める。物に足を何度かぶつけながらも、何とか歩みを進める。

「今日来た時は片付いていたのに」

春馬と別れてから直ぐに散らかしたか、と苦笑いを浮かべつつ進んで行くと、ようやく箱型寝具に辿り着いた。だがそこにはリリアンの姿は無かった。

 「留守、な訳ないよな。正確な時間は伝えなかったが、夜に迎えに行くと言っていたんだ。すれ違いなるようなことはしないだろう」

そう独り言を言って頭を働かせる。しばらくリリアンが戻らないか待ちつつ考え事をしていると目が暗闇に慣れて来た。すると部屋の様子が段々と明らかになって来た。何度も足をぶつけたのはリリアンが散らかしたからではなく、リリアンが何者かと争った痕跡だった。

「くそ! 俺達の目論見が帝国に知られていたのか!」

慌てて家から飛び出し辺りを覗うが、近くには誰もいない。リリアンの家が町外れにあることが災いした。ここでは目撃者は望めない。

 「いや、待て。人さらいをするなら人目を避けるはず。それなら町の方へと向かうとは思えない」

そう考えた春馬は急いで町から飛び出して草原へと走り出す。そして町から出た時、草原の広さを呪った。ここから左に向かうと春馬は漂着した湖で、それ以外は何処へでも続いている。船を使えば湖すら渡れてしまう。背後以外の選択しか削除出来ていない。こんな状況で人探しなんてとてもじゃないが出来ない。それに何時リリアンが連れて行かれたのか分からない。リリアンを探し出すのは絶望的だった。それでも春馬は諦めなかった。ひたすらに走り周り、リリアンの行方を探す。きっとまた会えると信じて。



 夢中で探し回っていると金属音が微かに聞こえて来た。音のした方へと慎重に進んで行くと、一人の男が膝をつき、ボロボロになった剣を地面に突き刺してどうにか倒れないように保っていた。そしてその男の後ろには耳の形から察するにエルフが立っていた。どうやら男は後ろのエルフを庇っているようだった。

 「そんな貧弱な剣じゃ、このスチームソードには勝てんよ」

その対面に立つ外套に身を包んだ奴等が三人見えた。暗闇で良く見えないが、広場で見かけた外套の連中だろう。その男が持つ武器は異様であった。形は片刃の刀剣のようだが、鍔の付近に細い管が出ており蒸気を噴出している。それに連動するようにその太い片刃は回転していた。

 その時、雲に隠れた月が顔を出し、その姿を現した。膝をつき今にも倒れそうな男はジレスで、その後ろに立つエルフはマールであった。

 春馬が起きるきっかけとなった物音は二人が酒場から逃げ出した時のものだったのだ。

 二人に構っている時間は無い。こうしている間にもリリアンは遠くに連れていかれてしまう。だが春馬は和傘を開き、肩に掲げて両者の間に割って入っていた。

 

 「なんだてめえ」

「いやいや、今日は良い満月が出ているんでな。ついつい散歩を」

「はあ? 関係ねえヤツは引っ込んでな。だがまあ、見られたからにはお前も……」

外套の男が話している最中。春馬は思い切り和傘を上空に放り投げた。その和傘につられるように上方を見上げる。

――春馬以外は。

「こんな月の出る夜に傘って、お前はバカなのか?」

そう言って外套の男達は春馬を馬鹿にしたように笑っていた。

 落ちて来た和傘を宙で掴み、そして肩に担ぐ。

 ――小さく金属の音が響いた。

 春馬は背を外套の男達に向ける。

「いや、雨だよ。」

春馬が背を向けた刹那。男達の首が裂かれ、大量の血が春馬へと降り注ぎ、小気味良い雨音が辺りに響いた。



 和傘を閉じ、表面に付いた血を払うために春馬は大きく和傘を振るった。その手慣れた動作にマール達は少したじろぐ。それもそうだ。今の一瞬で目の前の帝国兵が死んだのだから。それにマールには春馬の意図が見えなかった。一度、アディの店まで案内してくれたことはあったが、それ以降会話もしていない。それどころか、春馬はマール達を嫌っている風であった。春馬の殺意が自分達を襲わないという保証はないのだ。

 マールとジレスの間に緊張が走る。だが、そんな二人を尻目に春馬は和傘を再び担ぎ直すとその場を後にしようとしていた。そんな春馬を見てマールは慌てて春馬に声をかける。

 「あの! ハルマさん!」

「ん? なんだ?」

「その、危ない所を助けて頂き、ありがとうございます」

「気にするな。通りがかりで目に入っただけだからな。じゃあ、俺は急ぐから」

そう言って駆け出そうとする春馬をマールは再び止める。

「お待ちください」

「なんだ? 悪いが俺は今、急いでいるんだ」

春馬は苛立ちを隠せない、といって様子でマールに向き直る。

「ハルマさんが急いでいる理由はリリアンさんのことですね?」

「なぜお前がそんなことを知っている?」

警戒心をマールへと抱き、無意識の内に和傘を握る手に力が入る。そんな様子を感じたジレスはボロボロな体に鞭を打ち、剣を持ち上げて春馬に対峙しようと腰を上げた。それをマールは手で制する。

「お待ちなさいジレス。それではハルマさんを刺激するだけです」

「しかし……」

「良いのです」

仕える主人にそう言われてしまっては剣を納める他なかった。ジレスは渋々構えた剣を下げる。その様子見て納得したように頷き、再び春馬へと向き直る。

「ハルマさんがリリアンさんと親しくしているとアディさんに伺いました」

「それだけで俺がリリアンを探していると分かって言うのか?」

春馬の問いに黙って首を横に振る。

「もちろんそれだけではありません。私達を襲った目の前のお三人。この方々は帝国人です」

「帝国? じゃあ国王を殺した犯人っていうのも……」

「同様の格好をした帝国人です。どうやら私達がアディさんのお店に隠れていることを知り、わざと噂を流したようです。私達はまんまと帝国流した噂に流され逃げ出してしまいました。そして人気がなくなったこの場所で帝国人に襲われていたのです」

「なるほどな。だが、それとリリアンのことはどう繋がる?」

「先程のお三人が口にしていました。『隊長達はエルフの賢者を連れているから陽が昇らない内に森を抜けてしまう。遊んでいる暇はないんだから早く止めを刺せ』と」

「エルフの賢者はこの国にはリリアンしかいない!」

春馬の言葉に黙って頷く。それを聞き春馬は急いで森へ向かおうとするが、またマールに止められてしまう。

「お待ち下さい」

「まだ何かあるのか?」

「慌ててはなりません。森は日中でも陽が射さないような場所です。土地勘のない方が一人で入っても迷ってしまいます。それに加えてグリフォンという危険な森の主もいます」

「だとしても行くしかないんだ」

「わかっております。ですから私達に同行させて下さい」

マールの突然の申し出に春馬は目を見開いた。

「理由を聞いてもいいか?」

正直、春馬にはマールが同行する理由が皆目見当つかなかった。危険を冒してまで春馬を助ける理由はないはず。先程、助けられた恩返しのつもりなのだろうか。

 「森を抜けるとそこはファイヤーエルフの国があります。そこは私の叔父様が治める国なのです。私達は元々そこへ向かおうと考えておりました。国を失った私達が頼れるのはお父様のお兄様しかおりませんからね」

マールは少し悲し気に笑った。

「勿論、先程助けて頂いたお礼でもあります。しかし、本心を言うとハルマさんにご同行頂ければ心強いというのもあります」

春馬の顔を覗うようにしてマールは言葉を続けた。そんな風に頼られたら断れないじゃないか、と春馬は溜息を吐く。だが、それは嫌な溜め息ではなく、腹黒いやつだな、という呆れ半分、笑い半分だった。桜も春馬に何かをさせる時、外堀から埋めて断れなくしてから依頼する、という腹黒交渉術を使っていた。やはり、内面が少し似ているのだろうな、と春馬は思った。

「そうか。じゃあ、案内を頼もうかな」

「ええ、お任せ下さい!」

「森を抜ける間、よろしく頼む」

「こちらこそ、よろしくお願い致しますわ」

そう二人は言葉を交わし、『握手』をした。

 森の中は月の光も届かず、まさに一寸先は闇といった状態だった。春馬は転ばないように歩くだけで精一杯だったが、エルフの二人は足取り軽やかに進んで行く。

 「どうして二人はそんなに易々と進めるんだ?」

春馬が抗議に近い問いを二人に投げかける。

「私達は風のエルフですから、進む道も風が導いてくれるのです」

マールの答えは春馬は理解は出来たが、納得は出来なかった。エルフには風という案内がついているが、春馬は二人の後ろ姿を目で追うしかない。目を細めてようやく二人の姿が見えるくらいなのだ。春馬の気持ちとは裏腹に歩みは遅くなる。

 「どうしたんだハルマ殿。先程は目にも留まらぬ速さで帝国を切り伏せたというのに、今のハルマ殿は亀のようだ」

「仕方がないだろう。俺には風の導きなんて分からないんだ。それにさっきのは不意打ちをしただけだ」

「不意打ち?」

「俺が投げた傘に気を取られ、視線が上がっている隙に刀を振るっただけだ」

そう言って春馬は和傘に仕込まれた刀を抜いて見せる。

「つまりハルマ殿は騙し討ちを行った、と?」

「これを騙し討ちというなら、確かにそうだろうな」

王道ではなく邪道。ただの暗殺術で剣術なんかではない、と春馬は言った。それにジレスは憤りを見せた。

「そんな反則技など騎士道精神に反するぞ!」

「当たり前だ。俺に騎士道精神なんて高尚な物は持ち合わせていないからな」

「ハルマ殿に感激していた自分が愚かだった! そんなことなら助けて貰わず!」

「死ねば良かった、ってか。お前はそれでいいかもしれんが、お前の主人はどうなるんだ」

「それとこれとは話が別だ! 俺が言いたいのは志の話だ! やはりハルマ殿も帝国人と変わらぬヒトなのだな」

ジレスは軽蔑を浮かべた視線を春馬へと向ける。だが、そんな視線も主張も春馬は受け付けなかった。

「同じ話だよ。お前は主君と騎士道精神とやらのどちらかしか選べない時、どっちを取るんだ?」

「それはもちろん姫様に決まっている!」

「そうか。それなら俺の行動は正しい。いいか? 主君を守りたいならお前のプライドなんぞ、犬にでも食わせておけ」

そう冷たく言い捨てるとジレスは苦虫を噛み潰したように表情を曇らせた。春馬の言葉はジレスにとって、まさに苦虫だったのだろう。春馬の言っていることは正しい。ジレスの主張も間違っている訳ではない。ただ、それは力あるものが出来ることで、勝てない相手に正面からぶつかって主君を死なせては本末転倒である。

 「確かに、確かに! ハルマ殿の言い分は理解出来る。だが! 俺はハルマ殿は嫌いだ!」

それだけ告げるとジレスはそっぽを向いた。そんなジレスに溜息しか出ない春馬だった。

 「ふふふ、仲が良いですわね」

ケンカする二人を見てマールは堪えきれず笑いが零れた。

「どこをどう見て仲が良いんだよ」

マールに対して呆れながら答える。そんな春馬も面白いのか再び笑いが溢れるようだった。この姫様は笑いのつぼ、というか感性がおかしいのだ。そもそも計算高い腹黒だと、初対面の時に思ったな、と春馬は思い出していた。

「ご自身の言いたいことを相手にぶつけられる、というのは心を許している証拠ですわ」

「または相手が心の底から嫌いな場合、だな」

春馬の言葉を聞いて、無言で頷くジレス。ああ、そういう所が仲良いって言われるんだぞ、と春馬は苦笑いを浮かべる。

 「ジレスはヒト嫌いなのです。正確には帝国人ですが。そんなジレスがこうしてハルマさんと同行している。これだけで仲良しと言っても過言ではないのですよ?」

「ああ、もう好きにしてくれ。仲良しでも親友でも、何でもいい」

この姫様は自分が思った通りになるまで諦めない性質だ、と気付き春馬は抵抗することを止めた。別に仲良しだと思われても支障はなかったのだ。

 ケンカする気持ちも萎えた時、ふと春馬は歩くことが容易になっていることに気付く。マールだけでなくジレスも春馬に合わせて歩みを遅らせていたのだ。主従関係なんて糞食らえと思い、二人を見ていると腹が立ってしまう春馬だったが、何も言わずに歩幅を合わせてくれる二人を見ると穏やかな気持ちになるのだった。


 森をしばらく歩いているとマールが春馬に尋ねた。

「ハルマさんは以前騎士でしたの?」

「騎士か。俺の国では武士という名前だが、確かに俺は武士だったな」

「やはりそうでしたか。ジレスとの言い合いを聞いていたら、きっとそうだったでしょう、と思いましたわ」

「昔の話だ」

本当はそこまで昔ではなく、ほんの数日前まで春馬は武士だった。だがそれは名目上武士であっただけで、主君に仕える心はずっと前に失っていた。

「それでは今はどなたにも仕えていない、ということですわね?」

「……まあ、そうなるな」

マールの言うことが予想出来て、春馬は口を開くのが重くなった。だから頼まれる前に春馬は断りを入れることにした。

「先に言っておくが嫌だからな? また誰かに仕えるなんて」

「まだお願いもしていないのに断るなんて。まあ、それでも言おうとしていたことはあっていますけど」

マールは不満気に頬を膨らませる。エルフは見た目と実年齢が伴わないが、それでも見た目相応の精神年齢であることがリリアンとマールからうかがえる。マールの頼みが友達になって欲しい、とか仲間になって欲しいなら春馬も聞いていたかもしれない。だが春馬にとって誰かに仕えるなんてことは有り得ないことで、主君を殺した自分が誰かに仕える権利など無いとも思っているからだ。

 マールにそんなことを言っても仕方がない。そう思った春馬はお茶を濁すことにした。

「騎士ならジレスがいるだろう。そんなに何人も何人も増やしても仕方があるまい。ジレスも良い気はしないだろう」

「あら。私が誰にでも声を掛けていると思っております? 気に入った方にしかこんな話はしませんよ?」

そんなことを言うとジレスは嫌な顔をしているだろうな、と春馬は横目でジレスを見ると、思った通り苦虫を噛み潰していた。

「俺はジレスのように正面切って戦う力も技術もない。俺の不意打ちなんて一度しか通じないし、見破られたら終わりだ。それに騎士なんてものは心から忠誠を誓う者にさせるべきだ」

ある程度であれば春馬も真正面から戦うことは出来る。それは春馬の吐いた嘘だったが、誰を騎士にするか、というのは本心だった。

「マールが心から信頼の置ける相手を騎士にするんだな。じゃないと寝首をかかれるぞ」

「ご忠告ありがとうございます。それでも私はハルマさんを信じていますよ? 二度も助けて頂いた相手を疑うなんて私には出来ませんわ」

そう言って屈託なくマールは笑う。その純粋な笑顔が桜を思い出させ、春馬の断る気持ちが少し折れそうになった。だけど、それでも主従関係というのは好きになれない。

 色んな思いが春馬の心を駆け巡り、悲しみや葛藤などが合わさった複雑な表情を春馬に浮かばせた。

「すみません。ハルマさんを追いつめるつもりはありません。ただ、そうなってくれたら嬉しいと、思ったのです」

そんな春馬の気持ちを汲み取ってか、マールは申し訳なさそうに謝った。マールの態度が春馬に良心の呵責を感じさせる。

「悪いな。別にマールが嫌いとかジレスが嫌だって訳じゃないんだ。昔のことがあってな」

 それでこの話は終わりだと言わんばかりに会話が止んだ。三人は黙々と歩みを進め、森の中心部へとやって来た。



 森の中心部へ辿り着くとジレスは警戒を強め始めた。

「姫様、もう直ぐ中心部です。ここからはグリフォンの住処です」

「そうね。グリフォンは昼行性の生き物ですから静かに進めば刺激することはないでしょう」

「ハルマも分かったな? 起こさないように慎重に進むんだぞ?」

春馬にはグリフォンが何か分からなかったが、森の主で危険生き物だということは分かっていたので素直に頷いた。

 慎重に歩みを進めていくと森の異変にジレスが反応した。

「森が荒らされています。おそらく帝国人が森を抜ける際、真っ直ぐ切り抜けるために薙ぎ倒して行ったのでしょう」

大きな神輿が無理矢理通ったように木々が左右に切り倒され、大きな道が作られていた。一方は風の国へと続く道で、もう一方は火の国へと続いているのだろう。何の迷いも無く、一直線に道は続いていた。確かにこれなら案内人などいらないし、迷うことなく森を抜けられる。エルフ達が帝国人を野蛮だと言う理由も分かる気がする。倭の国にも表れた南蛮人が、エルフにとっての帝国人のような存在なのだろう。急に現れ、全てを奪う野蛮なヒト。帝国人は倭の国に現れた南蛮人と同じかもしれないな、と春馬は思った。

 「これは危険です。森を荒らされてグリフォンが黙っているとは思えな――」

ジレスの言葉途中で聞こえなくなった。鳥のような鳴き声にかき消されたのだ。その声は春馬がこの世界に漂着した時に聞いた生き物の声と同じだった。

 「グリフォンが起きているようです。危険ですので姫様は自分から離れないようにして下さい」

「え、ええ。分かりました」

森に慣れ、風と共に生きるエルフもグリフォンの存在は恐ろしいらしく、二人に緊張が走っていた。マールも素直にジレスに従っていることで、事の重大さが分かる。倭の国にも羆など大きな生き物が人間を襲うといった話は聞いたことがあるが、それでもここまで警戒はしない。春馬はその姿が想像出来ず、二人のように緊張することはなかった。羆くらいならば男二人でかかれば仕留められるだろう。そう春馬は思っていた。

 「――大きいな」

だからだろうか。グリフォンを目の前にしても、そんな簡単な感想しか春馬には浮かばなかった。

 グリフォンの声を聞いて鳥の鳴き声のようだ、と思った春馬は間違いではなかった。頭はまさに鷹だったのだ。そして体は馬のような大きな体に、四本の足が地についていた。そしてその馬の身体からは大きな羽が生えていた。それは鷲だと考えるなら普通であるが、馬だと考えるならおかしい。だが鷲だと考えるなら羽は普通でも四本の足と馬の胴体はおかしい。それに良く見ると馬の身体ではなく、大きな猫のような体をしていた。それが馬であろうが猫であろうが、倭の国にこんな生き物は存在しない。馬の胴体かと春馬が勘違いしたのは、その体の大きさゆえである。前脚の鋭い爪、尖った大きなくちばし。一目見て危険な生き物だと分かる。

 春馬はグリフォンを初めて見て呆けていたが、ジレスは静かに両刃の大剣を構えていた。そんなジレスを嘲笑うかのようにグリフォンは大きく飛躍した。その動きはまさに猫。体格からは想像も出来ない俊敏さで三人を軽々と飛び越える。そしてグリフォンが飛んだ刹那、突風が三人を襲う。

 ジレスは何とか踏ん張り堪えるが、その風に煽られ、マールは飛ばされそうになるが、春馬がマールを支えて耐えた。そのまま飛ばされていたら、グリフォンの目の前に転がっていた。目の前の危機は何とか回避出来たが、危険の火種はまだ消えていない。

 グリフォンは再びこちらへと向き直ると不満気に声を上げる。その迫力に圧倒され、春馬は竦みそうになる。二人も何とか気力を奮い立たせ耐えているが、内心は恐怖でいっぱいだろう。この二人はここ数日で何度命の危機に晒されているんだ、と春馬は不憫に思った。その思いが二人を生かすのだ、という気持ちに変える。春馬も和傘から刀を抜き、中段で構える。グリフォンに不意打ちが決まるか分からない。もし駄目だった時、呆気なくやられてしまう。それならば迎え撃つ形の方が勝率は高い。そう春馬は判断したのだった。

 「ハルマ殿はちゃんと戦えるではないか! その構えは隙がなく、長年の経験を感じさせる。やはり、俺に嘘を吐いていたな!」

こんな時でもジレスは騎士の精神を振りかざし、春馬を糾弾しようとしていた。

「わかったわかった。後でいくらでも聞いてやるから」

そんなジレスに呆れつつも、少し体の緊張が解れた。だが、グリフォンは冷静になったからといって簡単に勝てる相手ではない。そもそも勝てるかどうかも怪しい相手だ。ここはやはりジレスと協力しなければ切り抜けられない。そう思った春馬は横目でジレスを見る。春馬の目には苦しそうに剣を構えるジレスが映った。

 「お前、大丈夫か?」

「大丈夫だ――と言いたい所だが」

帝国兵と戦った時の傷が残っているのだろう。剣を構えるだけでやっと、といった様子だった。これはジレスとの協力は見込めない。それどころか、ジレスに戦わせてはいけない。真正面からぶつかることしか知らない頑固物に待っているのは死だけだ。

 そんなにお人好しだったか? と自分で自分に問いかけるが、まあエルフだからか? といった考えしか浮かばなかった。この異世界に流れ着いた時、誰にも貸し借りを作らず、一人で生きて行こうと思ったのに、よく分からない関係をいくつも作ってしまった。そういうのはもう嫌だと思ったのに、嫌な気持ちはしていない。

 だから春馬は決心した。この二人を生かす、と。

「この鳥は引き受ける。さっさと行け」

春馬はそう二人に告げる。グリフォンと一人で対峙した場合、死ぬ可能性が高い。元々死ぬ運命だった自分の命なら、二人を生かすために使った方が良い。ただ気掛かりなのはリリアンのことだった。

「リリアンのことは頼む」

それだけ託すと春馬は決死の覚悟を決めた。

 だが、二人からは逃げ出す気配がしない。どうしたことかと横目でジレスを見る。

「馬鹿なことを言うな。騎士としてハルマ殿を見捨てて行ける訳がないだろう」

「馬鹿はお前だ! その傷じゃ足でまといなんだ。さっさとお前の姫様を連れて逃げろ!」

「ふん。そんなことは俺が一番良く分かっている」

春馬の罵声を受けてもジレスはただ苦笑いを浮かべるだけだった。

「分かってるならさっさと逃げろ。こんな鳥ごとき、俺一人で十分だ」

「本当にハルマ殿は嘘つきだな。本来であれば俺とハルマ殿が本気を出して倒せるかどうか、という相手だ。一人では決して勝てない」

「……まあ、そうだろうな」

騎士としての経験から、相手の力量は分かるようだった。だったら尚更、早く逃げろと春馬は思い、苛々し始めていた。

「それが分かっているなら逃げろと、何度も言っている」

「それは騎士として看過出来ないと言っている」

お前の騎士をどうにかしろ、という念を込めてマールに視線を送る。だが、マールは何かを察してか悲しい顔をしていた。

 グリフォンは再び飛び掛かる。春馬は体を瞬時に転がして回避するが、ジレスは剣で鋭い爪をいなしていた。片膝を着き、なんとか倒れないように耐えていた。

「このままじゃ犬死だ。お前の騎士道は認めるが、このままじゃお前の姫様も危ないんだぞ? 騎士としての精神より、姫の方が大事だって言ってただろう?」

ジレスを責め、早く逃げろと春馬は強く訴えるが、それでもジレスは逃げようとしない。

 「グリフォンは肉食の生き物だ。血の匂いに敏感で、一度獲物を捉えたら決して逃さない」

そう言ってジレスは自分の肩を見ろと視線を春馬に送る。それにつられて視線をジレスの肩に移すと、そこからは滲むように血が溢れていた。暗闇で気付かなかったが、ジレスは帝国兵との戦闘で負傷していたのだ。

「お前、そうと分かったなんで……」

「俺の騎士としての誇りが邪魔して怪我をしているから休ませて欲しいなんて言えなかった。これは俺の自業自得だ。それに姫様とハルマ殿を巻き込むわけにはいかない」

「何を言っている?」

「残るのは俺ってことだ。こんな傷を負った俺が姫様を守れる訳がない。だからハルマ殿、姫様を頼む」

そう言うと、ジレスは血の滲む服を破った。春馬ですら感じれるほど、血の匂いが溢れて来た。それに反応し、グリフォンは興奮し出した。

「早く行くんだハルマ殿! 姫様、こんな騎士をお許し下さい」

そしてジレスは剣を捨て、残る力を振り絞り、来た道へと思い切り駆け出して行った。それにつられてグリフォンは残された二人に目もくれず、ジレスを追って駆けて行った。

 「行きましょう」

固まる春馬にマールはそう声を掛ける。その声を聞いた春馬は我に返り、マールの先導に従って森を進んで行く。

 森には不気味な鳥の鳴き声が木霊した。



 森の暗闇を無言で二人は歩いて行く。もう何時間も歩いた気もするが、数分しか歩いていない気もする。そんな不安定な精神状態で春馬はマールに付いて来ている。自分の騎士がいなくなっても変わらず歩けるマールが春馬には少し怖かった。出会って間もないのに、ジレスとの別れが辛く、胸が痛いののだ。マールなんて立ち直れない程落ち込んでも不思議じゃない。それなのに春馬に先に進もうと声を掛けたのはマールで、春馬より足取り確かに歩いている。そこには桜の面影は感じず、当たり前なのだが、やはり別人なのだと改めて思う。

 春馬は無言に耐えられず、マールに声をかけることにした。

「辛くないのか?」

もっと気の利いた言葉を掛けれれば良かったのだが、と口にしてから春馬は反省した。

「とても辛いですわ。それでもジレスの気持ちを尊重しています。私の騎士はやはり騎士であったと誇りに思います」

「そう、だな。確かに彼奴は正真正銘の騎士だ」

良い意味でも悪い意味でもな、と春馬は苦笑いを浮かべる。自分の命よりも大切なものがある、というこは春馬にも理解出来る。だけど、やはり残される側は辛いものがある。

 「それに私は成さねばならないことがありますから。ジレスの犠牲を無駄にしない為にも、ここで立ち止まる訳には参りません」

マールがここまで強くあれるのは、その成すべきことがマールを支えているからだろうか。だが、マールの決意は見たことある気がした。思い通りでないことを内心祈りつつ、春馬はマールに問う。

「成すべきこととは?」

「それは帝国への復讐です――」

喜怒哀楽のどれでもない、無の表情でマールは『復讐』と口にした。嫌な予感が的中し、春馬は口を挟まずにはいられなかった。

「復讐は何も生まないぞ」

相変わらず口下手な自分に嫌気が差す春馬だった。そんな在り来たりな言葉で復讐心を抑えられるはずがない。

「ええ、わかっておりますわ」

そう悲し気にマールは答える。そうなのだ。春馬も以前に復讐を宿した時に同じ言葉を言われ、もちろん理解は出来たが納得は出来なかった。一度復讐心に取り憑かれた者は鬼と化し、生きる意味や理由を全て復讐へと注いでしまう。鬼を払うには復讐を成し遂げるしか方法は無い。そんなことは春馬にも分かっていたはずなのに……。

 自分も昔はそうだった、と同情しても鬼は消えない。春馬も自身の鬼を最後の時まで消すことは出来なかったのだ。ならば復讐の手伝いをすればいいのか、と思うがそれは本当に何も生まず、精神の死をもたらす。己の全てを復讐に捧げ、それを成し遂げた時、鬼と共に心も消える。新たな世界に希望も無く、死すらもどうでも良くなる。

 それが分かっているからこそ、手を貸すことも出来ない。だからといって鬼を払う術も知らない。

 春馬に今出来ることと言えば、マールを無事に送り届けることしかなかった。

 黙って歩く春馬に、今度はマールが声を掛けた。

「ハルマさん、私の騎士になってくれませんか?」

その発言は春馬には衝撃を与えた。ジレスが命を賭して二人を逃がしてくれたばかりだというのに、もう春馬に新たな騎士となって欲しいとマールは言っているのだ。

 我に返りマールを見ると、悲し気な笑顔を浮かべていた。自分でも言っていることの意味が分かっていて、それでもその言葉を口にしているのだ。まだ心は完全に鬼に支配された訳じゃない。

 これが正解なのか春馬には分からなかったが、口下手な自分が変に言葉を凝らすより、自身の経験を言う方が意味を持つだろう、と春馬は思い口を開く。

「俺は昔、主君に仕える武士、つまり騎士だったんだ。俺の実家は先祖代々刀鍛冶でな。俺はその長男で、本来ならば俺は刀鍛冶の修行をして、家を継がなければならなかったんだ。だけど見ての通りの怠け者で、そして不真面目でな。親父の言うことを聞かず、刀ばかり振っていたんだよ。それを見た当時の主君様が俺を気に入ってな、騎士として俺を雇ってくれたんだ」

春馬の言葉を何も言わず、マールはただ黙って聞いていた。春馬は歩きながら言葉を続ける。

「俺には一人妹がいてな。その妹が俺の代わりに家を継いでくれたんだ。妹は『兄さんの好きなようにして下さい』と笑顔で俺を見守ってくれてな。俺の刀も妹が打ってくれたものなんだ」

大切に握る和傘に仕舞われた刀を見て春馬は笑う。桜を思い出し、懐かしい気持ちを春馬は抱く。

「俺が武士になって親父は嫌な顔をしていたが、妹は『良かったですね』と自分のように喜んでいたな。俺が真面目に働くようになって嬉しいと言ってたんだ。俺の昼飯はいつも妹が作ってくれていたんだが、ある日俺はその弁当を家に忘れてしまったんだ。妹は俺が腹を空かせては可哀想だと、持って来てくれたんだ。それが俺達の未来を決めた。主君が妹に一目惚れしたらしく、妾にしようとして妹に声が掛かったんだ。それを『私は兄を慕っております』と断ったんだ。それを聞いた主君様は大変怒り、妹を切り伏せてしまったんだ。それでも妹は『私を忘れて幸せになって下さい』と最後まで笑顔を俺に向けてたんだ」

形見である桜の刀を見て、胸を痛めながらも話を続ける。

「そこから俺の人生は変わった。ただ主君様に復讐する、と。妹は幸せになって欲しいと願っていたのに、俺はその真逆である復讐を選んだんだ。そこから俺は今までの自分が嘘のように、ただひたすら真面目に主君様に仕えて来た。俺は傘持ちとして側に居られるほどに地位を上げた。そしてこの仕込刀で主君を討ち、復讐を遂げた。主君を殺めた時、全ての想いが消え、残ったのは虚無感だけだった。俺は復讐に全てを捧げ、何もかも捨ててしまったからな、当然だ。俺は極刑として島流しにされた。そしてこの国、この世界に漂着したんだ」

 春馬の告白を聞き、マールは複雑な表情を浮かべていた。

「なぜだろうな。お前に妹の面影が重なるんだ。種族も見た目も全然違うのにな。だからか分からないが、お前に俺のように堕ちて欲しくないと思う」

「そう――ですか」

それきりマールは口を閉ざした。二人の間には再び沈黙が流れる。

 前方に光が見え始めた。森はもう直ぐ終わりのようだった。



 森を抜けると肌寒く感じる程、ぐっと気温が下がっていた。目の前に見える山々は雪化粧に彩られている。森に居たから感じなかったのか、それとも森が防寒の役割を担っていたのか。

 火の国とマールが言っていたので熱い国を想像していたが、どうやら雪国のようだな、と春馬は思った。

 マールは雪山に向かって歩いている。山越えをするのか。それにしては装備が軽装過ぎる。凍死しないだろうか、と春馬は少し心配になった。

「この近くに町でもあるのか?」

「いえ、ここから一番近い町、というより国は火の国です」

「火の国ってのは山を越えるのか?」

「それも違います。火の国は目の前に見える山に沿って作られた国です」

マールの言っていることが正しければ間違いなくこの服装で行けるような場所ではない。和装というのは見た目よりは暖かいが、雪国に行けるような格好ではない。それにマールの格好もやはり雪国には適していない。

 春馬が腕を擦りながら雪山を見ていると、マールは何かに気付いたようで口を開いた。

「春馬さんは火の国はご存知ではないのですね」

「ああ。俺は風の国ですら良く知らないからな。というかこの世界のことはほとんど知らないぞ」

世界という単語に違和感を覚えていたようだったが、気にせずマールは答える。

「火の国というのは名前の通り火のクリスタルを中心にして栄えた国です。火のクリスタルの加護があり、風の国より暖かい、というより熱いというのが正しいですね」

「クリスタルか」

風の国に風のクリスタルがあるように、火の国にもクリスタルがあるらしい。その時、春馬の頭にある考えが過った。

「ちょっと待ってくれ。火の国にもクリスタルがあって、帝国が向かった先も火の国だったよな。それなら火の国も危険なんじゃないのか?」

「――まずいですわ」

春馬に指摘されるまでマールも気付いていなかったようだ。この数日、命を狙われ続けていたのだから仕方がない。だが、その可能性があるならマールは火の国に行くべきではない。春馬にはリリアンを探すという目的があるが、マールは帝国に見つかれば再び命に危険が及ぶ。

 「マールは火の国に行かない方が良いと思う」

春馬は思ったことをそのまま伝える。

「ええ、そうかもしれませんね」

そう言っているのにも関わらず、マールは火の国へと向かう歩みを止めようとしない。

「分かっているんだろう? 火の国には帝国がいるかもしれないし、また襲われるかもしれないんだぞ?」

「その時はその時です。火の国の叔父様以外に頼れる当てはありません。どちらにしても火の国へと行けなければ私の復讐は成し得ません」

やはりマールは自分の命より復讐に重きを置いている。いや、復讐以外に考えることを止めているのだろう。

 「俺の話を聞いても止める気は無いんだな?」

「ええ。私もこの道を歩んだ先に何が待っているか分かっています。それでも進むしかないのです」

そう言ってマールはやはり悲し気に笑う。その笑顔を見て春馬は気付く。まだマールには感情が残っている、ということは完全に鬼に取り憑かれてはいない。春馬が鬼に取り憑かれた時、感情も何も浮かばなかった。春馬の見える世界は全て色味を失い、何があっても心に響くことはなかった。

 「――俺が騎士になったら復讐は止めるか?」

気付けばそんなことを春馬は口にしていた。春馬は主君に辛い思いをさせられて、復讐まで果たした。いくら相手が違うと言っても誰かに仕えるということに変わりない。主君に命令されれば逆らわず、従うしかない。春馬も主君は恨んだが、実際に手を下した武士に恨みは抱かなかった。桜は主君の理不尽な我儘に殺されたのだ。主従関係に良い気持ちを思っていないのは間違いない。

 それでも鬼に堕ちようとするマールを救えるのなら、と春馬は思ったのだ。

 マールにも春馬の気持ちは伝わっていた。でもマールの答えは決まっていた。

「ごめんなさい。私は何を犠牲にしても復讐を成し遂げます。私の命が潰えるまでは!」

「そうか……」

知り合って間もない自分が仕えたところで復讐心が消える訳がないか、と諦めせめてマールを無事に火の国へと送り届けよう。そう春馬は決意した。


 雪山に向かえば向かうほど、気温が上がっていた。それなのに足元には雪が薄く積もっている。この世界の雪は暖かいのか、と雪に触れてみるがやはり冷たかった。外気だけが何故か暖かい。これがクリスタルの加護というやつなのか。

空を見上げると雪が降り始めて来た。雪が降るということは上空は見た目通り寒いのだろう。

 しばらく山を上って行くと、ある一定の場所から線を引くようにして雪が積もっていない場所が目に付いた。そこに足を踏み入れると、まるで初夏のような空気を感じた。

「暖かいっていうより、熱いな。マールの言っていた通りだな」

「そうです。火のクリスタルから球を描くように加護が働いていて、初夏のような気温を常に保っているのです」

火のクリスタルの加護下に入ると目の前には大きな都市が見えて来た。降りしきる雪が都市を隠していたのだろう。加護下に入らないと都市が見えないようになっている。

「帝国が火の国を見付けられない、ということはないのか?」

「可能性はありますが、火の国を知らなければただの雪山です。そんな場所に帝国が向かうとは考えにくいですね」

「存在を知らなければ、ここへは来ないということか」

ならば火のクリスタルの加護下に入ったら帝国兵に襲われる危険が増す。ここからは慎重に行動しなければ、と春馬の緊張が増した。

 警戒しながら歩みを進めて行くが、帝国による奇襲はなかった。そして何事も無く、火の国の関所が見えて来た。

「そこの二人、止まれ。よそ者だな? 火の国に何用だ?」

火の国の門番に声を掛けられた。

「私は風の国の王女、マールです。叔父様に面通りを願いたいのですが」

何を言っているんだ? という顔をして訝しんでいた門番だったが、マールの顔を見て驚き、慌てて姿勢を正した。

「これは失礼致しました。今、陛下に話しを通して参りますので、中に入ってお待ちください」

そう言ってマールを関所の控室へと案内する。春馬もマールと共について行く。そして口を開く。

「俺の役目はここまでだ」

「そう、ですわね。すみません、どうもありがとうございました。この御恩はいつか必ず返します」

「気にするな。元気でな」

 簡単な別れを済まし、春馬は控室から退出する。こうすることしか出来なかったんだ、と自分を納得させる。それに自分にはリリアンを探すという目的があるのだ、と言い聞かせて城下町へと向かうことにした。

 「おい、お前……。ああ、なんだ」

関所から出ようとした際、門番のエルフに声を掛けられた。だが、春馬の姿を確認すると一人納得し、用は無いといった様子で立ち去った。ヒトがエルフの国にいて驚いたのだろうか。何か引っかかったが、気にしても分からない。それに変に蒸し返して追い出されたらかなわない。

 火の国の城下町は風の国と比較すると縦に大きな建物が多かった。山の斜面に国があることから土地の狭さを補うための知恵だろう。それに建物の屋根からは銭湯のような煙突が建ち、煙が立ち上っていた。

 こんな広い町で人探しをするのは困難だろう。しかも帝国兵は人目を避けて行動する。普通に探しても見つからないだろう。とは言っても、まずは情報を集める必要がある。町で情報が集まる場所といえば酒場だろう。風の国でも行商人達はアディの店に来て情報交換をしたり、常連の世間話など情報に溢れていた。それを思い出し、春馬はリリアンに習ったエルフ語を使って酒場を探す。エルフ共用語というだけあって、火の国でも同じ言葉が使われていた。

 「すまない、酒場の場所を教えてくれるか?」

「あ? ああ、アンタ達か。酒場なら東通りにあるぞ」

「ん? ありがとう」

 ――まただ。

 「東通りっていうのはここを真っ直ぐでいいのか?」

「お、おお。そうだ。……やっぱりヒトがいるってのは慣れないな」

 ――これで何度目か。火の国のエルフに声を掛けると驚いた反応をされ、その後普通に会話をしてくれる。風の国でも初めての相手には驚かれたが、それは好奇心から来るもので、この国のエルフ達は恐怖から来る驚きである。

 帝国が来ていることと関係があるのか? そう考えるが、それでは話が繋がらない。帝国に敵対し、恐怖しているのなら普通の会話は成立しない。そもそも入国すら出来ない、という状況でなければおかしい。関所ではマールに付いていたから、という理由で納得も出来るが、俺の素性を知らないエルフ達の反応は明らかにおかしい。春馬をヒトと認識してからの会話、それに『アンタ達』という言葉を発したエルフもいた。それはヒト種全てを指す言葉なのか。

 「分からん。分からんが嫌な予感がする」

国に入ってからの違和感。俺という『ヒト』に対して嫌悪や恐怖を感じながらも、エルフ達は意識して普通に接しようとしている。

 居心地が悪い。 他国、そもそも異世界なのだ。居心地の良い所なんて、この世界にある訳がなかったのだ。

 思案しながらも歩みを進めていると、賑やかな通りにへと出た。ここがこの町の繁華街だろう。風の国は広場に市場が開かれる程度の大きさだったが、ここは城まで続く坂道の両側に店が立ち並び、同じような店がしのぎを削っている。「うちの店は安いよ!」「うちの店は美味いよ!」など、同じ飲食店でも店の売りを宣伝し、客を集めている。風の国には飲食店と酒場を兼ねたアディの店しか飯所はなかったが、争っても互いに利益が上げられるほど、町は活気づいているのだろう。

 ただ、それだと集まる情報が分散してしまう。全ての店を回って情報を集めてもいいが、効率も悪い上に金もかかる。森でマールから少しは金を渡されているが、全てを回る余力はない。

 どの店にしようかと通りを歩いていると、あることに気付く。味が良いと宣伝している店は金額が高い。その店に行く客の服も質の良い物を着ている。逆に安さを売りにしている店には、当たり前だが集まる客も質素であったり、あまり綺麗とはいえない服を纏っている客だったりする。

 今、春馬が必要としているのはリリアンの情報で、それは帝国の情報である。身なりの良い客が帝国や裏の話をするとは思えない。それならば春馬の向かうべき場所は値段の安い酒場と決まって来る。

 春馬は何軒かある酒場の中で値段が最も安く、客入りの多い店を選んだ。

 店に入っても給仕は現れず辺りの様子を覗うと、客は店主のいる机で金を払い、酒や料理を受け取って空いている席に座っているようだ。店主の机にも席が設けられ、常連客は店主と話しながら酒を飲んでいる。

 酒場の店主であれば、この店の中で一番の情報通に違いない。そう思った春馬は店主の机に腰を掛け会話に耳を傾けることにした。

 「……いらっしゃい。何にする?」

 先程まで楽しそうに談笑していた店主が春馬の顔を見た途端、愛想がなくなり要件を早く済ませろ、という態度で取った。この国ではヒトは好かれていないのだろう。そう考えたことでリリアンの言葉を思い出した。この世界にいるヒトは全て帝国人である、と。風の国は帝国に攻められるまで帝国との関わりがなかったから春馬に対しても嫌悪感を示さなかったのだろう。つまり火の国には最近、帝国との関わりがあった、ということに違いない。

 「麦酒をくれ。……それと聞きたいんだが、最近帝国がこの国に来たのか?」

注文を受け後を向きながら酒を用意していた店主だが、春馬の言葉を聞き猜疑心のこもった目を春馬へと向けた。

「帝国が最近来たか、だって? おかしなことを言うやつだな。お前も帝国人じゃないか」

「いや、俺は違うんだ。俺は風の国にいたんだ」

「ああ、お前が風の国を奪ったって奴か。まったく帝国人は酷いことをするもんだな」

話が噛み合っているようで噛み合わない。

「違う。俺は風の国で暮らしていたんだ」

「別部隊とかってやつか? それなら知らないってこともあるのか。もちろん帝国はずっと来ているよ。王様が決めたことだから俺達国民は逆らえないが、良い気はしないね。他のエルフ達も心の中では思っているよ」

ほらよ、と麦酒を雑に机に置くと、もう話す気は無いと店主は顔を背けて席に座るエルフと会話を再開した。これは近くに座ると嫌な顔をされて何も情報を得られないだろう、と思い他の開いている席に座ることにした。だが、気になる情報は得られた。店主の話では、火の国は『元々』帝国人の出入りがあったようで、それは王が許していることらしい。つまり秘密裏や隠れてではなく、火の国と帝国には公に交流があるのだ。つまりこの国の王、マールの叔父は帝国側のエルフである可能性が高い。それはマールに危険が迫っている可能性が高いことも示している。そうなれば帝国は王の元にいる可能性が高く、更にはリリアンもそこにいる可能性がある。

 それならば今すぐに城へと向かう必要がある。ヒトは全て帝国人だと思ってくれているのなら、止められることなく城へと入れるかもしれない。そう考えた春馬は麦酒には一度も口を付けず席を立ち酒場を後にした。



 酒場を出て城へと続く坂道を上って行くと、外套を被った者が春馬の行く手を遮った。

「ちょっとお兄さん、どこへ行くのかな?」

 帝国人か? と春馬が警戒していると、目の前の男は被っている外套を外した。その男の耳は長く尖っていた。

「城に用があってな」

「ふーん、それは困るよ。お兄さんには付いて来てもらうよ」

そう言って辺りに視線をやると、いつの間にか春馬は外套を被った集団に囲まれていた。この状況で抵抗してもやられるだけだろう、と観念し春馬は従うことにした。

 春馬が連れて行かれたのは東通りから更に東へに位置する東裏通り。

 「お前達は帝国人なのか?」

「いやいや、それはもちろん違うよ。この耳が見えないかい? 帝国人ってのは『ヒト』しかいないんだよ?」

自分の耳を触りながら春馬の質問に答える。

「じゃあその格好はなんだ? それは帝国の物だろう」

「へえ、そうことは知っているんだ。じゃあ、さっきの質問も馬鹿とは言い切れないね。そう、これは帝国の物だよ。だけど、オイラ達は帝国人じゃない。俺達はただの雇われさ」

エルフと帝国は敵対しているとばかり思っていたが、帝国に雇われるエルフもいるのか。特に火の国のエルフは帝国を毛嫌いしていると思っていたが。

 そんな春馬の考えを読み取ったのか、エルフは口を開く。

「まあエルフも一枚岩じゃないってことだよ。まあ、察しは付いていると思うけど、城へは行かせないよ。というか、どこも行かせない」

そう言ってエルフは目で仲間たちに合図をする。合図を受けたエルフの仲間達は外套から武器を取り出す。ジレスを襲っていた連中と同じ武器で、蒸気を噴き出し、のこぎりの様な刃を回転させた。

 それに遅れず、春馬は和傘を放り投げる。

 ――もちろん、刀は春馬の手に残したまま。

 春馬を囲む外套の連中は和傘につられて視線を上げる。だが、エルフは春馬を見据えていた。春馬の目論見に気付いているのか。だが、一人に構って千載一遇の機会を失う訳にはいかない。

 エルフの視線が気になったが、それでも無防備な首を切り裂いていく。

 投げた傘が再び春馬の手に戻る。――小さな金属音と共に。

 その刹那、春馬を囲む連中の首から鮮血が溢れ出す。血に濡れることを避けるよりも、エルフを視界から離さないように体を向ける。正面の外套からの鮮血が春馬に降りかかるが、それでも瞬きもせずエルフを見つめていた。

 「へえ! お兄さん、やるね!」

仲間たちが次々と倒れて行くのを見て、エルフは笑いながら拍手をしていた。

「気に入ったよ。俺が城へと連れて行ってあげる」

そう言って近づいて来るが、春馬は刀を再び抜いて対峙する。

「おや? どうしたっていうんだい? 城へ行きたいんだろう? それならオイラが連れて行ってあげるって言ってるだろ?」

悪戯っ子のような笑顔を浮かべながらエルフは春馬を煽る。その態度に敵意は無いようだった。

「……わかった。案内してくれ」

溜め息を吐き、刀を再び和傘へと仕舞う。正直、一人で城へ潜入するなんて難しいと思っていたのだ。敵とはいえ、城へと連れて行ってくれるなら渡りに船だろう。

 「度胸もあるね! ますます気に入ったよ。オイラはペテル、お兄さんは?」

「……ハルマだ」

「ハルマか。良い名前だね。これからよろしく!」

そう言ってペテルは手を差し伸べた。春馬も渋々といった様子でペテルの手を握り握手を交わす。ペテルは屈託のない笑顔を浮かべ力を入れてその手を握り返す。

 春馬に奇妙な知り合いが出来た瞬間だった。



 ペテルは倒れている仲間から外套を剥ぎ取り春馬へと手渡した。

「この方がバレないからね。ちょっと血で汚れちゃってるけど、それはハルマが悪いんだから我慢してね」

俺が悪いのか? と疑問に思いながらも春馬は黙って外套を羽織る。

「どうする? スチームソードもいる?」

先程まで仲間だった者の手から蒸気を吐き出す剣を取り上げ、春馬に要るか? と聞いていた。

「いや、そんな良く分からない武器を使っても、直ぐには使いこなせないだろう」

「まあ、それもそうか。ハルマには面白い剣があるもんね」

そっか、そっか、と言いながらペテルは蒸気を吐き出し続ける剣を放り投げる。それが死体に刺さり、血をまき散らしていた。

 気分の良い光景ではなかったが、亡き者にしたのは自分なのだ、と春馬は見ないことにした。

「さて、さっさと行こうか? ああ、言い忘れてたけど、城までは案内するけど、そこからは一人で行ってね?」

「人探しというかエルフ探しをしているんだが」

「んー、賢者のエルフ? それともお姫様?」

「その二人共だ!」

「意外とハルマって気が多いんだね。んー、まあ、襲ったお詫びに場所は教えてあげるよ。でもそこまでだからね?」

「すまない」

「……さっき襲って来た相手にお礼を言う? 変な奴だなあ」

呆れつつも笑顔を浮かべるペテル。春馬の態度に悪い気はしていないようだった。

 ペテルは裏通りの坂を上り、城の正門が見えた所で右の通りへとそれた。

「入り口はあそこじゃないのか?」

「ハルマっておバカなの? 正面から入ったらバレちゃうじゃん。いずれは気付かれるけど、それは出来るだけ遅い方がいいでしょ? というか俺達でも正面からは入れないから。オイラ達、ってかオイラだけか。オイラの存在を知っているのは一部だけ。それも帝国側にだけね」

「なるほどな」

話を聞き、納得した春馬はペテルに従って正門から一つ外れの通りへと出た。

 身を隠して歩くのに慣れているからだろうか、気付けばペテルは結構先に行っていた。慌ててペテルを追いかけ、やっと追い付いた瞬間、ペテルは急に立ち止まったので春馬はぶつかりそうになった。

 ペテルは辺りを警戒しながら伺い、誰もいないことを確認すると石の壁を押した。すると扉くらいの大きさの壁が奥にずれ、そのまま右の隙間にはまった。壁に扉が隠されていた。

 「はいはい、早く来て」

先に中へ入り、春馬を手招きして呼び寄せる。それに従って中へと入ると、ペテルは扉を元あったように戻した。

 「これは石のような見た目だけど、実は木で出来てるんだよ。だから思っているより、ずっと軽いよ」

扉を戻したペテルが先行して奥へと進む。

「もし生きて帰れたら同じようにして外に出られるからね。……まあ、多分無理だけどさ」

暗闇でペテルの表情は見えなかった。だからペテルがどんな気持ちで言っているのか分からなかった。

 「そうそう、賢者と姫は同じ場所にいると思うよ。多分、玉座の間だ。ただね、生きて出られてないだろう原因が、そこにいると思うんだよ。まあ、もしそうなったら運が悪かったと思って、死んでも恨まないでよ?」

相変わらず感情を読み取れなかったが、最後の件は笑っているようだった。

「安心しろ。この世に未練なんて無いからな。あっさりとあの世に行けるだろう」

春馬も笑って返す。

「それなら安心だね。まあ、俺なんて百人以上の亡霊憑かれちゃってるだろうから、ハルマが一人増えるくらい良いっちゃ良いんだけどね」

そんな冗談を交わしていると、城の廊下に続く扉へと着いたようだった。そこでペテルは壁越しに廊下の様子を覗っていた。

「多分、今なら大丈夫だよ。ここを出て左行くと直ぐ大きな扉が見えるから。そこが玉座の間だ。そこに居なかったら、その時は探してね?」

そう言ってペテルは入り口と同じように扉を引き、右へとずらした。

「じゃあ、幸運を祈ってるよ」

「ああ、ありがとう」

そう言って春馬は廊下へと出て、それを見送ったペテルは隠し扉を戻す。戻し際にペテルは親指を立てて春馬に合図を送っていた。また新しい合図を知ったので、無事に出られたらマールかリリアンに聞こう、と春馬は思った。



 ペテルの案内通り、隠し通路から左へと出て直ぐに大きな扉が目に付いた。ここが玉座の間だろう。

「生きて出られない理由、か」

ペテルの言葉を思い返し、少し緊張感が春馬を包む。大きく息を吐き、扉に手を掛け、力を込めて扉を開く。

 赤い布を敷き詰めた床の先に、大きな椅子に腰かけるエルフがいた。豪華な装飾を身にまとい、長く白い髭を蓄え、頭には金色の被り物。おそらく、火の国の王だろう。

 その近くには力なく横たわるリリアンが目に付いた。その隣には後ろ手に縛られたマールもいた。

 ペテルの予想通り、ここに二人共いた。

 ――そしてそこには異質な存在もいた。

 これがペテルの言う、春馬が生きて出られない理由。全身を金属の甲冑で包み、今まで見たことも無い巨大な両刃の剣を肩に担いでいる。大きさは持ち手と同等の長さで、太さも持ち手の胴くらいはありそうだった。そして柄の付近には何度か見た蒸気を吐き出す管が何本か付いていた。

 そんな重量のありそうなものを異質な存在は片手で担いでいる。

 春馬の登場に一番驚いたのはマールだった。

「ハルマさん? どうしてここへ?」

マールに問われ、ふと春馬は思った。何故、自分はここに来たのか、と。二人とは出会って間もない。確かに仲良くはなって来ていた。だが、自分の命を掛ける程の仲だったか? それは有り得ない。春馬が自分の命より大切な存在なんてこの世には存在しない。もう死んでしまったのだから。それなら、何故ここに来たのか? それは単純に桜の面影を感じる二人を放っておけなかったのだろう。

 ――罪滅ぼしのつもりだろうか。かつて救えなかった桜と二人を重ねて、救われたいだけなのか。多分、間違っていない。人間に絶望した自分が、他人の為に命をなげうつなど有り得ないのだから。

 だが、それは春馬の事情だ。今は不安そうな顔を浮かべるマールを安心させるべきだろう。

「送り先を間違えた。ここは帝国らしい」

そう肩を竦め、冗談めかして答える。春馬の言葉を聞き、一瞬驚いたマールだったが、悲しい笑顔を浮かべた。

「そうみたいですね。私も間違っておりました。ここは火の国なんかではなく、帝国の属国でした」

「聞き捨てならんな。我が国は帝国と同等の関係であるぞ」

マールの発言に玉座の王が憤りを露にしながら口を挟む。

「帝国とこの国が同等、だと? 笑わせるな」

「な、なんだと!」

「潰そうと思えば、こんな国直ぐに潰せるのだ。使えるものは使う主義である陛下によってお前達は生かされているんだよ」

王に向き直り、異質な騎士は口を開く。兜で声がこもり、中身が男か女かも分からなかった。

「そこの姫の王は帝国には屈しない、と協力を拒んだのだ。だから殺されたんだ。だが、敵国に尻尾を振る貴様より誇り高い王を私は尊敬するよ」

「き、貴様! 兵よ、こいつを始末しろ!」

騎士の発言耐えかねた火の国の王は立ち上がり、側に控える兵に指示を飛ばす。その命令に従って、十人近くの兵が騎士を取り囲む。

「犬は頭も犬って訳か。いいだろう、かかって来い。――そうだな、ハンデをやろう」

そう言って騎士は兜を脱ぎ捨てる。兜から零れるように長い茶色の髪が現れる。端正な顔立ちをした『ヒト』がそこにいた。騎士の中身は女であった。

 女の武士なぞ、倭の国にはいなかった。帝国には女であっても騎士になれるのだろうか。だが、あんな大剣を片手で持っているのだ。並大抵の男よりは力持ちの筈である。

 春馬は固唾を飲んで騎士の行方を見守っていた。ここであの女騎士がやられれば、マールとリリアンを連れて逃げ出せる可能性が上がる。いや、城には数百人近くも兵がいるのだ。どちらにしても脱出は難しい。だが、ペテルは城の兵については何も言っていなかった。ただ、生きて出られない存在がいる、と言っていたのだ。それならこれから起きることは予測出来るだろう。

 城の兵達は円形の陣を作り、細身の剣を構える。城の騎士達が構えたのは片刃、両刃のどちらでもなく側面には刃がついておらず、細長く、釘や針のように先端の尖った剣を構えていた。あれは見るからに突くことに特化した剣だ。距離を取り、円形の陣を組み、一気に突き刺すつもりだろう。だが、その剣の長い形状も騎士の担ぐ大剣に比べたら劣ってしまう。ただ、騎士の大剣も長さは塀の持つ剣よりも優っているが、その重量のせいで早くは振れないだろう。四方八方を囲まれ、同時に突きを繰り出されたら回避することは難しい。

 この勝負、五分か、と春馬は分析した。

 空気が張り詰め、兵が動き出した。洗練された動きで、死角の無い突きが、まさに同時に繰り出される。

 ――その刹那、女騎士は口を釣り上げ歪に笑った。

 女騎士は片足を前に出し、そして振り回すように大剣を振るう。円形の軌跡を描くように切り裂く。それが囲まれた時に有効な斬撃だ。だが、それは一周するまでに誰かの突きは届いてしまう悪手である。そう春馬が思った時、女騎士の大剣から蒸気が溢れ出した。スチームソードのように刃を回転させても状況は好転しない。だが、大剣の刃は回転などしなかった。考えてみれば女騎士の大剣の刃はのこぎりの様な形をしていなかった。では、あの蒸気は? と春馬が考える間もなく、兵は『全員』吹き飛ばされていた。兵の細い剣など砕け散り、数十人全ての兵が息絶えていた。

 「情けない。これだけの兵が居て私に触れることも出来ないとはな」

「一体何を……?」

火の国の王は絶望した様子で言葉を漏らす。

「お前の目は節穴か? ただ噛み付こうとする狼の手綱を握っていただけだ」

 春馬には辛うじて何が起きたか見えていた。女騎士の持つ大剣から出る蒸気が推進力を生みだし、それを飛んでいかないよう支えていた『だけ』なのだ。その『だけ』、という行為をするのにどれほどの力が必要になるのか、計り知れたものじゃない。女騎士は素手で岩をも砕くかもしれない。

 細身とは金属で出来ている剣が南蛮の硝子のように砕けるなんて、凄まじい威力のはず。その暴風を受けた兵達が一撃を受けただけで絶命しているのが証拠だ。

 ――兵なんて問題ではない。この女騎士を倒せるのなら、城からの脱出なんて容易だろう。

 ペテルの言っていたことは正しい。間違いなく春馬の生命を脅かすのは目の前の女騎士の他ならない。

 「さて、余興はここまでだ。お前はこの娘たちに用があるのだろう? それは私も同じだ。お互いの利害が一致しないなら……答えは分かるだろう?」

春馬は大きく唾を飲み込む。あの暴風が、今度は自分を襲うのだ。

 「お待ちください。私はどこへも参りません。ですからハルマは見逃して貰えませんか?」

春馬が恐怖に固まっていると、マールが女騎士に声を掛ける。

「ほう? それならば私はアイツと戦う理由は無いが。どうするんだ、ハルマとやら?」

マールは復讐の為なら何でもする、と言っていたのに、春馬を逃す為に自身を身代わりにしようとしている。そんなことをされて黙って帰れる訳がない。

「俺は姫さんの騎士じゃないからな。聞く気はない」

春馬は強気に答える。マールの気持ちに触れ、恐怖が少し和らいだ。

 自分はどうせ死ぬ運命だったのだ。それがここになろうが分からない。少しでも可能性があるなら二人を救うために、この命を使う方が良い、と春馬は決意した。

 何故、ここに来たのか。それは今でも分からない。だが、今は目の前の女騎士を倒し、二人を助けることだけを考えることにした。

 「良い! 誇り高い男は好きだ。気高き誇りを抱いたまま、この私、グレーティアがあの世に送ってやろう」

そう言って大剣を再び構えた。


 グレーティアは柄を高く持ち上げ、剣先を下に向ける特殊な上段の構えを取った。柄を右上部、剣先を左下部に交差させていた。倭の国での上段構えは同じように柄を高く持ち上げるが、刃先は持ち手の後ろに来る。担ぐような構えである。

 春馬は見たこともない構え、見たこともない剣に自分から打って出ることは出来なかった。不意を突かれたら一撃で葬られるのは先程見ているからだ。

 ここは顔を晒していることを好機と見て、こちらから不意打ちを仕掛けるべきか、と考えていた時だった。

「どうした? 貴様も構えるが良い。その傘に得物を仕込んでいるのだろう?」

グレーティアは春馬の和傘に刀が仕込まれていることに気付いていた。それならば得意の不意打ちは通用しない。春馬は観念して刀を抜く。

「ほう? 変わった得物だな? 帝国製でもなければエルフの武器でもないな。どこの生まれだ?」

「お前の知らない田舎だよ」

「フッ、そうか」

春馬が刀を中段で構えると、グレーティアの顔から表情が消えた。その顔は倭の国でも見たことがあった。ただひたすらに戦いを好む狩人の顔だ。自分が死ぬか相手が死ぬかするまで戦いを止めぬ狂人の目だ。

 脂汗が春馬の額に浮かぶ。これはまともに相手をして勝てる相手ではない。

 グレーティアは春馬が攻めて来ないことに痺れを切らしたのか、大きく右足を踏み出した。それに合わせて交差する剣の向きが逆になるように大きく振るう。

 ――袈裟切りか。

 剣が長いため、一度の踏み込みで春馬の首を捕らえることが出来る軌跡だ。体を動かすだけでは避けきれない。慌てて弾くようにして打ち合う。蒸気による加速で威力、速度が増している。まともに打ち合ったら簡単に刀を砕かれてしまう。峰で大剣の僅かに逸らし、側面へと流れる。

 受け流すために軽く受けただけなのに腕が痺れる。刀に視線を向けると、峰で受けたとはいえ欠けてしまうか、と心配したが刀身は綺麗なままだった。

「良い腕だな。我が一振りを無傷で躱すとは。それに良い剣だ」

「腕は知らんが、刀はそうだな。妹の形見だからな」

愛刀を褒められて悪い気はしなかった。

「試すような真似をして悪かったな。ここからは本気で行こう」

そう言うと再びグレーティアは特殊上段の構えを取る。そして再び足を踏み出し袈裟切りを繰り出す。

 一度見た剣筋であれば、見切れる。春馬も受け流す構えを取る。速度、威力は桁外れだが剣筋は普通だ。落ち着いていれば躱せる。

 グレーティアの振り下ろしに合わせて峰で剣筋を受け流し、側面へと流れる。大剣の弱点はここにある。受け流されてしまうと、その瞬間大きな好きが出来る。

 受け流した瞬間、春馬はグレーティアの首目掛けて一閃を放とうと刀を横に構える。

 ――二撃目が春馬を襲う。

 必死に転がり、命からがら逃れる。慌てて立ち上がり、グレーティアに刀を向ける。

 ――右肩に鈍い痛みが走る。左肩じゃなくて良かった。刀を握る軸である左手をやられたら、あんな大振りを受け流すことも出来ない。

 「目が良い、いや勘か? ここで殺すには惜しいな」

「それなら見逃してくれよ」

「馬鹿を言うな。久しぶりに血が騒いでるんだ。私のような人間がこの楽しみをみすみす逃すと思うか?」

そう言いながらグレーティアは不敵に笑う。

「ああ、そうだよな。お前、危ない人間の目をしているもんな」

「そう褒めるな。――それでは、そろそろ終いとしよう」

再び表情が消え、狩人の目を春馬へと向ける。

 踏み込みが始まると暴れた牛のように突撃して来る。一度始まるとグレーティアを止めるのは難しい。そうなれば先手を取るしかない!

 春馬が先に踏み込み、剥き出しになっている生身の首を狙う。大剣の重さから振り上げるには時間がかかる。そう思った春馬の一撃はグレーティアによって弾かれる。春馬の考えは正しかった。だがそれは、『普通』の大剣の話しだ。グレーティアの大剣は蒸気が噴き出し、推進力を得ている。しかも蒸気の吹き出し口は両側に付いており、切り下ろす際の加速、切り上げる際の加速にもなる。これがグレーティアの斬撃に隙が無い理由だ。

 「やはり目の付け所は良い。だが、一歩甘い。我が狼の牙は上顎だけでなく、下顎にも付いているのだよ」

 弾かれた衝撃で腕が痺れ、切っ先にひびが入る。これ以上受ければ間違いなく折れてしまうだろう。その考えが刀で受けることを躊躇わせた。

 振り下ろされる大剣を刀で受けず、回避することしか春馬には出来なかった。

 「――愚か者が」

避ける春馬の背中を大剣の切っ先が綺麗な直線を描く。致命傷にはならなかったが、背中からの出血が酷い。

 春馬の視界が霞む。何とか立ち上がり、構えるだけでやっとだった。

 自分がここで死のうとも、桜を二度も死なせることは出来なかった。

 春馬から力が抜けて膝を着く。

 「少しは骨のある男だと思ったが、その程度の男か。ここで死ぬがいい」

グレーティアは大剣を振り上げ、止めの一撃を春馬へと与えようとしていた。

 ふと春馬の視界にマールが映る。マールは悲しみと諦め表情を浮かべていた。春馬が死ぬことを悲しんでいるのだろうか。それともこの後に待つ、自身の死が見えているのだろうか。いや、その両者だろう。春馬が死ねばマールは処刑され、リリアンも一生帝国に仕えさせられる。

 春馬の命が二人の命運を決めるのだ。

 ――自分の中に力が宿るのを感じる。

 再び春馬に生きる気力、そして戦う意力が湧いて来た。反撃の好機はこの一瞬。この刹那を見逃してはならない。呼吸を止め、神経の全てをグレーティアの大剣に注ぐ。

 振り下ろされる牙に合わせて、居合の一閃を放つ。グレーティアの一撃は春馬に弾かれ、体の横すれすれに落ちた。そして、刀の切っ先は折れ、宙を舞う。

 春馬は二撃目をグレーティアに放つ。

 「フン、良い技であるが……届かぬよ」

 春馬から放たれる横一閃を軽々と後ろに下がり、グレーティアは躱す。だが、春馬の狙いはグレーティア自身ではない。春馬の一閃は切っ先を弾き、切っ先が矢のようにグレーティアを襲う。

「なにッ!?」

グレーティアの判断は正しかった。横方向の剣筋は下がることで容易に躱せる。だが、突きのような直線攻撃は横に躱さなければ避けられない。

 春馬の放った反撃の矢はグレーティアの顔面目掛けて飛んでいく。

 「くッ!」

辛うじて顔を逸らし直撃は回避したが、その一撃はグレーティアの右目を潰した。

 大剣を落とし、片目を抑える。

「くっくっく。素晴らしい、素晴らしいぞ! 我が肉体に傷を付けたのは貴様が始めてだ!」

親愛なる相手に贈り物を貰ったようにグレーティアは喜んでいた。これでグレーティアを仕留められなかったのは痛手である。切っ先は折れ、春馬は満身創痍。打つ手はない。

 「行くがいい。今日の殺し合いはここまでだ」

諦めかけた春馬にグレーティアは思いがけない言葉を掛けた。その真意を測りかねるが、見逃すと言っているのであれば、その言葉に甘えるべきだろう。ここでグレーティアが嘘を吐き、騙し討ちをするわけもない。春馬に止めを刺すなら、そんなことをしなくても容易に可能だからだ。

 「貴様、何を言っている! 帝国はマールを殺せと言っているのだろう! 何故みすみすと見逃すのだ!」

「私は気分が良いのだ。邪魔をすると言うなら、お前を殺しても良いのだぞ?」

「くッ、この狂人が!」

そう言って火の国の王は玉座に腰を下ろす。もう春馬達を襲う相手はいないようだ。

 マールは春馬の元に駆け寄り、体を支える。

「ハルマさん、大丈夫ですか? こんなに大怪我をして」

「大丈夫、と言いたい所だが、もう体に力が入らん。リリアンを起こしてくれないか?」

春馬の言葉に頷き、マールはリリアンの肩を揺さぶる。

 「んんー?」

間抜けな寝起きに安心し、春馬の緊張の糸は切れてしまった。意識を失い、その場に倒れてしまった。

 消えゆく意識の中、聞こえたのは慌てる二人のエルフの声だった。

 春馬が目を覚ますとそこは馬車の中だった。マール、リリアンの姿もそこにあった。

「ここは?」

「ハルマ! 目を覚ましたか!」

 リリアンが大きな笑顔を浮かべ春馬に抱き着く。マールの手前、気恥ずかしかったが、心配する気持ちを思い、春馬は離れるようには言えなかった。

「ここは火の国から風の国へと向かう途中です」

「風の国に向かっているのか?」

「ええ、リリアン先生とハルマさんをお送りしようと思いまして」

「俺とリリアン、だけか?」

「はい。私は帝国へと行くつもりです」

マールの発言に春馬とリリアンは驚き、咄嗟に二人は離れマールに詰め寄る。

「正気か? 帝国に行けば間違いなく殺されるぞ?」

「そこです。私が帝国に行くとは思わないでしょう。帝国の裏をかいて潜伏しようと考えています」

「潜伏って、そんな上手く行くわけがなかろう!」

「ああ、こう言っちゃなんだが俺達の考えは甘い。それが原因で火の国で死にかけたんだ」

 その代償として桜の肩身は折れてしまった。死んだ妹より生きている友人達を選んだこと。そのことに後悔はなかった。きっと桜も誇らしく思ってくれているだろう。今の春馬はそう思えた。

 だが、その必死の思いで救えた相手が死にに行こうとしているのを黙って見ている訳にはいかない。

「そこはオイラの出番って訳よ」

馬車の中にペテルが入って来た。

「ペテル? なんでお前が?」

「連れないなあ。オイラが馬車を用意してやったんだよ? もうちっと感謝して欲しいね」

「お二人はお知り合いなのですか?」

「まあ、な。それにしてもお前が馬車を用意したってどういうことだ?」

「言葉の通りだよ。もしかしたらって思って馬車を用意してたんだよね。そこへハルマ達が城から出て来たのが見えたんでね。声を掛けたって訳よ」

「こんな怪しい奴を信用するなよ……」

非難を含めた目線をマールとリリアンに送る。

「酷いこと言うなあ。お姫さんと賢者さんには話したけど、俺の雇い主はグレーティアの姐さんな訳よ。ってことは姐さんを殺したか認められた相手なら俺にとっても大事なお客人ってこと」

「あの狂人が雇い主か」

「おっと、姐さんの悪口は止めてくれよ? オイラには恩があるからね」

まあ、間違いでは無いんだけどね、と肩を竦めてペテルは笑った。

 「話の続きだけど、お姫さんの潜伏にはオイラが手を貸すって訳よ。だから安心してよ」

「安心ってお前。お前も帝国の人間だろう? 帝国に雇われているんだから」

「まあそこはね。エルフも一枚岩じゃないように、帝国も一枚岩じゃないんだよ。姐さんは帝国を潰そうと目論んでるからね」

「帝国が帝国を潰す?」

「そうそう。だからお姫さんの都合とも良いって訳。だからオイラ達は協力出来るってことよ」

 マールはペテルの言葉を肯定するように頷いていた。

 春馬とリリアンは顔を見合わせる。お互いにどうしたものか、と考えていた。

 マールの復讐の鬼は完全に消えていなかったのだ。春馬を救おうと自分を犠牲にしようとしたが、機会があれば復讐に身を委ねてしまう。いや、マールの心にあるのは復讐の鬼ではなく、自暴自棄の念が渦巻いているのかもしれない。生きる目的もなければ死ぬ理由もない。ただ、復讐する理由があるってだけ。

 「仕方ない。俺達も帝国に行く」

そんなマールを放っておくわけにはいかない。春馬の発言にリリアンも驚いていたが、諦めた様子で春馬の意見を肯定した。

「俺達と勝手に決めよって。まあ、ワシも帝国に追われているのに変わりはないからのう」

「そういうことだ。俺達はお尋ね者だからな。風の国に戻っても迷惑を掛けるだけだろう。それなら俺達から打って出てやるさ」

ペテルは笑顔で頷いていた。

「いいねえ。やっぱりオイラの目に狂いはなかった! 実はそうなると思って、もう帝国に向かっているんだよね」

してやったり、という顔でペテルは隠していた事実を打ち明ける。

「ほらな? これだからこいつは信用出来ないんだ」

「まあまあ、結果的に良かったでしょ? そもそも、今風の国は帝国兵が張ってるんだから、戻るだけ自殺行為ってやつよ」

そう言いながらペテルは馬車から出て、業者台へと戻って行った。

 「その、よろしいのでしょうか。お二人を巻き込む形になってしまって」

「旅は道連れってやつよ。どこに行っても危険なら一緒にいた方がいいだろう」

「そうじゃそうじゃ。ハルマは抜けているからのう。ワシらがちゃんと見てやらんと」

「……ありがとうございます」

戸惑いながらもマールは笑顔を浮かべ、礼を言う。

 「おう。それじゃあ、帝国の腹に喰らいついてやろうぜ」

「うむ。やられてばかりなんてワシの性にあわんからのう」

 一人の人間と三人のエルフを乗せた馬車は帝国へと向かう。

 春馬はこの世界に来た理由は今も分からない。もしかしたら倭の国では幸せになれなかった春馬を想って、桜がこの世界に連れて来たのかもしれない。

 ――なんてな。

 和傘を強く握りしめ、新しく出来た繋がりを見て笑顔がこぼれる春馬だった。 


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