第六話
言い訳をするならば、他人と話したのは実に9日ぶりだった。
広場を離れてからすぐに、あ、教会の場所を聞くのを忘れた、と気が付いた。いや、しかしながら、いまさら戻って、「あ、すみません、ところでこの街の教会はどこにありますか?」とやるのも恰好悪い。そこいらじゅうに道行く人がいるのだから、誰にでも聞けばいいようなものだが、そこはわたしのことである、話しかけやすそうな人にしか話しかけられない。特に今、街はお祭り騒ぎで、浮かれきって足取りも軽い集団の前に、こんなみすぼらしい恰好の旅人が立ちはだかって「あのー」なんて言うのはものすごくハードルの高いことだった。
大体、何かお力になれますか?というのはどういうことだろう。広場の隅にポツンと立っていた彼に近づいたのは、彼が広場の隅にポツンと立っていたからであって、別に余計な詮索をするためでも、要らぬお節介を焼くためでもない。近づいてみるとあまりに所在無げな雰囲気を漂わせていたので、つい口が滑ってしまったのだ。何だこの生意気なクソガキは、とか思われたかもしれない。……まあ、いいか。もう会うこともないだろうし。
結局、教会の場所は、道をよぼよぼと歩いているおばあさんから聞いた。あれだけゆっくりと歩いているのだから、数十秒足止めしたところで大して変わりはないだろう。せかせかしないでいられるのは、年を食った人間の特権だと思う。わたしはもう少し、せかせか生きるべきなのかもしれないけれど。
大きな街や村を訪れると、わたしは真っ先に教会や修道院へ向かう。ほんの少しの施しをもらえるだけでもすごく有り難いし、運が良ければ泊めてもらえることだってある。宿の確保は、旅の最優先事項のひとつだ。しかも、そういった場所には情報も集まりやすく、時にはわたしにでもできる仕事を紹介してもらえることもある。旅を始めてからお金は順調に減る一方なのだから、こういった大きな街を訪れた時ならばなおさら、稼げるときに稼いでおかなければならない。
教会は、街の規模の割には随分と小さい気がした。聞けば、この街が今のように発展したのはほんのここ数年のことで、そう遠くないうちに、いま教会の二倍も三倍も大きな規模の新しい教会が、近くに立てられるらしい。確かにそう聞いてみると、街の景色はどこもかしこも立派で、わたしのように若くして干からびた人間には居心地の悪さすら感じる。教会ぐらい、古くてぼろいままでもいいのに。そのほうが、威厳もあるっていうものだ。そんなことを、わたしは考える。
実際のところ、街をこんな風に急速に発展させた今の領主の評判は、あまり良くないらしい。といっても、街の人々が、街の発展を受け入れていないというわけではない。そうではなく、街の人々の反感を買ったのは、そのやり方だ。
発展には犠牲が付きもの。多数の幸福のために、ごく少数のものに犠牲になってもらうのはやむを得ない。実際に領主がそんな風に考えていたかどうかはさておき、つつましく日々を送る人々の目には、領主のやり方はそういう風に見えたようだった。
とはいえ、街の発展の恩恵を受ける人々が順調に増えた今となっては、その過程にあった反感は次第に忘れ去られつつあるようだった。ちょうど明日開かれるという大きな祭りも、浮かれた街の人たちの様子も、それを如実に表している。なんとも現金なものだ。
などといいながら、わたしも多少なりと祭りの熱気にあてられ、浮かれた気分で教会を背にするのだ。たまには、こういうのもいいものだと思う。
明日は、お祭りを見て回ろう。




