天使の旋律
今はもう厳重に施錠されていている、あの時計塔に入ったことがあるというのは、今ではちょっとした自慢話だ。
あの日、まだ小さかった頃……といってもまだほんの五、六年しか経っていないが。
あの、まだ私が人形だったころ。
私はそこで、天使に出会ったのだ。
時計塔、と言ってもそんなに大きいものではなく、あくまで小さな村にある、小さな時計塔なんだけど。それでもこの村では一番大きな建物だ。
クラスの子たちがよく肝試しに行っては、管理人のおじさんに怒られ、追い出されている。
「……あら?」
だからてっきり、私もそうなると思っていたのだ。しかしそのおじさんがいるはずの場所には、今日は誰もいなかった。それは私にとってはきっと幸運なことで、私は初めて、おそらく他の子たちも踏み入れていないであろう時計塔の奥へと進んでいった。
思えば、私は随分とおとなしく、利口で、優秀で、そして可愛げのある子供だったと思う。父や母の言いつけに背いたこともなければ、学校の規則に違反したこともない。ピアノやそのほかの習い事をサボったことはないし、勉強でも優秀な成績を残している。
両親はそんな私に大満足で、いつだって私は二人の前でにこにこと笑っていた。
「でも、パパはそれじゃ満足できなかったのかしら」
父は村一番の大金持で、子供は一人娘の私だけ。だから私はもっと優秀にならなくてはいけない。
そういって習い事の数はどんどん減っていき、そして家庭教師の数はその分増えていった。
そして今日、ついに言われてしまったのだ。
「ミキ。今日でピアノをやめなさい」
私は音楽が好きだ。耳に触れる美しい旋律が、哀しい音色が、激しい響きが。
私の体を、心を。私というすべてのものを震わせる、音楽が。
きっといつかは私も、誰かの胸を打つピアノを奏でるんだと、そう思っていた。
「ミキ。お前もいつかは私の後を継ぐんだ。いつまでもそんなお遊びを続けるわけにはいかないだろう」
いつも通りに頷いて、すんなり引いていればよかったのに。なのに、気が付くと私は家を飛び出していた。
ゴーン、ゴーンと鐘の音が響く。塔全体の壁を、空気を震わせるその音は、いまはどこか不気味に感じた。
前方は暗くてよく見えない。明かりは両側にある松明のみ。今にもなにか出てきそうで、それでも私は前に進んだ。
「ねぇ、何やってるの?」
「……ッ⁉」
突然、背後から聞こえた声に肩が跳ねる。
「アンタどこの娘?どうしてこんなところにいるの?」
振り向くと、そこにいたのは自分より幼いか、または同年代くらいの女の子だった。
背は私より低くて、華奢で、そのくせその目はエネルギーに満ちていた。
「あなたこそ、誰よ」
「わたし?わたしはアイっていうのよ」
「そう。私はミキっていうの。よろしくね、アイちゃん」
すこし安堵しながらそういうと、彼女は途端に不機嫌になった。
「ねえ、ミキってことはあの丘の上のお金持ちの家の子ね?」
「そ、そうだけど」
「そうよね。ところでアンタの家では年上の人間に対してちゃん付けで呼ぶように教育されてるのかしら?」
「と、年上⁈」
「そうよ!アンタより二つ上よ。何か文句ある?」
「な、ないわよ別に」
その割には小さいけれど、彼女が嘘をついてるようには見えなかった。
「それで、そのお人形さんがこんなところで何してるの?」
「お、お人形⁉」
「だってそうでしょう?いつでも親の言うことをよく聞いて、友達と遊ぶこともなく習い事をして。それで、最近は習い事をやめて勉強をしているんですって?」
小馬鹿にするような物言いに、少しカチンとくる。大体、私のことなんてろくに知りもしない癖に。
「それで、両親の言う通りのお人形さんは大好きだったピアノもやめちゃうのかしら?」
「なっ⁉」
「知ってるわよ。そのことも」
「なんで―」
「ヒミツ。あ、そうだ。ねぇ、こっちに来て!」
「あっ、ちょっと!」
彼女に手を引かれて走り出す。
階段を二つほど上がって、しばらくいくと、やっと彼女は止まった。
「ここよ」
そういって彼女が扉を開けると、
「えっ?」
そこにあったのはグランドピアノだった。
「ねぇ、何か弾いてよ」
「なんで―」
「あれ?もしかして弾けないの?下手くそすぎて?」
「そ、そんなわけないでしょう!」
思わずそういってしまった後で彼女の思惑通りだということに気付く。
「ほら、早く」
彼女にせかされ、渋々、といったふうに座る。すると彼女はその隣に腰かけた。
「邪魔なんだけど」
「いいじゃない。それとももしかして―」
「もう、いいわよ。別に」
軽く指の運動をして、
ピアノの音を確かめる。まるでつい最近調律されたばかりかと思うくらいに、きれいな音だった。
「何か弾いてほしい曲、ある?」
「じゃあ……ジムノペディってわかる?」
「サティが出てくるとは思ってなかったわ」
「弾ける?」
「ええ」
目を閉じ、深く息を吸ってゆっくりと吐く。
ゆっくりと、私は鍵盤へと手を伸ばした。
「すごい!ミキちゃんすごいわ!」
「当然でしょ」
弾き終わると同時に、ぱちぱちと彼女は手を叩いた。
「ねぇ、アヴェマリア、弾ける?」
「誰の?」
「シューベルト」
「たぶん弾けるけど、なに、歌うの?」
「ママにね、これだけは教えてもらったんだ」
「そう」
頷いて、鍵盤に手をのせる。
伴奏を弾いている間、ほんとに彼女は歌えるのだろうかなんて失礼なことを考えていたのだけれど。
だけど。
その声は、まるで。
まるで、そう、それは天使のような。
いままで聞いたこともないような。
この世で最もきれいな祈りだった。
「……ねえ。ピアノ、やめるの?」
「わからないわ。でもパパはやめてほしいみたい」
「そう......ねぇ。諦めたら、ダメなのよ。たまにはわがままも言ってみないと。そんなことで、アンタのパパはアンタのことを嫌いになったりしないわ」
「そうかしら」
「そうよ。さあ、そろそろ出ましょうか」
「ええ……ねえ。あなたの歌、とてもきれいだったわ」
「ふふ、知ってる」
「なによそれ」
「だってわたしは、いつか世界中のみんなをわたしの歌で笑顔にして、わたしの歌で涙させるんだから!」
結局あのあと、うちに帰る途中で探しに来ていた村の人たちに私は保護され、両親にはこっぴどく叱られた。
でもそのあとに、
「やめたくないのなら、そういえばいい」
と、少し怒ったような、でも少し嬉しそうなパパに頭を撫でられた。
それと後で知ったことだが、彼女はあの時計塔の管理人一家の娘らしい。だからあのピアノ部屋を知っていたのだろう。
あの夜、私は天使に出会った。
結果的に、彼女は天使でもなんでもなく、もちろん人間だったのだけれど。
今でも、私の中では彼女は天使なのだ。
「ミキ、早く!」
「はいはい。今度はなにが聞きたいの?」
今日も私は、天使のとなりで音を紡いでいる。
彼女の歌と共に。
彼女のための、讃美歌を。