②
こうして時は流れ、あっという間に年内最後の日がやってきた。十二月というのは本当に、毎年毎年恐ろしい速度で流れていくものである。
ここはトラぺジオン王国の東の端、山のふもとにあるアナトレという田舎村である。アナトレはどこの田舎にもあるような農村だが、この世界の歴史においてほんの少しだけ特別である。なぜならここは救国の勇者一行のリーダーとされる剣士が生まれ育った村であり、すべての始まりである場所だからだ。かつての異界の王の手下の攻撃により、わずかながらも被害を受けた村も、今ではすっかり静かだ。今日の天気は雪がちらつく灰色の空、もうすぐ陽が沈む時間帯とあって、空気はすっかり冷え切ってナイフのように鋭い。この森林を切り開いて作られた小さな村にある一軒の民家では、夜に開かれる小さなパーティのための料理の準備が、着々と進められていた。
「これでよし。だいたい終わったから、あんたはお客さんを迎えに行ってきていいわよ。村の入り口に、ぼちぼち集まってくるころでしょう」
この家に住む中年の未亡人が、台所で手伝いに励む息子に言い付けた。母の言葉に息子は黙ってうなずいて、その黒髪を揺らす。彼は台所を出て上着を手早く引っ掛ける。その様子をちらりと見て、未亡人は威勢のいい声で息子を送り出した。
「いってらっしゃい。ちゃんとみんなを出迎えるんだよ」
この親子こそが、勇者一行の剣士とその母親である。
親子の会話よりも少しだけ前、それは村全体が薄暗くなり始めた夕方のことである。粉雪舞うアナトレの村の入り口にて。八百屋の幼い息子が雪の中を駆け回りつつゲートの外をぼんやりと眺めていると、二本の丸太を立てただけの簡単なゲートの辺りが、突然まばゆい紫色の光に包まれた。その光が空中の一点にぎゅっと集まったかと思うと、今度は同じ色の魔法陣が土混じりながらも白い地面の上に花開く。するといくつかの図形を組み合わせたような模様の紫の魔法陣の上に再び光の玉が現れ、今度はそれが人の形になって地面の上に落ち、魔法陣は消えた。これは、世界でもっともポピュラーな魔法のうちのひとつ、転移魔法の陣だ。魔力の素質が多少でもあれば、誰にでも扱えるとされている。この幼い子供も、光を見てもまったく驚かないくらいである。
そして、その光の中から現れたのは、勇者一行の紅一点である赤い髪の魔法使い、プリミラであった。
「早く着きすぎたかなー?」
見渡す限りの家々は、新年のための飾りで華やかに彩られている。破壊から立ち直りつつあるアナトレの様子を見て彼女が心安らいでいると、冒険時代にたびたび遊んでいた八百屋の息子が、小さい足でちょこちょこと駆けよってきた。
「こんにちは、魔法使いのおねえちゃん!」
「あら、こんにちは。大きくなったね!」
小さな友人との久々の再会に、気性の激しいプリミラも笑顔を見せた。
「あそびにきたの? 剣士のおにいちゃんのところ?」
「そうよー。みんなで集まって、新しい年をお祝いするの!」
赤い長髪が揺れる。幼子に目線を合わせるようにしゃがんで、プリミラは八百屋の息子の頭をやさしく撫でた。世界を救う冒険の日々はつらいものではあったが、そのつらさを和らげてくれたのはこうした子供たちの存在である。彼女はそのことへの感謝も込めて、八百屋の息子にやわらかく笑いかける。彼女のこういう表情は、なかなか見られるものではない。
そんなプリミラの内心など知るはずのない幼子は、無邪気な声で思うがままを述べるのだ。
「ふーん、おいわいするんだ。へんなの。おねえちゃん、もう、ろうかしていくいっぽうなのにね!」
「……」
「じゃあね、おねえちゃん!」
これから成長を迎える子供は去り、これから訪れる老化を待つばかりの魔法使いがただそこに残された。今、彼女の中にあるのは、怒りでも悲しみでもなく、ただ雪のように白い無だった。
「……あたしは大人の女だ、素敵な大人の女だ、落ち着いた、懐の深い大人の女だ……」
勝手に身体中の魔力を集め出す左手を抑え込み、彼女は遅れてきた怒りとやるせなさによる身震いを抑えるべく、人知れず必死に努力をするのだった。
プリミラがようやくのことで怒りを抑え込んで肩で息をしていると、彼女の背後で紫色の光が広がった。先程彼女自身が用いたのと同じ、転移魔法の光である。
「ロガール!」
「こんにちは――お元気でしたか、プリミラ」
光と共にやってきたのは、国内最大の宗教団体、ポラール教団に属する僧侶ロガール――癒しの魔法を得意とする、背中まで伸ばした美しい銀髪を持つパーティ最年長の人物だ。僧侶である以前に穏やかでよくできた人間である彼は、冒険中にほかのメンバーを励ますやさしい兄のような存在であった。プライベートだというのに、彼は今日も教団指定の帽子をかぶり、僧侶のローブの上から厚手のコートをまとっている。そして手袋をした手には、懐かしい十字型のロッドを携えていた。
「こちらは寒いですね。メソンとは大違いです」
「そうね。魔法使いの森も、ここまで寒くはなかったわ。お互い着込んできて正解ね」
ロガールとプリミラは、旧友の輪郭を確かめ合うように言葉を交わした。やり取りは短いものだったが、それでもかつての感覚を取り戻すのには十分だった。
彼らは共に魔法を扱う者であるがゆえに、冒険の中では意見の衝突も一段と多かった。一時は互いに会話をしようともしなかったほどいがみ合っていたこともあったのだ。今ではそれも良き思い出だと、彼らは笑い合う。曇り空の下の、わずかにくすんだ平和な世界に残ったのは、最終的にはふたりの魔法使いのあつい友情だったというわけだ。
再会をひととおり懐かしんだところで、プリミラはふいにあることを思い出した。
「そういえば、あいつは? なんだっけ、あの使えない騎士」
プリミラは髪の毛をかき上げながら、面倒くさそうに問う。実は、今日の集まりにはもうひとりの仲間が参加することになっているのだ。理由もなくプリミラに軽視されたまま今日に至る、不幸な騎士が。
「……エクエスのことでしょうか。そろそろ名前くらい覚えてやったらどうです?」
「嫌よ、あんなめんどくさいの」
「まあまあ……」
そんな彼女をロガールはそっとたしなめた。だが、彼女のこの態度は昨日今日に始まったことではない。この件に関してはロガールももはや諦めていた。人と人との間には、神の力でさえもどうにもならないことはあるのだ。
そう、あとひとりの参加者とは元メリディエ王国の誇り高き王宮騎士エクエス。ちょっとだけ魔法が苦手で不器用なだけの青年である。
「――噂をしたら来たようですよ、彼」
ロガールが振り返った瞬間、またあの紫色の光がゲートの外に広がった。光は収束し、魔法陣が展開され、その消失とともに金髪で色の白い、長身の青年が現れた。
噂のエクエスである。
「やあやあ、久しいな。ロガール! プリミラ! そしてアナトレの地よ!」
小さな村中に響かんばかりの声を張り、エクエスは意気揚々と叫ぶ。腰に手を当て、高らかに笑う彼を見上げつつ、プリミラはしらけた顔で簡単な呪文を唱えた。
「……フォス」
もっとも基礎的な攻撃魔法のうちのひとつ。プリミラの手のひらから放たれた小さな光の球が、きついカーブを描いてゲートの丸太木の上あたりをめがけて飛んで行った。
「う、うおおおおおおおお!」
身をよじって、それを精一杯避けるエクエス。球は彼の前髪の端っこをわずかに焦がし、そのまま空中へと消えていった。
「な、何をする!」
エクエスは突然の出来事に混乱したまま、また大声で反論する。しかしプリミラも負けていない。何故なら彼女には、言い返すべきちゃんとした理由があるからだ。
プリミラは、斜め上方に向かってエクエスばりの大声で怒鳴ってみせた。その表情は怒りそのものだ。
「そっちこそ、何ふざけたところに着地した挙げ句に大声出してるのよ! 降りてきなさい!」
「えっ?」
そこで誇り高き青年はようやく気付く。
地面に降り立ったはずの自分が、何故か仲間たちを見下ろしていることに。
「あなたはあなたで、相変わらずですよねぇ……」
数カ月ぶりに見たロガールのあきれ顔を見下ろす自分。待てよ、ここはもしや。
「……はっ」
魔法が苦手な誇り高きかつての王宮騎士が降り立ったのは、ゲート代わりに立てられた丸太の上だったのだ。