【2】末子は家族総出で構いたくなる生き物です。
暖かい銀毛に埋もれて心地よく微睡んでいたら、耳を引っ張られた。
「『ちいさいの』、ちびーっ。尻尾追いして遊ぼー! 『おおきいの』は遊んでくれないのっ」
甘い乳で満たされた腹を突く鼻先は、『ちゅうくらいの』のものだ。
「ちび、ちび、『ちいさいの』、僕の愛しい妹は、相手の尻尾を半分囓らない優しい天狼に育ってくれると、お兄ちゃんは嬉しい・・・・・・」
尻尾がしょぼんとしたような声の『おおきいの』に、伏せた耳を甘噛みされた。
「噛まれて痛いというのに、きちんと吼えて噛みつかないからだぞ、『おおきいの』。我が愛し子は『ちゅうくらいの』に甘すぎる」
クツクツと笑い混じりの唸り声をあげたのは御父様。長いヒゲが頭に当たってくすぐったかったの。
「あら、『ちゅうくらいの』に耳の先端を囓られても、牙が生えた記念だと欠けたままにして喜んでいたのは、誰だったかしら? ほら、『ちいさいの』はよく寝て大きくならなくてはいけないのだから、皆離れなさい。・・・・・・『おおきいの』は、こちらに来なさい。尾を治してあげるから」
クスクスと、笑いを零すのは、私を包む御母様だ。
―――幾星霜でも待とうと丸まった緑の丘。そこで見た夢は、どこか懐かしい鳴き声が聞こえた気がした。
***
ヒラリと舞い降りた天樹の葉に、モニカは小さく牙を剥きだして笑った。頭の上に葉を載せたリーナスに、前世の狸を思い出したのだ。
リーナスは頭の上の珍客にキョトリと目を丸め、何を思ったのか胸を反らし遠吠えを始めた。天樹の頂上まで響けと放たれた鳴き声は、「うん。いーよー」という何かに対する【諾】の返答である。
首を傾げたモニカの視界は、急に増えた舞い散る深緑色の葉に塗り潰された。
***
目を開けば、木の葉が突き刺さる。
口を開けば、木の葉が入ってきた。
動きたくとも、木の葉に完全に埋もれて尾すら振れない。
完全に身動きが取れなくなったモニカは、閉じた目の向こうで、誰かが消え入りそうな声で鳴くのを聞いた。
(『ちいさいの』だ!)
不安がって家族を呼ぶ末子の声に、彼女は無意識のうちに前足を動かす。一歩でも、少しでも、彼のもとに近づくために。
それでも届かない前足に、彼女はグゥゥと唸り、大きく口を開いた。入り込む木の葉を噛み砕き、彼女はカッと眦を決する。瞳に突き刺さる木の葉に視界が赤く染まった。それに臆することなく、銀の魔王一家が長女は大音声で怒号を発した。
「『ちいさいの』っ、どこー!?」
同時に、三つの大咆吼が重なった。
「『ちいさいの』、今行きますわ!」
「『ちいさいの』、ちょっと待ってろっ」
「『ちいさいの』、すぐに見つけるから!」
彼らを中心として風が渦巻き、天樹の葉を上空に舞い上げる。視界一杯に舞う木の葉、その向こうに、小さな銀毛玉をモニカ達は見つけた。赤い葉を蹴散らして、彼らは末仔に駆け寄る。
ふんふん、と匂いを嗅ぐモニカに、うずくまった小銀毛玉の耳がそっと立てられる。
「怪我はない? 『ちいさいの』」
恐る恐ると上げられた顔を慰めるように舐めたのはエルティナだ。
「もう大丈夫よ、『ちいさいの』」
震えるの収まらない体に寄り添ったのはアルクィンで、
「皆ここにいるよ、『ちいさいの』」
潤んだ蒼の瞳に、牙を剥きだし笑って見せたのはバルトロだった。
「『ちいさいの』を泣かせるものは全部俺達が吹き飛ばしてやるよ」
末子を慰めようと集まった兄姉達は、つい幼少期の渾名で彼を呼んでいた。
そんな彼らに、リーナスは涙目のまま、頬を膨らませて吼えた。
「ぼ、僕は、もう一人前の牙を持った天狼だもんっ。こっこわがってなんか、なかったよ! 皆が迷子だったから、呼んだだけだもんっ」
きゅうきゅうと抗議するリーナスに、兄姉達は、「そうだな」「うん、そうだね」と、仕方が無さそうに笑い混じりに吼え返す。もっとも、強がりながらも震え続ける小銀毛玉に、慰めるように毛繕う舌も、寄り添う体温も、背中を擦ってやる尾も、暫く離れようとはしなかったが。
***
ようやくリーナスが落ち着いた頃に、エルティナが訝しげに呟いた。
「御母様はどこに行ってしまわれたのかしら。・・・・・・匂いも、魔力も感じられないだなんて」
王都のある方向を睨みながら、バルトロが吼える。
「オヤジの魔力も消えているぜ」
アルクィンが空気を嗅いで顔を顰めた。
「なんだか、魔の森の魔力が薄くなってるね。これでは、人間の地と変わらないよ」
四銀毛玉は、一面に広がる赤を不安そうに眺めた。彼らに吹き飛ばされた赤く染まった天樹の葉が、丘一面を深紅に染め上げている。
それは、あり得ない光景であった。魔の森は常春の森。そこに、『紅葉』など存在しない、はずだというのに。
先ほどから何かを考え込んでいたモニカが立ち上がり、前足を一歩踏み出した。
「ここは、確かに魔の森だけど、私達の知っている魔の森ではないんじゃないかな」
彼女を見つめる弟妹達に、モニカは振り返って、ニッと笑って見せた。
「百聞は一見に如かず。・・・・・・飛ぶよ!」
黒い尾を振り、再び風を呼び寄せて、彼女は弟妹達を宙に浮かせて自身も飛んだ。
目指すのは天に二番目に近い場所―――天樹の頂上だ。
吹き飛ばされた弟妹達は目を白黒させていたが、やがて楽しげに悲鳴をあげて中空をくるくると回り、やがて天を目指して自身の四つ足で駆け始めた。
***
西に向いたアルクィンが唸った。
「木の本数が減っているね。高さも何だか低くなってる」
東を眺めるバルトロは訝しげに吼えた。
「オヤジの塔はあるが、街の建物が微妙に違うぜ。あと、人の地に魔獣の気配が殆どしねえ」
南の海を眺めたエルティナが首を傾げた。
「さっきのクラーケンがまだいるわ。あら? 一回り小さいわね、別の獲物だったみたい」
北の山を睨んでいたモニカは、目当ての魔獣を見つけた。
「あ、いた。あれ、私が小さい頃に狩ったはずの火竜だ」
え、と振り向いた四対の瞳に、モニカはあっさりと鳴いた。
「やっぱり、ここ、『過去』だね」
ボンッと音を立てて膨らんだ四つの尾。驚き鳴き吼える彼らを宥めるのに苦労したモニカだった。
後に、エルティナがモニカに尋ねた。
「モニカお姉様は、どうして落ち着いていられましたの?」
答えは簡潔だった。
「慣れてるから」
異世界転生に、違法転移陣による誘拐、さらには世界を超えた弟の違法召喚。
そんなモニカにとって、『過去』への転移は、もうその手の出来事はお腹一杯で欲しくないけど、あり得そうで恐れていた事態の1つに過ぎなかった。
どこでフラグを踏んだのかなー、と前足を覗き込んだモニカに、「『フラグ』ってなーに?」と無邪気に尋ねるリーナスがいたが、それはまた別のお話である。